その2
『・・・・そのことを聞いた後、私は息子を問い詰めました』
ま、絞り出すように言ったのは、夫人の澄子だった。
普通ならいささか悪びれたような態度を示すところである。元来それほど気の強い少年ではなかったので、どうせ『ごめんなさい』と頭を下げて終わりだと思っていた。
しかし、彼は『僕は彼女を愛しているんだ。歳の差なんか関係ない。もう大学受験なんか止める。働くんだ。そして彼女と結婚する。家も出て行く』と言い切ったのである。
それっきり家には戻ってきていないという。予備校にも通うのを止めてしまったそうだ。
予備校にも事情を聞きに行ってはみたものの、
『ウチは来るものは拒まず、去るものは追わずの主義ですから』といい、全く相手にしてくれなかった。
『で?私に何をしてくれとおっしゃるんです?まさか息子さんとその女性を別れさせてくれとか?折角ですが私は”別れさせ屋”じゃありません。それなら別のところに頼むんですな。』俺は素っ気なく言い、シナモンスティックを咥えた。
『いえ、それは後の事です。まずは息子の居場所を突き止めることと、その女性が何者であるかを知りたいのです』
そう言ったのは父親の俊一である。
俺はスティックの端を齧り、10秒ほど考えた。
『お金だったら、幾らかかっても構いません。何とかしてください!』
夫婦は口を揃えて俺を真剣な眼差しで見据えながら言った。
『いや、お金は規定通りの額で結構です。それ以上はいりません。分かりました。お引き受けしましょう。丁度こっちも仕事にあぶれてた所なんでね』
俺は彼の前に置いてある契約書を指し示し。
『念のため、もう一度よく読んで、それからサインをお願いします。』
翌日の事だ。
俺はJR麹町駅西口から徒歩20分のところにある『東和ゼミナール渋谷校』の近くに来ていた。
予備校としても大手として知られ、何でも2年程前にはセンター試験の英語と国語の問題を見事に予想したことで、新聞ダネにもなったことのある学校である。
時刻は丁度午後の三時。
受講生達が講義を終えて、入り口から出て来る。
いつもならもっと大勢なのだろうが、何しろ時節が時節だ。流石に少ない。
そうして出て来る連中も、判で押したようにマスクをしている。
俺はその中から、一人の青年を見つけた。
背の低い、黒縁の眼鏡をかけた丸顔の男、そう、最初に戸川涼太の異変に気が付いた人物で、彼とは高校の同窓生で、名前は・・・・いや、プライバシーの問題があるからな。仮に中村太郎としておこう・・・・である。
俺が声を掛けると、中村は最初少し怪訝そうな表情をしていたが、
”ここじゃ何だから、近くの喫茶店にでも入ろうか”俺の言葉に、中村は大人しくついてきた。
『戸川君とは、高校時代からずっと仲が良かったんです』
俺がコーヒーを頼んでやると、彼はゆっくりした口調で話し始めた。
『成績は僕よりも彼の方が良かったんですが、何しろ志望校が国立のT大や、私立のW大でしょう。どう見ても壁が高かったんで、見事に滑りました。でも彼は予備校に入ってからも、随分と熱心に勉強していました』
中村君はコーヒーを飲み干すと”お代わりいいですか?”と、遠慮がちにいい、俺が二杯目をオーダーしてやると、また話し始めた。
そう言って彼は、座席の隣に携えていたバッグの中から、予備校のパンフレットから切り抜いたであろう写真を見せてくれた。
涼太がその女性と知り合ったのは、まだ彼が高校生だった時の事だという。
勿論、未成年がそういう類の店に行ける訳がない。
ガリ勉というほどではないにせよ、兎に角熱心だった彼が、ある日太郎と二人で図書館に行った時のことだ。
本を探してフロアを移動していた時、反対側から歩いてきた”彼女”にぶつかった。
それが出会いだった。
最初は三人で館内にあるティーラウンジでお茶を飲みながら、受験勉強の事や趣味のことなどを話していた。
年齢は自分達よりは随分離れていて、どうやら12歳は上だというのが分かった。
彼女は別れ際、二人に”自分は喫茶店とバァをやっている。暇があったら遊びに来て頂戴”そう言って名刺をくれたという。
中村君はそれほどでもなかったが、涼太の方が、たちまちのうちに彼女にのぼせ上ってしまったようだった。
一度だけ渋谷で彼女が経営している店・・・・昼間は喫茶店で、夜は酒も呑ませるという・・・・に行ってみた。
彼女は美しい女性だった。
切れ長の目、歳の割にはたるんだところのない魅力的な肢体。口元にある黒子・・・・どれをとっても大人の匂い満載と言ったところだったという。
それからである。
涼太は彼女に夢中になり、その店に通い詰めるようになった。
『これが、彼女の写真です』
携帯の写メで撮ったものを俺に見せてくれた。
カウンターの前に、黒いニットのロングドレスを着た女性がこちらを向いて微笑んでいた。
ドレスの胸は大きく開いており、それだけで男の視線を十分に奪うだけの力はある。
切れ長の目は蠱惑的で、こちらをじっと見据えられると、それだけで参ってしまうようだ。
誰かに例えるのは難しいが、敢えて言うならば、往年のハリウッドのグラマー女優、ラクウェル・ウェルチを少し小柄にしたような、そんな感じである。
『名前は分かっているのかね?』俺が訊ねると、中村君は、
『彼女は、ええと、確か”コイズミ・サナエ”って名乗ってました』
『小泉早苗、か・・・・』
俺は呟いた。
偽名かもしれない。しかしこれだけでも貴重な情報だ。
『有難う、助かったよ』
俺はカウンターの上に千円札を二枚置くと、伝票を取り上げ、立ち上がった。
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