その5
小泉早苗は、元の姓を『中村』といい、彼女の父親は親代々の教育者で、父親も小学校の教頭と校長を長年勤めていた。
無口で勤勉で、優しくて物静かな紳士・・・・それが父親だった。
早苗を産んだ母親は、彼女が生まれてまだ一歳にもならぬうちに病気で亡くなった。
だからその顔を知らない。
物心ついて目の前に居たのは、今目の前にいる女性・・・つまりは戸川澄子だった。
要するに父が再婚をしたのである。
先妻を亡くした後、周囲の勧めで見合いをした、町立の図書館で司書の仕事をしていた女性だったという。
(実母の遺影が無かったのは、父が新しい妻を
『”彼女”が実の母親ではないってことは、何となく分かっていたわ。でも私にとって母と呼べる人は彼女だけ、そう思おうとしたし、そうあるべきだと信じていた』
その後、歳の離れた弟と妹が相次いで生まれ、平穏無事な生活が続いた。
物静かで優しい父。
分け隔てなく接してくれた”彼女”・・・・何も起こらなかったし、起こる筈もない。
『そう、あれを見るまではね・・・・』早苗の語尾が震えた。
一本目を灰皿に押し付け、二本目に火を点けた。
澄子がはっとしたような顔になり、俊一が彼女の肩を抱きしめる。
床に倒れている涼太は、青白い顔を持ち上げ、両親と早苗の顔を代わる代わる見た。
早苗が”あれ”を最初に目撃したのは、高校に上がって間もなくの事だった。
『その日私はひどい頭痛がしたので、学校を早退したの。家に帰ってみると、玄関に鍵がかかっていた。”彼女”は専業主婦だったから、いつも開いていたのに』
不思議に思い、庭にまわってみると、カーテンがほんの少し開いていて、そこからリビングの様子が覗けた。
薄暗い部屋の中、ソファに”彼女”がいた。
だが、一人ではない。
男、それも父ではない男・・・・遥かに年の若い、早苗とは十歳も離れていない・・・・と、一緒にいた。
早苗は半分しか喫っていなかった二本目を灰皿に押し付け、唇を噛み締めた。
『何をしていたんだね?』
俺の言葉に、彼女は鋭いまなざしで俺を見た。
『何を?男と女が二人きりなのよ』と、唇を震わせて答えた。
俺は戸川夫婦の方を見た。
澄子は両手で顔を伏せている。
『・・・・もう、止してくれませんか?』
夫の俊一が絞り出すような声を、喉の奥から出す。
俺は彼を制し、
『残酷なようですが、彼女の話を聞くべきだ。いや、聞かなくちゃならないと思いますよ』と言った。
その時から早苗は変わった。
”彼女”を母さんとも、ママとも呼ばなくなった。
他人のような眼で眺め、極力話をしないようにした。
そうしながら、”彼女”の行動を密かに観察した。
時々学校をエスケープし、密かに家に戻り、”彼女”を観察した。
”男”は”早苗が観察をする日、必ず訪れた。
当り前だが、することは決まっている。
初めは密やかに、しかし次第に大胆になってゆく。
見終わった後、早苗は抑えがたいほどの嫌悪感に襲われた。
たまらなくなって、近くの児童公園に行き、吐く。
そんなことを度々繰り返していた中で、彼女は”初めての経験”をした。
制服のまま、ベンチに座っていた時、見知らぬ男に声を掛けられたのである。
別に愛でも何でもない、ただの自暴自棄からだった。
しかし、誰も気が付かなった。
また、時が流れていった。
状況が完全に変わったのは、高校二年に進級したばかりの頃である。
外出していた”彼女”が、”その男”と一緒に、ある日曜日、家に戻って来た。
彼は当時まだ大学四年生、二人は親子といっても良いくらいの年齢差だった。
父を前にして、最初に切り出したのは”彼女”だった。
『自分達は愛し合っている。だから離婚して欲しい』
二人は並んで座り、片手を握り合っていた。
実に自然な口調で言ったのだ。
そうして”彼女”が父の前に離婚届けを差し出す。
その瞬間、”彼女”は片手で軽く下腹部を撫でた。
父はいつもの物静かな様子を全く崩すことはなく、黙って二人の話を聞き、
そして一言だけ、
『分かった』とだけ答え、そして署名をし、判を
弟たちは二階の部屋にいた。
早苗はリビングのすぐ外の廊下に立って、一部始終を見ていたが、
”彼女”が下腹部を撫でた時、全てを悟った。
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