その3
その店はJR鶯谷駅を西に下ったところにあった。
店の名前は”JIN”といい、確かに表に置かれた看板には、昼間はコーヒーとランチのみ、夜はお酒も出します”
とあった。
落ち着いた佇まいの、気取らない感じの構えだった。
流石に時節柄というやつだろう。
俺が店内に入った時、客の姿はなかった。
『いらっしゃいませ』
席についた俺の前に、Tシャツにグレーのエプロンをした若い男が、盆の上にコップとおしぼりを乗せてやってきた。
『御注文を』
彼はぎこちない手つきで俺の前にコップとおしぼりを並べる。
『コーヒー』
俺の言葉に、かしこまりましたと言って、頭を下げ、そのままカウンターまで下がる。
カウンターの向こうには、白いシャツを着て髪を首の後ろで束ねている女性が居た。
『コーヒーです』
彼が声をかける。
『リョウ君、ホットかアイスか訊いた?』カウンターの向こうから、幾分鋭い声が飛ぶ。
『あっ』
彼は慌てたように俺の方を振り返って、小走りにこちらに駆けてこようとしたが、テーブルの脚に
手に持っていた盆が落ち、派手な音を立てる。
『もう・・・』
カウンターの女性が眉をしかめる。
『す、すみません』
『いいよ、気にしなくても、ホットでいい』苦笑いしながら俺が言うと、バツが悪そうに起き上がり、またカウンターの所まで行き、彼女に頭を下げた。
彼女は青年に冷たいまなざしを送ると、そのまま支度を始めた。
普通ならば女にあんな目で見られれば、しょげてしまうところだろうが、彼は何だか妙にうっとりしたような表情を顔に浮かべている。
『流石にお客が少ないね。』
コーヒーを待つ間、俺が声をかけると、彼女は苦笑しながら、
『仕方がありませんわ。何しろ緊急事態宣言ですからね。でも私たちは働かない訳にもゆきませんから』
と答える。
『確かにね。俺も同様だ』
『え?』
コーヒーが運ばれてきた。
涼太は何か供え物でも捧げに来たような慎重な手つきでコーヒーを運んできて、
俺の前に並べる。
俺は彼に『有難う』といい、続けて
『これでも私立探偵なんだよ。人探しをしててね。ここらあたりに居ると聞いてきたんだ。小泉早苗さんと戸川涼太っていうんだが・・・・知らないかね?』
青年の方がいささか動揺の色を顔に浮かべるが、彼女は俺の方をちらりと見ただけだった。
『さあ、知りませんわ・・・・その二人が何をしたんです?』
彼女は目を伏せ、カウンターの向こうから答えた。
『別に何も、ただある人から”探してくれ”と頼まれたんだよ。それだけさ。また来るから、何か気が付いたことがあったら教えてくれ』
そう言って俺はコーヒーをゆっくり時間をかけて飲み干すと、財布の中から500円玉と100円玉二枚を出し、
『すまんが領収書を頼む。何せ仕事なんでね』
そして、そのまま店を出た。
翌日、俺は群馬県のT市近郊の小さな町にいた。
ある伝手を使って、小泉早苗の生まれ故郷を探り出したのである。
(どんな伝手を使ったんだ)って?
それは教えられん。
企業秘密って奴だ。
”こんな小さな町だから、あの当時は結構スキャンダルでしてね”
彼は俺が提示した
ここはこの町で、いわゆるミニコミ雑誌を発行している出版社だ。
とはいっても、社長兼編集長が一人と、後は事務の女性が二人いるきりの、ごくささやかな会社ではあるが。
丁度今事務の女性が出払っているところで、当の社長兼編集長が、俺の口説き文句に応じて、やっと会ってくれたというわけだ。
彼はソファに座ると、出がらしの番茶を淹れた湯飲みを俺の前に置き、俺が見せた写真を眺めながら、
『彼女とは中学、高校と同級でしてね。特に仲が良かったわけじゃないんだが、何故かずっと文芸部に所属していて、良く話はしましたよ』
編集長氏は番茶を啜ると、ゆっくりとした口調で話を始めた。
『彼女の実家と言うのは、この町では割と有名な家でしてね。お父さんは小学校の教頭や校長を務めた人で、確か先祖代々、教育者だったんじゃなかったかな?』
そこで茶を啜り、一呼吸おいてから続けた。
『高校に上がるまでの彼女は、勉強も良く出来た、何処にでもいるような女の子だったんですがね』
『それが高校に入って、がらっと変わってしまったんですよ。まあ無理もない。
あんなことがあったんですからな』
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