情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう(全編一気読み版)

三村小稲

第1話情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう(全編)

 その日翔太が受けた衝撃を言葉で表現するのは難しかった。衝撃は翔太の内面に著しいダメージを与えたし、大袈裟ではなくこの春の美しい陽気と、始まったばかりの高校生活に「絶望」をもたらすのには充分だった。


 県下随一の不良揃い。中途退学者数ナンバーワン。悪名高い工業高校に入学したのは翔太の成績が芳しくなかったからだけれど、本人はそんなことまるで気にしていなかった。なぜなら翔太は中学時代に情熱を傾けていた吹奏楽部即ち「ブラバン」に高校でも入部して、またその活動に身を投じることができるなら他のことはまったくどうでもよかったのだから。


 改造制服と金髪とピアスと、趣味の悪いステッカーをつけた自転車。煙草と、コンビニの前にたむろする馬鹿集団と、喧嘩と補導。挙げればきりがない素行の悪い生徒たちは近隣住民から白い目で見られ、忌み嫌われていたけれど、自分には関係がないと思っていた。


 しかし、である。新入生を対象とした「部活動紹介」の小冊子に吹奏楽部の名はどこを探しても見当たらなかったことで事態は急変していた。


 華々しく活躍しているのは水泳部、空手部。変わった部活だなあと思ったのは自転車競技部。文化系の部活は名前だけといった感じで存在自体があやしいが、少なくとも美術部だの漫画研究会だのは記載されていて「新入部員歓迎」と書かれていた。


 翔太は目を皿のようにして配布された冊子の隅々まで丹念に読みこんだ。が、何度見たところでブラバンの名はなかった。


 翔太は呆然としていた。進学できる高校の選択肢が少なかったとはいえ、ブラバンの存在だけはちゃんと確認して受験したはずだったのに。


「マジか……」


 翔太は絶望のため息とともに呟いた。すると隣の席の斉藤が「なにが?」と尋ねた。


「ブラバン」

「え?」

「この学校、ブラバンってないのか……」


 翔太の言葉を受けて斉藤は冊子をぱらぱらとめくった。そして「ないな」と結論づけた。


 目の前が真っ暗になるとはこのことだった。じゃあ、一体これから三年間なにをすればいいんだ? こんなガラの悪い高校で、別に興味があるわけでもない化学科なんかに入っちゃって、女子生徒は全校生徒あわせても十人もいないような灰色の世界で何をすればいいというんだろう。


「軽音楽部はあるみたいだけど」


 そう言ったのは左隣の席の持田だった。


 持ちだは整った顔の男前で、通学の電車で乗り合わせる女子校の生徒からすでに手紙を貰ったりしていると噂で、翔太は「こんだけ男前なら楽しい高校生活を送れるだろう」と不意に羨ましく思った。


「ブラバンに入りたいわけ?」

「だって、俺、ブラバンがあるからここ来たんだもん」

「そうなの? じゃあ、なんでここに載ってないんだろ」

 斉藤がまた冊子をぱらぱらとめくった。

「聞いてみれば? これ仕切ってんの生徒会だろ?」

「生徒会?」


 持田も冊子をめくって言った。

「質問等は生徒会室にて随時受付って書いてあるじゃん」

「生徒会室ってどこよ」

「食堂の二階だとさ」


 持田がページを開いて「ほら」と指差した。そこには各部活からの強引な勧誘や脅迫(!)があった場合の相談場所として生徒会室への案内が書かれていた。

 脅迫があるんかい。翔太は呆れながら、生徒会室の場所をもう一度確認した。冊子の最後のページには校舎の向いに建てられた別棟の食堂、その二階に生徒会室が所在すると書かれていた。


「てゆーか、中学でブラバンだったんだ?」


 斉藤がよく太って血色のいいつやつやした顔でにこやかに尋ねるのを、翔太は無言で頷いて返した。


 中学で始めたブラバンは、最初でこそオナラみたいな音しか出せなかったし楽譜も読めなかったけれど、毎日ひたすら練習を繰り返し、文化部なのにランニングや筋トレまでやらされて、ようやくちょっとは音が出るようになり「合奏」というものの気持ちよさを知った。


 翔太がブラバンで知ったことが二つある。一つは「音と音を合わせて奏でる音楽を体感することの気持ちよさ」。


 音楽というものがただ漫然と奏でられるのではなく、一つに溶け合う瞬間があるということ。これは一体感とでもいうのか、達成感とでもいうのか。説明が難しいが、練習が厳しかった分だけ体ごと味わう感覚はちょっと他では味わえないものがあった。


 それから二つ目は「練習は裏切らない」ということ。ブラバンの基礎練習は地味で退屈だ。たぶんどんな楽器でもひたすら反復する基礎中の基礎なんていうのは、挫折への第一歩でもある。 


 初心者だった翔太のパートがトランペットに決まり、来る日も来る日もマウスピースだけでぶーぶーやり、楽器をつけてロングトーンをやり、音階をやり……。ただ日々を積み重ねるだけで何が面白いわけでもない期間が数カ月。いや、半年。とにかく上手くなるには練習あるのみで、その練習は確実に蓄積されていく。高音がスムーズに出せるようになった時、滑らかな音で吹けるようになった時、目の前が開けるのを感じることがあった。自分のやってきた事が無駄ではなかったと翔太は初めて信じることができた。


 それなのに。ああ、それなのに。翔太は机に突っ伏しそうなほど落ち込んでいた。


 隣りで見ていた斉藤はそれを気の毒に思ったのか、

「大丈夫か? とにかく生徒会室行けば分かるんだから、そんな落ち込むなよ。印刷ミスとかそんなんかも知れないだろ」

 と翔太を慰めた。


 持田も翔太の様子に同情した様子で「一緒に行ってやるよ」と言ってくれた。


 然して三人は放課後に連れだって食堂二階の生徒会室を訪ねることになった。


 終業のチャイムが鳴ると、生徒のほとんどが一気にいなくなる。部活に行く者、バイトに行く者、即座に帰宅する者いろいろだが、その行動の早さときたら学校になど用はないとでも言いたげなほどのスピードで、翔太は自転車の群れがどんどん正門を通り抜けて行くのを校舎の窓からぼんやりと眺めていた。


 そもそもこの学校では部活動というのはあまり盛んではない。大手を振って活動していると言える部活の方が少ない。それも運動部ばかりで、文化部で唯一存在をアピールしているのは軽音楽部ぐらいなものだった。


 それもそのはずで、軽音楽部ときたら放課後になると倉庫からアンプやらドラムセットやらを出してきて、教室で爆音で練習するのだから無視することの方が難しい。軽音楽部があるからブラバンの存在がうやむやになっているのだとしたら、それは翔太にとって絶対に抗議すべきことだった。ブラバンと軽音楽部ではまるで違うということを理解して貰わなければ。でも、誰に? 生徒会に? 


 翔太はまたしても不安に駆られていた。こんな学校でも生徒会とかいう自治組織があることには驚いたが、一体どんな連中が役員なのだろう。とりあえず入学以来目にする上級生は金髪と茶髪と眼鏡とオタクの両極端ばかりなのだが。


 翔太たち三人は食堂の二階へ続く外階段をあがっていき、いくつか並ぶ扉のプレートに「生徒会」とあるのを見つけた。


「あ、ここだ」


 斉藤が立ち止ってプレートを指差した。そして二人は翔太の顔を見た。


 翔太は一拍置いて、うむと頷いた。それから意を決するように扉をノックした。

「どうぞ」

 中から落ち着いた声が聞こえた。


「失礼しまーす……」

 翔太はそろそろと扉を開け、首を突き出して中を覗き込んだ。そこには会議机と書棚が並び、ホワイトボードの前にこの学校では相当珍しいタイプの「普通の」生徒が二人座って何か書きものをしているところだった。


 この場合「普通の」というのは髪は黒く、制服は校則に則っており、指輪やピアスもしていなければ、安っぽい香水の香りも煙草の匂いもしていないという意味で、至極当たり前のどこにでもいそうな「高校生」然としているという意味だった。


 翔太は「あ、こういう人もいるのか」と珍種の動物を見るような驚きをもって、二人に向って頭を下げた。


 それは後に続いた持田と斉藤も同じ感想を抱いたらしく、興味深く生徒会室を眺めまわしていた。


「化学科一年の藤井です……あの、部活のことでちょっと聞きたいんですけども……」

 翔太がそう言うと、

「ああ、どうぞ。入って」

 と眼鏡の生徒が静かに返事をした。


 細いフレームの眼鏡が似合う真面目そうな顔つきの生徒で、翔太は「持田とは違ったタイプの男前だな」と思った。


「で? 何かトラブルでも?」

 眼鏡が静かな口調で尋ね、椅子をすすめた。


 翔太は眼鏡をさりげなく観察し、学生服の襟についた科章から彼が電気科であることを知り、白地に黒で会長と書かれた小さなバッチから彼が「生徒会長」であることを知った。


「あの、僕、ブラバンに入りたいんですけど……」

「ブラバン?」


 頓狂な声を発したのは会長の横にいたもう一人の生徒会役員だった。


「部活紹介の冊子にブラバンが載ってなくて。でも、この学校にブラバンあるって受験の時に見た学校案内には載ってたんですけど……」

「……ブラバンに入部希望?」


 会長がまるで自問自答するかのように呟いた。

「はあ」

 翔太は頷いた。


 机の上に広げられていたのは小型のカレンダーとプリントが数枚、ホワイトボードには部活動予算案と備品監査、統廃合だのといった文字が何らかの議論の後らしくごちゃごちゃと書き込まれていた。


「平井、ブラバンの顧問は誰だったかな」

「えっと……」

 平井と呼ばれた役員は書棚からファイルを取り出し、ぱらぱらとめくった。

「現国の大島だな。部室はクラブハウスの二階で……」

「部長は?」

「部長は……」

「誰?」


 会長は平井に視線を向けた。平井は一瞬沈黙し、ファイルをぱたっと綴じた。

「電気科の田口」


 翔太は彼らの口から聞くブラバンの情報に「なんだ、よかった、ブラバンちゃんとあるんじゃん」とほっとしていた。斉藤たちの言うように聞いてみてよかった、と。これで高校生活に一条の光明がもたらされたようなものだ。


「あの、それじゃあ入部希望は顧問の先生に言えばいいんですよね」

「まあ、そういうことになるな」


 会長はおもむろに眼鏡をはずすとポケットからハンカチを取り出し、レンズを拭き始めた。

「おい……」

 平井が会長の腕を物言いたげに突いた。そして、

「入部希望は君ら三人?」

 と尋ねた。


 翔太は背後に立っている斉藤と持田を振り返った。二人は子供がイヤイヤするように首を横に振った。


「じゃあ、一人だけ?」

「そうみたいっす」

 翔太は肩をすくめて見せた。


「おい、いいのか」

 平井はさっきよりも困惑したように会長の肩を突いた。


 会長はすっかり奇麗になった眼鏡を再びかけると、居ずまいを正して口を切った。

「ブラバンに入部したければ大島先生に入部届けを出せばいい。先生はたぶん図書室にいると思うよ。図書委員会顧問も兼任してるから」

「あの」

「なに」

「なんで部活紹介にブラバンは載ってなかったんですか」

「……ああ、それはブラバンが活動してないから」

「えっ?」

 驚きの声をあげるのは今度は翔太の番だった。斉藤と持田も目を丸くして顔を見合わせ、翔太同様に生徒会長に視線を注いだ。


 平井は気の毒そうな顔で新入生三人を見守っていた。


 会長は衝撃を受けている三人を気遣う風でもなく、淡々と事務的に言葉を継いだ。


「毎年各部活の部員数や活動状況を調査し、予算を組むことになっているけど、少なくとも俺が入学してからブラバンが活動しているのは見たことも聞いたこともない」

「ちょ、ちょっと待って下さい……」

「昔は活動していたのかもしれないけど」

「えええ……」

「まあ、君が入部すれば部員は二人になるな」

「……」

「二人でブラバンってできんの?」


 できるわけないだろ。翔太はそう言い返したかった。けれどショックが大きすぎて、金魚が口をぱくぱくさせるように虚しく息を吸い込むよりできなかった。


 その様子を心配した斉藤だけが翔太の肩に手をおいて「大丈夫か?」と労りの言葉をかけた。翔太はかろうじて頷いたけれど、実際はちっとも大丈夫ではなくて、その後にさらに続いた会長の言葉に打ちのめされ、気が遠くなってしまった。


「今年度、生徒会は活動実態のない部活は廃部する方針になってる。これはちゃんと活動している部活に正当な部費を確保するためでもある。何の活動もしていないブラバンはその対象になってる。他にも落語研究会、茶道部、ハンドボール部なんかも廃部対象になってる」

「……ブラバン、廃部になるんすか?」

 翔太の代わりに持田が尋ねた。


 持田はブラバンが活動していない云々よりも、会長がすらすらと冷たく言い放つ「生徒会の方針」とやらに驚いていた。いかにも頭の良さそうな顔をしているこの会長は、どうやらそうとうやり手らしい。この学校にこんな人がいるなんて。持田は単純に感心すると共に、なんだか空恐ろしい気持ちになっていた。


「活動してなきゃ廃部だよ。当たり前だろう。軽音楽部や野球部から毎年予算案に対する不満が出ててね。やってもない部活に部費出すなって、そりゃまあ、そう思うわな、普通」

「……」


 会長は書棚のファイルから紙を三枚取り出して、一年生三人に配った。それは「入部届」の用紙だった。


「入部を希望するクラブ。名前と学年とクラス。それ書いて好きな部活に持って行って」

「……」

「他に何か質問は?」

 翔太は用紙を手に立ちあがった。

「電気科の田口さんって何年ですか」

「二年」


 翔太は目の前が電気のスイッチをぱちんと消すように一瞬暗くなるのを感じた。

今日二度目に感じる絶望。それも喜びと安堵からの転落の落差。生徒会室を出る時、翔太の足はふらついていた。


 そんな姿を気の毒に思ったのか斉藤は食堂の前のベンチに翔太を座らせ、自販機から紙コップのコーヒーを買った。持田も自分のコーヒーを買った。


「ブラバン、部員一人かあ」

 斉藤が呆れたように呟いた。

「あの会長、ブラバン潰す気満々だったな」


 持田も苦笑いと共に言った。わざとではないが二人の言葉は翔太の胸にぐさりと突き刺さった。


 活動してもいない部活に部費はやれない。それはご説ごもっとも。でもそんなことを入学してきたばかりの自分に言われても。だいたい今まで部員が一人しかいなかったとして、それで活動なんてできるわけがない。やりたくてもできないだろう。なのに廃部だなんて。


 翔太はまだ見ぬ「電気科の田口」とかいうブラバンの部員を同志のように思い、胸の奥底からめらめらと闘志のようなものが湧きあがってくるのを感じた。


 なんだあの意地悪な生徒会長は。あの冷たい態度は。廃部だって? 冗談じゃない。廃部になんてさせるものか。二人でブラバンができるか? だって? 二人でできないなら、部員を集めるのみだ。


「なあ、お前らさ、ブラバン入んない?」

「言うと思った!」

 斉藤と持田が同時に叫んだ。

「そう来るんじゃないかと思ったよ」

「俺、楽器なんかやったことないよ」


 翔太は笑いながらも、わずかに後ずさった持田の学生服の端をがっちりと掴んだ。


「大丈夫。誰だって最初は初心者。俺がちゃんともっちーに教えるから」

「誰がもっちーだ」

「な、斉藤も。ブラバン楽しいぞう。お前ら二人とも部活決めてないんだろ?」

「決めるも何も入るつもりないんだけど」

「なんで。そう言うなよ。せっかくの高校生活をだなあ、何か一つのことに打ち込むっていうのは意義があると思わないか」

「そんなこと急に言われても、なあ?」

 斉藤は持田に同意を求めた。持田は翔太の手を振り払った。

「他当たれよ。やりたいって奴、他にもいるんじゃねえの?」


 持田はそうは言ったものの、内心はこれまで部員がいなかったのに、今突然入りたい奴がそう都合よく現れるものだろうかと思っていた。ようするに「いないだろうな」と。


 が、それをそのまま口にしないだけの優しさが持田にはあって、代わりに、

「とりあえず入部届け出して、それからその田口さんって人に会ってみれば?」

 と言った。


 翔太はベンチに背を預け、それ以上反論も懇願もせずに固い表情で頷いた。

 斉藤と持田は紙コップのコーヒーを啜り、改めて翔太を不憫に思っていた。



 斉藤たちと別れて翔太は図書室へ向かった。


 図書室は実習棟の端にあり、昼尚暗い廊下を進んでいくとまるで異次元に吸い込まれて行くような錯覚を覚えた。


 静かで、ひっそりと沈んだ空気に満たされていて、人間の気配がまるでしない。無理もない。図書室に用事のある生徒がいるぐらいならこの学校の生徒の悪評ももうちょっとマシなものになってるはずなのだから。


 そんなわけで翔太はなんとなく薄気味悪いような気持ちになりながら、図書室の扉をそろそろと開けた。


 すると貸出カウンターの中にいた生徒が驚いて顔をあげた。

「あ」

 翔太は思わず声を漏らした。そこにいたのはクラスメイトで、しかも翔太の前の席の常山だった。


 常山はさらさらの前髪がおでこを覆うヘルメットみたいな髪型で、顔色が悪く、教室の誰とも口をきかない。クラスの連中は常山を「ツネ」とか「ツネちゃん」と呼んでいるが、呼ばれる度に常山は体を固くする。いつもびくびくしていて、小動物のようだが、翔太は常山が教室で休み時間の度に本ばかり読んでいる姿を思い出し「なるほど」と思った。


 常山は翔太の顔を見ると慌てて顔を伏せ、怯えるように体を縮こまらせた。

「ツネちゃん、図書委員だったっけ」

「……」

 常山はこくりと頷いた。が、翔太の顔を見ようとはしなかった。


 俺、何もしてないじゃん。翔太は心の中で呟くと共に、常山がこの学校の雰囲気にまるで馴染めないだろうことは見ただけで分かったし、不安にぶるぶる震えているような様子はある種の暴力的で残酷な連中の格好の標的になるだろうなと思った。たぶん中学時代もそうだったんじゃないかな、とも想像できた。


 翔太は常山を怖がらせないようにできるだけ優しい口調で尋ねた。


「大島先生、いる? 大島先生ってブラバンの顧問なんだって。俺ね、ブラバン入ろうと思ってさ」


 すると常山はそうっと体をひねり、貸出カウンターの後の衝立を指差し「そっちにいるよ……」と消え入りそうな声で答えた。


「ありがと」


 翔太はカウンターの中へ入ると早速「失礼します」と言いながら衝立の向こう側へ足を踏み入れた。


 そこには黒革のソファが置かれていて、だらしなくネクタイを緩めた男がのびのびと寝そべって本を読んでいた。


「大島先生」

 翔太が呼びかけると、本から目をあげた。

「ん? 誰?」

 丸眼鏡にぼさぼさの頭。手足は長いが、ひょろひょろした印象で、大島はとても教師には見えない風貌の持ち主だった。


 この様子じゃあ、ブラバンが活動してないのも分かるような気がする。翔太はため息が出そうになるのを堪えて、ソファの方へ一歩進み出た。


「化学科一年の藤井です。ブラバンに入部したくて来ました」

「えっ、ブラバン?」


 大島は生徒会室で会長たちが思わず漏らした頓狂な声の、さらに数倍上をいく素っ頓狂な声をあげ、驚いて半身を起こした。


「これ、入部届けっす」

 翔太は記入済みの入部届けをさっと差し出した。


 しかし大島は信じられないという顔で翔太を見つめていて、目の前に突き出されている用紙を受け取ろうともせず、いや、受け取るという動作など思いつきもしない様子で呆けたようにぽかんと口を開けているだけだった。


 なんだこいつ。翔太は目の前にいる若い教師のやる気のなさそうな態度にすっかり呆れていた。こいつがブラバンの顧問で、活動なんて、部員が何人いてもできるかどうだか。


 絶望と失望。その二つが肩の上にどしりと圧しかかる。が、ここで怯んだりするわけにはいかなかった。


「部室、クラブハウスの二階ですよね」

「え? 部室?」

「そう、部室。生徒会長がそう言ってましたけど」

「なに、お前、生徒会に聞きに行ってきたわけ? それで俺が顧問だって聞いてきたのか?」

「はあ。それがなにか」

「……生徒会長は、他に何て言ってた?」


 生徒会長にどんな威力があるのか知らないが、その名を聞いた途端大島はソファに座り直した。


「活動してない部活は廃部だって言ってました。ブラバンもその対象になってるって」

「……あいつ……」

 大島は忌々しそうに呟いた。


「部室」

「え?」

「だから、部室。鍵ください」

「……お前、本気で……」


 翔太は大島の膝に入部届けを乗せると、そのまま手のひらを広げた。


 本気に決まってる。誰にも理解されないかもしれないけれども。翔太は大島の目をじっと見つめた。


 その気迫に押されたというわけでもないだろうが、大島はふっと一息吐きだすと、ポケットから鍵束を取り出した。


「……一応、部員はもう一人いるから……」

「電気科の田口さんでしょ」

「会ったのか?」

「いえ、まだです」

「……だろうな。あんまり学校来てないから」

「なんで来てないんすか」

「んー? やっぱりダブったら来にくいだろ」

「田口さん、ダブってんですか?」

「そうだよ」


 大島は苦笑いを浮かべながら鍵束から一つの鍵を外すと、翔太の手のひらに乗せた。そして言った。


「生徒会長に聞いたんなら知ってると思うけど、ブラバンはもう何年も活動ができてない状態。部員が一人じゃどうにもならんからな」

「でしょうね」

「お前、中学でブラバンだったわけ?」

「はい」

「パートは?」

「トランペットです」

「……部室に楽器あるから、まあ、練習でも何でも好きにやってくれよ……」

「……一人で、ですか?」

「一人でも二人でも好きにすれば」


 翔太は手のひらの鍵を握りしめた。大島の無責任な言いように猛烈に腹が立った。大島は言うだけ言ってしまうと、またソファに寝そべり手にしていた文庫を開いて顔に乗せると昼寝の態勢をとり、「邪魔するな」と言わんばかりに右手を振った。まるで犬を追い払うみたいにして。


 翔太は怒鳴りつけたくなるのをぐっとこらえて、無言で一礼するとその場を離れた。


 貸出カウンターでは聞き耳を立てていたらしい常山が慌てて翔太に背を向けて、日誌のようなものに何事かかりかりと書き込むふりをしていた。


 翔太は今一度じっくりと図書室を見回した。ずらりと並んだ書棚の本は誰も手を触れたことがないかのように整然とし、きちんと清掃が行き届いていて埃ひとつなかった。


「ツネちゃん」

 椅子の上で常山が飛びあがらんばかりに体をびくりと揺らした。

「図書室って誰か利用者いんの?」

「……時々……」

「図書委員って他にもいるんじゃないの? 来てるのツネちゃんだけ?」


 常山はこくりと頷いた。翔太は自分が質問しておきながら、それもそうだろうなあと思った。この学校の生徒がくじ引きで引き当ててしまった委員長だの図書委員だのの仕事をきちんとこなすとは到底思えない。


「頑張ってな」


 翔太が言うと常山は一瞬だけ顔をあげたが、すぐまた附いてしまった。


 次に目指すは部室だ。翔太は返事のないのを承知で常山に「じゃあな」と言うと図書室を後にした。



 クラブハウスというのはグラウンドの横に建てられた二階建の横長のアパートみたいな建物で、そこには野球部や陸上部など主にグラウンドを利用する部活の部室が一部屋ずつ割り当てられていた。


 なぜ運動部の部室の並びにブラバンの部室があるのかは謎だったが、ともかく翔太は大島から受け取った鍵を手に鉄階段を上がって行った。


 野球部が放つ白球の砕ける音や、掛声が高く響く。運動部の連中が走る度に砂埃が舞い上がり、温められた空気からは土の匂いがしていた。


 扉につけられたテニス部だのハンドボール部だのという札を見ながら翔太は俄かに胸が高鳴るのを感じていた。活動してないとはいえブラバンが存在していることに安堵し、顧問からはまるっきりやる気を感じられなかったけれども入部届を出して、すべてはこれから始まろうとしているわけで、翔太は吹奏楽部と書かれた扉を見つけると大きく息を吐きだした。


 この高揚した気持ちをなんと表現すればいいのだろう。緊張と期待と、不安の入り混じった気持ちを。


 翔太はポケットにいれていた鍵を取り出した。いや、取り出そうと、した。が、驚いたことにそうする前に目の前の扉がいきなり内側からぱっと開いて、中からラガーシャツの屈強な生徒が四人ぞろぞろと出てきた。


 翔太は「えっ」を思わず言葉を漏らした。


 ちょうどドアの前にいた翔太にぶつかりそうになったラグビー部は「あ、ごめん」とさらっと言うと、タックルバッグを担ぎながら翔太の前を通りすぎようとした。


 翔太は何が起きたのか分からなかった。なぜブラバンの部室から、ラグビー部が? この扉はどこでもドアなのか?


 まさか。翔太はラグビー部を見送ると、たった今目の前で閉まった扉を勢いよく開けた。


「なんじゃ、こりゃあ!」


 翔太は叫んだ。そこには、タックルバッグだけではなく、サッカーボールの入った籠や野球のバット、テニスコートのネットといった運動部の備品がぎっしり詰め込まれていて、そのあまりの物の多さに窓は塞がれて室内は暗く、じめじめして、埃まみれの「倉庫」があった。


 これのどこがブラバンの部室だ。翔太はまたしても奈落の底に突き落とされるような感覚に襲われ、一瞬手足の先がすっと冷たくなるのを感じた。そして希望に湧いていた胸に再び去来した「絶望」を振り払うように頭を振り、我に返った。こんなことってあるだろうか。


 翔太は土足で中へ分け入って行った。活動していない部活だからって、部室を占拠されるとは何事か。というか、顧問の大島は「楽器がある」と言ったけれども、運動部の備品もあるとは言わなったではないか。いや、そうじゃなくて、楽器はどこに?


 とにかく翔太はがむしゃらになってボールやらラケットやらの山を乗り越え、押しのけ、体をねじこむようにして奥へと突き進んだ。


 積りに積もった埃でくしゃみをしながら、やっとの思いで部屋の一番奥まで来ると、そこには壁にぴったりと棚が設置されていて、楽器ケースが触るのもちょっと恐ろしいほどの埃とクモの巣に覆われて並んでいるのを発見した。


「あった……」

 翔太は呟いた。


 サックス、トロンボーン、ユーフォニウム……。

「あった」

 翔太はまた呟いた。そして一つのケースを掴みだすと、ぱちりと留め具を外して蓋を開けた。


 トランペット。そう、そこには金色に鈍く光るトランペットが、別珍の内張りに包まれて静かに横たわっていた。


「……あった」

 三度目の呟きだった。不覚にも眼頭がじんと熱くなり、涙が出そうになった。


 あると聞いてはいたけれども、実物を目にして翔太は懐かしい友に再会したかのように胸が震えていた。


 瞬間、翔太はこの楽器は自分を待っていたのだと強く思った。誰からも顧みられないで、どのぐらいの年月この楽器たちはここで打ち捨てられていたのだろう。こんな、埃だらけになって。何の関係もないボールやバットに囲まれて。


 ケースからマウスピースを取り出すと、制服の端でごしごしと擦った。冷たい金属の感触が指先からじんじん染みてくる。


 楽器にマウスピースをセットすると、翔太はおもむろに両手で構え、唇にぴたりと当てた。


 一吹き。硬く透明な音がぱっと飛びだす。次いで、もう一吹き。今度は少し長く。

 翔太は手の甲で滲んでいた涙を拭った。そして、高校生活最初の一曲「見よ、勇者は帰る」を高らかに、たった一人きりで吹き始めた。


 その音はもちろんグラウンドにも響き渡っていた。先ほどのラグビー部はもちろん野球部も陸上部も、誰もが音の出所を探してきょろきょろと頭を動かしていた。が、そんなことは知らない翔太は純粋に自分が奏でる音に耳を傾けていた。


 見よ、勇者は帰る。廃部寸前のブラバンに、勇者が帰ってきたのだ。翔太はトランペットを吹きながら、もう誰にも邪魔はさせないし、一人だろうが二人だろうが絶対にブラバンやってやると決意を新たにしていた。



 部室が運動部の物置になっているという事態はすぐにどうにかしなければならない。全部放り出してブラバンの復活を高らかに宣言しなければ。


 そう考えたものの、実際に運動部の備品を放りだす度胸は翔太にはなかった。いくらブラバンの部室として当然の権利を訴えても、この学校で上手くやっていけなくては何の意味もない。少なくとも強面の先輩方に目をつけられたりしないぐらいには、上手く立ち回らないと面倒なことが起きるし、いや、もう学校に二度と来れないようなことだってあるかもしれない。翔太はしばし思案に耽った。


 隣の席では持田がぱらぱらと漫画をめくり、斉藤が早々に弁当をかきこんでいるところだった。


 翔太はすでに朝のうちに「俺、ブラバンに入部届けだしてきた」と報告し、二人から「お前、本気なんだな」と呆れたような苦笑いをされていた。


 本気じゃなければ一体なんだというのだ。他にやりたいことがあるわけでなし、勉強したい気も起きないし、カノジョが欲しくても女子生徒はいないし。今この瞬間を、たった一度しかない高校生活を何にも本気になれないで過ごすなんて、翔太は怖いような気がしていた。


「でも、実際、一人でなにすんの」


 斉藤が弁当箱に蓋をしながら尋ねた。まだ二時間目だというのに弁当を食べ終わってしまって、こいつは昼に何を食べるんだろう。というか、どんだけ食うんだ。一体。翔太は満足げな溜息をつく斉藤に答えて言った。


「基礎練習。一人だろうが三〇人だろうが、やることは一緒。毎日基礎を練習する。丁寧に。合奏とかそういうのは、また別な話」

「したくてもできないだろうが」

「まあ、そうだけどさ」

「ふーん。でも、地味なんだな」

「そんなもんだよ。中学でもブラバンってそんなんだっただろ。毎日ひたすらぶーぶー吹いてるだけでさ。あと、ランニングとか腹筋とかやったりさ」

「ああ、そういえばそんなん見たことあるなあ」

「もっちーと斉藤は部活どうすんの」

 名前を呼ばれて持田が顔をあげた。

「もっちー言うな」

「もっちー、バイトかなんかしてんの」

「いや別に」

「部活入んないの」

「別に考えてない。やりたい部活も別にないしな」

「……斉藤も?」

「まあ、そうだなあ。俺も別にこれといってはないかなあ」


 無理強いはしたくなかった。でも翔太は自分と斉藤たちとの温度差が急に寂しいような気がした。表面上はたまたま入学以来席が隣り合わせているというだけで親しくなったけれども、翔太は彼らと本当には友達にはなれないのではないかとうすら寒いような気持ちになった。


 しかし、それは斉藤たちにしても同じことだった。翔太を見ているとそのやみくもな情熱に気圧されると共に、奇妙な劣等感と焦燥感と羨望を同時に覚える。自分と翔太は違う。違いすぎるほどに。


 けれど彼らの物思いは長くは続かなかった。いつもほんの一瞬心をかすめていくだけで、次の瞬間にはもうすべて忘れてくだらない冗談を言い合っている。彼らは一つところに留まっていることができないのだ。まるで猛スピードで走る列車に乗って、後ろに吹っ飛んで行く景色をただ漠然と感じているにすぎないかのように、彼らの若い時間は彼ら自身を置き去りにしてしまう。


 その日の授業が全部すんでも翔太は斉藤たちに部室が物置になっていることを話せなくて、無論それをどうしたらいいかも相談することはできなかった。


 終礼が終わり教室を出て行こうとする翔太を担任が呼び止めた。

「藤井、お前ブラバンに入ったんだって?」

「はあ」

「生徒会からお前に会議の参加命令が出てる」

 担任はそう言うと連絡票と書かれた紙を手渡した。


「備品監査?」

 翔太はそこに書かれた文字を読み、担任の顔を見上げた。

「毎年部活の備品を数えて管理することになってるんだよ。普通、どこも部長が出席することになってるけど。お前が部長になったの?」

「……違います。なんで俺んとこに来るんだろ……」

「顧問が指名してるんだけどな」


 顧問! 翔太ははっとした。あのやる気なし顧問め……。翔太は面倒を押しつけられたような気がしてその場で連絡票を破り捨ててしまいたかった。備品数えるより先に部室の確保だろうがと詰め寄ってやりたかった。けれど、担任が何気なく続けた言葉で我に返った。


「備品監査は部活の予算案とも関係あるから、会議ちゃんと出て説明聞いといた方がいいぞ」

「えっ?」

「今年の生徒会長は厳しいからなー。まともにやってない部活は部費削減どころか潰す勢いらしいぞ。うちもしっかりせんと」

「うち?」

「陸上部。部員も増やさんとなあ。お前、ブラバンと陸上かけもちしない?」

「しませんよ」

 そうか、この人陸上部の顧問だったか。翔太は頭の中でブラバンの部室に陸上部の備品がなかったか思い返していた。

「じゃ、ちゃんと行けよ」

 担任はそう言うと教室を出て行った。


 翔太はもう一度手の中に残された紙きれを眺めた。三時半から本館職員室横の会議室で部活の「備品と会計監査の説明会」ね……。


 厳しいと教師からも評される生徒会長とは相当な人物だと推測できる。

 翔太はふと思いついたことがあった。もしかしたら、あの手厳しい生徒会長も「使える」かもしれない。顧問の大島への不満はさておき、翔太はひとまず説明会へ行ってみることにした。



 続々と下校していく生徒の背中を見送りながら、翔太は指定された会議室までやってきた。


 開け放されたドアからそっと中を覗くとずらりと並んだ会議机に各部の代表……おそらくは全員三年生……が雑談を交わしながら集まっていた。


 翔太はおずおずと中へ入ると、一番隅の席に目立たないようにひっそりと腰をおろした。


 正面の黒板には備品監査、会計監査説明会と大書きされていて、生徒会役員がプリントを準備しているところだった。


 生徒会長がやり手だという話だが、そのせいか生徒会の連中はきびきびと会議の準備を進めていて、翔太はその統率のとれた動きにしばし見入っていた。


 彼らはこの学校の生徒としては珍しくきちんと「正しく」制服を身に着け、髪は黒く、ピアスなどもしていない。彼ら生徒会は「生徒の代表」というより完全に少数派だろうと思うと翔太はおかしくなってそっと視線を外し、一人で笑っていた。


 それを見咎めたわけではないのだろうけれど、生徒会室で会った役員の平井が翔太の方へ近づいてきた。


「本当にブラバンに入ったんだな」

 平井はそう言いながら翔太の前にプリントを置いた。

「あ、はい」

「……田口にはもう会った?」

「いえ、まだです」

「そうか」

「あの」

「ん?」

 翔太は三年生ばかりの群れに一人混じっていることが不安だったので、平井にそっと尋ねた。


「この備品監査って何をどうするんですか」

「それを今から説明するから」

「あの」

「なに」

「……一年って俺だけっすよね?」

 平井はぐるりと室内を見渡した。

「そうみたいだな」

「……会長は、なんか、実績のない部活は廃部って……」

「だから。だから、お前、今日来てんだろ?」

「え?」

「実積作りに来たんだろ?」

「……」

「おっと、もう時間だな」


 平井は時計を見るとまた黒板の前に戻って行った。と同時に、入口から生徒会長が入ってきて、

「全員着席して」

 とよく通る声で呼びかけた。


 鶴の一声。翔太は驚いて目を丸くした。好き勝手にざわついていた生徒たちが全員ぴたりと喋るのをやめ、速やかに椅子に腰掛けるのを目の当たりにし、翔太はこんなこと教師でもないのにできるなんて……と驚くばかりだった。


 会長は平井に向って「じゃ、始めるか」と言うと、自分は窓辺にもたれて全体を見守るように腕組をした。


 促された平井は、

「それでは今年度の各部活の備品監査と会計監査の説明会を始めます」

 と、進行を執った。

「まず手元のプリント一枚目開いてください」

 翔太は言われるままにプリントに視線を落とした。


「えー、クラブの備品監査の流れを図にしたものです。今までやってることだから分かってるとは思うけど、今年度はきちんとしたデータをとって、生徒会としては公平な予算案を組み、無駄使い等をなくしていく方針なので監査の流れをきちんと把握して下さい」


 平井は順々に監査の内容を説明し始めた。そこで翔太が知ったのはクラブの備品というのはあくまでも学校の所有品で、破損などがあればそれは報告しなければいけないということだった。


 損壊や紛失、その他不足品があればもちろん補わなければならないわけだが、無論それには費用がかかる。足りないとか壊れたとかでいくらでも新しい物が買えるわけじゃない。備品を買うための費用というのはあくまでも「部費」から賄わなければならないのだから。


 ようするに、この備品と会計監査というのは、クラブの備品がちゃんと揃っているかどうかを調べ、新規購入した場合はそれの報告と、各クラブに支給される部費が正しく使われているかを調べるものなのだ。


 翔太はなるほどと思った。会長が政策としてとっているらしい部活の縮小や公平性というのは、ここに大きく関係しているらしい。


 確かに活動していないクラブに部費を支給する意味がないし、何も壊れない・減らないクラブといちいち色んな物を消耗するクラブが同じ額の活動費ではこれも適切とはいえない。


 そう考えて翔太は急に落ち込んだ。活動していないクラブ、それはブラバンに他ならないではないか。


 平井は翔太が実績を作りに来たと言ったけれど、翔太にはまだその意味が分からなかった。


 同時に配布されていた記入用紙についても説明がされると、平井は、

「今年は生徒会が監査に立ち会います。事前に記入用紙に備品を書いておいて下さい。それでは監査に行く日程を言うから、各部の代表はメモして下さい。まず、野球部、サッカー部、テニス部、ラグビー部、陸上部、ハンドボール部……月曜。バスケ部、柔道部、水泳部、空手部、バトミントン部は火曜……」

 と、スケジュールを読み上げ始めた。


 この時翔太はまだなんとなく物事がぴんときていなくて、ぼんやりと平井の声を聞き流していた。


「金曜は文化部をまわります。放送部、軽音楽部、美術部、囲碁将棋部……ブラスバンド部」


 その言葉に各部の代表として集められていた三年生はざわっとどよめき、会議室中を、互いの顔を見回した。そして見出された翔太の顔に全員の視線が注がれると、誰かが驚きのあまりぽろっと漏らした。


「ブラバンなんかあったんか」


 翔太は三年生に囲まれている状況が今さら怖くなり、しかも視線を集めていることで胸が締め上げられるように苦しくなった。


 あったんかと言われてしまうような幽霊部活でも、その代表が一年とあっては「生意気だ」とか言われたらどうしよう。そんでもって「お前、ちょっと来いや」とか言われて校舎の裏に連れていかれたりなんかしたら……。


 みんなの視線を避けるように翔太は俯いていた。


 その怯えた小動物のような翔太を見ていた会長は、急に黒板の前まで進み出ると平井の横に並んだ。


「監査の日は部室にあるものは全部調べるから、ちゃんと整理整頓しておくように。去年の監査内容と照らし合わせて行く。失くしたとか壊れたとか、どこいったか分からんなんてのはなしだから」


 あの部室をどうやって整理整頓すればいいんだよ……。翔太はますますどんよりと落ち込んだ気持ちになった。部室をどうにかしないと、何があって何がないのか調べようがない。それにはあの運動部たちの「備品」を外に出さないことにはどうすることもできない。


 翔太は溜息まじりにプリントの端に「金曜、会計監査」とメモをした。


「部室にあるものは各部の所有品なんだから、きちんと管理しておくように。以上」


 会長が話し終えると、平井がその後を引き取って「はい、それでは質問がなければ終わりです。解散」と説明会を閉めた。


 翔太は三年生に混じっての説明会にかなりの疲労感を覚えた。緊張していたせいだろう、肩に力が入りずきずきと痛むようだった。


 プリントを鞄に入れ、外に出ようとすると会長が声をかけてきた。

「ブラバンは他に部員が入りそうか?」

「えっ……、分かりません」

「そうか。まあ、頑張るんだな。監査は金曜日だから忘れないように。田口にも来るように言っといて」

「……はあ」


 そうだよな。翔太は思った。唯一の部員で、部長であるところの田口先輩に来てもらわないことには部活を始めることもできやしない。


 ……でも、どうやって?


 翔太は目の前が暗くなり、ますます肩に重荷を負わされたような気持ちになった。


 なんで留年したのか知らないが、学校にもあまり来ていないらしいのをどうやって部活に来させればいいのだろう。そういう問題は教師や家庭の役割じゃないのか。グレた生徒を更生させるのに新入生では荷が重すぎる。


 自分の力で何とかしなければブラバンは文字通り終わってしまう。けれど、それにしても、翔太に何ができるというのだろう。自分の無力さが情けなくて、気持ちはますます暗くなるばかりだった。



 翌日翔太は、ともかく部室をどうにかせねばと自分を奮い立たせはしたものの、やはり自分一人では何やら心もとなくて、授業が終わると早々に帰ろうとしている持田と斉藤をつかまえた。


「お前ら、今から何か用事とかあんの?」

「いや、別に」

「じゃあさあ、ちょっと頼みあんだけど……」


 斉藤は人の良さそうな顔で立ち止まり、翔太に向きなおったが、持田は肩越しにちょっと振り返って、

「さてはブラバンのことだろー?」

 と笑った。


「……なんで分かんの」

「部活の備品監査の説明会。昨日呼ばれたんだろ?」

「うん」

「それで?」

「備品を整理して紙に書いて、そんで金曜に立ち会いでチェックされるんだってさ」

「ふーん、本格的にやるんだな」

「お前らさ」

「なに」

「暇ならちょっと手伝ってくんない?」

「はあ?」


 持田が眉をひそめた。まあ、嫌なのも無理はない。そんな面倒そうなこと。ましてや、ブラバンに興味なんてないわけだし。翔太はやっぱり駄目かと気弱に肩を落とした。


 が、斉藤はそれを察したのか、翔太の顔を覗き込むように尋ねた。

「なんか問題でもあったのか」

「問題っていうかさあ……」

「うん?」

「部室、運動部の倉庫になってんだよ……」

「へっ?」

 斉藤が頓狂な声をあげた。


「なにそれ。どういうこと」

「ブラバンの部室に運動部の備品山盛り突っ込んであって、あれどうにかしないと備品どころか、何がどうなってんのか全然分からんことになってて……。ぶっちゃけ俺一人でどうにかできる自信ないんだわ」

「……ああ、そういうこと……」


 斉藤はむっちりした顎を上下に動かし、納得したように何度か頷いた。


「いいよ。手伝うよ。部室片付けて、備品監査の準備したらいいんだろ」

「斉藤!、心の友よ~」

 翔太は嬉しくなって斉藤の巨大な体に腕をまわした。すると黙って二人の様子を見ていた持田が、大きく溜息をついた。

「しょうがねえなあ」

「もっちー、心の友よ~」

「もっちー言うな」


 抱きつこうとする翔太を持田は軽く小突いて、仕方がないという割にはこだわりのない笑い方で「じゃあ、行くか」と先に立って二人を促した。


 この時翔太はこれで9割方問題が片付いたような気がしていた。三人いれば簡単に片付くだろうし、ようするに運動部の物を各部へ移せばいいわけなのだから。そうしたら、後は掃除して、棚に押し込まれている楽器を取り出して、中身を確認していけばいい。そこからは一人でもできるだろう。


「終わったら、帰りにラーメン食おうな」

「奢れよ、翔太」

「じゃあ、餃子奢るわ」


 三人は並んでクラブハウスまで来ると、すでに備品監査の為に各部は大掃除の真っ最中で、どのクラブも道具だのボールだのを徹底的に外に運び出しているところだった。おかげで埃が舞い、周辺の空気は茶色く染まっていた。


「なんだ、これ。すごいな」


 持田が呆れたように言い、鼻の辺りを袖口で覆った。


「なんか生徒会長が厳しいらしいよ」

「ふーん。こんな慌てて大掃除ってことはみんな後暗いことがあんのかね」


 階段を上がりながら持田は訝しげな目で、開け放されたドアの中を窺っていた。

 そう言われてみれば、そうだな。翔太は持田の言葉に、ブラバンの部室が倉庫と化しているのにも実は理由があるのでは……? と初めて心づいた。


 先に階段を上がりきった持田が急に立ち止ると、

「翔太、ブラバンの部室って……」

「え? ドアに書いてあるだろ」

 言いながら翔太は一歩前に出たが、すぐにぎょっとして持田同様に立ち止った。


 ブラバンの部室の前には三年生が七人ほど狭い通路を埋めて、待ち構えるように集まっていた。


「あ、あいつ。あいつだよ」


 野球部のユニフォームが他の連中に囁くと、その場にいた全員が一斉に翔太たち三人に視線を注いだ。


 三人は危険な動物が目の前にいるかのように、明らかにビビりながら硬直した。

「おい、お前。ブラバンの奴」


 やっぱりな。翔太は顔をひきつらせながら「はい」と返事をした。


 三年生たちは翔太に手まねきをしたが、翔太の足はすぐには動けなかった。何かものすごく嫌な予感がするし、頭の隅で危険信号が鳴っているようだった。まさか囲まれてボコられるなんてことはないだろうが、三年生が雁首揃えて一年生を待ち構えているなんて、絶対いい事が起きるシチュエーションなはずがない。


 しかしそうしている間にも三年生たちは翔太を「ちょっとこっち来いよ」と呼んでいた。


 翔太は深く息を吸い込むと、覚悟を決めて狭い通路を一歩踏み出した。脚が震えているような気がしたし、肩には力が入っていて、心臓が押さえつけられるように息苦しかった。


 部室のドアの前まで来ると翔太はできるだけ平静を保って「僕ですか?」と尋ね返した。


 するとサッカー部と思しき練習着姿が、

「お前、ブラバンに入ったんだってな?」

「はい」

「田口は?」

「えっ?」

「お前、備品監査どうするつもり?」

「……どうって……金曜に立ち会い検査なんで、それまでに準備するつもりですけど」

「田口がそうしろって言った?」

「……えっ……」


 翔太にはなぜここで会ったこともない、いや、学校に来ていないと噂の田口さんの名前が出てくるのか訳が分からなくて、言葉を失った。


 気がつくと斉藤と持田が翔太の背後に寄り添うように立っていた。


「あの、ちょっと意味が分かんないんですけど……」

 翔太は恐る恐る言った。

「ここ、俺らの備品あんだろ?」

「……あ、はい……」

「これさあ、このままにしといて貰わないと困るんだよなあ」

「え、なんで……」

 その続きを引き取って説明したのはラグビー部だった。

「ブラバンって部員いないだろ」

「はあ」

「で、活動してないだろ」

「はあ」

「田口がさ、部室使ってないから備品置かせてくれるって約束したんだよ」

「……」

「俺ら、みんな田口に合鍵作って貰って、ここに備品置かせて貰ってんの」

「でも、監査は金曜だからどけてもらわないと……」

 翔太がやっぱり恐る恐る言うと、ラグビー部はじれったいとでも言うように幾分声を荒げて、

「だからあ! お前、ブラバン辞めろって言ってんの!」

「えっ!」

「ここに備品があるのが生徒会にバレるとまずいんだよ!」


 なんということだろう。翔太は唖然として三年生たちの顔を順々に見渡した。すると彼らのその怒ったような困ったような顔を見ているうちに、備品監査の説明会で聞いた内容が思い出され、パズルのピースがぱちりと埋まるようにはっきりと形になって翔太の頭の中で像を結んだ。


「もしかして、田口さんは部室の使用料とか取ってます……?」

「声がでけーよ、馬鹿」


 この学校に入学して受けた何度目の絶望だろう。翔太は目の前が貧血のように暗くなるのを感じた。ショックのあまり本当に卒倒しそうだった。


 それを察したのは斉藤だった。斉藤は一歩前へ出ると、各部の代表としてやってきたらしい三年生たちに言った。


「ようするに、ここに備品隠しといて、部費を水増し請求してるってことですか」

「だから、声がでかいっつーの」


 ラグビー部がその巨体で斉藤に詰め寄った。


 しかし斉藤は動じることなく、続けた。


「田口さんが部室貸してるのは分かりました。でも、田口さん学校来てないし、ブラバンはこれから活動するから、ここに置いてる物はやっぱりどけてもらわないと」

「活動ってお前、何人でブラバンやるつもりなんだよ」

「え」


 痛いところを突かれた斉藤は思わず翔太を振り返った。翔太は暗い顔で俯いていた。


 一人。一人しか、いない。斉藤は翔太の後ろの持田と目が合った。一人しかいないと答えたら、三年生たちはますます翔太にブラバンを辞めさせようとするだろう。そして備品の隠ぺいを続け、不当に部費を請求するのだろう。


 無論、そんなことは知ったことではない。地区予選初戦敗退の野球部の部費がいくら必要だか知らないし、ラグビー部にどれほどのタックルバックがあればいいのかも知らない。でも、こんな真似して支給される金でやる部活なんて、くだらない。斉藤はむらむらと湧いてくる怒りに、我知らず拳を握りしめていた。


 その時だった。事態を静観していた持田が翔太を越えて、斉藤も越えてさらに前に出て言い放った。


「三人です。田口さんいれたら四人」

「……もっちー……」


 翔太は目を丸くして持田の背中に見入った。持田はちょっと振り向くと、

「もっちー言うな」

 と翔太を睨んだ。


 斉藤も正面に向きなおると、

「俺ら、他にも部員勧誘してるし、今年からブラバンはちゃんと活動します」

「お前ら、意味分かってんの? ブラバンに活動なんかされたら困るんだよ」

「そうだよ。田口はこれ知ってんの?」

「ブラバンじゃなくてさあ、軽音じゃ駄目なわけ? そんだけしか人数いないんじゃ軽音でいいだろ」

 三年生は口々に言い募りながら三人を取り囲もうとしていた。


 翔太はきっとして顎先を上に向けた。


「でも軽音には楽器ないっすから」

 その目は潤んでいたが、怖いからではなかった。

「ようするに」

 持田が静かに切り出した。

「備品隠してんのがバレなきゃいいんすよね?」

「どうする気だよ」

「隠してればいいんすよね? 少なくとも、今年の監査が終わるまでは」

「……ま、まあな」

「じゃあ、俺らにここはまかせてもらえませんか? 生徒会にバレないようにすればいいんでしょ?」

「お前、それでバレたらどうなるか分かってんだろうな」


 ラグビー部の巨体が脅すように持田の胸倉をつかむと、ぐいと締め上げた。

 けれど持田は涼しい顔で、

「心配しなくても上手くやりますから」

 と言いながらラグビー部の手を押し返し、ぱたぱたと制服の胸をはたいた。


 三年生たちは思案するように沈黙し、それから互いの顔を見やった。彼らにしてもここで名案が浮かぶでなし、といって、一年生を脅し続けると事態が思わぬことになりそうだと判断したのだろう。野球部が坊主頭を掻きながら、

「バレたらお前ら覚悟しとけよ。二度とブラバンなんか活動できないようにしてやるからな」

 と捨て台詞を吐いた。


 それを潮に三年生たちは翔太たちを押しのけて通路を階段の方へと歩いて行き、どやどやと足音も荒く解散して行った。


「もっちー……」


 翔太はまだ動悸がしていたが、気の抜けるような声を出しながら後ろから持田の両肩に手を置いた。


「だから、もっちー言うなっつーの」

「それでもっちーどうするつもり?」


 斉藤が尋ねた。


「そうだよ、もっちー、部室ん中すごいことになってるって俺言っただろ」

「隠すってどこに隠す気? バレたらマジでやばいんじゃね?」

「……さあ?」


 持田が二人を振り向いた。その顔は明らかに適当な言い逃れをした後の苦笑いが浮かんでいて、翔太と斉藤は思わず叫んだ。


「どうすんだよ!」

「……まあとりあえず中入ろうぜ」


 翔太は膝から崩れ落ちそうな脱力感を感じながら、ポケットから鍵を取り出した。

 実際に見たら後悔するだろうなあ。翔太は二人に申し訳ないような気がして、黙って鍵を開けた。


 錆ついたような軋んだ音をさせてドアを開けると、斉藤と持田は好奇心に満ちた顔で中を覗き込んだ。そして同時に呟いた。


「げっ……」


 翔太は信じられないものを見たとでもいうように振り返る二人に、「だから言っただろ?」とばかりに無言で頭を振った。


 体育倉庫と化したブラバンの部室を前に、持田と斉藤は自分たちの選択を内心後悔していた。まさかここまでとは思わなかったし、実際に目の当たりにして初めてとんでもない「現実」を理解した。


 しかしそんな後悔は一瞬だけだった。部室へと分け入っていく翔太の背中を見ると、この困難に一人で立ち向かおうとしていた翔太の決意が哀れで、そして馬鹿げて感動的で、まずは目の前の問題をどうにかしようと思い直していた。


 果たして自分たちに楽器なんてできるかどうかは想像もできない。なにせやったことがないどころか、興味もなかったのだから。


 でも。もしかしたら。それは一つの希望だった。この冗談みたいな劣悪な環境下で、部員のいない死に絶えたも同然のクラブで、自分たちみたいな素人がブラバンを復活させることができたなら。


 勉強もダメ。スポーツもダメ。なんの取り柄もないけれど、もしも奇跡を起こすことができたら。少しは自分を好きになれたりするだろうか? この漠然とした将来への不安も少しは払拭されたりするのだろうか?


 斉藤と持田のささやかな期待と希望を知らずに、翔太は埃で汚れた窓を開け放ちながら言った。


「お前らさ、楽器、なにやりたい?」


 こいつ、馬鹿みたいに前向き。斉藤は思った。


 翔太はなるべく明るく振舞ったが、内心では窮地を救おうとしてくれた二人をこれ以上失望させたくなくて必死だということには斉藤も気がつかなかった。


「……とにかく、これ、なんとかしようぜ」

 持田がタックルバックを拳で一突きすると、もわっと土埃があがり、慌ててそれを両手で払いながら、

「マジで」

 と顔をしかめて付け加えた。



 生徒会による備品監査は、放課後になると生徒会役員が手分けして監査に赴き、不正を正さんと辣腕を奮っているともっぱらの噂だった。


 その様子は一年生の教室へも聞こえてきていて、各部の新入部員からは「練習どころか、ひたすら部室の掃除させられてる」と不満の声があがり、「生徒会めっちゃ厳しい。去年の記録と一個でも違うといちいち理由聞くし、細かいし。あんな奴らがこの学校にいるってのがすでにおかしい」との声も出ていた。


 翔太はあの冷静な生徒会長がボール一個の行方さえも厳しく追及する様子が想像できるだけに、すでに金曜に迫っているブラバンの立会に恐々としていた。

 斉藤と持田という部員が入ったのは嬉しいことだが、部室を占拠する道具類を撤去する方法はまだ思いついていなかった。


 が、そんなことは関係なく、登校中だろうが食堂でうどんなど啜っている時だろうが、所構わず三年生たちが翔太に「おい、ブラバン。大丈夫なんだろうな」とか「しくじったらどうなるか分かってんだろうな」とか発破をかけ、さらには「チクったりしやがったらマジで痛い目に合わせるから覚えとけよ」とご丁寧に脅しまでかけられる始末で、翔太は胃が痛くなるぐらいだった。


 斉藤は、

「とりあえず屋上に運ぶか?」

 と提案したが、

「クラブハウスの屋上? あそこ、丸見えじゃん」

 と持田がそれを却下した。


「そもそもお前が言いだしたんだろ、もっちー、何とかしろよ」

「もっちー言うな。俺も今考えてんだから」

 持田はむすっとして頬杖をついた。


 授業の合間も絶えず三人は頭を寄せ合っていたが、何の案も思いつかないまま一日が過ぎ、放課後になり皆が帰り支度をする中でも三人はまだ座ったままだった。

「それにしても田口さんって人も無茶苦茶するよなあ」

 斉藤がぼやいた。


「よくあんなこと思いついたな。金とるってどういうことよ」

「もしかしてそのせいでダブってんのかね」

「翔太、お前、田口さんにはまだ会ったことないの」

「ないよ」

「これってさあ、顧問も知ってんのかな」


 顧問。その言葉を聞いた瞬間、翔太ははっとした。そして目の前で帰り仕度を終えて痩せた体で重そうに鞄を手にした常山を呼び止めた。


「ツネちゃん!」


 常山は見ているこちらからもはっきり分かるほど驚いて、一瞬硬直し、それから恐る恐る翔太を振り向いた。


 翔太はできるだけ優しい口調で、怖がらせないように気をつけながら話しかけた。


「今日も図書館行くの?」

「……」

 常山はこくりと頷く。

「大島も来るのかな」

「……たぶん」

「そっか。ありがとう。図書委員の仕事頑張ってな」


 常山が教室を出て行くと「ツネちゃん図書委員なのか」と持田が尋ねた。


「そう。で、大島は図書委員の顧問も兼任なんだってさ」

「ふーん……。それが何の関係が……。あ」

「この学校に図書室利用する奴なんかそうそういないよな」

 翔太の意図が分かったらしく、持田もにやりと笑った。


 三人はまず部室へ行くと手分けしてそこへ置かれているブラバンとは何の関係もない運動部の備品を一つずつ抱え、こそこそと図書室を目指した。


 生徒会は監査の為クラブハウスを順番にまわっているらしく、翔太は平井の後姿をちらりと確認すると見咎められないように祈るような気持ちで彼らの背後を駆け抜けた。


 クラブハウスから中庭を通って校舎に駆け込み、階段を上り、三人は人気のない図書室の前までテニス部のネットや、ラグビー部のタックルバックなどを運んだ。


 斉藤は太った体でクラブハウスと図書室を往復するのがこたえたらしく、壁に手をつき今にもへたりこみそうに喘いでいた。ブラバンの部室からすべてを持ち出す頃には三人とも汗びっしょりになっていた。


「こんなことして大丈夫なのかな」

「大丈夫もクソもねえよ。とにかくなんとかしない」

「そりゃそうだけど……」


 翔太は図書室の扉を開け利用者がいないのを確認すると、持田に向って頷いて見せた。


 貸出カウンターには常山が例によってちんまりと座り、本を開いているところだった。


「ツネちゃん、大島来てる?」

 翔太が尋ねると常山は首を横に振った。


「よし」


 翔太は廊下で大量の道具類と共に待機している二人に「大島いないって」と合図を飛ばした。すると即座に持田と斉藤が図書室へそれぞれ運んできた荷物を抱えて乱入してきた。


 驚いたのは常山で、椅子の上でのけぞり、今度こそ言葉を失って金魚のように口をぱくぱくさせ、荷物と翔太を交互に見て目を大きく見開いていた。


「大丈夫、ツネちゃん。俺ら三人ともブラバンで、大島がブラバンの顧問だから」

 だからなんだと言うのか翔太は自分でも分からなかったが、怯えた目で翔太たちを見る常山を安心させるように語りかけ、カウンターの背後に置かれた衝立の向こう側、大島が仕事をサボる為に設けられたとしか思えないスペースに次々と運動部の備品を運びいれ始めた。


「翔太、このソファ邪魔だわ」

「もっちー、そっち持って。これ、端に寄せよう」


 大島が寝そべっていたソファも壁際に寄せ、とにかく持ってきたもの全部を押しこみ、積み上げていく。


 ただでさえ狭いスペースはあっという間にいっぱいになり、とても大島がサボるどころか人ひとり立っているのもやっとというぐらい空間がぎっしりと埋め尽くされていった。


 いつの間にか立ち上がり翔太たちを唖然としながら見つめていた常山は、その時初めて小さな声で呟いた。


「先生に怒られるよ……」

「大丈夫! ツネちゃんは関係ないんだから! 大島になんか言われたら、俺らに脅されたって言えばいいよ」

「……」

「こんなのが部室にあったら、ブラバンの練習できないだろ?」

「……」

「心配ないって。な。ツネちゃん。大島が来たらさ、俺ら部室にいるって言えばいいよ」


 常山はまだ何か言いたげな、非難するでもなく怯えるでもない、強いて言うなら奇妙なものでも見るような目で翔太たち三人の顔を順番に見つめ、しばらくの沈黙の後にまた消え入りそうな声で「分った……」と呟いた。


 大島がこれを見たら驚くだろうし、怒るに決まっている。そんなことは初めから百も承知だった。しかし翔太にはこうすることで運動部の恫喝を逃れ、ブラバンの部室を確保するのと別にもうひとつ目的があった。


 それは「ブラバンの顧問」である大島を、その本来の役割へ引きずり出すことだった。


 大島の野郎、一人でも二人でも好きにしろなんて言いくさりやがって。好きに練習しろなんて、そんな言い方あるものか。指導者も指揮者もいないブラバンがあるか。給料分の働きぐらいはしてもらわないと腹が収まらない。せめて部室の確保と、部費の確保。ブラバンの存続ぐらいは最低限の働きだ。


 翔太たちは不安げな常山と運動部の備品を図書室に残して、意気揚揚と部室へと引き上げて行った。



 余計な荷物をどけたらブラバンの部室はずいぶん広く、初めてその全貌を見ることができた。


 壁に取り付けられた棚は天井まで高さがあり、埃をかぶった楽器ケースが収められていて、片隅には錆びた譜面立てが押し込まれていた。


 窓の下には黒板が嵌めてあり、音楽室にあるのと同じく五線が引いてあった。


 斉藤はそれらを興味深そうに見てまわりながら、改めて「ここ、本当にブラバンなんだなあ」と関心したように溜息をついた。


「翔太、次なにすんの」

 持田が窓すべて開け放しながら尋ねた。

「……まあ、掃除だろうな」

「だよな」


 本来は土足で入ってはいけないのだろうけれど、とても靴など脱げるような状態の部屋ではないその中央で、持田は息をするのも嫌だと言わんばかりに制服の袖で口元を覆っていた。


「掃除道具、教室にあるの使ってもいいよな」

「ああ、いいんじゃないの」

「とってくるわ」

 男前は潔癖なのか。よほど汚いのがいやなのか持田はさっさと部屋を出て行った。


 後に残った翔太と斉藤は楽器を次々と外へ運び出し、ひとまず部室を空にすることにした。


 棚の奥からはいつの誰のものとも知れないテストの答案や教科書までがくしゃくしゃになって茶色く変色した状態で「発掘」され、長い年月ブラバンが忘れ去られていたことを物語っていた。


 壁に貼られた雑誌の切り抜きの完全に変色したのをはがしていると斉藤が尋ねた。


「ところでさあ」

「うん」

「俺ともっちーは楽器なにやんの?」

「ああ、それなあ……」


 翔太が時代がかかったグラビアをはがして床に落とすと、持田が掃除道具を抱えて戻ってきた。


「持ってきたぞー」

「ご苦労さん」

 持田は箒やちりとりを壁に立て掛けると、水の入ったバケツを翔太に寄こした。

「なあ」


 斉藤が持田を振り向いた。

「ん?」

「もっちー、楽器なにやりたい?」

「え? 楽器?」

「だって俺らブラバン入ったわけだし」

「……ああ~……」

 持田はごみ袋をばさばさと広げて翔太の顔を見た。

「俺は何でもいいわ。つーか、俺、なんもできないし」

 と、何やら興味なさそうに言った。


 翔太はおや? と斉藤の顔を見やった。斉藤も怪訝な顔で翔太を見返す。


 この言い方では持田は別にブラバンになど興味を持っていないようではないか?

「斉藤はなにやんの?」

「俺も別に何でも……つーか、俺にもできそうなのってなに?」

 尋ねられた翔太は果たしてどうのようにして彼らにパートを振り分ければいいのか分からず、腕組みをすると「うーん」と唸った。


「そういうのってどうやって決めんの?」

「俺が中学ん時はやりたい楽器の希望を出してー。希望者が多いと抽選だった。なんかさ、毎年違うけども人気のあるパートってあってさ。そん時の流行り? とか、あと、先輩がかっこいいとかかわいいとか。なんか、そんなん」

「翔太はなんでトランペットやりたかったわけ?」

「部活紹介ん時にさ、ソロ吹いてる人がめっちゃ上手くてかっこいいなと思ったから」

「ふーん。そんな決め方でいいんか」

「じゃあ、他にどんな決め方があんの」

「や、なんだろ、適性検査とか? オーディションみたいな?」

「だってお前ら楽器全然やったことないんだろ?」

「だから、リズム感とか音感とか」

「それを俺が決めるわけ?」

「だってお前しかいないじゃん」

 翔太はますます「うーん」と唸った。


 持田はバケツに放り込んだ雑巾をじゃぶじゃぶ濯ぎながら、

「俺さー」

「なに」

「音痴なんだよな」

「は?」

「お前が決めてよ」

 でも、もうちょっと何か興味のあるものは……。翔太はそう言いかけた。が、それより先に入口のところから、

「何を決めるって?」

 と割り込む声がした。


 三人は一斉にそちらに顔を向けた。開け放したドアの横に立っていたのは、大島だった。


 大島は明らかに怒っていて、眉間には険しい縦皺が寄り、目は吊り上がり、拳は固く握りしめられていた。けれど、そんな怒りは想定の範囲内だった。翔太にしてみれば大島が部室に姿を現したことが重要であって、他のことはどうでもよかった。


「お前ら、図書室のあれ、なんだ」

「金曜に生徒会立会で備品監査あるんすよ」

「だから?」

「だから部室をキレイにしてー、備品もちゃんと調べないといけないって言われてんですよね。生徒会に」

「それとあのタックルバックと何の関係が?」


 大島はこめかみをひくつかせて翔太を睨んだ。翔太は大島に近寄って行くと、大袈裟に声をひそめて囁いた。


「先生、田口さんが部室を運動部の奴らに倉庫代わりに貸してたって知ってました?」

「は?」

「俺らもどういう事情かよく分からないんですけど、とにかくあれがあるとまずいじゃないっすか」

「……田口が?」

「どういう事情かは分からないけど、まあ、あれっすかね、部員一人だとこの部室広すぎますもんね。それで貸してたんすかね」

「……田口が……」

「運動部の人らも今監査の最中だから、ほら、みんな掃除してるでしょ。今突然荷物増えても困るだろうし。といって、ここに置いておくわけにもいかないし、ねえ? 田口さんに聞いた方が話し早いとは思うんすけど、俺らまだ田口さんに会ってないし」

「……田口……」


 翔太は怒り心頭に達していた大島が風船が萎むように意気消沈していくのを見ながら、大島が何らかの事情を知っていると踏んだ。


「てことで、終るまでですから。あの荷物、ちょっと置かせといて欲しいんすよ。あ、そうそう。こいつら、斉藤と持田。ブラバンに入ったんで、これで部員が全部で……えーと四人。田口さんもいれて四人になりましたから。先生、こいつらのパートはどうしたらいいっすか?」


 畳みかけるように次々と言葉を繰りだす翔太に大島は唖然としていた。

 翔太は勝ち誇ったようににっこり笑うと、

「ちなみに、初心者なんで」

 と付け加えた。


 大島はもう返す言葉もなく、がくりと項垂れた。図らずも、たった一人の新入生によってブラバンが再始動しようとしている。名前だけの顧問で、放課後はぶらぶらしていただけの呑気な毎日が終わりを告げようとしている。


 大島は翔太の顔を見た。嬉しそうに目を輝かせて、何がそんなに楽しいんだか笑っている、その、いかにも子供じみた顔を。

「お前さあ」

「はい」

「そんなにブラバン好きなの」

「好きっす」

「……」

 翔太はなんの邪気もなく答えた。大島は観念したように天井を仰いだ。


 この学校にこんな奴が入ってくるなんて想像もしなかった。何かをやろうという気概とか、情熱を持っている生徒が。しかも奇妙な行動力で仲間まで集め始めている。大島は翔太を「少年誌の主人公みたいな奴」だと思った。暑苦しくてうっとうしくて、憎めない。


「……掃除終わったら呼びに来い」

 大島はそう言い捨てるとくるりと踵を返した。

「えっ、どこに?」

「図書室に決まってんだろ。パート決めんのはそれからだ」


 斉藤と持田は翔太の顔がぱっと輝くのを見逃さなかった。そしてその眩しい顔が二人を振り向くと、

「さー、早く片付けちまおうぜ」

 と言った。


 大島は肩を落として部室を出ると廊下に積まれた楽器ケースにそっと指を触れた。積りに積もった埃でケースは真白だった。そして改めて思った。自分の仕事が一つ増えたのだ、と。



 部室はどうにか掃除ができて、楽器ケースも綺麗に拭き、中を確認してはまた収めるという作業にたっぷり時間を費やして、生徒会から配布されていた監査のための用紙も埋めることができた。


 その一方で大島が斉藤と持田に割り振った楽器は、斉藤がトロンボーン、持田がテナーサックスだった。


 このパートを決めるのに大島は宣言通り掃除が終わると二人を並べて、部室の黒板に音符を書き「これが全音符、これが四分音符。これ、四分休符」と一渡り音符を並べてその長さを説明し、続いて何通りかの楽譜を書いた。


「あのう、俺らこういうの全然分かんないんすけど」


 いきなり始まった音楽の授業に面食らった斉藤が、おどおどしながら訴えた。が、大島はまるで意に介さない様子で、

「ああ、今すぐ覚えなくていいから。とりあえずここに書いたリズムで手拍子してみろ。まず、デブ、お前から」

「……斉藤っす」

「さん、はい」

 翔太は脇でその様子を見ていて大島が二人のリズム感を見ようとしていることに気がついた。まず大島が自ら手本を示し、それを再現することができるかどうか。一拍の長さを自分の体の中で数えることができるかどうか。


 それから次に大島は持参してきたピアニカでおもむろに音階を吹いて、

「今の音、ドレミファソラシド。覚えたな? じゃ、デブ、俺が今から吹くメロディをドレミで答えろ」

 と命じた。

「……斉藤っす」

「さん、はい」

 斉藤は冷や汗をかきながらも真剣な面持ちでピアニカの音に聞き入り、

「ドラドソファレシソ?」

 と、恐る恐る答えた。


 正解。翔太は心の中で呟く。大島はリズム感に続いて、音感を試している。そして翔太は思った。この国語教師がなぜブラバンの顧問になっているのか。それは、音楽を、何らかの楽器をやるからだ。


 部室。部員。指導者。これで活動できる体制は整った。


 然して大島は二人をテストした結果、リズム感・音感ともに優れている斉藤をトロンボーンに、いずれもちょっとあやしい持田をテナーサックスに決めた。二人には異を唱えることもできなかった。それもそのはずで、なぜそれに決められたのかも分からなかったのだから。けれど、翔太にはなんとなく分かるような気がした。トロンボーンの方が音程を正確に覚えるのが難しい。斉藤は耳がいいようなので恐らくはトロンボーンが向いているだろう。体が大きい分肺活量もありそうだし。持田は背が高く楽器を軽々扱えて、指も長いからテナー。そんなところだろう。


 翔太は大島が顧問として二人のパートを決めてくれたことで、一安心し、さあこれから練習が始まるとワクワクしながら、大島の次の言葉を待った。


 が、大島の放った言葉は翔太の期待していたものとはまるで違っていた。


「じゃ、あと頼むわ」

「はっ?」


 大島は机に黒い四角いものを置くと、翔太に向って言った。

「音階とロングトーンから教えといて」

 机に置かれたものを見るとそれはチューナーだった。

「なっ……。ちょ、ちょっと待って。なに、それ。どういうこと」

「最初に言ったはずだけど? 好きに練習しろって」

「いや、でも、顧問でしょ。先生いないと練習なんて……」

「とりあえずお前が基本教えといて」

 言いながらもう体が扉の方に向っている大島を翔太は慌てて追いかけようとした。が、大島は三人を見渡して皮肉たっぷりに、

「俺は図書室片付けないといけないからなっ」

 と吐き捨て、ふんと鼻を鳴らして唖然とする一同を残して部室から出て行ってしまった。


 後に残された三人は乱暴に閉められたドアを眺め、ただ持田が「そうきたか……」と呟くだけだった。


 しかし翔太はすぐに気を取り直して二人にマウスピースをケースから出すように指示した。

「最初はつまんないかもしんないけど、まず基礎だから」

 と前置きして複式呼吸の説明をし、自分のマウスピースを鳴らしてみせた。


 三人きりのブラバンの出す最初の音。それはリズムを刻むメトロノームに合わせたおならのようなぶーぶー音。


 椅子を並べてひたすらぶーぶー。廊下に面した窓から運動部の連中が中を覗いては「なんだ、あれ?」と不思議そうに、または怪訝そうに通り過ぎて行く。

 

翔太は何度も斉藤と持田の表情を窺い、嫌そうじゃないか、退屈じゃないかとはらはらしていた。二人が「やっぱり辞める」と言いだしたらと思うと、気が気ではなかった。


 といって、この退屈で単調な練習をすっ飛ばすわけにはいかない。翔太は慣れたはずの呼吸が俄かに息苦しく感じていた。


 そうして始まったブラバンは金曜の監査の日を迎えようとしていた。


 三人は部室でロングトーンをやりつつ、生徒会が来るのを待っていた。


 斉藤と持田はマウスピースを楽器に装着しての練習もどうにかついてくるが、いかんせん複式呼吸に慣れないせいか二人の音はどこか頼りなくか細い。不安定で、空気の中をぐねぐねとのたうちまわっているようだった。


 メトロノームの規則的な音を聞きながら、翔太は厳しいと噂の生徒会の監査を乗り切ることができるか不安だった。活動実績のまるでないブラバンは生徒会にしてみれば廃部候補の第一に名前があがっている。三人でぶーぶー楽器を鳴らしているだけで、一体これがブラバンを守る手段になるのだろうか。いや、そもそも何をすれば活動実績になるのか、まるで分からない。自分にできることは一体なんなのだろう。


 翔太が悶々としていると、部室のドアがノックと共に開かれた。


「失礼します。生徒会です」


 顔を出したのは平井だった。翔太はメトロノームを止めて立ち上がった。


「どうも」

「おっ、部員三人になったのか?」

「一応……」

「やるじゃん。邪魔するよー」


 平井は踵を擦り合わせるようにして靴を脱ぎ、中へ入ってきた。


 翔太は緊張して体を強張らせながら小声で「どうぞ」と返した。斉藤と持田も立ち上がり、翔太の横に並んだ。


 三人はクリップボードに挟んだ紙面をめくる平井を固唾を飲んで見守っていた。生徒会長が改革の陣頭指揮をとっているやり手であるのは分かっているが、監査を行っている平井も同じぐらい油断がならない。気のいい笑顔で、優しそうではあるが、こいつも生徒会の手先であることには変わりはないのだから。油断は禁物だ。ここが倉庫代わりに使われていたこと、運動部から使用料をとっていたことなどは絶対にバレてはいけない。


「田口は来てないの?」

 翔太はぎくりとした。


「来てません」

「ふーん。じゃあ、まず、確認からいくな。ブラスバンド部、部長は……電気科二年の田口で変更ないな?」

「はい」

「で、今年は新入部員三人と……」

「まだ増えるかもしれませんけど」

「ふーん?」

「これ、備品の数書いておきました」


 翔太は事前に渡されていた用紙を平井に差し出した。平井はそれを受け取ると「おお、お前ら真面目だな」と満足そうに頷いた。


「もー、どこの部もみんな適当に書いてるから去年の調査と照らし合わせんの大変なんだよ」

「はあ」

「みんなお前らみたいに素直にやってくれたらこっちの仕事も楽なんだけど」


 平井はボールペン片手に備品とその数量を照らし合わせて行く。トランペットが2、トロンボーンが2、ホルンが2。ほとんど壊れかけの譜面台も数を確認する。その合間に「このチューナーは記載がないけど?」と抜かりなくチェックする。


「それは大島先生の私物です」

「ふーん。このメトロノームも?」

「これはもともとここにありました」

「ふーん……。なるほど。よし、よし……」


 静かな部室の中で平井が棚の楽器ケースを見ながら書類を確認する作業を翔太は息を詰めて見守っていた。


 不正なことは一切していない。ここにある備品は丹年に調べて嘘偽りなく用紙に記入し、修理やメンテナンスの必要のあるものについても備考として書いておいた。部室の掃除はきれい好きの持田のおかげでかなり行き届いているし、何の咎めを受けることもない。と、思う。少なくとも自分が知る限りでは。


 翔太が何をこんなにも恐れているのかというと、それは、まだ見ぬ田口さんの存在だった。田口さんが部室を倉庫として貸していた以外にも、何かとんでもない事実がほじくり出されてきたらと思うともう気が気ではなかった。せめて田口さんというのがどういう人物か分かっていれば少しは安心できるものを、現時点では不審感しか、ない。


「今日は会長は来ないんですか?」


 斉藤が沈黙に耐えられなくなったのか、わざと明るく尋ねた。


「来るよ。今、他の部の立会に行ってるから、もう来るだろ」


 持田が斉藤の脇腹を「余計なこと言うな」とでも言うように肘で突いた。


「まあ、あいつ来ても別にもうすることないけど。いやー、お前らほんと協力的で助かるわ。記載事項に問題なし……と」


 平井がクリップボードから目をあげた。翔太はほっと息をついた。いや、つこうとして、平井の言葉に逆にぐっと咽喉を詰まらせた。


「いや待て」

「な、なにか……」

「楽器の数が違うな」

「えっ?」


 斉藤と翔太は思わず顔を見合わせた。二人で一つずつ確かめて書いたのだから、間違いのあるはずはなかった。


「去年はアルトサックス1になってるけど、今年ゼロってどういうこと?」


 和やかに微笑んでいた平井の目がみるみるうちに険しくなり、笑いを含んでいた声は刑事ドラマの尋問を思わせるように低く、有無を言わせぬものになって三人にぐいと迫ってきた。


「楽器は消耗品じゃないんだからなくなるわけない。そうだろう」

「は、はあ。でも、確かにここに置いてあるものは全部確認して……」

「なくしたじゃすまないぞ」

「はあ……」


 持田が困惑しきっている翔太の背中を指でちょっと突いた。翔太が振り向くと持田は何か言いたげな目配せをしていて、しかし翔太は持田が何を告げんとしているのか分からずますます困惑して首を傾げて見せるより他なかった。


 その時だった。開け放してあったドアから生徒会長が顔を出し「平井、終ったか?」と声をかけたのは。


 万事休すとはこの事か。翔太は煤けた天井を仰いだ。


 平井は「ちょっと一個だけ、不明な点がある」と答えて言った。


「楽器の数が合わん」

「……どれどれ」


 ドアの傍に立っている会長に、平井はクリップボード片手に寄って行くと「ここ」と問題の個所を示した。


 その隙に持田が素早く翔太の耳に口を寄せた。


「アルトサックスって、田口さんのパートじゃなかったか?」


 翔太は目を大きく見開いて持田の顔を見た。持田がこくりと頷いて見せた。


「それってもしかして……」


 斉藤が声を潜めて何か言おうとしたが、翔太は鋭くそれを「言うな」と制した。


「まずいな」

 持田が呟く。

「どうする」

「どうするって……」


 こそこそやっていると、生徒会長が間に割って入ってきた。


「田口はどうした」

「……来てません」

「アルトサックスはどうした」

「……」


 翔太は黙り込んだ。持っているとしたら田口さんしかいない。でもそれをここで言っていいのか、どうなのか。田口さんを信用できていない以上、迂闊なことは言わない方がいいに決まっているけれど、それでは今の状況をどうやって脱すればいいのか思いつかない。


 翔太が額から冷や汗を噴き出させていると、おもむろに持田が一歩前へ出た。


「修理に出してます」

「なに」

「な? 修理に出してんだよな?」

 持田はそう言いながら翔太の目をじっと見た。

「えっ……」


 持田の目は「とりあえず、黙ってろ」と翔太に言っていた。

「ゼロっていうのは、書き間違いっす」

「……」


 会長がじっと持田を見つめていた。怪しまれているのは明白だった。翔太はごくりと唾を飲み込んだ。


「……じゃあ楽器はあるんだな、ちゃんと」

「あります」

「……」


 会長は何か思案するように少し黙りこみ、それから静かに、しかし口応えなどさせない厳しい雰囲気を声に滲ませて、

「修理はいつ終わる」

 と尋ねた。


「……」

「来週、もう一度監査を実施する」

「えっ」

「不明な点のあるクラブはどこも再検査させてもらってる。ブラバンも例外じゃない。来週、また来る」

「しゅ、修理が終わってないかも……」

「修理に出した預かり票とか伝票があるだろ。それはどこにある?」

「お」

「お?」

「……大島先生が持ってる……」

「じゃあ、大島先生にそれ貰ってくるように」

「……」

「言っとくけど。しょうもない嘘や誤魔化しは俺には通用しないからな」


 翔太は会長の言葉の裏に確固たる意志を感じて、胸が潰れそうな気がした。


 「しょうもない嘘」をついた持田も会長の眼力とでもいうか、その厳しい態度に恐れをなしたのか、小さな声で「はい」と返事をした。


「それから、お前ら一年じゃ分からない事もあるだろうから、来週は田口も必ず来るように言っといて。行くぞ平井」


 会長がくるっとまわれ右をして部室を出て行くと、平井は大きく溜息を吐きだした。


「じゃあ、そういうことだから。また来週な。ほんと、頼むよ。俺の仕事を増やさんでくれよな」


 と、嘆くように言うと会長の後を追って出て行った。


 後に残った三人は一斉に「はああ」と情けない息を漏らしてその場にへたりこんでしまった。


 昨年申告された備品の内容など翔太たちは知る由もない。部室にあるものはきちんと書きだした。だから「あったはずのものがない」なんてことは翔太たちは考えもしなかった。なぜならブラバンは活動していなかったのだから。まさか楽器が一つなくなっているなんて、どうして考えつくことができる?


 翔太は不安な顔で、

「まさか盗まれたとか……」

 と持田にすがるような目を向けた。


「馬鹿言うな。どこに楽器があるかも分からないような部室だったのにどうやって盗む」

「でも、アルトなんかなかったし」

「だからあ」

 持田が苛立った調子で吐き捨てた。

「田口さんだろ」

「……」


 翔太はまだ見ぬ一人きりの先輩が悪い人だとは思いたくなかった。留年しているのだからどんな人か想像できなくもないのだけれど。しかし、わざわざ活動もしていないブラバンに入っていたぐらいなのだから、何らかの、音楽に対する愛情というか思い入れがあるのではないかと勝手に想像していた。


 そんな翔太の気持ちを察したのか、斉藤がおずおずと翔太に述べた。


「田口さんがアルトサックスなら、持ってる可能性大じゃないか」

「……」

「いや、別にそれは盗んだとかいうんじゃなくて、だな」

 と持田は翔太の気持ちを思いやるように付け加えた。


「部員なんだから。自分のパートだし」

「……」

「とにかく」

 持田が割って入った。


「とにかく、田口さんに会わないことには話しにならねえだろ」

「大島は知ってんのかな」

「……聞きに行くしかないわな」


 正直なところ大島を訪ねて図書室に行くのは気が重かった。行けばあの無理やり持ち込んだ運動部の備品たちを片づけろと言われるのは目に見えていたから。三人のため息がシンクロした。


 部室に鍵をかけると三人は重い足取りで図書室へ向かった。生徒会はまだ備品監査の立会にまわっているらしく、数人の生徒会役員がクリップボード片手に校舎の方へ歩いて行くのが見えた。


 その校舎からは軽音楽部のギターやドラムの爆音がこれでもかと言わんばかりに漏れ出していて、そこに下手なボーカルが混ざってちょっとした騒音を作りだしていた。


 下手とはいえこうしてちゃんと公明正大に活動していて、誰もが知るところの存在なのだから、おならの音ばかりさせているブラバンに比べれば百倍ましだ。もちろん廃部の危機なんてものとはまるで無縁だろう。


 今、自分たちのように廃部をチラつかされているクラブはどのぐいらいあるのだろう。平井は確か美術部や写真部の名も挙げていたのではなかっただろうか。


 確かに文化系の部活なんてのは地味で、存在もあやふやだろうけれど、それでもそこに名前があって一人か二人でも部員がいて、ほそぼそと活動しているのだとしたら。そうして、そういうクラブを潰してしまったとしたら。


 この先この学校で「文化」と名のつくものに関心を寄せる少数派の生徒は絶滅することになるだろう。


 確かに絵を描くだの写真を撮るだのは個人的な趣味で、学校でやらなくてもできる。しかし、である。もしちょっとでも「やってみようかな」という気持ちになった奴がいたとしたら。クラブがあればその好奇心を満たすことぐらいはできるし、「きっかけ」を与えることができるのではないだろうか。


 生徒会の政策ももっともな部分はあるが、そうやってすべてを仕分けしてしまったら、この荒れた高校で微かにでも何かをやってみようという生徒のチャンスを永遠に奪うことになるではないか。


 校舎の入口にさしかかると中庭に置かれたベンチにたむろっている一団に視線がいった。が、翔太は彼らから素早く目を逸らした。


 放課後になるとこういう連中をあちこちで見かける。チャイムが鳴るや否やそそくさと帰宅していく連中と、暇そうに校内でだらだら喋っている奴らと。何をするでもなく、時間を潰す奴ら。


 この工業高校から大学に進学する生徒はほとんどいない。予備校や塾に行っている生徒もほとんどいない。大半の生徒が高卒で就職する。


 翔太は急に自分たちの「手持ちの時間」とでもいうか、ただ学生の身分に甘んじて自由にやれる時間というのは、自分が思う以上に短いのだと強く感じた。大人になることを恐れるというのではなく、ブラバンにうつつを抜かしていられるなんて本当に今しかないのだ。守らなければ、この貴重な時間を。


 昼尚暗い校舎を図書室へと階段を上がっていく途中、また意味なくたむろっているグループをいくつか見かけた。トイレの前を通ると隠しようもない煙草の匂い。暗い目をして、何が気に入らないのか不機嫌な顔。


 翔太は彼らのようにはなるまいと思った。それは彼らを蔑む気持ちではなかった。ただ、怖かったのだ。自分たちを置いて飛ぶように過ぎ去っていく時間が。何もしないで漠然と生きているだけの毎日が。だからブラバンがなければならないのだ。情熱を傾けられるものが何か一つでもなければ、とうていこの先の人生を生きて行くことができないような気さえしていた。


 翔太はそんな不安を気取られないよう、そしてたむろっている暇人たちに目をつけられないよう、図書室へと急いだ。


 図書室は今日もひっそりと静まり返っていた。例によってカウンターには常山が座り、翔太たちを見ると「あっ」と小さく声をあげ、慌てて立ち上がりカウンターの端に後退して、身を縮ませた。


 翔太は気さくな調子で、

「ツネちゃん、この前はごめんな。大島になんか言われなかった? 大丈夫だった?」

「……」

「大島、いる?」


 尋ねると、常山は小さく頷き、そうっと人差し指を翔太たちの後方に指し示した。すると、ずらりと並んだ本棚の後から大島が顔を出した。


「お前ら常山いじめてんのか」

「そんなわけないだろ。人聞き悪いな。なあ、ツネちゃん」


 大島は両手に分厚い本を抱えてカウンターの方へやってくると、翔太たちをじろりと睨んだ。


「俺らツネちゃんと同じクラスなんすよ」

 斉藤が言った。

「そうそう、俺の前の席がツネちゃん。な、ツネちゃん」

 呼びかけても常山は返事をしない。ただ困ったように視線を彷徨わせるだけだった。


「それより、先生。ピンチっす」

「それより、じゃねえよ。お前らこの荷物いつどけてくれるんだよ。俺が仕事できないだろ」

「今それどころじゃない」


 持田が一歩前へ出た。大島はカウンターに置いた本をぱらぱらめくり、まるで気のない態度で「ふん」と鼻先で返事した。


「今日、備品監査」

「ああ、終った?」

「終わるどころじゃないっす」

「なんで」

「楽器が足りない」

「は?」


 大島はその言葉に持田の顔をようやくまともに見た。持田はもう一度くっきりと言った。


「楽器がひとつ足りない。生徒会はそれがどこに行ったのかはっきりさせろって言ってる。来週もう一度監査をするって」

「……何が足りないって?」


 持田がちらっと翔太に視線を送った。翔太は答えた。


「アルトサックスです。田口さんのパートの」

「……」

「生徒会は来週は必ず田口さんにも来るようにって」

「……田口……」

 大島は呻くように呟いた。


 この前もそうだったが、この人は田口さんと何か特別な関係でもあるのだろうか。田口さんの名を口にする時、苦悩と困惑の入り混じった物悲しい顔をする。部室が田口さんによって勝手に倉庫と化していた事に対しても怒るよりは悲しみの方が勝っているようだった。


「田口さん、学校来てないんですか」

「……来てる日もあるだろうけど、俺は二年の授業受け持ってないから」

「じゃあ連絡ってつかないんですか」

「田口と?」

「とにかく俺ら会わないことには。だいたい田口さん俺らがブラバン入ったこともまだ知らないんでしょ」

「……」


 島は大きなため息をつき、よろめきながら手近にあった椅子を引き寄せてどさりと腰をおろした。そして机に肘をつき手のひらで額のあたりを押さえながら、暗い声で言った。


「田口なら、ライブに出てる」

「ライブ?!」

 翔太は思わず頓狂な声をあげた。


「バンドやってるからな」

「どこで?」

「……お前らさ」

「はい」

「田口とブラバンやりたい?」

「そりゃあ、まあ」

「……。じゃあさ、それ、本人に直接言ってみな」


 大島は上着の内ポケットに手を差し込むと、財布を取り出し、中から小さく折りたたんだチラシを取り出した。


「ライブハウス、ここ。このチラシあると前売りの値段で入れるから」

「なんでこんなの持ってんの」


 持田が横あいからチラシをさらって、大島とチラシを交互に見ながら尋ねた。


 大島はますます観念したように溜息をこぼした。

「バンドのメンバー、俺の大学ん時の友達」

「ええええっ」

 翔太たちは驚きのあまりのけぞり、三人揃ってチラシを覗き込んだ。


 折り目がついてしわしわになったチラシはモノクロ印刷でパンクな雰囲気とでもいうか、いかにも「ライブ」のチラシですという感じでタイトルと出演者がコラージュで描かれていて、三人は今一度大島の顔に見入った。


 大島は頭を抱えるようにして、

「お前らと田口で話ししてみろ」

「先生、いっこ聞いてもいい」

「なんだ」

「先生、田口さんとも友達なわけ?」

「馬鹿。俺は今は教師だろ」

「……」


 あ、友達なんだ。翔太はそういえば大島がまだ若いことを思い出し、それから、また一つパズルのピースがぱちりと嵌るような気がした。


 何やら落ち込む大島に追い出されるように図書室を出ると、翔太は部室に戻る道すがらチラシをもう一度よく読もうとして「あっ」と声をあげた。


「どうした」

「ライブ……」

「今日じゃん」

「えええええっ」


 持田と斉藤が叫んだ。どうりで大島がチラシなんか持っていたはずだ。


「どうするよ、今日って」

「翔太、どうする」


 翔太は一瞬黙り込んだ。が、すぐに顔をあげると高らかに宣言した。


「今日はもう解散! 各自うちに帰って、着替えて集合!」

「マジで!」

「やっぱそうなるかあ!」


 斉藤と持田の声が静かな廊下にこだまする。翔太は勢いよく駆けだすと、そのまま一気に階段を下りて行った。



 金曜の夜の街はざわついていて、歩きにくい。翔太は斉藤たちと駅で待ち合わせ、目当てのライブハウスへ向かっていた。


 人ごみをすり抜けて線路沿いの道を行く。三人ともジーパンにTシャツといった格好だったが、春とはいえまだ夜の空気は冷たく薄手のパーカーや長袖のシャツを羽織っていた。


 ライブハウスはチラシに書かれた地図を確かめずとも、少し歩けばすぐにそれと知れた。なぜなら、近づくにつれていかにも「バンドやってます」とか「バンギャです」といった雰囲気の人々とすれ違い、いよいよライブハウスの看板が見える頃にはその周辺をライブにやってきた人々がたむろっていたので探すことも迷うこともなかった。


 入口付近にはボロボロに穴のあいたジーパンやラバーソウルを履いた連中が談笑しながら煙草を吸っている。


「田口さんもあんな感じなんかな」

 斉藤が呟いた。

「軽音にもいるよな、こういう感じの人ら」

 持田も言う。

「三年でさ、すんげー目立つ金髪の人いるじゃん」

「ああ、あの人ね。あの人すげーんだよ。食堂にあの金髪が現れるとさ、モーゼが海割るみたいにみんなさーっと左右に分かれるんだよ」

「よっぽど怖いんだな」

「パンク野郎だからだろ」


 二人がそんな事を言い合っている隙に翔太はポケットにいれていたチラシを取り出した。


「なあ、どれが田口さんのバンド?」

「あ、それ聞いてないな」

「なんだよ、もう」

「まあいいじゃん。全部見ればどれかにいるんだろ」


 翔太は入口から漏れている音や人々を観察しながら、今日のライブがパンクよりというか、割と激しい感じのジャンルなんだなと思った。モヒカンや鼻ピアスが目立つし、二の腕に本物かどうかは分からないけれども、タトゥーも見られるところが、特に。そして自分たちを省みると、なんと場違いなことか。


 未成年お断りなんてことはないだろうけれど、翔太たちはここにいる誰よりも垢抜けなくて、子供で、袋菓子の中の乾燥剤のように邪魔で、それでいて無駄に目立つような存在であることだけははっきりしていた。


 入口でチラシを提示してチケットを買い、ドリンクチケットを貰う。受付から奥へ進むと重い扉があり、そこからずしずしと内臓に響いてくるような重低音が漏れ聞こえていた。


 翔太は緊張していた。ここから先は未知の世界だ。


「なにやってんの、早く開けろよ」


 持田は翔太のそんな胸中など知る由もなく、後からせかした。


 翔太は「ふん」と鼻先で返事をすると、思いきって扉を開けた。


 開けた途端、思わずのけぞるほどの爆音がバケツの水をぶっかけるように浴びせかけられた。


 思ったよりも、狭い。それが第一印象だった。正面にステージ。左手にバーカウンター。椅子はもちろん一つもなくて、壁や柱の周りに背の高い小さなテーブルがあるだけで、そのテーブルの周りを観客が群れ、あるいは佇んでいた。


 すでにライブは始まっており、ステージには四人組のバンドがマイクに向かってがなりたてていた。

 客席……といっても席はないのだけれど……には友達なのか、ファンなのか知らないが、ビートに合わせて腕を振ったり踊ったりして「盛り上がって」いて、ライブハウスらしい雰囲気を醸し出していた。


「なんか飲もう」


 斉藤が翔太の耳元で怒鳴った。そうでもしなければ到底誰とも会話することなどできはしない。翔太は俄かに「耳」が心配になった。


 三人はバーカウンターに行くとドリンクチケットでビールを買った。ビールは缶ビール。未成年だろうなどとは言われなかった。というか、店員は客の多様な注文をさばくのに忙しく、翔太たちの顔も見なかった。


 無数に立ち並ぶ酒の瓶を次々取り上げては、グラスに注ぎ、また戻し、また違う瓶を取る。翔太がそのめまぐるしい動きを見守っていると背後から「ビール」という声と共に翔太の肩をかすめてチケットがカウンターに差し出された。


 あ、邪魔だったなと翔太はさっと脇によけた。そして「あっ!」と声をあげると慌てて手にしていたビールを背中にまわした。目の前にいたのは、なんと生徒会長だった。


 会長は目の前の頭ひとつ低いのが翔太だと気づくと、眼鏡の奥の切れ長の目を大きく見開き、まるで信じられないものを見たような顔で「お前らなにやってんだ」と叫んだ。


 会長はビールを手に顎先で壁の隅の方を示すと、先に立ってずんずん突き進んでいった。


 三人は困惑し互いの顔を見合わせたが、ともかく会長の後について行った。


 ステージから離れると爆音はさほどでもなく、翔太は少しほっとした。


 会長は壁を背にしてくるりと向き直ると、翔太たちにもう一度同じことを言った。


「お前ら、なにやってんだ」

「なにって……」

「……よく来んのか」

「いや、そういうわけでは……」


 翔太はしどろもどろになりつつ答えた。なにやってんだとか、よく来るのかとか、それはこっちが聞きたい。あの優等生然とした会長がアマチュアバンドのライブに来てるなんて、意外どころか想像を絶している。


「それにしてもお前ら仲いいんだな、いつも三人一緒で」

「今日は平井さんは?」

「平井はこういうの興味ないから」


 そう言うと会長は手にしていたビールのプルトップを引き抜き、その細い首をのけぞらせてぐいと呷った。


 それは水でも飲むような勢いで、咽喉が隆起するのがはっきりと分かり、見ていて気持ちのいい飲みっぷりだった。


 翔太の視線に気づいたのか、会長が言った。


「……お前らも飲めば?」

「……」

「心配しなくても俺は教師じゃないから学校の外でお前らが何しようと知らないから」


 その言葉にほっとしたように斉藤と持田がビールを開けた。


 そりゃまあ、そうだけど。翔太は会長が自分たちを安心させる為に先にビールを飲んで見せたような気がした。会長の佇まいは自分たちよりも圧倒的にこの場に馴染んでいて、いつも見せている冷静な態度よりも大人びて見えた。


 たぶん、よく来ているのだろう。翔太は会長が来ているTシャツがバンドTシャツであるのを認め、急にやり手で厳しい会長に親しみを覚えた。校内を闊歩する姿や、一分の隙もないような態度も、教師たちさえ一目置くような策略家であることもカモフラージュのような気がした。


「会長はどのバンド見に来たんすか」

「次のやつ」

「次?」

「中学の同級生がいるバンド」

「ふーん……」


 翔太はビールを口に運ぶと先ほどのバンドのステージがちょうど終わっているのに気がついた。ビールはよく冷えていたが、翔太はまだそれを美味いとは思っていなかった。ただ、ビールという苦い飲み物が咽喉を通りすぎて行くのを感じるだけだった。


「会長がライブとか来るなんて意外っすよね」


 斉藤が素直にそう言うと、会長は「別に俺は音楽が嫌いってわけじゃないから」と答えた。


 だったらブラバン潰そうなんて考えないでくれよ。翔太はそう言いかけたが、ここでその話を持ち出しても仕方がないと思い直し、また一口ビールを啜った。


「会長は部活ってなんか入ってんですか」

「俺? 俺は将棋部」

「将棋部なんかあったんすか!」

「部員何人いるんすか!」


 思わず叫んだ斉藤と持田に会長は苦笑いを浮かべた。


「将棋部は今部員が一〇人かな」

「そ、それってもしかして……」

「お前、勘がいいな。そう、生徒会役員のほとんどが将棋部」

「なんか、ずるい……」

「なにがずるい」

「活動してるんですか」

「してるよ。将棋部は毎週土曜に将棋をやる先生と対戦してまわることになってるから」

「なんだそれ!」

「先生まで巻き込んで部活やってるって、そんなのずるい。それ、絶対潰れないじゃん……」

「別に絶対なんてことはないけど。まあ、そう思うんならお前らブラバンも何か活動方法考えたら?」


 職員室を将棋盤を抱えて対局に回るなんて、まるで道場破り。しかも生徒会のほとんどが将棋部なんて。脳裏になぜか「天下り」とか「癒着」という言葉が浮かぶ。


 そこまで話すと会長は、

「あ、ちょっと知り合いが来てるから、俺行くわ。じゃあな」

 と話を切り上げて、さっさと三人から離れて入口の方へ大股に歩いて行ってしまった。


 後に残された三人は半ば呆然としていた。この会長の追及を逃れてブラバンを存続させることなんて、本当に可能なんだろうか?


 会長の背中を見送っていた持田が、

「知りあいって、あれ、女じゃん」

 と、口の端を歪めるようにして呟いた。


 視線を向けると確かに会長がほっそりした美人と談笑している姿が目に入った。


「カノジョかなあ」

 斉藤が羨ましそうにこぼす。 


 ステージではもう次のバンドの準備が出来ていて、客席は俄かに観客が増えたようで、前へ前へと押し寄せつつあった。


「なんだか客増えてない?」

 翔太が言うと、斉藤たちも「ほんと」と頷いた。


「そんな人気あるんだ」

「なんてバンド?」

「えーと……」


 翔太はチラシをごそごそと開いてバンドの名前を確認した。


「これかな。ロケットスター」

「ふーん」

「あ、始まるみたい」


 三人が壁際で頭を寄せ合っているうちに、バンドのメンバーが袖からぞろぞろ出てきてそれぞれの立ち位置にスタンバイし始めていた。


「男前ばっかじゃん」


 持田が翔太の耳元に口を寄せた。もうそうしなければ普通に会話するのも難しくなり始めていた。


 全員揃いの黒いスーツで、年齢はまちまちなようだったが、場慣れした空気というか、貫禄のようなものを漂わせているバンドだった。なるほど、この空気感が人気の証とでも言おうか。翔太は長髪に整った顔立ちのギターや、サングラス姿のベースなどを感心したように見つめていた。


「バンドにしては人数多いなあ」


 さらに持田が言う。翔太も頷いた。頷いて、そして「あっ!」と大きな声を出した。


 続々と現れたメンバーは、それぞれトロンボーンやサックスなどの金管楽器を手にしていて、彼らがステージの左に並ぶと翔太は持田の耳元で怒鳴った。


「田口さんだ!」


 声が大きすぎたのか持田は一瞬顔をしかめたが、すぐに隣にいた斉藤の肩に手をまわしてぐいと引き寄せ、耳元で翔太同様に怒鳴った。


「田口さんがいるって!」


 翔太はまだ会ったことのない、顔も知らないはずの田口がステージでアルトサックスを首からぶらさげているのがその人だと瞬時に分かった。他のメンバーと引き比べて一人だけ若くて、黒いスーツは似合っているけれど、大人っぽすぎて逆に彼の子供の部分を浮き彫りにしていた。


「あの人だよ。絶対そうだよ」

「え、あの、アルトサックスの?」

「そう。絶対そう」

「なんで分かる」

「分んないけど、でも、分かるんだよ。あの人だよ」


 持田と斉藤は顔を見合わせ「ほんとかよ?」と首を傾げあったが、翔太が妙に興奮して言うのを否定することはしなかった。


「前、前の方行こう」


 二人が返事をするより先に翔太は観客の間をすり抜けるようにしてずんずんステージへと近づいて行った。


 近づくほどに翔太は自分の直感を確かなものに感じていた。近くでよく見るとバンドの他のメンバーが大学生や社会人といった感じなのに比べて、アルトサックス一人が少年の顔で、シャープな顎の線や滑らかな頬などに自分たち同様に「未成年」臭さが感じられて、もう、彼こそは絶対に我らがブラバンの先輩「田口さん」だとしか思えなかった。


 翔太はかなり前の方まで来るとステージに向って叫んだ。


「田口さん!」


 しかし、叫ぶと同時に薄暗かった照明がぱっと灯り、ステージが突然眩しいぐらいに明るくなった。そしてまったく唐突に、なんの前触れもなくいきなりドラムのスティックがカウントをとったかと思うと、演奏が始まった。


 それはまるで爆弾を投下したようなものだった。すさまじい音量で頭上から浴びせられたのは「黒い炎」のイントロで、客席は一気に沸点に達し歓声と嬌声で埋め尽くされた。


 ある者は踊りだし、ある者は拳をつきあげ、ある者は飛び跳ね。翔太はもみくちゃにされながらステージを食い入るように見つめていた。


 スピニングホイール、サティスファクション。次々と繰り出される音楽は力が合って、明晰な音で、耳から入って内臓を突き破りそうに激しく翔太を揺さぶった。


 特に注目したのはホーンセクション。粒のそろった音で、リズム感で、熱く激しく奏でられるブラスロック。


 それは「練習している」者の出す音だった。上手いとかプロになれるとか、そういうのは分からないが、練習している者の音というのははっきり分かるのだ。なぜなら練習は裏切らないから。彼らが自信たっぷりにしっかりと演奏する姿。あれは相当練習しているに違いない。でなければあんなに軽々と自由に楽しく演奏などできるはずがないのだ。


 翔太は自分の手が痙攣するようにぴくぴくと動くのを感じていた。無意識のうちに指がトランペットのピストンを押さえる動作をするのは、音楽への、ほとんど飢えるような憧れによるものだった。


 ライブは佳境に入り、男前のギターがメンバー紹介を始めた。気がつくと斉藤と持田が翔太の横にいて、強張った顔でステージを見つめていた。翔太はステージの熱気でうっすらと額に汗をかいていた。


 メンバー紹介はベース、トランペット、トロンボーンと順に始まり通称だかあだ名だか知らないが名前が呼ばれる度にそれぞれが小さなフレーズを弾いてみせ、拍手や歓声やどよめきがいちいち巻き起こった。


 テナーサックス。そしてアルトサックス。

「メンバー最年少! ぐっちゃん!」

 ぐっちゃん!! 翔太は隣の斉藤に「ほら、やっぱり!」とばかりに肩をぶつけた。


 翔太は完全に興奮していた。もう訳が分からなくなるほどに。そして、その興奮のままに華麗なテクニックを披露するアルトサックスぐっちゃんその人に向って大声で、しかも手を振りながら叫んだ。

「田口さーん!!」

 びっくりしたのは斉藤と持田だった。


 知り合いじゃねーだろ! 二人は慌てて翔太を制しようとした。が、ぴょんぴょん飛び跳ねながら田口さんの名前を呼ぶ翔太はとても止められるようなものではなく、ステージの上のバンドの人々も一瞬きょとんとした顔をし、それからおかしそうに笑った。


 客席の人々も翔太を見て笑っていた。恐らく、熱狂的なファンに見えたのだろう。


 変な注目を浴びていたたまれなくなり、とうとう斉藤がその巨体を活かして翔太を羽交絞めにして押さえ込んだ。


「翔太、落ち着け」

「そうだよ、恥ずかしいだろ」

「今、田口さんこっち見たよな? な?」

「あんだけ騒げば見るだろ」

「気づいたよな?」

「たぶんな」


 斉藤にホールドされながらも翔太は嬉しそうに二人に言った。


「出待ち! 出待ちしようぜ!」

 持田は呆れたように、「バンギャか、お前は……」と首を振った。


 そうしている間にもう次の曲は始まっていて、翔太たちを再び爆音と熱狂が取り囲んでいた。ドラムの音が内臓にずしずし響いてくるのは、そのリズムのせいではなくて、翔太の心臓が激しく鼓動しているせいだった。


 ブラスロックとスカのバンド「ロケットスター」のステージが終わると、持田は翔太をライブハウスの外へ連れ出した。


 入口の脇に置かれたベンチには演奏を終えた出演者やその友達や、観客やらがたむろって煙草を吸っている。持田はポケットから煙草を取り出し、口に咥えると慣れた手つきで火をつけた。


 そして深く吸い込み長々と煙を吐き出してから、おもむろに口火を切った。


「翔太、お前、大丈夫か」

「なにが」

「ちょっとテンションあがりすぎじゃねえの」

「なんで」

「だって、お前、ステージに向って田口さんって」

 斉藤もうんうんと頷きながら、

「あれじゃただのイタいファンだ」

「だって気づいてもらわらないと来た意味ないじゃん」

「あんな猛アピールしなくても後で楽屋行くとかすればよかったじゃん」

「……」

「それこそ、待ってればいいわけだし」

「……それは思いつかなかった……」

「だからテンションあがりすぎなんだっつーの」


 冷静に言われて翔太はしゅんとした。

「ごめん。興奮しすぎた」

 持田は無言でそっぽを向いて煙草を吸っていた。

 あんまり素直に謝るから斉藤は急に翔太がかわいそうになり、

「まあ、悪気はないんだからさ。な。もっちーもそんな怒らなくてもいいだろ」

 と、とりなすように言った。


「もっちー言うな。別に怒ってねえよ」


 咥え煙草で二人を一瞥しながら持田はさっきのステージで田口さんが使っていた楽器が自前の物だった場合、会長になんと言えばいいのだろうと内心不安を感じていた。そして、ブラバンが活動できないことになったら。そうしたらこいつはどれだけがっかりするだろう。


 なんとかしないとな。持田は煙草を地面に捨てて靴の踵で踏みにじりながら、そういう風に考える自分がおかしかった。確かにさっきのステージは格好よかった。でも、自分はやったこともないのに楽器なんて本当にできるだろうか。そもそもブラバンに興味なんてないというのに。それなのになんでこんなに一緒になって懸命に奔走してるんだろう。いや、理由は分かってる。翔太だ。こいつの子供みたいに無垢で純粋な情熱に心動かされるのだ。たぶん斉藤もそうだろう。もともと優しくて気のいい奴だから放っておけないんだとしても、自分たちはブラバンではなく「ブラバンを好きな翔太」に惹きつけられているのだ。


「なあ、あれ、田口さんのバンドの人じゃね?」


 斉藤がライブハウスの入口を指差した。見ると確かにそこにはさっきの男前ギターが他のバンドのメンバーと和やかに談笑しているところだった。


「ほんとだ。なあ、あの人に聞いてみようよ」

「翔太、お前の行動力は時々凄まじいな」

「なんで」

「あれ、話しかけれる雰囲気か?」

「だって、じゃあ、いつ聞くんだよ」

「それは……」

「俺、行ってくる」


 ちょっと待てと言う暇など一秒もなかった。次の瞬間にはもう翔太はぱっと彼らに駆け寄っていた。

「翔太っ」

 次に慌てて走り出したのは斉藤だった。これは翔太を心配するあまりの咄嗟の行動だった。出遅れたのは持田だけだった。持田はその場に立って二人の様子を見守っていた。


 男前ギターは片手にビールを持ち、モヒカンの男と何事か話しているところで、駆け寄ってきた翔太を見るとすぐに「あっ、さっきの」と俄かに相好を崩した。


 モヒカンも翔太を振り返ると「ああー、ぐっちゃんのファンじゃん」と笑った。


 あ、よかった。なんか、好意的な感じ? 翔太は自分が変な奴だと思われただろうことは自覚していたので、彼らの好意的な態度に少しほっとした。


「あのう、さっきのライブ、すごいかっこよかったっす」

「ありがとー。なに、君らもしかして高校生?」

「あ、はい。そうです。あの、僕ら、田口さんの後輩で」

「え、なに、そうなの? ああ、それで田口さん?」

 男前ギターはなるほどと頷きビールに口をつけた。

「後輩って、高校の?」

「はい」

「もしかして同じクラスとか?」

「いえ、僕ら一年なんで」

 翔太が言うと男前ギターは驚いた顔で、

「あいつ一年と仲良いのか……」

 と意外そうに呟いた。


「いや、仲良いとかそういうのでは……」

「あー、まあ、先輩だもんな? 君らの学校けっこー上下関係厳しいつーか、あれでしょ? ヤバい奴も多いんでしょ」

「はあ」


 会ったことはないんですけど。斉藤は翔太が馬鹿正直にそう言いそうな気がして、咄嗟に一歩前へ進み出た。


 斉藤の巨体がずいと動くとなんだか空間がぎゅっと歪むようで、その圧迫感というか、体ごとの圧力みたいなのが図らずも奇妙な真剣みを醸し出していた。


 翔太の素直さは素晴らしい長所だと思うが、時々その素直さは「天然」とでも言いたくなるほどで、斉藤はいつの間にか持田と同じように「自分がなんとかしてやらないと」と思わせられていた。


「あの、ちょっと挨拶とかしときたいんですけどもー」

「ああ、呼んできてやろうか」

 そう言ったのはモヒカンだった。

「ぐっちゃんだろ。あんな声援送ってくれたらぐっちゃんも嬉しいんじゃね?」

「いいですか? すみません、ありがとうございます」


 斉藤は実に愛想よく笑顔で、そして丁寧に頭を下げた。そして後方の持田を振り返り「おーい」と手まねきをした。


 男前ギターは、いや、バンドの人々は知っているのだろうか。田口さんがブラバンに入っているということを。活動していない名前だけのクラブだから、知らないかもしれないな。翔太は田口さんにまず何を言えばいいのか、今になって頭の中がごたついて、ただ心臓だけがばくばくと早鐘を打っていて、顔が熱く火照ってくるのを感じていた。


 モヒカンが田口さんを呼びに行って、三分もしないうちだった。


 入口から姿を現した田口さんは翔太たちを見ると「あっ」と声をあげた。男前ギターが「ぐっちゃんのファン」と三人を指差してまたおかしそうに笑った。


 最初に切り出したのは斉藤だった。


「あの、どうもお疲れ様でした。さっきのライブめっちゃかっこよかったです」


 田口さんはちょっと面喰らったような顔をしたが、

「ありがとう。あんまりでかい声で呼ばれるからびっくりしたよ。お前ら、一年なんだって? 何科? 同じ学校のやつが見に来るなんて初めてだよ」

 と、照れたように微笑んだ。


「化学科っす。なんかこいつが興奮しちゃって、すみません」

「いや、盛り上がったよ」


 斉藤が冗談めかして翔太を小突いた。それには突発的な行動に出る翔太を牽制する意味合いもあった。


 しかしそれは翔太ではなく、持田にすべきだった。


 後に立っていた持田は一人だけ冷静な目でまっすぐに田口さんを見つめていて、どうやって本題に入ろうかと思案している二人を差し置き、いきなりずばっと切りこんできた。


「田口さん、俺ら、ブラバンに入ったんです」

「……え……」

「今日のライブも顧問の大島先生に聞いて来ました」

「……」

「ブラバンは俺ら三人と田口さんいれて四人になったんです」


 斉藤と翔太は持田を振り返り、信じられないものを見るように大きく目を見開いていた。というより、実際持田の行動が信じられなかった。持田の言葉に田口さんの表情はみるみる険しくなり、それはあたかも風に押し流されて黒い雲が広がるようで、翔太には遠くに雷鳴が聞こえるような気さえした。


 田口さんはかろうじて平静を保っているようだったが眉間には皺が寄り、低い声で、

「それが俺になんか関係あんの」

 と吐き捨てた。


 やばい。翔太はここで田口さんを怒らせるのはまずいと思い、持田を止めようと口を開きかけた。が、持田は咄嗟に翔太の顔の前にぱっと手のひらを広げてそれを制し、そのままの勢いで、

「今年はちゃんと活動してない部活は廃部になるって知ってますか」

「知らねえよ」

「田口さんにも部活に来て欲しいんです」

「……」

 一瞬田口さんは押し黙って、何か考えているようでもあり、不愉快さを忍んでいるようでもあった。


 傍に立っていた男前ギターが険悪になりつつある空気を察して、助け舟を出すように口を挟んだ。


「大島って、あの大島? 俺、大島と大学のサークルで一緒だったんだよ。あいつブラバンの顧問なの? 知らなかったなあ。そんなこと一言も言ってなかったけど」


 場を和ませるつもりなのかにこやかに語りかけたが、田口さんはむっつりしてなんの反応も示さず、持田も何一つ言葉を返さなかった。


 まるで二人は火花を散らすように睨みあう形になり、翔太と斉藤はすっかりうろたえてしまっておろおろするばかりだった。


 なんとかしてこの場を丸く収めなければ。でも、どうやって? 翔太は田口さんと持田の間に再び割って入ろうとした。しかし、それより先に口を開いたのは田口さんだった。


「お前ら、馬鹿なの?」

「……」

「あの学校でブラバンなんて活動できると思ってんの?」

「……」

「四人でなにができると思ってんの? つーか、活動の場があそこにあると思ってんの? だとしたら、お前らマジで頭おかしいだろ」


 田口さんは明らかに怒っていた。さっきとは打って変わって、口調には苛立ちと不快感と、突然こんな形で現れた翔太たちに対する攻撃的な空気とが入り混じっていた。


 翔太はこれでは到底田口さんに部活に来て貰うなんてことはできないと思った。会長は次の備品監査には田口さんにも来てもらうように言っていたというのに。確かに田口さんが言っていることも無理ないと思う。あの学校に活動の場がないことも、四人でなにをどうすればいいのかも翔太にだって見当もつかない。でも、しかし。


 活動しなければ。何かしなければ、ブラバンは潰されてしまう。今はそれを避ける為にはなんだってやらなければいけないのだ。


 翔太は田口さんに向き直ると真顔で詰め寄った。


「俺らは確かに頭悪いかもしれないけど、真面目に言ってます」

「……」

「それに」

「……」

「なんで決めつけるんすか」

「……」

「何もできないって、なんで決めつけるんすか。なんでやってみもしないで分かるんすか。あんなクソ高校の馬鹿ははじめっからなにやってもダメってことなんですか」

「……」

「俺らが馬鹿なら、田口さんだってそうじゃないんですか」

「翔太!」


 斉藤が慌てて翔太の腕を引っ張った。田口さんが殴りかかってくるのではないかと思ったのだ。持田も緊張のあまり拳を固く握りしめていた。


 気がつくと三人は一つのかたまりとなって田口さんと対峙していた。


 さっきからこの緊迫した事態を見守っていた男前ギターは田口さんの肩に手を置いた。


「まー、そうカリカリすんな。せっかく後輩が誘いに来てくれてんだからさ」

「……」

「ぐっちゃんもちょっとは真面目に学校行かないとまずいだろ」

「……」


 けれど、田口さんはその手を振り払うと無言でくるっと踵を返し、さっさとライブハウスの入口へと歩きだしてしまった。


 決裂だ。翔太は斉藤に掴まれた腕から一気に力が抜け落ちて、その場に崩れてしまいそうな気がした。こんなはずでは。こんなつもりでは。


 困ったような苦笑いを浮かべて男前ギターが「まあ、気にすんなよ」と翔太たちを慰めるように言った。翔太は去っていく田口さんの背中を見ながら、なんとかしてもう一度話をしなければと焦り、でも、なんの言葉も浮かんでこないで冷や汗ばかりが額に滲んでいた。


「田口さん!」


 大声を出したのは、持田だった。あんまり大きな声だから、入口付近にいた誰もがこちらを振り向き、同時に、田口さんを見た。


 田口さんの足が逃げるように早足になる。しかし持田はそれを阻止するようにまた大きな声で叫んだ。


「田口さんのアルトサックス、あれ、自前なんですか!」


 田口さんの背中がぎくりと反応する。


「ブラバンの部室、なんか、倉庫みたいになってんですけど! 運動部の奴らは田口さんに金払ってるって言ってますけど! 俺らはどうしたらいいんですか!」


 田口さんの姿がライブハウスの中へと完全に吸い込まれてしまうと、持田はふんと荒い鼻息を吐き出し「ふざけんなよ……」とぼそっと呟いた。


「もっちー、そんな言い方したら……」

「もっちー言うな。そんなもこんなもねえよ。話しになんないだろうが」

「でも、今の、ヤバいだろ」

「俺らがヤバいんじゃなくて、田口さんがヤバいんだろ」

「……」


 斉藤も溜息をついた。その横で翔太は打ちのめされたように、

「田口さん、もう来てくれないよな……」

 と言った。


「田口さんはもういいよ。それより今は楽器。あれがないと来週の監査は逃れられん」

「……」

「こうなったらもう田口さんの事チクルしかない」

「でも運動部の奴らがなんて言うか……」

「馬鹿、あいつらも同罪だろうが。留年でも退学でもなんでもなればいいんだよ」


 三人の溜息が完全にシンクロした。これは一体、高校入学以来何度目の「絶望」だろうか。


「あのさ」

 落ち込む三人に声をかけたのは、男前ギターだった。

「ちょっと話せるかな」

「……」

「ぐっちゃんのこと」

 そう言うと彼はライブハウスとは逆方向に足を向け、ついて来いと手まねきをした。


 あそこは別世界だ。翔太は改めて思った。田口さんが属する世界。でも、高校生活だって田口さんが属する世界の一つだ。それも辞めてしまうと二度と戻れない世界。


 男前ギターにくっついて向かった先は近くのバーだった。自然な調子でドアを開けると、尻ごみする三人に「大丈夫だから入れよ」と言った。もちろんそんな店に来るのは初めてだった。


 緊張した面持ちですすめられるままにテーブル席に着くと、カウンターにいるマスターがちょっと眉をひそめたような気がした。


 壁にはモノクロの大きな写真が額に入れられてかけてあった。二人の男が煙草の火をつけている写真。有名なものかもしれないが、翔太にはそれが誰なのかも分からなかった。ただどぎまぎしながらビールを頼み、びくびくしながら一口飲んで、目の前の男前が煙草に火をつける様子を窺っているだけだった。


 それは斉藤と持田も同じだった。二人は男前ギターが何を言い出すのか息を凝らして、待っていた。

 三人のそんな空気が伝わったのか、男前ギターは、

「そう固くなるなよ」

 と笑った。


「君ら一年って言ったよな」

「はい」

「ぐっちゃんは……」

「田口さん、ダブってるから二年です」

「うん、知ってる。俺ら一緒にバンドやってもう三年になるから」


 男前ギターは煙草を吸いつけ、何か思案するように眉間に皺を寄せて長々と煙を吐き出した。


 翔太はこの店のビールはさっき飲んだ缶ビールより断然美味いと思い、これが本物の味なんだなと感心していた。


「ぐっちゃん、学校行ってないんだろ」

「……はあ」

「君らにはもともと関係ないことだから、あれなんだけど」

「……」

「ぐっちゃんを学校に戻してやってくれないかな」

「え?」

 翔太は耳を疑った。


「ダブったらやっぱり学校行きづらいと思うんだけどさ、ぐっちゃんの場合それだけが理由じゃないんだよ」

「……」

「大島から何も聞いてない?」

「はあ」

「ぐっちゃんのうち、ちょっと複雑なんだよ。こんな事言うの悪いかもしれないけど、母親って人が男にだらしないタイプでさ。今、ぐっちゃんにはまだちっさい弟がいるんだよ。で、そいつの面倒みてるから……」

「……ちっさいってどのぐらい……」

「何歳だったかな。保育園の年長かな」

「……」

「君らには分かんないかもしれないけどさ。母親、水商売で、毎晩男引っ張りこんで、浴びるように酒飲んでるような家なんだよ。なんていうか、ネグレクト? 的な? で、ぐっちゃんは弟の面倒見て、夜中に年誤魔化してバイトして生活費稼いでさ。そんな生活してたら学校行けないだろ」

「そのせいでダブったんですか」

「まあね」

「学校はそれ知ってんですか。大島とかは」

「大島は知ってるよ。でも、知ってるけど、あいつにどうにかできる問題じゃないじゃん。あいつ、まだぺーぺーの新米教師だろ。それにぐっちゃんが誰にも言うなって言ってたらしいし」

「……」

「このままいくと、ぐっちゃん学校辞めることになるだろ」

「はあ……」

「今どき高校ぐらいは出とかないとさ」

「……」

「あいつ、そんな頭悪くないんだよ。もし、チャンスがあるなら大学だっていけると思う」

「俺らの学校から……ですか」


 翔太がそう言うと、男前ギターはぎろっとこちらを睨んだ。


「君が言ったんじゃなかったっけ?」

「え」

「やってみもしないで、なんで分かるって」

「……」

「俺ら、ぐっちゃんにちゃんと学校行って欲しいんだよ」

「でもそんな事情あるんじゃあ、うっかりしたこと言えないし……」

「誘ってやってよ。もう一回。諦めないで。俺らメンバーもできる限りのことはフォローするつもりだから」

「それは、僕らよりも、そちらで話し合ってもらった方が……」


 男前ギターは煙草を灰皿にぎゅっと押しつけた。まるで翔太たちが異を唱えるのをねじ伏せるように。そして低い声で続けた。


「本当はさ、嬉しかったと思うんだよ。ぐっちゃんも。今、学校に居場所ないだろ。それを一緒にブラバンやろうって誘いに来てくれてさ。今ここで手を離したら、もう二度とぐっちゃんには学校に戻るチャンスない」

「……」

「君らだけがぐっちゃんを普通の高校生に戻してくれる。頼む。この通りだ」


 三人は返す言葉がなかった。想像していたのとまるで違う田口さんの事情になにも言えなくて、こんな子供相手に拝み手なんかされるのが申し訳なくて、逃げだしたいような気持ちだった。


 翔太は話を聞くまで田口さんは頭悪いかサボりすぎで留年した典型的な「ダブり野郎」だと思っていたし、運動部の連中から小銭巻き上げてるろくでなしだと思っていた。


「……分かりました」


 翔太の言葉に斉藤と持田はぎょっとした。二人はブラバンの為に必要だと思うからここまで付き合ってきただけで、そんな面倒なことにまで首を突っ込む気はさらさらなかったのだ。


 この熱血野郎。それが斉藤と持田の心の声だった。そんな安請け合いして、田口さんを学校に戻すなんてことが本当にできるのか。今日の時点であんなに怒らせておいて。


 持田が恨めしそうに翔太を睨んだが、翔太はそんな視線にはまるで気がつかないで、ビールを飲み干すと男前ギターから田口さんの家を聞きだしていた。斉藤にいたってはもう悲壮な顔つきで、ラーメン大盛りヤケ食いしないとやってられないぐらい荒んだ気持ちになっていた。


 そして翔太はというと、頭の中でさっき見ていたライブの演奏が片隅で鳴っていて、やっぱり田口さんと一緒にやりたい気持ちを無視することはできないと思っていた。



 翌週の始め。翔太はいつもより早く家を出た。持田と斉藤はあれからずっと「やめとけ」と言い続けていたけれど、翔太は田口さんを諦めるつもりはなかった。だから一人で男前ギターに教えてもらった田口さんのうちへ向かっていた。


 朝なら弟を保育園に連れて行くから家にいると聞いたし、小さな子供の前ならさしもの田口さんもキレたり暴力をふるったりはしないだろうと踏んだからだった。


 それに、なにより田口さんを学校に連れて行くには「迎えに行く」よりないと思ったのだ。そういう強引な手段に出ないと到底会って貰えないと。


 翔太は教えられた団地へ自転車でやってくると、メモに書いた部屋番号を確かめた。それはライブを見に行った時よりも格段に勇気のいる、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張と恐怖だった。


 自分がどれほど非常識でとんでもないかは理解していた。でも他にどうすればいいというのだろう。翔太は自分が口にした言葉を、図らずも自らを鼓舞するものにしていた。何もできないって、なんで決めつけるんすか。なんでやってみもしないで分かるんすか。胸の中で呟く。


 翔太の学校には母子家庭・父子家庭の生徒が多い。生徒の荒み方と家庭環境が一致する場合も少なくない。実際、翔太のクラスでもすでに問題を起こしそうな奴は親の離婚問題だの、親との関係で揉めたりだのしている。偏見ではない。これはただの統計だ。家庭に問題があってもいい奴はいくらでもいる。ただ、彼らが不貞腐れた心を持て余してしまう傾向にあるというだけなのだ。


 翔太は田口さんもそうなのだろうと想像していた。男前ギターの話だと、弟の食事の面倒を見てやったり、家事をしたりしているらしいし、家計を助けるためにバイトもしているという。そんな人が悪い人間なはずがない。でも、彼にだって心はある。それを音楽で癒しているのだとしたら。やはり「ブラバン」は彼にとって必要ではないだろうか。


 朝の公営団地の中庭には雀のさえずりが聞こえ、勝手に芝生をほじくり返して作った畑や花壇を老人たちのグループが手入れしていた。中庭を横切りながら「中庭及び敷地内を無断で占有することは禁止されています」という立て札に苦笑いが浮かんだ。

 翔太はコンクリのひんやりとした階段をゆっくりと上がって行った。


 部屋番号を確かめるとペンキの剥げかかったドアを見つめ、深呼吸をする。それからインターフォンを押した。


 やけに間延びする音が響く間、翔太は息を殺して室内の様子を窺っていた。


 漏れ聞こえてくるテレビの音、台所の音。話声。

 ばたばたと足音をさせ小さな男の子の声が「はーい」と叫んだかと思うと、いきなり勢いよくドアが開いた。


「誰ですかあ?」


 翔太はドアにぶつかりそうになるのをかろうじてよけると、三和土に裸足で立っている男の子を見下ろして、

「……おはよう。お兄ちゃん、いる?」

 と尋ねた。


 目の大きな可愛い顔をした子で、眉の上ですっぱりと切り揃えた前髪がコケシのようだった。


 今どきこんな髪型の子も珍しいな。昭和感がハンパない。翔太はチビがくるっと背中を向けて室内に向ってまた大きな声で「お兄ちゃん、誰か来たよう!」と叫びながら戻って行くのをじっと見つめていた。


「いいから、お前は早くごはん食べろってば。遅れるだろ」


 弟を叱りながら、テレビの音を背景に出てきた田口さんは玄関に立っている翔太を見るとたちまち絶句した。


 驚くのも無理はない。


「おはようございます」


 翔太はひょこっと首をすくめるように挨拶をした。しかし、驚いたのは翔太も同じだった。田口さんはなんと制服を着ているではないか。


「お前、なんで……」

 田口さんは喘ぐように言った。


「バンドのギターの人に教えて貰いました」

「イチローのやつ、余計なことを……」


 溜息まじりに舌打ちをすると、田口さんはドアノブを掴みドアを閉めようとした。


 が、翔太がそうはさせなかった。体をねじこむように玄関に足を踏み込み、ドアをがっちり押さえて、

「怒ることないじゃないっすか」

「帰れ」

「学校、一緒に行きましょうよ」

「馬鹿か、お前」

「楽器持って」

「ふざけんな」

 田口さんが力ずくでドアを閉めようとするのを翔太も必死で抵抗した。が、田口さんは決して大きな声は出さず、苛立ちを噛み潰すように押し殺した声で「ぶっとばされてえのか、この野郎」と脅し文句を囁いた。


「お兄ちゃん、それ誰?」


 二人の静かな攻防に入ってきたのは、弟だった。

 弟は後ろからちょこちょことやってきて、田口さんの脚に抱きつくようにぴたりとくっついた。


「お前、食べ終わったのか。皿はちゃんと流しに運んだか」

「うん」

「歯磨きは」

「した」

「本当か? 嘘言ってもすぐ分かるんだぞ」

「……」


 田口さんはドアを閉めようとする力を緩めず、弟の顔を覗き込んだ。


 この兄弟、似てないな。翔太は二人の顔を見比べて思った。


「あのねえ、俺ね、お兄ちゃんと同じ学校なんだよ。今日は一緒に学校行こうと思って誘いに来たんだよー」

「……お前っ……」


 田口さんは再び言葉を失った。それと同時にドアを閉めようとする力が抜けた。


 翔太はドアに挟まれる格好から脱すると、制服の胸をぱたぱたとはたいた。そしてじっとこちらを見上げている弟に笑いかけながら言った。


「部活の後輩なんだよ」

「ぶかつ?」

「そう。お兄ちゃん、サックスやってるだろ? あれ、学校で一緒に練習してんの」


 そう言うと弟は急に目を輝かせ、田口さんに向って、

「バンドの人?!」

 と尋ねた。


 田口さんは黙って弟の頭をぐりぐりとかき回し、言葉を探しているようだった。


 だから、翔太が代わりに答えて言った。

「そうだよ。ブラスバンドって言うんだよ」

 田口さんが翔太を睨みつけた。そしてしばし沈黙した後に、観念したように呟いた。


「歯磨きしてこい。早くしないと遅刻する」

 と、弟の背中を押し出した。


 弟は頷くとまた部屋の中へ駆け戻って行った。室内からは絶えずテレビの音が賑やかで、わずかにのぞき見る居間は朝日に溢れていた。


 翔太は玄関に乱雑に散らばった子供の靴や田口さんのエンジニアブーツと共に細い踵のハイヒールが転がっているのに視線を落としていた。


「……あのう」


 謝るべきなのだろう。たぶん。こんなやり方は。翔太は顔をあげた。しかし田口さんはもう怒るというより呆れた顔で、翔太を見つめていた。


「もう出るから、ちょっと待ってろ」


 田口さんはそう言って自分も室内へと戻り、まるで母親のように弟の世話を焼きながら鞄と、楽器ケースを持って出てきた。


 弟は保育園のバッグを斜めにかけ、しゃがみこんで自分の靴を履くと、室内を振り返りながら「いってきまあす」と叫んだ。翔太は前もって聞かされていた田口さんの家庭環境とやらを思い出し、できるだけ中を見ないようにドアから離れた。


 弟はもう廊下を駆け出していて、階段の下り口で踊るように足をじたばたさせていた。翔太は弟の方へ近づいて行くと、

「毎日お兄ちゃんが保育園に送ってくれるの?」

 と尋ねた。


「ううん、バスが来るとこまで」

「あ、そうなんだ」

「でも、時々遅刻するから。そしたら自転車で行く」

「ふうん」

「お兄ちゃん、バンド忙しいから、たまに朝寝坊するんだよ」

「あー、バンドがねえ」


 おしゃべりな性格なのか、尋ねもしないのに弟は無邪気に翔太に色々なことを喋った。その間も落ち着きなく手足をじたばたさせる。


「お兄ちゃんのバンドはー、イチローさんがいっぱい練習しないとダメって言うから。イチローさんがきびしいから」

「イチローさんって、もしかしてギターの人」

「ううん、リーダーの人」


 二人の背後で重いドアが閉まる音がし、田口さんが鍵をかけながら「ギターの人だろ」と訂正した。


「リーダーで、ギターだろ」

「あー、そうだったー」

「ほら、行くぞ」


 田口さんは楽器ケースを片手に、もう片方の手で弟の手をとった。


 翔太は二人が手を繋いで階段を降りて行く後からゆっくりとついて行った。


 弟は楽しそうに兄に話しかけ、兄はすぐに脱線して飛んで行ってしまいそうになる弟を引っ張りながら、どんどん先へと進んでいく。


 翔太は田口さんが想像以上に面倒見がよく、優しいのに驚いていた。ここまでとは思わなかった。確かにこんなにちゃんと弟の世話していれば、自分のことにかまう余裕がないのも無理はない。


 男前ギターは田口さんを学校に戻したいと言っていたけれども、それがこの人にとって、または弟にとって本当に良いことなのだろうか。翔太は不意に自信がなくなってきた。


 家庭のことなんだし、何も知らない自分が介入するなんて、本当にしていいことなんだろうか。学校に来るも来ないも本人の事情あってのことだし。


 そう思う反面、翔太は「チャンス」という言葉が思い出されていた。確かに、学校を辞めてしまうともう高校生活に戻るチャンスはないかもしれない。今こんな風に無理やり学校に引き戻してもまた来なくなるかもしれないし、二度目の留年がない以上次は退学になる。そうしたらますます田口さんの人生は「高校中退」で突き進むだろう。少なくともその可能性が高い。それが何を意味するのか。それぐらいなことは翔太にも想像がつく。翔太はまだ一年だけれど、もうすでに「学歴社会」というものを肌で感じていた。それは周囲の空気がそうさせていたし、この情報化社会の中でさまざまに溢れてくる現実を無視することなどできるはずもなかった。高卒、それも頭悪い部類の方の工業高校を出て就くことのできる就職口がどんなものか。翔太はもう知っていたし、恐らく学校中の生徒の誰もが知っている「事実」だろう。


 でも。しかし。翔太が悶々と悩んでいる間に、保育園児を連れた母親たちが公園の前に集まっているのが見えてきた。


 田口さんは母親たちに「おはようございます」と頭を下げると、弟を押し出し、

「それじゃ、よろしくお願いします」

「はーい。行ってらっしゃい」

 母親の一人が田口さんに手を振った。


 弟はひよこの群れのような子供たちの中に混じると、もうわあわあとお喋りを始めていた。

「まこと、じゃあな」

「うん。行ってらっしゃーい」

「行ってきます」


 兄弟は手を振りあう。どうやら、送って行くのはここまでで、あとは同じ保育園の保護者に見送りは託しているらしい。……自分は学校に行くふりをして。


 田口さんは弟と別れると翔太を無視して大股で歩き、国道をずんずん渡って行く。翔太もそれを追いかける。学校とは方向が違っているのは明白だった。


「田口さん、学校遅れますよ」

「……」

「あの、急に来たのは謝ります。でも、こうしないと会ってくれないだろうから」

「……」

「遅刻しちゃいますよ」

「……」

「田口さん」


 翔太が大きな声で呼びかけると、田口さんは振り向きざまに、

「お前、いい加減にしろよ!」

 と、負けじと怒鳴った。


「お前に関係ないだろうが」

「……関係ないと言えば、ないですけども……」

「家に来るなんて、ありえない。ストーカーかよ」

「……あの、ギターの人にも頼まれて……」

「ああ、そんなこと想像つくわ。余計なお世話なんだよ。俺、学校辞めるつもりだから」

「……」


 そんな風に言われることは覚悟していた。翔太は無言で田口さんを見つめ返した。


「だからブラバンとか俺には関係ないから。お前らが勝手にやればいいだろ」

「……」

「イチローがなんて言ったか知らないけども、お前にはほんと関係ないから。もう二度と来るなよ」

「……」


 突き放すような口調で言い放つと、田口さんは翔太に背中を向けようとした。


「分りました」

 翔太は言った。

「確かに田口さんが学校辞めようと俺には関係ないっす」

「……」

「でも」

「……」

「だったら、辞めるなら、その楽器返して下さい」

「……」


 田口さんの肩のあたりが固く強張るのが見てとれた。


「そのサックス、ブラバンの備品でしょ。それないとマジでブラバン潰されちまう。俺らどうやって生徒会に言い訳すればいいんすか。確かに田口さん辞めるならブラバンなんか関係ないかもしれないけど。でも、俺らだって田口さんがバンドでやるためにサックス必要なんてこと、関係ない」

「……」


 翔太は「返して下さい」と言うと田口さんの手にした楽器ケースに手を伸ばした。


 田口さんは突差にケースを抱えこんだが、翔太は再び負けじとケースにかじりついていった。


「返して下さい」


 翔太は言いながらケースを奪おうとした。


「田口さんはブラバンなんかもうどうでもいいのか知れないけど、俺らは違うから。俺らは……俺は、ブラバンやりたいから。俺、他に何にもできないから。ブラバンやってる時だけが、楽しいから。俺からブラバン取り上げないで下さいっ……」


 最後はもうなんだか泣きそうになっていた。翔太は力いっぱいケースにしがみつき、田口さんに訴えた。


「ライブ、マジで感動したんす。俺、田口さんと一緒にやれたらいいなと思って。斉藤ももっちーも素人だし。田口さんがいてくれたら、あいつらだって嬉しいだろうし。一緒にブラバンやれたらって……。そしたら俺らみんな馬鹿でどうしようもないだけじゃないって思えるかもしれないって……」


 急に田口さんは力を抜いたかと思うと、楽器ケースを翔太の胸に押しつけた。


 翔太はケースを抱きかかえる格好で強く押され、よろめいた。田口さんは憮然とした表情で翔太の顔を見ていた。


「勝手にしろ」


 そう言うと、田口さんは翔太を置いて歩きだしてしまった。


 翔太はケースを抱いたままその場に立ち尽くし、田口さんの背中を見送るより他なかった。


 言うべきことは、言った。そして結果的に目的の一つは果たしたかもしれない。でも、こんな結末を望んでいたとは決して言えない。


 涙が滲んだが、かろうじて堪えて、翔太は振り切るように学校への道を急ぎ足で歩き始めた。



 二度目の立ち入りの日。翔太たちはまた部室を掃除して、地道な基礎練習をしながら生徒会が現れるのを待っていた。


 三人の心は複雑だった。翔太が田口さんから楽器を取り返してきたので生徒会からの追及は免れるし、これでひとまず問題は解決した。が、それによって田口さんから楽器を奪ったことになる。とりわけ、翔太の気持ちは暗く、どんよりと重かった。


 バイトでもしてお金を貯めれば楽器を買うことはできる。中古でも、いい。安く買おうと思えば、探せば見つけられるだろう。しかし、田口さんも含めて自分たちの年齢で稼げる額はたかが知れているし、貯めるといっても対して貯まらないだろう。もちろん不可能ではないのだけれど、それでは楽器を手に入れるまでの間、田口さんはどうするのだろう。練習は? バンドは?


 ステージの田口さんは輝いていた。弟の面倒を見ている田口さんは優しかったが、顔には微かに陰りがあった。疲れというより、何か暗いものが。


 母親がどんな人だか知らないが、田口さんが小さな弟の世話をしているぐらいだから問題がないわけではないだろう。そして、田口さんもそのことを完全に良しとしているわけではないのが表情から窺えた。本当ならちゃんと学校に来て、進級して、普通の高校生活を送っていたはずなのに。


 辞めるつもりだと田口さんは言ったけれど、本気なのだろうか。辞めて、それからどうするのだろう。


 翔太は考えても詮無いことで胸が塞がれる思いがした。その分だけ音階やロングトーンの練習は長く続いた。休憩もしないで、ひたすらずっと。無心になるように。


 斉藤と持田は翔太の様子がおかしいことに気づいてはいたけれども、何も言いだすことができず、ひたすら楽器を吹いた。


 大島も今日は顔を出すとは言っていたけれど、田口さんのことをなんと説明すればいいのかは分からなかった。楽器を取り上げたこと、本人が学校を辞めると言っていること。もしかしたら友達だとかいうバンドの人たちから聞いて知っているかもしれない。翔太は大島が自分たちに向って何か言うのだろうかと不安と期待の入り混じった気持ちになりもした。


 生徒会が二度目の監査が必要と判断したクラブを順番にまわり、満を持してブラバンにやってきた時にはもう部活終了の時刻近かった。


 平井がノックすると同時に返事も待たずに「よー、練習してるかー」と言いながら、勢いよくドアを開けた。


 持田が翔太を落ち着かせるかのように肩に手を置き、小さく頷いた。


 楽器は揃っているのだから問題はないはずだった。田口さんが使っていた楽器ケースにはバンドのロゴ入りステッカーなどがべたべた貼られていたが、そのぐらいなことは大目に見てもらえるだろうと踏んでいた。要は備品が揃っていて、不正や不審なことがなければいいのだから。


 平井が机に置かれたメトロノームやチューナーを興味深く見ているところへ、続いて生徒会長が現れた。


 翔太は会長とライブハウスで会ったことが思い出され、わざと明るく親しげに話しかけた。


「あっ、会長。先週はどうもー。あれからずっとライブ見てたんですか?」


 しかし、会長は翔太の言葉を聞くや、ちょっと眉をくもらせ、

「別にお前らには関係ないことだろ」

 と冷たく言ってのけた。それはまるで翔太のくだらない思惑を払いのけるような一撃だった。


 無論、翔太にしてみればブラバン存続ピンチの際には会長を脅すネタとしてライブハウスで会ったことを持ち出すぐらいな気持ちがないでもないのだけれど、会長はそんなことお見通しで歯牙にもかけない様子だった。


 斉藤が翔太の肘をとって後ろに下がらせると、代わりに持田が前へ進み出た。


「あの、この前なかった楽器なんですけど」

「ふん」

「修理から戻ってきたんで」

「ああ、そう。じゃ、それ出して。平井、確認して」


 会長が平井に指示すると、平井は「おお」と返事をして小脇に抱えていたクリップボードを見ながら胸ポケットのペンを抜いた。


「今日、大島はまだ来てないの?」

「はあ」

「大島は相変わらずやる気がないねえ」


 平井が笑いながらクリップボードに何事か書き込んでいく。


「はいはい、楽器ね。これね。えーと、アルトサックス……と。なに、このステッカー。前から貼ってあった?」

「はあ」


 膝をついてケースの蓋を開ける。平井は中を改めながら、呑気な口調で「よしよし、オッケー。いいんじゃないの。これで備品全部揃ってるな。問題なし……と」と呟いてから、「な、いいよな?」と生徒会長を見やった。


 会長は部室の棚を検分しているらしく、腕組みをして難しい顔をしていた。


 翔太たちは固唾を飲んで会長の一挙手一投足を見守っていた。


「田口は?」

「えっ……」

「田口に必ず来るようにって言ってあったはずだけど」

「あっ……はあ、それは……」


 持田がしどろもどろになりながら翔太を振り向いた。


「あの、今日は学校来てないみたいで」

「……ふーん……。田口に聞きたいことあったんだけどな」

「なんでしょうか……」

「田口が部室を倉庫として運動部に貸してるって噂聞いたんだけど」


 会長が三人の顔をぐるりと見渡した。三人は飛び上がるほど驚き、慌てふためき、斉藤などは一気に噴き出た冷や汗で顔がびしょ濡れになっているほどだった。


「し、知りません。そんなこと。倉庫ってなんですか。俺らここで練習してるし……」

「だよな。変な噂だよな。しかも田口が金取ってるなんてさ」

「……」


 翔太は笑っている会長の言葉から、はっきりと悟った。この人は全部知っているのだ。知っていて、言っている。


「田口さんはそんな人じゃありませんよ。ひどい噂っすね。誰がそんなこと言ってるんですか」

「まあ、噂なんて無責任なもんだよ」

「大島先生だって田口さんがそんなことしてないのは証明してくれますよ」

「ああ、大島といえばさ。大島はお前らの練習ちゃんと見てくれてんの」

「……」

「あのさ。監査の後は年間の活動予定を提出することになってるんだけど、大島はなんか言ってた?」

「……いいえ、まだ何も聞いてないです……」

「ふーん。部員三人? 四人? で、なにするつもり?」

「……」


 なにするつもりもなにも、三人でなにができるのかこっちが聞きたい。翔太は完全に追い詰められた気持ちで、返す言葉がなかった。


 最初に会長にライブハウスのことを持ち出したのが悪かったのか。翔太は余計なこと言わなければよかったと後悔していた。


 翔太たちが挙動不審になっておどおどびくびくするのを見かねたのか、助け舟を出したのは平井だった。


「田口のことまでこいつらに言ってもしょうがないだろ。さー、もう、監査は問題ないから終わろうぜ」

「……」

「活動予定は大島と相談して提出すればいいから。な」

「……はい」

「田口が来たら、一応生徒会に顔出すように言ってくれればそれでいいから。お前らまだ一年でなんも分かんないもんな?」

「はあ……」


 翔太はすっかり意気消沈して小さく返事を返した。


 その時だった。開け放してあったドアから射しこんでいた夕陽が急に陰ったかと思うと、

「俺が、なんだって?」

 と、制服姿の田口さんが入口に立っていた。


「あっ!」

 翔太は思わず叫んだ。


「今、俺の噂してなかった?」


 言いながら田口さんは部室に入ってくると「おおー、平井。久しぶりー」と平井の肩を叩きながら、実に親しい様子で話しかけた。


「田口、お前なあ、ちゃんと学校来いよなー」

「分ってるよ」


 田口さんはすっかり様変わりした部室に一瞬面喰ったようだったけれど、翔太たちを見るとふっと鼻先で笑った。


「田口さん……」


 信じられない。夕日を背負って現れた田口さんはまるでヒーローみたいで、翔太は感動のあまり泣きそうになるのを必死でこらえていた。


「田口さん、靴、靴!」


 持田が土足で部室に入ろうとする田口さんの足もとを指差して叫んだ。


「あ、ここ土禁? なんだよ、早く言えよ」

「みんな靴脱いでるじゃないっすか」


 入口付近に脱ぎ捨ててある靴を省みると田口さんは「ははは」と笑って、履いていた靴を脱ぎにかかった。田口さんは制服だというのにエンジニアブーツを履いていた。


「それで、俺がどうしたって? 会長」

「……お前が部室を運動部の倉庫にして金とってるって話しあるけど、本当か?」

「はあ? なんで俺がそんなことを?」

「そういう噂が耳に入ってる」

「単なる噂だろ」


 田口さんはブーツを脱ぎすてると、会長に真っ向対峙する姿勢でしれっと続けた。


「倉庫って言うけど、何もないじゃん」

「そうみたいだな」

「そういう濡れ衣着せんのやめてくれよな」

「……。それじゃあ、監査はこれで終わりにする。活動予定は来週提出。クラブへの部費は職員会議で審査されてから支給されるから。生徒会の仕事もここまでだ」

「ご苦労さん」


 田口さんの好戦的な口調にも顔色ひとつ変えないで、会長は淡々と今後の予定を告げた。田口さんは小馬鹿にするように鼻先で笑い「じゃあな」とまるで追い出すように言った。


 会長は何か言いかけて、しかし、黙って部室を出て行った。翔太は二人の間に何やらピリッとした静電気のようなものが走るのを感じていた。


「田口、またなー」


 平井も出て行く。田口さんは振り返らずに「おー」と軽く返事しただけだった。


 考えてみたら、彼らは元々は同級生だったのだ。翔太は今頃になってそのことにはたと心づいた。そして、とりわけ会長との間には何らかの確執があるらしいことも。


 平井とは隔たりのない口をきくのに対して、会長には妙な緊張感があるのは、会長のキャラクターのせいではないらしい。そして会長もまた田口さんに対してはいやに構えた態度をとる。二人の間には、何かある。それが何かはまったく分からないけれども。


 しかし、今はそんなことより田口さんがここにいるということ。翔太にはそれが無上の喜びだった。


「田口さん、来てくれたんすね」

「……」

「……練習」

「は?」

「楽器ないと練習できないからな」

「あ、バンドの……」


 翔太はちょっと拍子抜けしたが、でも、持前の明るさですぐに気を取り直して椅子を引きずって来ると、

「とりあえず、ここ、座ってください」

 と、うきうきした調子で自分の隣を示した。


「……」

「大島ももう来ると思うし。それまで基礎をやっておくことにしてるんで」

「……」

「田口さんが来てくれたらもうブラバンは安泰っすよ。これでまともに演奏できます。よかったよかった。もー、俺らだけだと音楽以前の問題だったし」


 翔太一人が浮かれて弾んでいるのを斉藤と持田はまだ心配そうに見守っていた。と同時に、田口さんに対してどう接していいのか分からず、戸惑ってもいた。だいたいこの人が本当に部活に参加してくれるのかどうかもまだ疑っていて、もし「やっぱりやめる」とか言いだされたら……と思うと、まだ心から安心することはできなかった。


 持田は翔太が人を簡単に信じすぎることに飽きれると共に、と同時にその純粋さが眩しいような気がしていた。


 子犬が尻尾を振るみたいに田口さんの周りをうろうろしている姿は微笑ましくさえあった。


 田口さんはしばらく無言でその様子を見つめていたが、翔太が「さっ、チューニングしましょう」と言うと、ぷっと吹き出した。


 可笑しかったのでは、ない。いや、確かにこの単純さがおかしいと言えば、おかしいが。それ以上に自分が再び学校に戻ってきたこと、それがちっとも嫌な感じではなくて、自然で、認めたくはないけれど嬉しいと感じていた。


 留年したのは遅刻と欠席が多かったことが原因だが、それだって弟の面倒をみたり、水商売の母親と罵りあったりしていたからで、決して学校に来たくないとかいうわけではなかった。いや、どちらかというと家から離れていられるので学校は好きだった。しかし留年すると当たり前だが一つ下の連中に突然なじめるわけもなく、友達もいないし、学校に居場所はないものと思えた。一度サボりだすと歯止めが利かなくなる。サボればサボるほど、学校へは足が遠のく。それじゃあマズいのは分かっていても気が乗らなくて、次第に面倒になっていっていた。

 たぶん、このまま辞めるんだろうな。そう思っていた。それでも、よかったのだ。もう何もやる気が起きなかったし、辞めてバイトでもすればいいと考えていた。無論、将来のこと、夢や希望については一切思い浮かばなかった。ただ見えているのは暗く、混沌とした生活だけ。


 そこへ突然現れた暑苦しい一年生。腹の底からふつふつと湧いてくる笑いが、自然と口から漏れ出る。


 翔太はきょとんとした顔で「田口さん?」と笑っている田口さんの顔を覗き込んだ。


「お前さあ」

「はい」

「お前は、本当に馬鹿だな」

「えっ」


 翔太は田口さんが自分の何を笑っているのか見当もつかなかった。けれど、くつくつと笑いながら椅子に腰掛け、楽器を取り出す田口さんを見ていた斉藤と持田にはその理由が分かるような気がした。


 翔太は田口さんが戻ってきたことを奇跡のように思っていたが、斉藤と持田、そして田口自身も翔太の力だと分かっていた。


「田口?」


 入口で声がした。大島が驚きのあまり頓狂な声を出して突っ立っていた。


 田口さんは笑いながら、

「なにやってんだよ、練習始ってんだろ」

「……」

 大島は信じられないといった顔で田口さんを見つめ、それから翔太を見た。


 大島も、皆と同じことを感じていた。が、翔太だけはブラバン復活の「奇跡」に、神様に感謝したいような気持ちでいっぱいだった。



 ブラバンは田口さんの復活のおかげで劇的に変わり始めていた。


 田口さんは簡単な練習曲を用意してきて、楽譜を配り、初心者の持田と斉藤の為にまず譜読みを教えてくれた。持田と斉藤もぶーぶーおならの音ばかり鳴らす基礎練習から一歩進めることに安堵と喜びを感じ、素直に楽譜にドレミを書き込んだ。


 そして揃って基礎をさらい、田口さんの陣頭指揮で練習曲を少しずつ進めていく。ブラバンというものが形になりつつあった。


 そうなってくると周囲の目も変わり始めていた。

 この学校にブラバンがあるということ。それが他の生徒たちにも少しずつ知られ始めていた。


 放課後に音を鳴らすのはもはや軽音楽部だけではない。まだろくに音楽になってはいないが、四人が鳴らせば四人分の音がする。それは放課後の静まり返る校内に高く響く。


 そして運動部の連中はもとより、ただたむろっていただけの連中までもがクラブハウスの窓を見上げるようになっていた。即ち、ブラバンの部室を。


 翔太たちがそれを特に感じたのは、クラスの連中の反応からだった。


 同じクラスの立原が翔太たちに、

「お前ら、もしかしてブラバン入ってんの?」

 と聞いた時、翔太はなんだか誇らしいような気持ちになり、

「まあな」

 と答えた。


「マジかー。ブラバンって本当にあるんだな」

「あるよ。なに言ってんの。俺ら毎日練習してるんだから。な、もっちー」

「もっちー言うな」


 肩を組もうと腕を伸ばす翔太を持田はめんどくさそうに振り払った。斉藤は二時間目が終わったばかりだというのにもう弁当をわしわし食べていて、

「立原、野球部だっけ」

「まあね」

「野球部ってやたら人数いるけど、なに、強いの?」

「お前、それ聞くか? 強いわけないじゃん」

「弱いのに部員いっぱいいるってすごくね? そんなに人気あんの」

「えー。俺はやっぱ野球好きだしさあ。そういう奴も多いんじゃねえの?」

「ふーん」

「俺らは日曜に試合とか結構あるけど、お前らって毎日ぶーぶー練習してるだけ? ライブとか、そういうのないの?」

「ブラバンにライブはないだろ」

「だよなー。じゃあ、ブラバンって何のためにやってんの」

「そりゃあ、お前……、翔太? なあ、なんでだっけ?」


 聞かれた斉藤は急に不安になりでもしたのか、言葉が浮かばなかったのか箸を握ったまま翔太を省みた。


「……好きだから、だろ」


 翔太は答えた。それ以外に答えがなかった。少なくとも自分はそうだ。が、ふと考えてみたら斉藤と持田は初めからブラバンが好きだったわけではない。自分につきあって入部したに過ぎない。やってみようと思いはしたかもしれないが、好きかどうかと問われるとまだその域に達してはいないだろう。


 ただ毎日ぶーぶー練習しているだけ? 確かにそれはそうだ。そもそもブラバンなんてひたすら練習するだけのものだから。人はそれを積み重ねと呼ぶだろう。


 しかし積み重ねる先に目的や目標がなければ、積み重ね続けることなどできるだろうか。


 田口さんはいい。あの人にはバンドがあるし、好きでやっていることには間違いない。ライブもあるから、それこそ田口さんにとって部活なんてのはスタジオ借りなくてもタダで練習する場があるに過ぎないかもしれない。目的も目標も、ある。


 翔太はこのままではまずいような気がして、立原が引き続き持田と斉藤を相手に野球の話などしているのから離れて、席を立った。


 そして何の気なしに廊下を出て中庭を見下ろす窓にもたれた。学生服の群れはそろそろ夏の装いを前にして学ランと白シャツのオセロの駒をばら撒いたような様相に変わっており、どんな時でも目立つ軽音楽部の金髪や改造征服のヤンキー、漫画研究会のデブ眼鏡など個性的な面々が相変わらずといった風情でそこに混じっていた。翔太はこの学校の特徴はこの「生物の多様性」とでも言いたくなるような、毛色の変わった生徒たちがそれぞれのグループを確立して、存在することだと思った。


 入学しておよそ二カ月。専門科目にも少し慣れ、実習やレポートもどうにかこなせるようになりつつある中で、もうすでに単位のあやしい奴や、遅刻欠席エスケープの目立つ生徒が浮上していた。


 やはり入学当初から問題の多そうなワルっぽい奴らはサボり気味だし、各科の間で派閥というか、まあ、血気盛んな連中は徒党を組んで睨みあったりもしていて、この学校生活というものが自分に関係なくとも形作られていくのを感じる。


 翔太はブラバンに入り斉藤たちとツルんでいるのでいたって平和に過ごしているが、同じクラスの石井などは何度指導室送りになっても一向に改めない茶髪で、肩で風を切り、真っ向から反抗的な態度をとって、それはそれで型に嵌っているとは思うが、所謂「不良少年」として闊歩していた。


 その石井は数人のグループで、普段は子供っぽく授業を妨害してみたり、ふざけたりするだけだったが近頃それに飽きてきたのか、より一層の刺激を求めるのか、おとなしそうな奴を狙ってはからかってみたり、ふざけ半分に絡んだりするようになっていた。


 今も、石井たちはトイレから連れだって出てきて、あからさまに煙草の匂いをさせながら廊下をやってくる。


 翔太は視線をそらし、ブラバンの活動計画を提出するんだったなあとぼんやり考えていた。


 その時だった。石井たちが翔太の背後を通り、教室のドアを乱暴に開けて大声で叫んだのは。


「おい、ツネ!」

 翔太は驚いて振り向いた。


 石井の声は明らかに攻撃性を持って常山を名指していた。翔太は嫌な予感でいっぱいになり、石井たちの後から教室へ入った。


 呼ばれた常山は体を小さく縮こまらせ、固く緊張して俯いていた。机の上に文庫本を広げて。思えばこの教室で本など読んでいるのは常山一人だけだった。


 石井は仲間たちと常山の机に歩み寄ると、薄ら笑いを浮かべながら、

「ツネ、なに読んでんの?」

 と文庫本を取り上げた。


 斉藤と持田は突然自分たちの席の目の前で始まった不穏な動きに驚き、じっと様子を見守っていた。


「ツネもさあ、本ばっか読んでないでみんなと喋ったりとかすりゃいいのに」

「……」

「やっぱ自分は頭いいから人とは違うとか思ってんの?」

「……」


 なんだそれ。翔太は石井がまったくの難癖をつけているのに呆れていた。誰に迷惑かけてるわけでもないのに、常山が誰とも口をきかないとか、本ばかり読んでるなんてことお前に関係ないだろう。それともなにか? 常山が頭がいいことを妬んでいるのか? いや、違う。石井が自分よりも弱い奴を選んで意地の悪いことをしようとしているだけだ。こういう奴はどこにだっている。


 ようするに、暇なんだよな。何かしたいことがあるわけでもなし、学校も来たくて来てるわけじゃなし、将来に対して夢も希望もなく、ただ漠然と日々を過ごしていて、エネルギーがあまってるのを消化できなくてもやもやしている。だから他人に当たり散らす。ガキなんだよな。その上、自分より弱いものを標的にするあたりが卑怯極まりない。俺はこういう奴が大嫌いだ。翔太は憮然とした表情で石井の背中と小さくなっている常山を見つめていた。


 石井が腕を大きく振りかぶったかと思うと、常山の文庫本を教室の後ろの壁に思いきり投げた。本はびしゃっと音を立てて掲示板にぶつかって落ちた。一瞬、教室がしんと静まりかえった。


「なんか言えよ、ツネ」

「……」

「なに無視してんだよ」


 石井が常山の肩をどんと突いた。それを見た瞬間、翔太は石井の肩を後ろからぐいと掴んだ。


 石井はいきなり肩を勢いよく掴まれたせいで後によろけそうになり、

「なにすんだよ!」

 と振り向きざまに手を振りほどき怒鳴った。


「なんの話してんの?」

「なんだよ、急に!」


 石井は相手が翔太と分かるとちょっと拍子抜けした顔をしたが、振り向いた時のままの勢いで大きな声を出した。翔太は石井など怖くはなかった。


 斉藤と持田は「ああ、また」と思っていた。また熱血野郎がしゃしゃり出た、と。でも二人は驚きはしていなかった。翔太の唐突な勇気と行動力はもう十分知っていた。


「石井も本読むんだ?」

「なんで俺が」

「いやー、ツネちゃんと喋ってるから、本かなんかの話かなと思って」

「はあ? 別に本なんか読まねえよ。ツネが誰とも喋んないから、俺らのこと見下してんのかなと思ってよ」

「え? そう? 俺はさあ、ツネちゃん真剣に本読んでるから邪魔したら悪いなと思ってたよ。な、ツネちゃん?」

「……」


 翔太は真っ青になっている常山の背中にそっと右手を置いた。


 斉藤が無言で立ちあがり、教室の後ろに歩いて行くと石井が投げた本を拾って戻ってきた。


 持田が本のタイトルに視線を走らせ、

「へー、ツネちゃんは内田百閒とか好きなんだ? 文学趣味なんだな」

 と感心したように言った。


 石井は翔太と持田、斉藤の三人をきっと睨んだ。弱者を攻撃する者は、だからこそ攻撃される立場になることを恐れる。


「なにが言いたいんだよ」


 石井が翔太との距離をぐっと詰めて、下から掬いあげるように睨んだ。


「別に。石井も本読みたいならツネちゃんに聞けばいいんじゃね? ツネちゃん、図書委員だし色々教えてくれるんじゃないの」

「お前、ふざけんてんのか……」


 石井がイライラしながら、奥歯を噛みしめるように吐き捨て、翔太の胸に触れんばかりに詰め寄った。が、それと同時にチャイムが鳴った。


 腰を浮かせかけていた持田は安堵のため息をつき、

「次、科長の授業だろ。翔太、宿題やってあんの」

「まあね。ばっちりだよ」

 翔太は石井の視線も体もするっと避けて自分の席にすとんと腰をおろした。


「でも間違ってるかもしれない。なあ、ツネちゃん、宿題やってきた? ちょっと答え合ってるか見てくんない?」


 斉藤から受け取った文庫本を机にしまい教科書を取り出している常山に翔太は自分のノートを差し出した。


「藤井、お前喧嘩売ってんのか」


 石井が小声ではあるがドスの利いた声音で呟いた。


「おい、科長もう来たぞ」


 石井のグループの一人が声をかけたのを潮に、石井は忌々しげに翔太たちを睨んで自分の席へと戻って行った。


 猛烈に厳しい科長が廊下をやってくる気配は、その静けさで知ることができる。


 ノートをぱらぱらめくっていた常山が翔太を振り向いた。そしてノートを返して寄こしながら言った。


「……間違ってる……」

「ええっ」


 どこが……と尋ねる前に、科長が教室のドアを開け、日直が「起立」の号令をかけた。


 翔太は立ち上がり心に決めた。常山をブラバンに入れよう、と。



 翌日すぐに、常山が誰とも口をきかないのは昨日今日のことではないことを、翔太は常山と同じ中学出身の奴から聞き出した。


 放課後、翔太は常山が鞄を抱えて逃げるように教室を出て行くのを見送り、同じ中学だったという山田をつかまえていろいろと尋ねたところ、翔太が想像していた通り常山は中学時代もずいぶんいじめられていたことが判明した。


 山田の話は次のようなものだった。


「ツネさあ、もともとおとなしいじゃん。それでも中学ん時はまだ似たような奴と一緒にいて、友達もいたんだけどさ。何がきっかけかっていうと、まあ、あれかな、ツネと一番仲良かった奴が事故で死んだんだよ。そんで、ツネちょっと学校来てない時期あって。うーん、一学期まるまるぐらい? ほんと、あいつ学校全然来なくなったんだよ。そりゃショックもあるだろうし、ほら、ツネっていっつも本読んでてさ、頭もいいじゃん。こういうのなんて言うんだっけ? 繊細? そんな感じ。そんで先生とかの説得もあったのか知らんけど、久々に学校来たらいきなり始まった……みたいな。そっからかな。友達? いないだろ。その、死んだ奴一人だけじゃないの? 教科書隠されたり、体操服水びたしとかもうしょっちゅうだよ。ボコにされたりもあったみたいだな。だからさあ、中三なんてあいつほとんど学校来てないよ。もう完全引きこもり。不登校。だからだろ、こんな高校来てんの。あとさ、これはたぶん想像なんだけど、俺らの中学からここ遠いじゃん? ツネ、地元から離れたかったんだと思うんだよね。中学ん時の奴と離れたいっていうか。あんないじめとかなかったらツネもっと進学校とか行ってるはずだったと思うよ。そう考えたらかわいそうだよな。しかし、石井もなんなんだろうな、あれ。ツネいじめてもしょうがないじゃん。しょうもないよな」


 山田の話を聞けば聞くほど、翔太はやりきれない気持になっていた。


 ずっと一人だったのだ。過去から逃れたくて自分の殻に閉じこもって身を守ろうとして、それで今も一人でいるのだ。そんな悲しいことってあるだろうか。


 そっとしておいてやれば本人は平穏で幸せかもしれない。なのにそれをぶち壊そうとする奴がいる。自ら戦える奴なら、いい。でも、常山は違う。言い返すこともできず、無言で青くなって震えているだけだ。


 翔太はそれを「弱さ」だとは思いたくなかった。誰だって「性格」というものがある。争いたくない、おとなしい性質。常山がそれだ。もし弱さがあるとしても、それが攻撃される理由になるなんてことは絶対にない。


 かといって翔太は自分が常山を守ってやるなんてことは、到底できないような気がした。今日のようにかばうことはできても、守るなんて大仰なこと一体なにをどうすればいいのか見当もつかない。どうすることが常山を守ることになるのかも。だから翔太は常山をブラバンにいれようと考えたのだった。

 翔太は部活へ行く前に図書室へ足を向けた。図書委員は各学年各クラスにいるはずなのに、そこにいるのは常山だけだった。


 たぶん常山はそれを苦痛には感じていないだろう。むしろその静けさに安堵しているだろう。それが常山の望む生活ならそれでいいと思う。でもこれから先、三年間誰ともろくに口をきかないでやっていくのがいいことだとは思えなかった。


 図書室の引き戸を開けると常山はさっと顔をあげた。そして翔太の姿を認めると「あ」という形に口を開けて、言葉を探しているようだった。


「ツネちゃん、俺も本借りたいんだけど」

「……え……」

「えーとね、俺でも読めそうななんかお勧めとかあると教えてくんないかな」

「……お勧め……」


 翔太がカウンターの前まで来ると常山はちょっと思案して、それから立ち上がりカウンターの中から出てきた。


 目の前に立っている常山は本当に痩せている。首など特に白くて細くて、儚いような危うさがある。こんな奴をいじめようってんだから、ひどい話だ。翔太はそう思った。


 常山はちょっと無言で考え込んでいたかと思うと、すうっと本棚の方へ歩いて行き、一冊取り出してはぱらっと捲り、棚に戻し、また別な本を取ってはぱらっと捲って中身を改め始めた。


 翔太はカウンターの前に立ったままその様子を見守っていた。するとしばらくして常山が顔をこちらに向け、細い手で手招きをした。


 翔太が隣りに行くと常山は棚から本を抜き出して、

「これ……」

 と差し出した。


 翔太は本を受け取るとタイトルを読んだ。楽隊のうさぎ。

「……ブラバンの話だから……」

「へえ! そうなんだ! ブラバンの小説なんてあんのかあ。俺、考えたこともなかったよ。ははははは」

「……藤井くん」

「ん?」

「……ブラバンできるようになってよかったね……」

 常山はそう言ってはにかむようにちょっと笑った。


 その顔を見た瞬間、翔太は胸を衝かれた。こいつは誰とも口ききたくないんじゃない。一人でいたいんじゃない。どうしていいのか分からないだけなんだ。


 翔太はなんだか泣きたいような気持ちになり、

「うん、ありがと。田口先輩も来てくれるようになったし、なんとか練習できてるよ」

「……大島先生も褒めてたから……」

「大島が?」

「藤井くんが頑張ってくれてるって……」

「マジで。なんだよー、大島のやつ部室では結構俺のことボロクソ言ってんのに。あいつひどいんだよ。俺のこと熱血野郎でウザいとか暑苦しいとかさ。斉藤のこともデブって呼んでるし、もっちーにも下手クソとか言うし」

 翔太が冗談めかしてぼやくと常山は俯き加減でふふと小さく笑った。


 笑ってくれた! 翔太はそれがまた嬉しくて、

「田口先輩って弟の面倒見たりしてて結構苦労人なんだよ。だから大島より断然田口先輩の方が大人でさあ。大島って、飽きっぽいんだよな。基礎練習とかしてるとすぐ「お前ら適当にやっとけ」ってぷいっといなくなっちゃうし。教える気あるんだか、ないんだか。そしたら田口先輩がさ、注意すんだよ。大島に。ちゃんと付き合ってくれないと部室に来てる意味ないだろって。笑うよな。大島、言われてちょっと焦ったりしてんの」

 と、ぺらぺら喋り、常山がやっぱり俯いてひっそり笑うのに喜びを覚えた。


 二人でそうして立っていると、図書室の扉が開いた。常山は一瞬ぎくりと体を強張らせたが、入って来たのは生徒会長だった。


 生徒会長は本棚の前に立っている常山と翔太を見ると、急に怖い顔になりつかつかとこちらへやって来た。


「お前、なにやってんだ」

 会長はまったく唐突に翔太に詰め寄った。

「えっ?」

「こんなとこでなにやってる」

「な、なにって……」


 翔太は会長が何を怒っているのか訳が分からなくて、手にしていた本を弄びながらおろおろしていた。


「なにやってんのか、聞いてんだよ」


 会長はますます怖い顔で翔太を睨んだ。


「本、借りに来たんですけど……」

「本? お前が? お前、本なんか読むのか」

「読みますよ! なに、それ、どういう意味っすか。失敬だなあ」


 翔太は会長の緊迫した様子を緩和しようとあはあは笑って見せた。


「……そうなのか? 本当に? 大丈夫だよ、心配しなくても。本当のこと言っていいんだよ」


 会長は傍らに立っている常山を翔太から引き離すようにして、こんな態度もできるのかと驚くほど世にも優しく語りかけた。


 それで翔太ははっと気が付いた。会長は、翔太が常山にカツアゲでもしているのではと疑っているのだ。


「ちょっと、会長! 誤解っすよ! 俺、別にツネちゃんいじめたりしてないから!」

「お前に聞いてない」


 会長は刃物のように鋭く翔太を睨んだ。


「お前、あっち行ってろ」

「会長~」

「常山くん、もう大丈夫だから。こいつに何されたのか正直に言ってよ。何も心配することないんだから」


 ダメだ。翔太はがっくり項垂れた。完全に悪者扱いされてんじゃん、と。


 すると、常山が顔をあげて、声は小さかったもののしっかりした口調で言った。


「藤井くんにお勧めの本を教えてたんです。僕は藤井くんブラバンだから、音楽とかブラバンとかが登場するような本がいいだろうと思って、楽隊のうさぎを勧めてたんです」

「……本当に?」


 常山は最後にしっかりと頷いた。


「ほらあ! もう、会長、頼むよ。マジで。なんで俺がいじめっこみたいになってんすか。俺、そんなことしないよ」

「……図書室に誰か来るなんてこの学校では異常事態だからな」


 会長は詫びることもなく、鼻先でふんというとそっぽを向いた。


 異常事態って。自分は利用しに来てるくせに。翔太は何か言いたいような気もしたが、会長に勝てる気がまったくしないので拗ねたように唇を尖らせた。


「ツネちゃん、これ、借りるよ」


 常山は頷くと先にカウンターへ戻って行った。


「おい」

 会長が翔太に声をかけた。

「ブラバンは順調にやってんのか」

「はあ、おかげさまで」

「活動予定は決まったのか」

「いえ、それはまだ……」

「部員は今何人になった」

「四人っす」

「まだ四人か」

「はあ」

「……まあ、せいぜい勧誘するんだな」


 そんなこと分かってますよ。翔太はそう言いたかったが、会長はもう奥の本棚へ向かっていた。


 翔太はカウンターへ行くと、常山が用意した貸出カードに名前を記入し、小声で、

「会長、何しに来たんだろうな」

「……レポートとか……」

「それにしても失礼だよな。俺がいじめなんて、冗談じゃないっての」

「そうだね」

「……ツネちゃん、あのさ、もし石井とかに何かされたりしたら、俺に言ってよ。困ったこととかあったら、俺に言ってよ。石井たちも暇なんだよな。だから人にちょっかい出すんだよ。ツネちゃんが悪いとかじゃないから。だから、気にしなくていいから」

「……」


 常山は貸出日のところに日付のハンコを押し、本を翔太に差し出した。そして無言で頷いた。


「じゃあ、俺、部活行くわ」


 翔太は本を片手に図書室を後にした。扉を閉める時、一度振り向いてカウンターの常山に手を振った。常山も小さく手を振り返してくれた。



 衣替えが終わるのを見計らったかのように季節は梅雨へと突入していった。


 翔太たちの学生服は白いシャツへと様変わりし、ぱっと見にはさわやかだが、シャツのボタンはひとつも嵌めずに誰もがその下に色とりどりのTシャツを着てささやかなお洒落を楽しんでいた。といっても、無論、科長や生徒指導などの怖面の教師陣の前では慌ててボタンを嵌めるのだけれど。


 雨の日の教室は人いきれと湿気でむうっとして、若さと汗の独特の匂いがたちこめていた。


 持田はそれをうっとうしそうに「男くさいったらありゃしねえ」とぶつぶつ文句を言った。


「男しかいないんだからしょうがないじゃん」

 斉藤が汗を拭き拭きたしなめると、

「もー、お前見てるとそれだけで暑苦しい」

 と持田がノートをばたばたやって風を送った。


 昼休みに翔太たちは食堂でカレーなど食べて戻ったところだった。


 田口さんは真面目に学校に来ていて(出席日数がすでにぎりぎりなせいもあるけれど)、二年生の教室でもどうにかやっているらしかった。放課後のブラバンの練習が終わると、楽器を持って帰るが翔太はもうそれを不安に思うことはなかった。


 ただ気がかりなのは、まだ活動予定を提出できていないことだった。


 大島に尋ねたところ「お前らのやりたいことやればいいだろ。俺が知るか」と冷たく突き放され、大島が頼りにならないということだけがまたしても明らかになっただけだった。


 やりたいこと。そう言われても、翔太はやりたいこととできることは違うだろうと思っていた。いかんせん、人数が少ない。田口さんの所属するバンドみたいなブラスロックは確かに格好いいし、あんなのできたらいいなと思うけれども、あれをやってしまったらもうブラバンじゃない。「軽音楽部」になってしまう。そんなことをあの生徒会長が見逃すはずがない。きっと来年度からブラバンと軽音は統合されることになるだろう。


 そういうんじゃないんだよな。翔太は思った。やはり、そこは純然たるブラバンじゃないと。


 翔太たちが自分の席に座り、斉藤がいつものように食後のデザートと言わんばかりに鞄から袋菓子を出して食べ始めると、野球部の立原がやってきた。


「いたいた、どこ行ってたんだよ。探したよ」

「食堂でメシ食ってたんだよ。なに、なんかあった」

「あのさあ、ちょっと相談があるんだけど」

「ふん」


 翔太は斉藤が机に広げた菓子をつまんで口に放り込むと、傍らに立っている立原を見上げた。


 立原はなにか深刻な顔で翔太たちを見回すと、

「来月なんだけど」

「ふん」

「野球部、試合あるんだよ」

「ああ、夏の高校野球ね」

 持田も菓子を食べながら横から、

「甲子園、お前らには関係ないだろう」

 と笑った。


「ないよ。そんなことは分かってんだよ。でも、関係なくても試合はあるじゃん」

「まあ、そりゃそうだ」

「それでさあ、頼みがあるんだけど」

「なに」

「……応援、来てほしいんだけど……」


 立原が言いにくそうにぼそっと低い声で呟いた。途端、三人はどっと笑った。


「応援って、なんで俺らが」

「ただの予選だろ?」

「決勝まで残ってからだろ、応援は」


 翔太は笑いながら立原の腕のあたりを叩いた。冗談はよせよと言わんばかりに。


 しかし立原は笑うことはなく、むしろ半泣きみたいな顔になって、

「そうじゃなくって。お前らブラバンだろ。ブラバンに応援に来てほしいって言ってんの!」

「はあ?!」

 三人は同時に叫んだ。


「頼む!」


 立原がぎゅっと目を瞑り、拝み手になった。翔太と持田は顔を見合わせた。


「頼む、この通り。頼む」

「……立原~~……。お前、知ってんだろ。ブラバンって言っても俺ら四人しかいないって」

「知ってるよ。でも毎日練習してんじゃん」

「練習と人数は関係ないだろ」

「それがさあ、先輩が……」

「先輩?」

「来月の予選、A高。あそこ、野球部の試合にブラバンが応援に来るんだって。毎回必ず。そんでさあ、先輩らが俺らにもそういう応援とかないとかっこ悪いとか言いだして……」

「そんなこと言われても、なあ」


 翔太が斉藤の方を見ると、同意するようにこくこくと首を振った。


「無理だよ」

「そこをなんとか! 俺がお前らと同じクラスだから絶対頼んでこいって言われてんだよ。断られたとか言ったら、俺が怒られる」

「そんなこと言っても無理なもんは無理だよ。俺はともかく斉藤ともっちーは素人だし」

「頼む! ほんと、頼む! 絶対応援来させろって言われてんだから。お前ら来ないと俺永久に補欠だよ」

「上の奴ら出て行ったらレギュラーなればいいじゃん」

「それまでひたすらベンチってやってられるかよ!」


 立原はいよいよ泣きそうになって、すがるように叫んだ。


「頼む、マジで頼む! この通り!」


 翔太は困りきって二人の顔をもう一度窺った。

 持田は無言で首を横に振った。斉藤も眉根を寄せ気の毒そうな顔はしているものの、決して肯定的な意見ではなさそうだった。


「……だいたい、俺らで勝手にそんなの決められないし」

「じゃあ誰が決めんだよ」

「部長。田口さん。二年の」

「頼んでよ」

「やだよー。田口さんだってやだって言うよ」

「頼むから! 恩に着るから! 聞くだけ! 聞くだけ、聞いてみてくれよ。そしたらさ、俺も先輩に言い訳できるし」

「……分かったよ。聞くだけだからな」

 立原がその場を去ると持田は溜息をついた。

「お人好しというか、なんというか」

「オッケーしてないんだからいいだろ」

「本当に田口さんに言うつもり?」


 斉藤が食べ終わった菓子の袋を丸めながら尋ねた。


「まあ、言うだけは……」


 翔太は田口さんがオッケーするはずはないと思っていた。A高のブラバンにどのぐらい人数がいるのか知らないが、野球部の応援に出張ってくるのだとしたら、それなりの人数がいて、ちゃんと応援曲のレパートリーがあるはずだ。そんなところと張りあって出て行ったところで、自分たちにできることなど何もない。それは現在自分たちを指導というか、まあ、引っ張ってくれている田口さんが一番よく分かっているはずだ。


 放課後、翔太は約束通り立原から頼まれた内容をそっくりそのまま田口さんに話した。すると田口さんは一瞬唖然とし、それから笑いだした。


「なんの冗談? 野球部の応援ってなに?」


 けれど、三人が無言でいるのに気付くと笑うのをやめ「え、なに? マジな話?」と恐る恐る尋ねた。


「マジっす」


 斉藤がこっくり頷いた。


「マジか!」


 田口さんが叫んだ。残る二人も同様に頷いて見せた。


 そりゃあ本気にする方がどうかしてるだろうなあ。翔太は愕然としている田口さんを上目づかいに見ていた。


 断られるのは仕方ないけど立原がかわいそうだな、とも思っていた。あいつ、中学も野球部だって言ってたよな。野球好きなんだな。背も高いし、足も速いし、選手としてそう悪くないはずだけど、はなからベンチって決まってるのはかわいそうだ。といって、どうしてみようもないのだけれど。


「あのう、野球部に田口さんが直接断り言ってくれませんか」

「なんで」

「俺らが言っても野球部納得してくれないと思うんすよ。一年だし。クラスの奴もかわいそうだし。田口さんが言ってくれたら、野球部も諦めると思うんです」

「野球部ねえ……」


 田口さんは何事か思案するように拳を手にあて、ふむとしばし黙り込んだ。


「実際問題、無理っすよね」


 翔太が田口さんの顔を覗きこむように尋ねた。


「だって四人しかいないし」

「まあ、そうだな。四人じゃあな。いいわ、俺が野球部に言うわ。でも、調度いいわ」

「なにがですか」

「生徒会に出す活動予定表」

「はあ」

「あれには運動部の応援って書いとけよ」

「えっ」

「いいから書くだけ書いとけばいいんだよ。実際できるかどうかは別だろ。ま、言うなれば予定は未定ってことで。だいたい、他に応援にいけそうな運動部がないだろ」

「そういうのアリなんすかね」

「だってお前、なんか書いて出さないとさあ」

「それはそうなんですけど……」


 田口さんはくるっと斉藤を振り向いた。


「おい、デブ。お前、他にもなんか適当に活動の名目作って予定表書いといて。そんで生徒会に持って行っといて」

「適当にって言われても。ブラバンって普通なにするもんなんですか」


 斉藤は放課後のおやつに買った甘いパンを片手に聞き返した。


 田口さんは椅子に腰掛け楽器のケースを開けてマウスピースをセットしながら言った。


「俺が中学ん時は老人ホームの慰問とか行ったな。それから文化祭」

「コンクールは?」

「は?」


 翔太がぱっと閃いて口を挟んだ。


 田口さんを筆頭に斉藤と持田も翔太の顔が輝くのを見逃さなかった。そして思った。まずい、この熱血野郎がまたしょうもないことを思いつきやがった、と。


 三人がそんな風に思ったことなど翔太は気づくはずもなく、まるで名案とでも言わんばかりに喋り始めた。


「俺、中学ん時出たことあるんすよ。コンクール。あれはやっぱりブラバンならではっていうか、テンションあがりますよね。野球部で言うなら甲子園? せっかく毎日練習するんだから、目標がないと」


 翔太はすでに興奮していた。コンクールは地区予選から全国大会まで長い道のりだった。その一つ一つをクリアしていく達成感。一丸となって奏でる音楽。練習に打ち込み情熱を注ぎこむことの充実感。翔太の胸にそれらの思い出が一気に去来していた。


 その気配を持田はいち早く察知し、突然両手をぱんと打ち鳴らした。それはまるで夢の世界へぶっ飛んで行く翔太を目覚めさせるような一打ちだった。


「まー、とりあえず練習しますか! 田口さん!」

「お、おう。そうだな。じゃあデブは明日までに予定表書いてきて。さー、今日もロングトーンからやるぞ」


 持田の意図が分かったのだろう。田口さんもそそくさと話題を切り上げて立ち上がり、メトロノームをセットした。


「よし、チューニングするぞ」

「え、ちょっと待って、田口さん、コンクールは……」

「藤井、早く用意しろ」

「田口さん……」

「藤井」


 田口さんが翔太を睨んだ。翔太はしおしおと黙って自分の定位置に座ると楽器を取り上げた。


 なにもそんなにうっとうしがらなくても。翔太は寂しさと、むくれた気持ちとをマウスピースから楽器に吹き込んだ。きんと硬質な音が飛び出す。


 斉藤も持田も翔太と目を合わせないように俯いて田口さんの指示を聞いている。


 四人じゃ何もできない。翔太はその言葉にはすでに飽き飽きしていた。部員随時募集中の張り紙も校内の掲示板に何枚も貼ってある。しかし効果は一切なく、部室を覗きに来るのはたまたまクラブハウス周辺へやってきた連中の好奇の目だけで、ブラバンに入ろうなどという者は一人たりとも現われていない。


 だったら。だったら、どうする。翔太は田口さんの合図で始まったルーティンな練習をしつつ、真剣に考えていた。いつしかその眉間にはくっきりと深い皺が刻まれていた。無論、あとの三人もそのことにちゃんと気づいていた。気づいていて、知らん顔をしているのだった。


 

 ともあれ、田口さんがどう根回ししたものやら立原が野球部の応援になどと懇願しに来たのは一度きりで、斉藤が適当にでっちあげた活動予定も生徒会に提出し、日々はのらくらの続くかに思えた。


 が、事件はその日突如として起こった。


 翔太たちは定性分析の実習に出ていて、同じグループで試験管をいくつも並べて試薬を注ぎこんでは化学反応を確認し、ノートに書きつけていく作業をそれぞれこなしているところだった。


 黒板に書かれた同定を移し、実験を行っていくわけだが、その過程をしっかり記録していかないとレポートを書くことができないので、普段ふざけてばかりの連中も実習だけは真面目に参加していた。


 この学校の特徴とでも言おうか、完全な単位制で入学当初に科長にさんざん脅されたのが効いていて、実習をサボる者はいなかった。なにせ複数のテーマを班に分かれて学期中に順番にまわしていくのだから、うっかり欠席などしようものならその間に一つのテーマが終わってしまう可能性がある。そうなったら最後、補講もなければレポートを仕上げることもできず赤点を一つとることになる。他の教科で赤点がある奴なら、もうそのままあっさり留年決定という事態にもなりかねない。そして実習の時間数は他の教科に比べて格段に多いのだ。まともに三年で高校卒業資格を得ようと思うなら、まずサボることはできない。それが学校側の作戦のようだった。


 翔太は実習用の作業台を前に斉藤たちと並んで座り、ノートに実験結果を書いているところだった。


 ちょうど向いには常山がいて、実験に使用した器具を片づけていた。


 窓はすべて開け放されており、常山の黒々としたヘルメットみたいな重くて厚い前髪にも爽やかな風を時折送っていて、わずかに常山の額が覗いていた。


 作業服の袖をまくり、斉藤は「あっちーな」と呟いた。


「クーラーぐらいつけろよな」

「実習棟にまでクーラーつける金ないんだろ」

「俺らまだましだろ。溶接科なんか地獄だろ。クソ暑い中、火使ってんだからさ。しかもあれ何度? 1200度とか?」

「うげー。マジか。どうりであいつらみんな痩せてんだな」


 斉藤と持田が話しているのを翔太は笑いながら聞いていた。


「斉藤も溶接科行けば痩せられたのにな」


 その時だった。試験管立てを作業台脇のシンクに運ぼうとしていた常山が不意に押し出されるような格好でつんのめり、あっと思う間もなく作業台の角に体をぶつけ、その拍子に試験管立てが手から離れて派手な音を立てた。


 試験管立てに立ててあった十本近くの試験管がいっぺんに床に散乱し、あたりは試薬の残りとガラス片でいっぱいになった。


 あんまり大きな音だったので皆が驚いて振り返った。無論、翔太も咄嗟に「うわっ」と声をあげた。

「あー、ツネ、悪い」

 言ったのは石井だった。


 常山は呆然とし、ガラス片の真ん中に立ち尽していた。


「ツネちゃん、大丈夫?」


 翔太は立ち上がり常山の顔を覗き込んだ。見ると常山はみるみる真っ青になり、今にも卒倒するのではないかと思うほどぶるぶる小刻みに震え始めた。


「ツネ、ごめんなー」


 翔太は石井を鋭く睨んだ。石井の顔は意地の悪いうすら笑いに歪んでいた。


「石井、お前マジふざけんなよ」


 あ、やばい。そう思ったのは持田だった。また熱血野郎が動き出した。


 持田は急いで席を立ってきて、

「翔太、やめとけ」

 と、二人の間に割って入った。


 斉藤はもう掃除用具入れを開けて箒とちりとりを取り出していた。


「わざとだろ」

「そんなわけないだろ。なに言ってんの」

「石井、お前自分が恥ずかしくないのかよ。ツネちゃんいじめて何が面白いんだよ」

「俺がいついじめたよ? なあ、ツネ、俺いじめてなんかいないよなあ?」


 石井はそう言うと常山の首に乱暴に腕をまわして引き寄せた。


 常山のほっそりした首に石井の肘のあたりががっちり巻きつき、抵抗することもなく常山は引きずられる格好でよろけた。げほっという苦しそうな呻き声をあげて。


 それを見た途端、翔太の頭にはかっと血がのぼり、

「いい加減にしろよ!」

 と怒鳴って常山から石井を引き離そうとした。


 すると石井はまるで面白いゲームにでも興じているかのように笑いながら、今度は常山の体をいきなり突き押した。


 あっと思う間もなく常山は無力な人形が放り出されるかのようにガラス片の散乱する中に倒れ込んだ。

「ツネちゃん!」

 翔太は半ば悲鳴のような叫びをあげた。


 斉藤が箒を手にしたまま慌てて常山に駆け寄った。


「ツネちゃん、大丈夫か」


 助け起された常山の手のひらと頬から血がたらたらと流れていた。


「石井!」


 それはさすがの持田にも止められないほど、一瞬のことだった。


 翔太は雄叫びをあげたかと思うと石井の実習服の胸ぐらをつかみ、思いきり殴りつけた。


「お前、マジでクソだな!」

「なんだと!」


 石井が翔太を殴り返したのを皮切りに二人はもみ合いになり、実習室は騒然となった。持田だけではなく周りにいた者たちが止めに入るも、二人はがっちり胸ぐら取り合い、殴る蹴るの応酬で手がつけられず、やっと狂犬のように暴れる二人を引きはがした時には翔太は鼻血を出し、石井も唇から血を垂らしていた。


「この、クソ野郎が! ツネちゃんがお前に何かしたのか! お前、何様だ!」

「クソはお前だろうが! 正義の味方ぶってんじゃねえよ!」

「やめろってば!」


 持田が翔太を羽交いじめにしながら怒鳴り、まだ暴れようとじたばたするのを必死に抑え込んだ。


「離れろよ。いいから、離れろ。石井も向こう行けよ」


 石井を押さえこんでいた者達も事態を収拾せんと、持田の言葉に従って石井を引きずって行こうとした。


 喧嘩は一発で停学って分かってんだろ。バレたらおしまいだ。持田はそう続けるつもりだった。停学なんかなったら、ブラバンはどうするんだ、と。しかしもう時すでに遅しだった。


「なに騒いでんだ!」


 そう怒鳴りながら勢いよくドアが開き、難波先生がずかずか入って来て、瞬時に事態を把握してしまった。斉藤に労られながら椅子に腰をおろしている蒼白の常山。散乱するガラス片と飛び散る血痕。数人の生徒から押さえこまれている二人は顔を腫らしている。問うべきことは何もなかった。


 実習を担当する難波先生は、

「斉藤、常山を保健室へ連れて行ってやれ。石井と藤井はついて来い。持田、ここ、片づけとけ」

 と指示すると、ものすごく怖い顔でその場にいた全員を睨み渡した。


 翔太と石井は難波先生に連れられて実習室を後にした。行く先は分かっていた。生徒指導室だ。そこへ送りこまれた者がなんの咎も受けないはずがない。翔太は鼻血を手の甲でぐいと拭った。ぬめっとしたものが頬にまでなすりつけられるのを感じた。頭に血がのぼっているせいか、殴り合いのせいか顔が熱く、興奮のあまり心臓は激しく動悸していた。

 翔太は少しでも気持ちを鎮めようと、心の中でメトロノームが四拍子を刻むのを思い浮かべていた。


 

 翔太と石井への事情聴取と、その場にいた全員の目撃談により処罰はすぐに下った。


 持田と斉藤はその裁定を聞くや頭を抱え込んだ。


 「喧嘩はいかなる理由があろうとも、先に手を出した者が、悪い」というこの学校のルールに従って、翔太には二週間の停学処分が下り、石井には五日間の謹慎の命が下った。


「石井が悪いのに、なんで翔太が停学!」


 放課後の部室で田口先輩に事の成り行きを報告しながら、持田はすっかり憤っていた。


「翔太も翔太だよ。なんであいつあんな熱血野郎なんだよ。石井なんか放っときゃいいのに」

「そんなこと今言っても始まんないだろ」

 斉藤が持田をなだめた。

「先に殴った方が悪いんだから」

「斉藤、お前本気で言ってんの? あんなんどう考えても石井が悪いだろ」

「だから。あそこでツネちゃんが殴ってたら、石井の方が罪重いっていうかさ。そうなったんだよ。でも翔太関係ないじゃん」

「ツネちゃんに喧嘩なんかできるわけないだろ……」

「まあね」

「ほんと翔太のやつ馬鹿なんだから」

 持田は大きく溜息をついた。するとさっきから黙って聞いていた田口さんがおもむろに口を開いた。

「でもさ」

「……」

「あいつからその馬鹿で暑苦しいとこ取ったら何が残んの」

「……」


 停学中、翔太は大量の反省文と宿題を課せられるらしい。無論、授業はおろか実習にも出られないのでその分の単位は非常に危ういことになる。これで翔太はこの先ちょっとのことでは欠席できないし、相当頑張って優秀な成績をとっていかないと「まずい」ことになった。


 持田は内心、気弱でびくびくしっぱなしの常山に対して幾分の苛立ちを感じていた。有態に言うなら「あいつのせいじゃん」と。


 いつも俯いて、誰とも口をきかない常山の姿は確かに見守ってやりたくもあり、しかし同時に嗜虐性に訴えかけるものがあると思う。もちろん、だからといっていじめていいわけではないし、それは卑劣な行為だと思うけれども。


 持田は「いじめられる者にも原因がある」なんてことは戯言だと思っていたが、いざこうなってみると常山のおとなしさが歯痒かった。


 そして、その当の常山は翔太が停学に決まってから学校に来ていないのだった。


「しょうがねえな。俺、帰るわ」


 田口さんがむっつりと眉間に皺を寄せている持田に声をかけた。


「えっ」

「えっ、って、なんだよ」

「練習は……」

「練習って何するってんだよ」

「でも……」

「基礎。お前らは基礎やっといて。俺は帰ってスタジオで自習練すっから」

「二人で?!」

「三人も二人も一緒だろ」

「だったら三人でやりましょうよ」

「やだよ。辛気臭い。俺、暗いの嫌いなんだよ」

「じゃあ、明るくしますから」

「どうやって」


 もう帰り支度をして鞄と楽器を手にエンジニアブーツを履きかけている田口さんに、持田は慌てて追いすがろうとした。


「素人二人じゃどうにもなんないっすよ」

「大島呼んで来いよ」

「田口さん、頼んますよう」

「あのね。俺はそもそもあの熱血馬鹿野郎に頼まれて来てやってんだよ」

「まあ、そう言わずに」


 田口さんは翔太の行動を非難するつもりはなかったが、ちょっと呆れているのも事実だった。他人をかばって自分が停学になってるんじゃあ世話はない。


 とその時、ドアが開くのと同時に「お前ら、これ、どういうことだ!」と血相を変えて大島が飛びこんできた。


「あ、ちょうどいいとこに」

 田口さんは実に気安く、

「おーちゃん、ちょうどよかった。俺、帰るからこいつらの練習つきあってやってよ」

 と声をかけた。


 が、大島はほとんど悲鳴にも似た叫び声をあげた。


「馬鹿! それどころじゃねえよ!」

 大島の姿はいつものやる気のないのらくらした風情とはまるで違っていて、髪を振り乱し、どうやら走ってきたらしく汗をだらだら流していた。


「おーちゃん、どうした。大丈夫か?」

「おいデブ! これ書いたのお前か?!」


 大島が斉藤に向って怒鳴ると、手にしていた紙きれを眼前に突き出した。


「え? なになに? どうした?」


 田口さんが斉藤の前に突きつけられた紙を、横から首を伸ばして覗き込んだ。それは生徒会に提出したはずの活動予定表だった。そう、「適当に書いておけ」と言われて斉藤が書いた向こう一年間のブラバンの活動予定表。


 斉藤にしてみれば右も左も分からないブラバンの活動予定など書きようもなかったのだが、田口さんの「予定は未定」という言葉に後押しされ、本当に適当に聞きかじったことを書き連ねて提出したものだった。その、提出し受理されたはずの書類が今なぜ目の前に突き出されていて、しかも大島はこんなにも興奮しているのか。斉藤にはさっぱりわけが分からなかった。


「なんか問題が?」


 大島の手から予定表を取り上げると田口さんが不思議そうな顔で、大島を見上げた。


「お前、その予定表の内容知ってんのか」

「いや、知らん。でも、こんなの毎年適当に書いててそれでオッケーっていうか、誰もチェックしてないじゃん。別に問題ないだろ」

「馬鹿!」


 大島が一層大きな声で怒鳴った。


「生徒会が今年から厳しいのは分かってたんじゃないのか!」

「監査ならちゃんと生徒会は納得したじゃん」

「監査だけの話じゃない! お前ら……俺がさっき職員室で近藤先生になんて言われたか知ってるか?」

「いや知らん」


 田口さんが冷たく返す。しかし大島はそれにかまうどころではないらしく、今度はもっと大きな声で怒鳴った。


「ブラバンが試合の応援に来てくれるそうで、ありがとうございます! だと!」

「ええ!!」

 三人は仰天し、飛びあがった。


「試合ってなに!」

「近藤って野球部の顧問じゃなかったか?」

「え、まさか、応援って来月の試合のこと?」

「誰がこんなこと考えやがった!」


 大島は真っ赤に上気して、怒りと興奮のあまり震えていた。

「デブ、どういうつもりだ!」

 斉藤はびくっと体を硬直させた。殴られるのかと思い、無意識に体が後ずさる。


「お、俺は別に……適当に書いとけって言われて、それで……」

「おーちゃん、デブは悪くないよ。俺が書いとけって言ったんだよ」

「なに! なんで!」


 田口さんが活動予定表を大島に返しながら、すまなそうに、しかし、苦笑いを浮かべながら斉藤をかばうように肩に手を置いた。


 斉藤はまだ困惑して、おどおどと田口さんと大島の顔を交互に見るばかりで何を言えばいいのか分からず、汗ばかりが額から噴き出していた。


 田口さんは唇に手を当てふむと一呼吸し、それから大島を諭すような落ち着いた口調で語りかけ始めた。


「野球部がブラバンに応援に来てくれって話しは前にあったんだけどさ、そんなの無理だから俺が断りいれたんだよ。それであいつらも諦めたはずなんだけど」

「でももう話進んでるじゃないか」

「それが分かんないんだよなあ。確かに俺が運動部の試合の応援って予定に書かせたけど、それはあくまで予定の話であって、実際可能かどうかは別問題だろ。少なくとも今までそれで通ってきたし」

「……お前、まだ分かんないのか」

「なに」

「生徒会はもうそういう適当な、ありもしない活動予定を認めないってことだろ」

「なんでそこで生徒会が出てくんだよ。……あ。まさか。もしかして……」

「応援の話しが顧問の耳に入ってるってことは……」

「……」


 おろおろしている斉藤をよそに大島と田口さんの表情はみるみるうちに険しくなり、眉間には深く皺が刻まれ、体からは黒い煙がもやもや立ち昇るかのような不穏さに取り巻かれてしまった。


 一体なにがどうしてこんなことになったのか。業を煮やした持田が、焦れて二人の間に割って入ると、

「なんなんすか。生徒会がなんだって言うんですか」

 と尋ねた。


「生徒会は俺らが本当に活動するかどうか監視するつもりらしい」

「監視って……」

「生徒会の連中、あくまでもブラバンを潰したいらしいな」

 田口さんが忌々しげに呟いた。

「デブ、お前が書いた予定」

「はあ」

「運動部の応援、文化祭……」

「はあ……」


 斉藤は自分のせいではないと言われても、自分が書いて提出したのは事実なので恐縮のあまり巨体を縮こまらせて清聴していた。


「それから……コンクール」

「コンクール?!」


 今度は頓狂な大声をあげたのは田口さんの番だった。


「なんだ、それ! 誰がそんなこと書けって言った?!」

「そ、それは……翔太が……」

「あいつ!!」


 間の悪いことに野球部がグラウンドでシートノックを始めたらしい。彼らの発する元気な掛け声と白球の砕ける高い音が響き渡り、一同をますます打ちのめした。


 皆、口には出さなかったがほとんど確信していた。これは、翔太の謀略なのだ、と。


 

 ブラバンの全員が途方にくれている時、翔太は停学中に課せられた課題を提出する為に職員室を訪れていた。


 まだ一学期だというのに停学などくらったことで親はかんかんになり、翔太は父親からこってり絞られ、母親からは小遣いなしの処分を言い渡され、毎日ねちねちと小言を聞かされうんざりしていた。


 しかし翔太は誰になんと言われようと自分が間違ったことをしたとは思っていなかったので、すでに何枚にも渡って書かされた反省文にはなんの意味もなかった。


 課題は全教科に渡っていたので、翔太は化学科の職員室で専門科目のレポートを提出し、それから数学や国語といった一般課目の提出の為に各教科担当のところを行脚してまわらなければならなかった。


 持田や斉藤はもちろん、クラスの奴らも翔太に罪がないことは理解してくれていたが、事件が起こる前と今では世界が一変してしまったかのようだった。


 数日来ないだけで学校はまるで知らない場所のように空気を変える。事実、こうして学校に来てはいてもクラスの連中に姿を見せることは許されておらず、誰とも口をきくこともなくぽつりと孤立したような気分にさせられていた。


 寂しいというのではなく、ただ「一人」だと思うこと。翔太はいつも一人で本を読み、小さくなっている常山の心に深く刻まれているであろう傷についても考えずにはおけなかった。


 どのぐらい一人きりでいたんだろう。その孤独と痛みはどれほどだったろう。好んで一人になるのと、一人にされるのではまるで違う。翔太には常山が自分の意思で「一人」を選んでいるとは思えなかった。


 翔太は根気強く職員室をまわり、一渡り課題を提出するとようやく少し解放された気持ちで食堂の前のベンチでコーヒーを飲んだ。いつ飲んでも、紙コップのコーヒーは薄っぺらな味がする。


 ベンチに背中を預け、足を投げ出す格好でだらしなく空を仰いで一息吐きだす。


「停学野郎」

「えっ」


 突然声をかけられ、油断していただけに翔太は飛び上がった。食堂の二階に続く階段の上がりくちに生徒会長が立っていて、にやにや笑いながら翔太を見ていた。


「会長~」


 その呼び方やめてくださいよ……、翔太はそう言いかけたが、近づいてきた会長が眼鏡の奥の涼しい目を何やらおかしげにほころばせているのに気付くと、すぐに防衛本能が働いて身構えた。なにやら、胡散臭い。


「聞いたよ。停学」

「……はあ」

「まあ、しょうがないよな。先に殴った方が悪いんだからな」

「……」

「でもお前は悪くないよ」

「……」

「それにしてもお前は要領が悪いな。どうせならもっと上手くやればいいのに」

「……そんなこと言われても」

「まあいい。とりあえず、成績だけ落とさないように気をつけるんだな。出ないとダブっちまうぞ」

「分ってます」


 注進なのか嫌味なのか分からず翔太は会長が自販機からコーヒーを買うのを見守っていた。


「ブラバン」

「はい?」

「活動予定、見たよ」

「あ、はい……」

「運動部の試合の応援って、あれ、来月の野球部の試合のことだろ」

「え?」


 翔太は何を言われているのか分からなかった。分からなくて、きょとんとした顔で幾度も瞬きを繰り返す。野球部の試合の応援なら、田口さんが断ったはずだけれども。


 そんな翔太の困惑には目もくれず、会長は続けた。


「運動部の応援っていっても公式戦でブラバンが出張っていける試合なんて、野球部ぐらいだろ。空手部や水泳部にブラバンの応援は必要ないからなあ」

「……え……」

「お前ら、バスで行くの? 交通費は支給されるから、明細提出しろよ」

「えっ……なに……。どういうこと……」

「どうって。だから。お前ら野球部の応援に行くんだろ? まー、人数少ないからちょっと寂しいかもしれないけど、お前らブラバンのやる気は大事だと思うよ? 練習、頑張ってな」

「え。ちょっと待って下さい。応援なんてそんな急に無理ですよ」


 翔太が言うと、会長は笑っていた瞳を急にくもらせ、眉間に皺を寄せた。


「無理もなにも。お前らの活動予定だろうが」

「そ、それはそうですけども……」


 まずい。翔太は頭の中で鳴っていた警報がやはり正解であったことを我ながら凄いと思い、でも、すぐに自分の直感どころの話しではないと思い直して慌てて言葉を継いだ。


「だって斉藤と持田はまだ素人同然だし、四人でできる曲なんてそんな……!」

「そんなこと俺は知らん」

「会長」

「お前らが活動予定に入れたんだろうが。書いたからには予定はこなしていくのが当然だろう」

「でも、予定は未定っていうか……」


 いよいよ翔太はしどろもどろになって訴えた。しかし、会長の表情はますます冷たい能面のように変貌していき、もう、明らかに不愉快そうに、

「予定は未定? それは確かにそうかもしれないけどな。でも、それはアクシデントがあった場合のみであって、提出した以上は最善を尽くすのが当然じゃないのか。出来もしない予定を書く方がどうかしてるだろう」

 と吐き捨てた。


「言っとくけども。誰がそういうくだらない入れ知恵したのか知らないけど、お前らが決めたことなんだから、必ず遂行してもらう。できないならブラバンは潰れるだけだ」


 ああ。翔太はもう返す言葉がなかった。会長は鼻先でふふんとばかりに勝ち誇ったような皮肉な笑いを残して、コーヒー片手に食堂の二階へとあがっていった。


 翔太は手の中に残っていた今はもうすでに冷めてしまったコーヒーを飲み干した。コーヒーは絶望の味がした。


 立ち上がり、紙コップを捨てよろよろと歩きだそうとしたその時、頭上から会長の声が降り注いだ。


「停学野郎」


 翔太が仰ぎ見ると、二階の窓から会長が顔を覗かせていた。


「図書委員の常山くん。学校来てないらしいけど」

「え」

「怪我。そんなひどかったのか」

「えっ……」

「常山くん、図書委員の仕事きっちりしてくれて助かってたから、お前、会ったらよろしく言っといて。早く復帰してほしいって」

「会ったらって……。俺、停学中なんすけど」

「お前ら友達じゃないの?」

「……」

「じゃあ、頼むわ」


 会長はそれだけ言ってしまうと顔を引っ込め、窓をぴしゃっと閉めた。


 ブラバンの活動予定が洒落にならないことになっている事。常山が学校に来ていない事。翔太はその場に崩れ落ちそうになるのをかろうじて堪えて、職員室へと歩きだした。残る課題を提出し、それから、ああ、それから。一体自分は何をどうすればいいのだろう。


 よろよろと生気のない足取りで校舎へ向かって行く姿を、翔太は知らずとも生徒会長は窓から見つめていた。そして、その背中がなんともいえない絶望に打ちひしがれているのを、一人でくすくすと笑っていた。



 停学は予定通りの日数できっちりと終わり、復帰の日に翔太は朝のホームルームの場でトラブルを起こしたことを詫びさせられ、それが最後の禊となった。


 翔太が神妙に頭を下げると、教室中は笑いとふざけた野次と喝采に満たされた。「笑える」というのは翔太の人徳だった。実際、誰もが停学の終わりを喜んでいた。停学という罰が笑い飛ばされたことは翔太の心を軽くした。


 教室を眺め渡し、斉藤と持田がほっとしたような顔をしているのを見ると、翔太は改めて日常生活へ戻ってきたことをしみじみと嬉しく思った。


 翔太は着席しようと机の間を通り抜けて行くと、見慣れない坊主頭を発見しぎょっとして立ち止った。よく見るとそれは茶髪だったはずの石井だった。


 石井は見事なまでに青々と剃り上げた頭でむっつりとした表情で座っていた。


 着席すると斉藤が囁いた。


「石井、罰として丸刈りにさせられたんだよ」

「マジで」

「だから俺、翔太も坊主になってんのかと思った」

「俺そんなこと言われてない」

「てことは、翔太は停学で石井は謹慎プラス坊主か。どっちが重い罰なんだろうな」

「……」


 ピアスもはずして坊主頭になっている石井の後頭部を見ながら、石井にとっては自業自得とはいえ何よりつらい罰ではないだろうかと思った。


 とはいえ、同情する気にはなれなかった。そんなことよりも、ちらともこちらを見ない石井より、翔太は自分の前の席が空席になっていることの方が気になって仕方がなかった。


 翔太は持田に尋ねた。

「ツネちゃん、ずっと休んでるんだって?」

「ああ」

「なんで」

「なんでって……。来たくないからだろ」

「だから、なんで」

「お前、それ、本気で聞いてんの」

「……」

「翔太のしたことが間違ってるとは思わないけど」

 持田はそう前置きしてから続けた。

「結果としてはツネちゃんが学校来にくくなったよな」

「……」

「まあ、お前のせいではないけどな」

「それ俺のせいって言ってるようなもんだろ」

「別にそうは言ってない。石井が悪いのはみんな分かってることだし」

「もっちー、時々、けっこう冷たいっていうか、厳しいよな……」

 翔太が小さく呟いた。


「俺が冷たいんじゃなくて、お前が考えなしなんだよ」

 持田はふんと鼻を鳴らした。もちろん本気で翔太を責めているわけではなかった。翔太のお人好しさと熱血漢とがまるでいい方向に作用していないのにいらいらしていたのは事実だが、逃げるようにして欠席を続けている常山にもいらいらしていた。


 翔太の停学がとける日は分かっていたはずなのに、もしも常山が責任を感じているとしたら、いや、少なくとも自分をかばってくれた翔太に感謝の気持ちがあれば登校してきて翔太を迎えてやるのが筋ってものではないのか。石井の報復を恐れているのかもしれないが、持田は丸坊主にさせられた石井からはそんな気力はもうないと見ていた。


「もっちー、その辺にしといてやれよ。翔太悪くないんだから」


 斉藤は持田にちくちくとやられている翔太に助け舟を出した。


「ああ、分かってるよ。翔太は悪くない。でも、だからといっていい結果は招いてない」

「よせってば」


 皮肉っぽい笑いを浮かべて持田はそっぽを向いてしまった。翔太はますますいたたまれなかった。


 然しながら翔太がいない間、斉藤は空席になっている常山の席を眺めては、このまま常山が不登校となり学校を辞めてしまっても仕方がないと思っていた。それは誰かのせいではなくて常山の弱さだからだ。


 良くも悪くもこの学校では「弱い」者は生き残っていけない。図太くなければすぐに弾きだされてしまう。常山の弱さが際立っていて標的にされるのだとしたら、それはこの先何度でも第二、第三の石井が現れ同じことが繰り返されるだろう。そして、例え翔太でもそれを毎回救うことなどできはしないのだ。


 斉藤は気休めと知りながら「気にするなよ」と翔太に声をかけた。翔太は鼻先で「ふん」と返事をした。


 翔太は持田の言うことも気になったが、それ以上に生徒会長の言葉が思い出されて泣きたいような、叫びだしたいような葛藤に押しつぶされそうになっていた。


 翔太は、いつもおとなしく静かな常山が気になっていたのも本当だし、石井のような奴が許せないのもまた事実だった。しかし、だ。自分と常山が「友達」かというと、それには答えられなかった。


 たまたま同じクラスで、自分の前の席に常山が座っていて、図書室でよく顔を合わせるというだけで、親しく話したことがあるわけでなし、常山が自分のことを友達などとは思っていないだろうと思った。それは寂しいことかもしれないけれど、翔太は常山の気持ちが分からず自信が持てなかった。


「なにはともあれ、さ、翔太復活でこれでブラバンもまともに練習できるよな」


 斉藤が暗い顔をしている翔太の背を元気づけるように叩いた。


「あっ、そうだよ。翔太、お前、大島が激怒してたぞ。斉藤が出した活動予定、あれ、やばいよ」


 思い出したかのように持田が口を挟んだ。


「野球部の応援。あれ、もう、野球部の顧問まで話しいってるらしいよ」

「……ああ、うん。生徒会長に、予定は未定とかいうのは通らないって言われた……」


 翔太は心ここにあらずといった様子でぼそっと呟いた。


「マジで! お前、どうすんだよ!」

「……うん……」

「ちょっとー、どうするつもりだよー。四人で野球部の応援ってありえないだろー」

「……四人じゃ、無理かな」

「無理だろ。やばい。これは、やばいよ」

「四人じゃなかったら、じゃあ、何人ならいいんだよ」

「え?」


 持田と斉藤は顔を見合わせた。またこいつは何かとんでもいことを考えているに違いない。落ち込んだような抑揚のない調子だったが、もう心はここにないといった顔つきだった。


 二人にはもういい加減翔太という人間の性質と行動パターンが分かっていた。そして止めても無駄だろうということも。二人は黙って翔太の様子を見つめていた。



 持田と斉藤が心配した通り、翔太は放課後になってもブラバンの部室には姿を見せなかった。


 田口さんも翔太の行動パターンはとっくに分かっているので、何も言わず、ただ持田が生徒会長が「活動予定表に書いたものは実行するように言っている」旨のを報告すると一瞬険しい顔をし、それから「うーん」と唸って黙りこんでしまった。


「会長、本気でブラバン潰しにかかってんですかね」

「……別にブラバンに限ったことじゃないだろうけどな」

「どうします?」

「……どうって、お前……」


 田口さんはまた黙りこんだ。


 生徒会が怠けてるくせに部費をまきあげていく部活を是正したいのは分かっていた。その正義感と政治的手腕は立派だと思う。しかし、である。


 持田は眉間に皺を寄せている田口さんを横目に様子を窺いながら考えていた。知らぬうちに話が進んでいて、逃げられないように外堀から埋められているのは、生徒会長の個人的な思惑があってのことではないのだろか。そしてその思惑は田口さんとの間に何らかの確執があるからではないのだろうか。


 こういうのを当人に確かめてもいいものか、どうか。翔太ならどうするだろうか。まあ、馬鹿だからずばっと相手に当たるんだろうな。俺はそういうやり方しないけどね。持田はふむと少し思案すると、何事もなかったかのように楽器を用意し始めた。


「なんだよ、お前らほんと真面目だな。今日も練習すんの」

「だって、とりあえずできることやんないと」

「……なんの曲もできないのに……」

「だから、なんとかしないと」

「持田、お前、翔太に似てきたな」

「やめてくださいよ。あのアホと一緒にしないでください」


 二人の会話を黙って聞いていた斉藤がぼそっと呟いた。


「野球部の応援曲って、なにするんすか……」

「……四人でできる曲、なあ……」


 あの、いつもにこにこしてよく肥えた血色のいい斉藤が悲壮な表情で二人を見つめていた。


「俺、がんばりますから」

「は?」

「練習、がんばりますから」

「……デブ、お前まで翔太みたいなことを……」


 田口さんはがくっと大袈裟に項垂れた。田口さんは思った。生徒会が外堀を埋めたのだとしたら、無意識のうちに内側から追い込みをかけているのはこいつらだ、と。腹をくくらないと駄目なのかな。


「……。分った。どうにかする。心配すんな」


 おかしなことになってきた。翔太に懇願されて形だけでも参加してやればいいと思っていたはずなのに、今やすっかりブラバンを率いていく立場になっている。翔太の泣きそうな顔にほだされたのがいけなかったのだ。あと、あの純粋な情熱に。


 田口さんは楽器ケースを引き寄せ、溜息をつくと「とりあえず基礎は大事だから」と二人にいつも通り指示を出した。



 三人が部室でそうやって練習している頃、翔太はというと、案の定すでにクラスの奴に聞いた情報をもとに常山の家を訪ねていた。


 翔太は自分に何かできるとは思っていなかった。そんなことにまで頭がまわっていなかった。ただ、会って、話してみたかった。それだけだった。その上で常山に対して何か言えることがあれば、言おう。それだけだった。


 教えられた住所を地図で確認しながら辿って行くと、そこは閑静な情宅地で、大きな邸宅の並ぶ坂の上だった。


 翔太は塀から覗く美しい庭や、重厚な門扉や、本格的な日本家屋から古い洋館のような家まで順番に眺めながら常山の家を探し歩いた。


 夕暮れにはまだ早く、家並の前庭に植えられたバラが燦然と咲き誇っていた。


 そうして見つけた常山の家は、豪華な家々の中でも一際大きなお屋敷だった。


 翔太は表札を眺め、家の大きさを見上げ、思わず心がくじけそうになった。やっぱりやめようか、と。しかし、ここで諦めたらもう二度と常山に会えないような気がした。


 翔太は深呼吸をし、インターフォンを鳴らした。


 古風な格子戸の向こう側には飛び石が並び、玄関へと繋がっている。その玄関の脇には低く竹を組んだ枝折戸が設けてあり、細井小道が庭へと続いているらしかった。松の緑の美しさと、軒から吊るしたしのぶの鉢が一枚の絵のようだった。


 しばらく待ってうろうろと中の様子を窺っていると、インターフォンから女の人の声が「どちらさま?」と聞こえてきた。


 翔太は慌ててインターフォンに口元を寄せて、

「こんにちは。藤井翔太といいます。常山君はいますか」

「……」

 姿は見えずともそのわずかな沈黙から翔太は「不審がられている」気配を感じ、急いで付け加えた。

「僕、常山君と同じクラスで……。ツネちゃん、じゃなくて、常山君ずっと休んでるからお見舞いににと思って」

「……少々お待ち下さい」

 女の人はひっそりと告げると、ぷつっと音を立ててインターフォンを切った。


 翔太はこれっぱかしも考えていなかった。もしかしたら常山が会ってくれないかもしれない、とは。とにかくこうしてやって来ればどうにかなるという気持ちしかなかった。そんな自分の浅はかさに今ここに来て初めて気づき、次第に不安になり始めていた。


 もし会ってくれなかったら。一体どうしたらいいのだろう。それに、こうして押しかけてきたことが常山を怯えさせ、ますます学校から遠ざけるものだとしたら。


 翔太は持田と斉藤に一緒に来てもらえばよかったと、今になって思った。持田ならこんなことにも初めから気づいただろうし、斉藤が一緒なら常山もちょっとは安心してくれたかもしれない。


「……藤井君?」


 その時、玄関の引き戸がそろりと開いたかと思うとわずかな隙間から常山が顔を覗かせ、目を丸くして翔太を見ていた。


「ツネちゃん!」


 翔太は常山の顔を見た途端、急にほっとして、ぱっと顔を輝かせた。そして思わず動物園の猿のように格子戸をがたがた鳴らしながら、

「もー、ツネちゃん、どうしてたんだよう! 心配したんだよ!」

 と情けない声をあげた。


 常山は心底驚いた顔で玄関から出て来ると、飛び石をゆっくり踏んで格子戸を開けた。


 翔太はさっき感じた不安が今度は急速にぶっ飛んで行くのを感じつつ、

「ツネちゃん、怪我は? どうした? 大丈夫か? 学校ずっと休んでるって聞いてさ。ほんと、どうしたんだよ。大丈夫なのかよ」

 と一息にまくし立てた。常山の頬には大きな絆創膏が貼られていた。


「ちょ、ちょっと待って藤井君……。藤井君こそどうしたの、急に……」

「あのさ! 俺、停学終わったから! 複活したから!」

「……」


 常山はジャージにTシャツというくつろいだ格好だったが、青白い顔色ときのこみたいな重い前髪のかぶさっているのは学校と同じで、翔太はそれを見ただけで俄然嬉しくなった。それはもううきうきと小躍りしたくなるほどに。


「お友達なの?」


 格子戸を挟んで立っている二人に、玄関が大きく開かれ中からさっきの声の人物と思われる女の人が姿を現した。


 翔太はその人を見た瞬間に、それが常山の母親だとすぐに認識することができた。なぜなら、整った細面の顔立ちと人形みたいに白い肌がそっくりだったから。


 母親は翔太を見るとちょっと驚いた様子だったが、すぐににっこりと微笑んで、

「そんなところで話してないで、あがっていただきなさい」

 と常山に声をかけた。


 常山は一瞬困惑したような表情を浮かべた。が、それを見たからといって引き下がる翔太ではなかった。翔太は母親に向って元気よく「あっ、どうも! お邪魔します!」と言うと常山の横をすり抜けて飛び石をつたい、

「やー、どうもどうも。僕、ツネちゃんと同じクラスの藤井翔太です! ツネちゃん休んでるのが心配で! あ、生徒会長も心配して僕に様子見てくるようにって言うもんですから、急に来ちゃってどーもすみません」

 常山が何らかのリアクションをとる暇など与えず、翔太は大きな声で母親に向ってぺらぺらと喋りながらずんずん玄関へと突き進んで行った。


「ツネちゃーん、会長が早く復帰して図書委員の仕事して欲しいって言ってたよ!」


 そう言いながら格子戸の傍で呆然としてる常山を振り向いた。


 こんな調子のいい、屈託のない明るさの裏で、翔太の心臓はばくばくと早鐘を打っていた。自分の無茶苦茶な強引さがいつでも功を奏するわけではないのは分かっていた。常山に拒絶されたらもうどうすることもできないのだから。


 だから。だから翔太は常山に向って渾身の笑顔を見せた。歯をむき出しにして、思いきり笑った。


「藤井君……」


 常山はまた目を丸くして翔太のわざとらしい笑顔を見つめ、それから初めて、ふっと微かに笑った。


 家の中に招じいれられた翔太は広々とした三和土にも、よく磨きこまれた長い廊下にも驚きを隠せなかった。


 庭に面した廊下のガラス障子越しから見えるのは、テレビの旅番組で見るような見事な日本庭園だったし、廊下を鍵の手に曲がっていくとその先に家とはまた別な一棟が立っているのにもまた度肝を抜かれた。


 翔太は床の間のあるような座敷に通され、机を挟んで常山と向かい合うと、

「ツネちゃん、あの、向こうにある建物。あれなに? 二世帯住宅かなんか?」

「……あれは、道場」

「道場?」

「うち、合気道教えてるから……」

「えーっ! そうなの? じゃあ、ツネちゃんもやってんの?」

「……」

 常山は小首を傾げるようにして曖昧に苦笑いを浮かべた。翔太は常山の包帯をした手に目を留めた。


「ツネちゃん、手、大丈夫? なんか、俺、しゃしゃり出ちゃって……ごめんな。本当にごめん」


 翔太は机におでこをぶつけんばかりに頭を下げた。驚いたのは常山だった。もしかしてこの人は本当に自分に詫びに来たのだろうか。そんなことがあるのだろうか。


 さきほど奥へ引き取って行った母親が二人にお茶を運んできた。


「まあ、なんですか、ご心配頂いたようですみません」


 上品な茶碗に煎茶が入れられ、小皿には上生菓子が乗っていた。


「サボってないで早く学校行くようにって言ってるんですけどねえ」


 母親はおっとりした口調で翔太に微笑んだ。すると常山がとても学校での姿からは想像できないようなぶっきらぼうな口調で「余計なこと言わないで、あっち行っててよ」と言った。


 それは普通の、翔太たちと何も変わらない、反抗期の少年の声だった。翔太は信じられないといった風に目を丸くさせた。そんな声、そんな風に。別人じゃないか。別人であり、自分たちと同じじゃないか。


 母親が座敷を出て行くと、翔太は俄然張り切って机に身を乗り出した。


「そうだよ、ツネちゃん。学校来なよ。俺が言うのもなんだけどさ、あんま休むと単位やばくなるよ。まあ、ツネちゃん頭いいから、限界まで休んでもダブりはしないだろうけど」

「……」

「あのな、石井のことならもう心配しなくていいから。あいつ、頭丸刈りにされてすっかりおとなしくなってるから。万一あいつがまたツネちゃんに難癖つけてきたら、今度こそ俺絶対許さないし」

「……」

「ツネちゃん?」


 黙って翔太の言葉を聞いていた常山は静かにお茶を一口啜ると、ふっと唇の端で笑った。


 翔太はその微笑が常山が心を開こうとしてくれているものと思い、斉藤や持田にするようにいきなり机越しに腕を伸ばして常山の細い肩をばーんと横から叩いた。


「マジで、なーんも心配しなくていいんだからさあ!」


 翔太はそのまま後ろ手に手をついて頭を逸らし「わはは」と朗らかに笑った。……いや、笑おうとして、常山の言葉にぎくりと固まってしまった。


「僕、学校辞めようと思ってるから」

「……え……」


 常山は常山の強い視線に射すくめられる格好で、言葉を失った。


 常山はもう一度、繰り返した。


「学校、辞めようと思ってる」

「……な、なんで……」


 石井のせいか? 翔太はそう言葉を継ごうとした。が、それより早く常山はまるで翔太を労るように言った。


「石井君のせいじゃないよ。僕には……学校に行く意味も理由もないから」

「なにそれ……どういうこと」

「藤井君、僕はね……人と関わりたくないんだ」

「……」

「誰とも関わらなければ、付き合わなければ……、あらかじめ何も持っていなければ、失うことはないから」

「そんな後ろ向きな……」


 翔太は笑いに紛らせてしまいたかった。学校を辞めるとか、誰とも関わりたくないとかいうのが彼の中ですでに決定していることらしくて、常山の堅固な表情が怖かった。


 翔太には常山を思いとどまらせることができるとは到底思えなかった。


 学校へ行く意味も、人と付き合う意味も、「なぜ」とか「何の為に」と言われて答えられるほど翔太には能がなかった。だって、考えたこともないのだから。それは当たり前の営みであって、意味など問うたこともないのだから。そんな翔太に何が言えるというのだろう。


 気落ちする翔太に常山はますます優しく言った。


「一人でいたいんだ」

「……一人で」


 翔太はオウム返しに呟く。


「藤井君には迷惑かけて悪かったと思ってる。本当にごめん」

「……」


 翔太は無言で視線を庭に向けた。百合がすうっと丈高く伸びていくつも花を咲かせているのが目に入った。凛とした佇まいと気高い白。ああ、あの形、ラッパだよな。翔太はそんなことを思った。


 翔太の胸は悲しさでいっぱいだった。誰とも関わらずに一人でいたいという常山が悲しくてたまらなかった。もし常山が友人を失うことなく、くだらないいじめにもあわずに、自分達と同じように普通の平凡な生活を送ってきていたならそんな結論には至らないはずだと思った。もちろん過去は消せない。常山の経験してきた悲しさが癒えることはないのかもしれない。でも、もしかしたら、この先記憶を塗り替えるチャンスだってあるかもしれないじゃないか。その機会を全部捨ててしまうのか。一生。


 翔太は常山に視線を戻し、居ずまいを正した。


「あのな、俺、迷惑とか思ったこといっぺんもないから。石井のアホ、あれを見て見ぬふりとか俺は絶対できないから。それだけのこと」

「……」

「確かに一人で生きてくってのもいっそ潔いのかもしれない。でも、もうツネちゃんは出会っちゃってるだろ。俺とか、持田とか斉藤にも。ツネちゃんが誰とも関わりたくないって思うのは自由だけど、そうやって一方的に切り捨てられる俺らにしたら……たまんないよ」

「……」

「はじめから何も持ってなかったら、確かに何も失わない。そりゃあ理屈はそうだよ。けど、今のツネちゃん、本当に何も持ってないって言えるんかな。ツネちゃんのこと見てる人、他にもいるじゃん。生徒会長とか。大島とか。それでもツネちゃんが一人がいいって言うならしょうがないけど……。それ止める権利俺にないし」

「……」

「俺、ツネちゃんと友達になったような気がしてたんだ。勝手に。ごめんな。なんか勘違いしてうちにまで押しかけてきちゃって。俺、ツネちゃんが誰とも喋んないのに、俺とはちょっと喋ってくれて嬉しかったし、おすすめの本とか教えてくれたじゃん。あれも、俺は嬉しかったんだよ」

「……藤井君」


 翔太は自分で思う以上に、傷ついている自分を見出して、さっと立ち上がった。これ以上常山と対峙していると泣いてしまいそうで。まるで失恋したような気持ちでさえあった。


 もうまともに常山の顔を見られなくて、翔太は顔をそむけながら、しかし声だけは明るく、

「ほんと、急にお邪魔しちゃって! ごめんな! 怪我、お大事に、な!」

 さよならと言うべきなのだろうか。翔太は咽喉元までせりあがってくる熱い塊を無理に飲み下すとそれ以上言葉を発することができなかった。


 そしてどたばたと逃げるように廊下を走り、靴をひっかけて玄関を飛び出して行った。


 翔太は涙が滲んでくるのをなんとか堪えながら、来た道を走って帰った。もう自分が何をしているのかさっぱり分からなくなっていた。ただ言えるのは「悲しい」。それだけだった。



 それから一週間の翔太は持田たちがどうしてみることもできないほど目に見えて落ち込んでいた。


 事の経緯を聞きだした持田は思わず「お前、あほか」と喝を入れそうになったが、翔太の落ち込み具合が激しいのでさすがにそれはやめにした。


 斉藤も翔太を元気づけようと部活の後は毎日のようにラーメンだの牛丼だのに誘った。


 常山は引き続き学校を休んでいた。


 学校に来る意味とか理由なんて、本当に答えられる奴はいるのだろうか。義務教育ではないのだ。ここは自分たちの意思で来るところだ。とはいっても、高校卒業なんて学歴は今どき「標準装備」で、親も子も行くことになんの疑問も感じないし、むしろ行かないなんて選択肢は存在しないだろう。その中にあって常山が意味を求めるのなら、その選択自体に意味があるように思える。


 翔太はどんな理由であれ常山がもう自分の生き方を決めているのだとしたら、それは絶対に太刀打ちできない遠い次元のことなのだと思わざるを得なかった。


 一人で生きて行くということは翔太には想像ができない。なぜなら一人では何もできないからだ。常山と比較しても始まらないが、ブラバンがそうだ。ブラバンは一人ではどうにもできない。仮に大勢メンバーがいたとしても、一人の力でできることなど何もない。といって、それではその「一人」の力が意味のない、不要なものなのかというとそうではない。一人一人の集合体なのだから。そうして初めて「何か」できるのだ。翔太は常山と違って「一人では生きていけない」だろう自分をすでに知っていような気がした。


 翔太の落ち込みぶりはさすがの田口さんも冷たい態度をとることはできず、野球部の応援に行くという目の前の大きな課題に向けて対策を練ってくると、翔太を鼓舞するように楽譜を渡し、

「とにかくやるしかないんだから。しっかりしろよ。俺とお前が頑張らないと、曲にならないぞ」

 と発破をかけた。


 放課後の部室で田口さんは楽譜だけでなく、音源も用意し、小さなポータブルスピーカーも持参して楽譜の読めない斉藤たちに「お前らはとにかく耳で覚えろ」と言い、ひたすら曲を聴かせた。


 田口さんが選んだのは高校野球の応援曲の定番の中から、とりわけ馴染みのある曲ばかりだった。「ウィー・ウィル・ロック・ユー」や「ルパン三世のテーマ」「ねらいうち」などで、楽譜も田口さんがどうにか四人で成り立つように工夫していた。

 正直なところ、なんで俺がこんなことを……と思わないでもなかったが、翔太の様子を見ると仕方がないというのを通り越して、やらなきゃいけないという気にさせられた。


 こんなこと誰に想像できただろう。ろくに学校にも来ていなかったのに、今では毎日登校して部活に出て、部長として、先輩としての役割を果たしている。ブラバンなんて勝手にやってろと思っていたのに。それがこのザマだ。翔太は自分を再び学校に引き戻したのが、ここまでやらされることになるとは。でも、不思議なのはそれが不愉快ではないことだった。


 そして、この成り行きをにやにや笑って見ている人物がいた。そう、顧問の大島。大島にしてみれば問題児と成り果てていた友人でもあるところの「ぐっちゃん」が学校にまたまともに来るようになり、ブラバンの面倒まで見てくれるようになったのは自分の手柄ではないにしても、喜ばしいことだった。

 大島とて心配していたのだ。あのまま学校を辞めてしまっては「ぐっちゃん」の行く末はろくでもないということが目に見えていたから。


 相変わらず家庭環境は劣悪だし、バンド活動の為にバイトもしていて、弟の世話もして、苦労ばかりだけれども、少なくとも学校で見る「ぐっちゃん」は普通の高校生だった。それが彼にとってどれほど大切なことか。まがりなりにも教師である大島は翔太に感謝したい気持ちだった。


 他方、生徒が変われば、大島も変わらざるをえなかった。


 面倒な部活の顧問なんてまるでやる気がなかったのに、翔太が入部し、部員が増え、まだ屁みたいな音ばかり出しているとはいえ校内でも目立って活動するようになり、挙句の果てに野球部の応援に行くなんて。こんな厄介な、一円にもならない仕事、本当にやりたくない。でも、生徒がやるというのなら無視することはできない。


 然して、ブラバンはやる気を出した顧問を迎えて、ますます練習に熱が入るようになっていた。


 とにかく下手でもいいからレパートリーを増やさないと。それが田口さんの方針だった。野球部の試合中、えんえんと演奏し続けるのにはどうしたってレパートリーがないと。しかしそれには四人では限界があるのも事実だった。


「おーちゃん、これさ、助っ人呼ぶとかってのは駄目なんかなあ」

 ある時田口さんがぼそっと呟いた。


「なに、助っ人って」

「だって、俺ら圧倒的に不利じゃん? 四人しかいないんだから。他の学校ってブラバン人数いるし、リズム隊もいるじゃん。それを四人じゃなあ」

「助っ人って言ってもギリギリ俺が参加できるぐらいだろ」

「だよねー……」


 田口さんと大島がため息をこぼしている間も、一年生三人組は真面目に曲を聞きながら練習していた。どうにかメロディは覚えて、大島からも指導されながら、少しずつではあるが三人の出す音は形にはなり始めていたものの、それでも人数の少なさと厚みのなさは物寂しさを隠しきれなかった。


 下手であるのは今はどうすることもできない。そもそもまともな演奏ができるわけがないのだから。野球部はこんな未完成どころかスタート地点に立ったばかりみたいな四人の演奏に納得するだろうか。応援なんてしない方がまだ士気があがるのではないだろうか。田口さんは内心そう思っていた。


 一週、二週と日々は過ぎ去り、ブラバンの練習は毎日行われ、そして常山はやはり学校には姿を見せなかった。


 教室ではもともと影の薄かった常山なだけに、空席もすでに初めからそうであったかのような存在感のなさで、翔太は誰もが常山を忘れて行ってしまうのが物悲しかった。


 野球部の試合まであと二週間。翔太は机に片頬をつけてぼんやりと教室内のざわめきを聞いていた。

 石井とやりあった定性分析の実習も終わり、レポートの提出の期限は目前だった。


 翔太は停学で授業に出なかったりした分、それを補うためにも高い評価を得られるようなレポートを書く必要があったが、今はそんな気持ちにもなれなかった。


 やる気というのがまるで出ない。それは何も勉強だけでなく、ブラバンにしても、そうだった。情熱を傾けることが当たり前で何の疑問も感じなかったのに、翔太は常山が考えている「一人で生きて行く」ということに思いがけなく自分のアイデンティティが揺らぐような気がして、落ち込む自分を止めることができなかった。


 人は皆、一人だ。そういう真理のようなものは翔太にも朧げに理解できる。けれど一人で何ができるのか、それが分からない。


 持田はしなびたようにぐったりと机に頭をのせている翔太を持て余し、自分の提出するレポートに名前を書き込みながら、

「翔太、レポートできてんのか。お前、真面目にやんないとまずいだろ」

「ふん」

 翔太は鼻先で気のない返事をするばかりで、起き上がろうとしない。


「写させてやろうか?」


 そう続けた持田はやはり「ふん」と鼻先で返す翔太に、「駄目だ、こりゃ」とばかりに呆れたように斉藤に頭を振って見せた。


 朝のおやつのジャムパンを齧っていた斉藤も、翔太の気分を盛り上げようと、

「野球部の応援って、あれだよな、同じ曲何回やってもいいんだよな。そう考えたら案外いけそうだよな」

 と、鞄からファイルに綴じた楽譜を取り出してぱらぱら捲った。しかし、それでも翔太は「ふん」と気のない返事をするだけだった。


「翔太、お前さあ、ほんと大丈夫か」


 持田が業を煮やして溜息まじりに言った。


「お前、おかしいよ。なにそんな落ち込んでんだよ。あのなあ、キツい言い方かもしれないけど、辞めるって言う奴を止めるなんてできないだろ。だいたいツネちゃん、ここに来たのが間違いだったんだよ」

「よせよ」


 斉藤が持田を制した。


「間違いってなんだよ」


 それまで腑抜けていた翔太が急に体を起こした。


「ここじゃなきゃツネちゃんはどこに行けばよかったんだよ」

「そんなこと知らねえよ。でも、少なくともここじゃない方がよかったって話ししてんだろ」

「そんなこと、なんでお前が言うんだよ」

「なに怒ってんだよ。だって本当のことだろ。ツネ、頭いいじゃん。もっと普通の、進学校とか行ってればよかったんじゃん」

「そんでも来ちゃったんだからしょうがないだろ」

「だから。だから辞めるのはある意味正解なんじゃないのかって言ってんの」

「もっちー、冷たいよな」

 翔太はぷいと顔を背けた。


 持田と言い争ったところで何にもならないのは分かっているが、このやるせない気持ちを誰かにぶつけたかった。持田もそれが分かっていて、わざと翔太に気持ちを吐きださせようとしていた。


「ここに居場所がないんだから、辞めた方がいいんじゃないの」

「居場所がないなんてことはないだろ」

「おい、よせよ」


 斉藤が食べ終わったジャムパンの袋をぐしゃっと握りつぶし、二人の間に割って入った。


「自分の居場所がどこかなんて、そんなのツネちゃんが決めることだろ。お前らが揉めてもしょうがないだろうが」


 その時だった。予鈴が鳴ると共に、教室の前の扉から常山がすうっと音もなく静かに入って来ると、「あっ」と思わず声をあげた翔太たち三人には目もくれずすんなりと自分の席についた。


「ツネちゃん!」


 翔太は叫んだ。教室中の視線が常山に注がれていた。が、翔太はそんなことはおかまいなしに抱きつかんばかりの勢いで、

「辞めるのやめたんだ?!」

「辞めるのやめるって、なに言ってんだ翔太」

 持田は翔太がまた何を言い出すか分からなくて、さりげなく笑いながら翔太を牽制しようとした。


 しかしそんな持田の心配をよそに、翔太は飼い主を迎えて喜びのあまりちぎれんばかりに尻尾を振る犬のように、嬉しそうな顔で常山を見つめていた。


 こんな素直に輝く目をかつて見たことがあっただろうか。常山は自分へと身を乗り出してくる翔太を、体をねじって振り向いた。


「藤井くん」


 常山は我知らず微笑みながら、翔太に呼びかけた。


 驚いたのは翔太だけではなかった。持田も斉藤も、恐らくはその声が聞こえたであろう周囲の生徒も誰もが初めて聞く常山の凛とした力強い声に驚き、釘づけになっていた。


 あの、いつも怯えていた常山が、しっかりと頭をあげ、まっすぐに翔太を見つめていた。


「藤井くん、ごめんね」

「え」

「僕は、自分が傷つくのが嫌で、怖くて、だから自分のことしか考えてなかった。自分を守る為に人を傷つけてるとは考えもしなかった」

「……」

「だから。ごめん。この前、藤井くんが言ったこと、ずっと考えてたんだ」

「ツネちゃん……」


 翔太はもう感極まって目が潤んでくるのを、とても止められることができそうになかった。


「一人で生きて行くのは難しい。確かに僕はもう藤井くんに出会ってるもんね。藤井くんの気持ちなんて考えてもみなかった」

「いや、俺の気持ちなんて、そんな……。俺が勝手に思い込んでただけだから」

 常山は静かに首を振った。


「藤井くんが僕を友達だと思ってくれてたなんて、想像もしなかったから」

 常山の言葉に斉藤と持田が思わず声をあげた。


「そんなこと言ったのか! 翔太!」

「お前、馬鹿か! 恥ずかしい奴だな! ツネちゃん、こいつの言うこと気にしなくていいよ! ほんと、暑苦しい奴だな、お前は!」

「……なぜ、お前らがツッコミを……」


 ぼそっと呟く翔太の頭を持田がぱしっと叩いた。

「友達とか、そういう言葉をわざわざ言うお前のセンスが恥ずかしいんだよ。そんなことよく口に出せるな」

「だって……」


 叱られたようにしゅんとする翔太に、常山はふっと笑いかけた。それは大人びていて、優しい微笑だった。横で見ていた持田は、これが常山の本当の姿なんだなと瞬時に悟った。


 常山にはいじめもからかいも子供じみてくだらないから相手にしないだけで、だから、学校なんて場所にも本当は用がないのだ。一体、常山には自分たちも含めて学校の連中がどんな風に見えているのだろう。翔太の暑苦しさが恥ずかしかったのと同様に、持田はその仲間である自分自身までもが猛烈に恥ずかしく思えて、耳たぶが熱くなるのを感じていた。


「いいんだ。藤井くんが僕を友達だと思ってくれるなら、それは、たぶんそうなんだ。だったら、僕も藤井くんを友達だと思っていい……んだよね?」


 常山のはにかんだような笑顔に、いよいよ翔太の涙腺は崩壊し涙が零れおちてしまった。翔太はいきなり常山の手をとりがっちりと握りしめた。


「ありがとう! ツネちゃん! ありがとう!」


 その勢いに常山は気圧されたようだったが、すぐに「うんうん」と頷き、翔太の腕のあたりをぽんぽんと二度ほど叩いた。


「泣いてどうする。恥ずかしいな」


 持田が呆れながら呟いた。


 学校に来る意味とかいうものがあるのだとしたら、それは自分で見出すものなのだと翔太が教えてくれたのだ。翔太は知らないだろう。常山が翔太の言葉に人知れず心打たれ、感動していたことを。持田はそれを「馬鹿だ」とか「暑苦しい」と言うだろうけれど、その馬鹿さ加減と熱意でもって人に対することができるなんて、誰にでもできることではない。常山は翔太をまれに見る存在だと思っていた。


「ツネちゃん! そうだ! ブラバン入りなよ!」

「翔太!!」


 持田が翔太のシャツを引っ張った。常山は笑って、

「でも楽器できないんだけど」

「大丈夫! もっちーも斉藤も初心者! みんなで練習すればできるようになるし、楽しいよ」

「みんなで、か」

「そう! みんなで!」

 みんなというほどの人数では、ない。たったの四人。常山が入っても五人。


 この情熱はどこから湧いてくるのだろう。こんな風に人に対する好意をあからさまにして、にこにこ笑って、みんなでやれば楽しいと言う。どうしたらそんな風に楽天的に考えられるのだろう。常山は翔太といると大袈裟かもしれないが人生というものは苦しいだけではなくて、ちょっとは面白いこともあるのかなと思えるような気がし始めていた。


 始業のチャイムが鳴った。皆、ばたばたと自分の席へ着席し、廊下に溢れていた賑やかな声もしんと静まった。今日も一日が始まる。学校での長い一日が。


 常山は言った。


「僕にできる楽器って、なにかな」


 翔太は満面の笑みを浮かべ、常山の相変わらずもっさりと額を覆う髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。



 事の次第を聞いた田口さんは常山が部室にやってくるとすぐに、

「お前の楽器、これな」

 と、大型のケースを取り出した。


「先輩、それは……」

 問答無用で、もうあらかじめ決めてあったと言わんばかりにくっきりと断定的に言うので翔太は目を丸くした。


 常山はなんの疑問も感じないで「はい」と素直に返事をした。


「え、ツネちゃん、いいの?」

「なにが?」


 常山はきょとんとした顔で翔太を見た。翔太は田口さんに尋ねた。


「これ、ツネちゃんにはちょっとハードじゃないですか」

「なんで」


 翔太はこの大きなケースの中身がなにか、知っていた。低音で、大きくて、持ち重りがして、肺活量も相当要する楽器だ。体も細くて青白い常山に扱いきれるようなものではない。翔太はそう言おうとした。


 しかし田口さんは、翔太よりも先に、

「今、俺らに必要なのはベースとリズムだ。分かるだろ」

「でも……」

「ツネ」

「はい」


 常山は臆することなくすんなりと返事をした。ブラバンに入るとは言ったものの、人見知りで、いつもびくびくしていた常山が田口さんを前にどれだけ不安と緊張に苛まれるだろうと心配していたのだが、常山には怯えた様子はまるでなかった。翔太はその事に驚いていた。


「できるな?」


 田口さんは確認するように尋ねた。まるで「できる」と信じているように。


 そして常山はそれにはっきりと答えた。


「頑張ります」


 斉藤と持田も口をあんぐりと開けてその様子を見守っていた。常山は床に膝まづいてケースの蓋を開けた。中には金色のユーフォニウムが横たわり、静かな光沢を放っていた。


「だとよ」


 田口さんが翔太を振り向き、にやりと笑った。


「ちょ、ちょーっと。タイム。田口さん、ちょっとタイム」


 翔太は常山を部室から連れ出すと、不思議そうな顔をしている常山に言った。


「ツネちゃん、無理しなくていいんだよ。クラリネットとか、フルートとか。もっと軽い楽器あるし」

「でも、あの楽器が必要なんだよね?」

「それはまあ、そうだけど」

「大丈夫。練習すればできるようになるって、藤井くんが言ったんじゃないか」

「そ、それは」

「心配しなくても、頑張るよ」


 常山はこれまでとは真逆に翔太を安心させるような落ち着いた表情をしていた。


 翔太には常山が大丈夫と言う根拠が分からなかった。それは無論、持田も斉藤も同じ気持ちだった。持田に至っては「翔太の馬鹿が感染った」とさえ思っていた。


「おい、相談がすんだら早く練習の用意しろ」


 田口さんが大きな声で怒鳴った。田口さんはいつの間にやらすっかり翔太たちのリーダーになっていた。


 翔太たちは椅子を並べ、譜面立てを置き、覚え始めたばかりの曲をさらった。


 常山だけは屋上に出て、田口さんと基礎練習だった。


 その光景に驚いたのは大島だった。野球部の応援に行くことからもう逃げられないと覚悟した大島はブラバンの部室から楽器の音が鳴り出すと、すぐに部室へやってきて練習を見るようになっていた。そして屋上でユーフォニウムを抱えている常山を見て仰天し、卒倒しそうになった。


 無理もない。あの、図書室の司書として働いていてくれた、青白くて痩せた、小動物のような常山がブラバンにいるという事実。


 大島は信じられないという顔で「常山……」と呟いた。大島が来たことに気づいた田口さんはくるっと振り向いた。


「おーちゃん、新入部員増えたよ」


 新入部員! 常山は微かに笑って頭を下げた。大島はまだ言葉を失っていたが、田口さんが常山に手ほどきしているのを見て、これはと思い尋ねた。


「常山、なんかスポーツやってた?」

「……スポーツっていうか……。あの、僕のうち合気道を教えてて……」

「合気道!」


 大島は頓狂な声をあげた。が、教師の威厳を崩してはいけないと思い、慌てて、わざとらしいほどそっけなく「そうか」と冷静な態度をとってみせた。


「田口、適当なとこで譜読み教えてやって」

「ういーっす」


 そう言い残すと大島は何事もなかったかのように屋上を後にした。そして部室に駆け込むと、叫んだ。


「翔太!!!」


 「ねらいうち」を練習していた三人の音がぶつっと途切れた。


「翔太、常山がブラバンに入ったってどういうこと!!」

「えっ? どういうことって言われても」

「なんで常山が!」

「なんでって……」


 翔太は面喰って持田に助けを求めるような視線を投げた。持田と斉藤は首を傾げながら、

「どうしたんすか、先生」

「ツネちゃんがブラバン入るとなんか問題あるんすか」

「……常山、あいつ、たぶん、上手い……」

「へ?」

 今度は三人が驚く番だった。大島は興奮気味に続けた。


「腹式呼吸! ロングトーン! あいつ、もうできてる! 肺活量もかなりある。お前ら、常山が合気道やってるって知ってたのか?」

「合気道?」

 斉藤が翔太を見た。

「あ、そういうえばこの前言ってたわ」

 翔太は常山のうちに道場があったことを思い出した。大きな家と、綺麗で上品な母親と、洗練された庭のことも。


「ちょっと待って」


 斉藤が珍しく眉間に皺を寄せ、考え込むような顔で皆の顔を見渡した。


「それ、もしかして」

「もしかして?」

「……ツネちゃんって本当はめちゃめちゃ強いんじゃないの……?」


 翔太たちは「あっ」と声を漏らした。


 なぜ気づかなかったのだろう。翔太は呆然としていた。この間常山を訪ねた時に聞いたのに、それと常山が結び付いていなかったのだ。でも考えてみたら、家が合気道を教えていて、その家の息子がやってないわけがないじゃないか。


「ということは、さ」


 持田が口を挟んだ。


「翔太が助けなくても、ツネちゃんは自分の力で石井なんかぼっこぼこにできたってことじゃないの」

「……」

「あいつ、とんだ猫かぶりだな」


 翔太はぱっと顔をあげて持田を睨んだ。いや、睨もうとして、やめた。なぜなら、そう言った持田の顔が嫌味ではなくてさも楽しげに笑っていたから。


「翔太、お前、あんまりツネちゃんを見くびらない方がいいぞ。お前なんかよりよっぽど強くて、しかも、頭もいい」

「……」

「翔太、勝てるとこ一個もないな」


 持田と斉藤が笑うのを翔太は黙って聞いていた。常山の意外な側面と思わぬ才能が嬉しくてならなかった。いや、それ以上に誰とも関わらずに一人で生きて行きたいという常山が、自分たちの仲間になることを選んでくれたことが誇らしい気持ちでさえあった。


「さー、練習するぞ」


 翔太がまた楽譜に向き直っても、三人はまだ笑っていた。


 屋上からかすかに、低いユーフォニウムの音が聞こえていた。



 その日はよく晴れて、朝から猛烈な暑さだった。

 全国で高校野球の地区予選はとうに始まっており、翔太たちの高校も無論トーナメント戦に予定が組まれていた。


 無関心な生徒が多いので誰も野球部の活躍に注意など払っていなかったが、今年野球部は三回戦までやってきていた。それは野球部始まって以来の快挙でもあった。なにせこれまで初戦敗退だったのだから。


 翔太たちはその三回戦の日、朝から楽器を携えて市民球場へやってきた。楽器だけでなく譜面立てなども担いできたので荷物は重く、もう全身に汗が滲んでいた。


 気の毒なのは大島で、今から野球部顧問からなんと言われるかが想像できるだけに二日酔いより悲惨な重い顔つきで、それでも薄いブルーのシャツにネクタイだけはきちんと締めて球場へ現れた。


 球場といってもフェンスの向こうにわずかに観覧席があるにグラウンドにすぎないが、相手校の父兄や応援らしき生徒たちがもうベンチを埋め始めていた。中でも一際大きくスペースを陣取っているブラバンを見た瞬間、大島は逃げ出したい気持ちでいっぱいで、二度と彼らを直視することができなかった。


「おい、見ろよ。めっちゃ女子多い」


 持田が珍しいものを見るように言った。


「いや、普通、ブラバンって女子の方が多いから」

 翔太は中学で経験しているので持田と違って懐かしいような気がしていた。

「準備しようか」


 翔太は大島が何を考えているのかちらと顔を見ただけでもう丸わかりで、気の毒なようでもあり、同時にだからこそせめてちょっとはまともに演奏しないといけないと自らを奮い立たせようとしていた。


 分かっていたことだけれども、目の当たりにするとやはりダメージがある。相手校のブラバンの人数の多さ、立派さ。それに比べて、自分たちの貧層なことといったら。


「まあ、気楽にやろうよ。気楽に。俺らの人数が少ないのは今に始まったことじゃないんだから。今、やれることをやろう」


 翔太は今からもう緊張している斉藤に声をかけた。斉藤はだらだらと流れる汗を拭い、無言で頷いた。


「ツネちゃん、重かったろ。大丈夫? 今日も暑そうだから、熱中症に気をつけてな。飲み物、持ってきた?」

「大丈夫」


 常山はプレッシャーを感じないのか、涼しい顔で答えると鞄から譜面立てを出してセットし始めた。


 相手校のブラバンはもちろん、ベンチからも翔太はすでに好奇の視線をひしひしと感じていた。いや、視線だけではない、彼らのひそひそ声もまとまった数になるともはや「ひそひそ」ではなく、割と大きな音でしっかりと耳に届き、明らかに笑いを伴っているのも聞き取っていた。


 そりゃそうだろうな。翔太は彼らが「あれ、なに? ブラバン?」とか「ブラバンあるんだ!」とか「えー、四人しかいないじゃん」と言うのに対し、ええ、もう、見ての通りですよと心の中で返していた。


 そう四人。まだ田口さんが球場に姿を表わしていなかった。


「田口さん遅いな」


 最初に口にしたのは持田だった。もう準備はできて、一応チューニングと軽く音出しをして、今は野球部がベンチで準備するのを眺めているだけだった。


「まさか来ないってことは……」


「そんなわけないだろ。お前、誰に指導してもらったんだよ。大島じゃなくて、田口さんだろ」

「でも、ちょっと、遅くないか?」

「電話してみろよ」

「電話? 番号知らないよ」

「俺だって知らないよ」

 翔太と持田は思わず顔を見合わせた。


「センセー」

「……なに」

「田口さん、まだっすかね」

「もう来るだろ」

「ちょっと連絡してみてくださいよ」


 大島は絶望というベールに覆われてどんよりした顔で無言で携帯電話を取り出した。が、すぐに「出ないわ」と言うとまた暗い顔で黙りこんでしまった。


「もう始まるよ」


 大島の絶望が感染したのか、いつになく斉藤が血の気を失った顔で訴えた。


「おいおい、斉藤、お前顔色悪いぞ」

「……田口さんは……」

「大丈夫だって。寝坊してんじゃないの。もう来るだろ」

「けど、田口さんいないと……」

「だから大丈夫だってば。一回からいきなりぷかぷかどんどんやる必要ないんだから。ここぞって時にやればいいんだよ。そんな深く考えるなって」


 斉藤はとてもそんな言葉を信じる気持にはなれないらしく、ベンチによろよろと腰をおろした。


 翔太たちは両校の野球部が整列し、互いに帽子をとって頭を下げあってから守備に散っていくのを無言で見守っていた。


 相手校と違って翔太たちの学校の応援は少なく、試合を見に来ているのはわずかな父兄だけで、生徒の姿は一人もなかった。翔太は野球部が応援に来てほしい理由がなんとなく分かるような気がした。


 それは別にブラバンじゃなくてもよかったのだ。誰も野球部になど目もくれないのは寂しいものがある。「出れば、負け」と言われてきた野球部が今年初の快挙を見せているだけに、尚更だ。


 考えてみれば、翔太たちのクラブハウスから見る限り一番部員が多くて練習熱心なのは野球部だ。野球人気というのは根強いんだなぐらいにしか思っていなかったけれど、彼らと翔太は実は何一つ変わらないのだ。彼らは野球を、翔太はブラバンを、ただ好きで、ただそれだけで、懸命にやっている。報われない努力であっても、人知れぬものであっても、好きというだけで。その姿を誰かに知ってもらいたい、認めてもらいたい。もし彼らがそう思ったとして、それは当然のことではないだろうか。


 県下きっての不良校と言われ、周辺住民から忌み嫌われ、男ばかりでむさくるしくて、まるでモテないとしても、馬鹿げた情熱は誰にも否定できない。


 翔太は一回の表、早速相手校のブラバンの応援が始まるのを見ながら、やっぱり人数がいると違うな、と思った。俄か仕込みの自分たちと違って練習してるな、と。でも「気持ち」では負けはしない。


 翔太たちの学校の攻撃になっても田口さんはまだ姿を見せていなかった。


 グラウンドの砂は熱く焼けて、遠くに陽炎がたつような熱気の中、翔太たちは終始無言で試合を眺めていた。野球部に倣って声援を送ることもせずに、静かに。


 不安で青い顔をしている斉藤も、絶望的な大島ももはや「田口さん、まだかな」とは言わなかった。言ったところで待つより他になかったし、待つことはほとんど祈りのようでもあった。


 相手校の視線が冷たく「お前ら、なにしに来てんの」と言わんばかりに突き刺さる。ひそひそ囁く声も「なんで演奏しないの?」「できないんじゃないの?」「え? なんちゃってブラバン?」と女の子たちの笑い混じりに届く。


 いたたまれない気持ちだったが、しかし、翔太たちは田口さんが来ないなどとは思っていなかった。信じていた。いや、もっぱら信じていたのは翔太だったが、翔太の暑苦しい性質がいつの間にやら全員に感染していて、だからいつもなら一番に何か言いそうな持田さえも黙って試合を見つめるだけだった。


 試合はもう五回の表まで進んでいた。


 しびれをきらしたというか、いよいよ不審に思ったのは野球部だった。


 ベンチから先輩に言われたのであろう立原が翔太たちのところへやって来ると、言いにくそうに話しかけてきた。


「翔太、あのさあ」

「ん?」

「……ブラバン、いつやんのかって、先輩が……」

「……あ~~、ああ、ああ、そうだよな~。いや、俺らもそろそろ場があったまってきたかな~って思ってたんだよ。まだどっちも点入ってないじゃん? そろそろ出番かなと思ってたとこ!」

「マジで」

「心配すんなよ。ここまで来てやらないってことはないんだから。先輩に言っといて。次の攻撃でばっちりやりますって」

「頼むよ、ほんと……」


 立原の立場も分かるだけに翔太は心配させないよう、わざとらしいほどにかっと歯を見せて笑った。背中で持田がため息をついていた。その溜息には明らかに「あほか」という響きが混じっていた。


 翔太は立ち上がると、

「さー、ぼちぼちやるぞ!」

 と一同を振り返った。


 すると皆が座っているベンチのフェンス越しに、驚いたことに田口さんが立っていて、

「なに、今から? ちょうどよかった」

 と言いながらグラウンドに入ってくるところだった。


「田口さん!」

 思わず全員が叫んだ。


「なんだ、どうした」


 皆、驚いたのはもちろん、斉藤などはもう泣きそうなほどほっとしていた。


 田口さんはいつものようにTシャツの上に制服であるところの校章の刺繍の入った開襟シャツを羽織り、長い髪は一つに束ねていた。


 首筋を汗が流れているところを見ると、一応は急いで来てくれたらしい。翔太は遅れてきた理由は聞かないことにした。


「おいおい、向こうの学校すげえな。ブラバン、女子ばっかじゃん」

 楽器を用意しながら田口さんが言った。


 向こうの応援席でも女の子たちが田口さんを見て「なに、あの人かっこいい」とひそひそざわざわするのが、聞こえてきた。田口さんは素知らぬ顔で、翔太たちに立ち位置を支持し、斉藤にチューニングをさせた。


「田口さん」

「なに」


 準備を終えた翔太は田口さんの背中に声をかけた。翔太の声は震えていた。


 それに気づいた田口さんは笑いながら翔太を振り向いた。


「お前、なんでそんな緊張してんの? 大丈夫かよ」

 そう言って翔太の顔を見た。


 翔太は表情を強張らせ、「あれ……」とフェンスの後ろに並んだ応援席を指差した。


 田口さんは翔太の指が示す方向に「ん?」と視線を向けた。そして翔太が見たものと同じものを見出すと、途端に表情を曇らせた。


「なんであいつが来てんだ」

「……分かりません……。でも、あれかも。僕らが本当にちゃんと応援に来てるかどうか確認しにきたのかも」

「……ふん、あいつのやりそうなことだな」


 応援席の数少ない父兄に混じって、ジーパンにTシャツという私服姿で立っていたのは生徒会長と平井だった。


 平井は翔太がそちらを向いていることに気がついたらしく、なんの邪気もない顔でひらひらと手を振ってきた。隣りには生徒会長が立っていて、むっつりした表情でグラウンドを睨んでいる。


 翔太は困惑したまま手を振り返した。


「会長、なに怒ってんですかね」

「さあ? あいついつもあんな顔だろ」


 野球部がまだ一点もいれていないことが生徒会としては不愉快だとでもいうのだろうか?


 それにしても。翔太はこれまでに何度も思いがけないタイミングで生徒会長に遭遇してきたことを思い出し、その偶然というか、因縁めいたものにふと疑問を感じた。


 生徒会長が姿を現すのはいつもブラバン絡みのことでだ。それも、田口さんが関わる場合。やっぱりこの二人には何かある。


「おい、俺らの攻撃だ」


 内野・外野の選手が走ってベンチに戻ってくるところだった。


 相手校のブラバンがサンバ・デ・ジャネイロやエル・クンパンチェロなど多彩に奏でるのを聴いた身としては、やる前から気持ちがくじけそうだった。


 しかし、そんな気配を察知したのか田口さんは譜面を前にする一同を見渡した。


「心配すんな。とりあえずやれるだけ、やればいいんだから」

「先輩……」

「いいか、間違ってもいいからとにかく最後まで吹けよ。途中で止まらなければそれでいいからな。なにがあっても、最後まで吹け」

 そう言うと笑みを浮かべた。


 一年生四人はともかく「はい」と声を揃えて返事したが、翔太だけは田口さんの笑みになんとなく首を傾げたくなるような、すんなりとは受け入れ難いものを感じていた。なんだ、今の変な笑い方は。腹に一物あるような。


 が、それを問い質す暇はなかった。田口さんは大島に向って、

「おーちゃん、指揮」

 と声をかけると、マウスピースを口に咥えた。


 暗い顔をしていた大島はいよいよ観念したかのようによろりと立ち上がって、翔太たちの並ぶ列の前に立った。折しもバッターボックスには最初の打者が入っていくところだった。


 野球部のベンチからは一年生たちを中心に声を張り上げての応援が始まっていた。


 たぶん、この声援の方が音が大きい。翔太はたった五人きりのブラバンが出す音量を思って、苦笑いが出るのを押さえることができなかった。


 でも。だけど。ここまでこれた。たった五人だけど、ブラバンの体裁は整い、今こうしてどうにか「活動」しようとしている。大切なのはそのことだった。


 大島の右手があがる。五人はその指先に注視し、わずか一瞬呼吸を止める。大島が最初の四拍をカウントし、翔太たちのブラバンの記念すべき最初の音が飛び出した。


 一曲目は「ねらいうち」だった。曲が始まった瞬間、ベンチにいる野球部も相手校の野球部員も、父兄もブラバンも、とにかくその場にいる全員が驚きの声をあげた。


 誰がもうひそひそと囁くようのではなく明らかに大きな声でその驚きを口にしていた。


「ほんとにやるんだ!」

「てゆーか、できるんだ!」

「うわー、マジで。マジであの学校でブラバンってやってるんだー」


 翔太はちらと斉藤たちの顔を窺った。持田も斉藤も、常山もとにかく必死で、一心不乱といった様子で、笑いの混じった人々の声は聞こえていないかのようだった。


 指揮をとる大島は絶望の色から、今では恥ずかしくてたまらないといった顔になっており、もうやけくそのようになって額から汗をだらだら流してリズムをとっていた。


 翔太は彼らが笑うのは無理もないと頭では理解していたが、それでもやはり失礼だなと思った。だって、自分たちは一生懸命やっているのに。


 下手な演奏であるのは分かっている。たった五人しかいなくて、ショボいことも。でもなぜそれを笑う。確かに珍しい光景だろうけれど、笑うことはないだろう。


 翔太はこの光景を生徒会長がなんと思っているのか、その顔を見たくて振り返りたい衝動に駆られた。生徒会が求める「部費を支給するに値する正当な活動」というものに、これが叶っているのだろうか。たった五人の野球部の応援なんて恥さらしなことをするぐらいなら、やはり軽音楽部と合併しろと思われたらどうしよう。


 翔太はどうにかしてスタートを切ったブラバンの、現実の姿に我ながら心が乱れ、怒涛のような不安の波に飲み込まれてしまいそうだった。


 ねらいうち、ウィ・ウィル・ロック・ユー、宇宙戦艦ヤマト、サウスポー、夏祭り、さくらんぼ。できる曲を次々と休みなく繰り広げる。その度にいちいち驚きと笑いが巻き起こる。


「えー、そんなのもできるの?」

「ヤマト、しょぼいー」

「なんか五人ってやっぱ寂しいよねー」

「この応援寂しくて、ウケるわー。ホントにこれ、必要?」


 翔太はあれこれ考えて楽譜を用意して指導してくれた田口さんのことを思うといたたまれなくなり、ちらと田口さんを見やった。


 怒ってるだろうな。翔太はそう思っていた。きっと眉間に皺を寄せて、やっぱりやめときゃよかったと思ってるだろうな、と。ブラバンなんか来なきゃよかったと思ってるだろうな、と。


 が、横眼に見た田口さんは翔太の思惑とはまるで違っていて、楽器を吹く口元は笑いを浮かべていた。しかも、何やらおかしそうに、面白そうに。そしてその眼は指揮をする大島の表情を見つめて輝いていた。


 ……なんだ? やけくそになってんのか?


 翔太は首を傾げるばかりだった。


 我が校の攻撃は未だ得点のないままだったが、やっとの思いで三塁までランナーが進み、試合の雰囲気はようやく盛り上がり始めているところだった。


「よし、ここらで俺らも派手なやつやるか。おい、ルパンやるぞ」


 田口さんが楽譜を捲りながら翔太たちに命じた。

 持田や斉藤は言われるままに田口さんがちゃんとドレミを書いてくれていた楽譜を確認するように凝視した。急仕込みだった常山も口の中でぶつぶつ言いながら音符を拾う。


 翔太だけが心の中で「派手っていっても五人じゃなあ」と呟いていた。


 やれるだけのことはやっているつもりだった。でも、相手校の生徒たちにしてみればこんなのはブラバンとは呼べないのだ。これが現実なのだ。


 翔太がいくぶん傷つき、落ち込んでいるのを察知したのか田口さんがもう一度皆に呼び掛けた。


「お前ら、心配すんな。今んとこちゃんと吹けてるから。でもな、もうちょっと人の音も聞け? デブ、焦んなくてもいいから。リズム、キープしろよ。緊張するとどうしてもテンポ速くなるからな。ルパン、特に速くなりがちだから。隣りの奴の音聞いて、それに合わせる気持ちでな」

「はい」

「合奏って、人と合せるってことだから。いいか、周りの音、聞けよ」

「はい」

「じゃ、始めるか」


 バッターボックスには野球部の三年生が立つところだった。


「おい、俺んとこにルパンの譜面ないぞ」


 楽譜を捲っていた大島が顔をあげた。


「えー? それ、忘れてきたんじゃないの」

「いや、そんなはずないけど……」

「ないんじゃしょうがないな。じゃ、俺が頭だけカウントするわ。おーちゃんは座ってていいよ」


 田口さんはしっしと手で犬を追い払うように大島をベンチへ追いやった。


 大島はベンチに腰をおろすとほっと一息ついてペットボトルのお茶をぐいぐいと喉に流し込んだ。ついでにネクタイを緩め、ポケットから取り出したハンカチで汗を拭う。野球部の応援なんて、もう金輪際やめてもらいたい。そう思いながら。


「じゃ、いくぞー」


 田口さんは楽器を携えたまま翔太たちと向かい合う格好で立ち「はい、注目」と並んでいる一年生を見渡した。そして片手をあげ分かりやすいように「ワン・ツー・スリー・フォー」と声に出してカウントしながら四拍を手で刻んだ。


 その瞬間。いや、もちろん翔太たちはそれぞれの楽譜に書かれた一拍目の音を一斉に吹いた。が、驚きのあまり一拍音を出しただけで四人はがばっと勢いよく背後を振り返り、そこに信じられないものを見た。


 四人が楽器を吹かないのに、ルパン三世のテーマがグラウンドに響き渡っていた。それもそのはずで翔太たちの背後、フェンス越しになんと田口さんのバンドメンバーが楽器と共に立っていて、ルパン三世のテーマを今まさに吹いているではないか。


「お前ら、なにやってんだ! 止まるな! 吹け!」


 田口さんが怒鳴った。が、その顔は明らかに笑っていた。


「お前ら、なにやってんだ!」


 同じ言葉を叫んだのは大島だった。


 ……田口さんが企んでいたのはこれだったのか……!


 翔太はまだ事態が飲み込めないで口をぽかんと開けている持田たちに向って、叫んだ。


「音を聞け! 合わせるぞ!」


 翔太の声に我に返った三人は慌ててマウスピースに口をあて、じっと耳をすませて次に入るタイミングをはかり、突き進んでいく演奏の波に乗るように一緒にルパン三世のテーマを吹き始めた。


 ベンチの野球部も、応援席はもちろん、相手校の保護者もブラバンも誰もが試合展開よりも突如現れたブラバンの助っ人に注目し、ざわざわどよめきあい、物珍しげな嘲笑がいつの間にか爆笑に変わっていた。


「あれ、なに! 信じられない!」

「高校生じゃないじゃん!」

「反則でしょー!」


 非難というよりは、翔太たちの姿が滑稽で、おかしくて。翔太にしてももうなんと言われようと気にならないほど夢中になっていた。


 というのも「音を聞いて、合せる」というブラバンの醍醐味みたいなものを今初めてこのメンバーで味わうことができていることに体が震えるほど感激していた。


 確かにこんなのは禁じ手というか、反則だろうけれども。翔太は自分がかつて味わった経験を、今、斉藤や持田、常山が同じく体験しているかと思うとほとんど泣きそうだった。


 みんなで音楽をやるって、こういうことなんだ。なあ、分かっただろ? すごいだろ? 俺ら、今、一つの音をみんなで出してんだぜ。翔太は彼らに飛びついて、そう叫びたかった。


 大島が立ち上がりフェンス越しに自分の友人でもあるところの、田口さんのバンドメンバーに向って怒鳴っているのが耳に入ってきた。


「なんで、お前らがいるんだよ! なんで楽器持ってんだよ! ちょっと、やめろ! まずい! こういうの、マジでヤバい!」


 野球部の三年生がストレートの球をがっちり捉え、バットがボールを打ち砕く硬い音が球場の空に響き渡った。ランナーが三塁からホームへ駆け戻ってくる姿が視界の端に入る。


 試合の盛り上がりは最高潮。ブラバンの応援も絶好調。


 その日、野球部は次のトーナメントへと駒を進めて、試合は幕を閉じた。



 翔太たちのしたこと。いや、厳密には田口さんが企んだことは、月曜には学校中を駆け巡り、存在さえもあやしかったブラバンは一躍「時の人」になっていた。


 野球部は翔太たちの人数の少なさ、演奏のショボさがやはり不満で、うっかり応援など頼んだことを後悔したらしいが、あの田口さんのバンドメンバーによる助っ人参戦でかなりテンションがあがったらしかった。


「試合に勝ったからそう言えるんだよ。負けてたら、絶対俺らのせいだって言われてたと思う」


 斉藤はどうにか野球部の応援という「年間活動予定」の一つを無事にこなしたことでほっとしている様子だった。


 試合の後、翔太は久し振りに会う男前ギター氏から「頑張ってるらしいな」と声をかけられた。


 翔太はまだ胸を感激に打ち震わせながら、

「今日はありがとうございました」

 と頭を下げた。


 大島はバンドメンバーに向って怒りまくり、田口さんにも叱るというよりは完全にキレていた。


「おーちゃん、めっちゃ怒ってんな」

「はー、まあ、ブラバンに外野から助っ人っていうのはちょっと聞いたことないっすからね」

「別にいいじゃんね。俺らだって応援に来たってことで」

「ですよねー」

「お前さ」

「はい」

「ありがとうな」

「え?」


 急に改まって言われ、翔太は面喰った。


 男前ギター氏は続けて、言った。


「あいつ、楽しそうに部活やってんじゃん」

「田口さんですか」

「学校も行ってんだろ」

「はい」

「ぐっちゃんがさ」


 田口さんはバンドメンバーに常山を紹介していて、二人の方には背中を向けていた。


「熱血馬鹿がいるおかげで、忙しいって言ってた」

「……それ俺のことっすか」

 男前ギター氏がふふと笑った。


「情熱があるのはいいことだと、俺は思うよ。お前の情熱がみんなに感染していってるのも、いいことだと思うよ」

「俺は別にそういうつもりじゃ……」

「だから、いいんだろ。それが、いいんだろ」


 翔太はそれからずっと考えていた。男前ギター氏に言われたことを。


 確かに自分はブラバンが好きで、ただそれだけでやってるのだけれども、それが他人に感染するなんて考えもしなかった。今まさに感染しているなんてことも。


 それについて斉藤や持田に聞いてみたいような気もしたけれど、恥ずかしくて口には出せなかった。


 月曜の教室でみんなにブラバンの活躍について聞かれたり、ひやかされたりしたが、四人はそれぞれちょっと誇らしいような気持ちになっていた。


 一日中、授業が変わって教科担任が現れるごとに「ブラバン、野球部の応援すごかったんだってな」と言われるごとに新たに笑われたり、褒められたりして話題は尽きることがなかった。


 翔太はブラバンの存在が全校に知れ渡ったことと、合奏の達成感で満ち足りていた。


 すっかりブラバンの体裁ができあがった翔太たちは放課後にまた再び楽譜を広げ、田口さんも、

「初めての合奏だったからしょうがないけど、お前ら、出来としては決してそんな褒められたもんじゃないんだからな」

 と、注意を与えた。


 楽譜を読み違えることの多い斉藤、符点四分音符の拍数を間違う持田、焦るとリズムをキープできない常山。そして、周りに合わせる気のない翔太。


 翔太はそう言われるのが心外で、田口さんに反論した。


「俺、ちゃんと合わせようとしてますよ」

「いや、お前は自分がそこそこ吹けると思ってるからな」

「……」

「だからリズムキープできて、譜面通りに吹けるんだろうけど。でもそれじゃこいつらと合わないだろ。下手な奴にも合わせないと、合奏として成り立たないだろ」


 田口さんの言ってることにも一理あると思った。が、それでは自分のレベルを下げることになるし、完成度を高めることもできない。本来なら、下手な奴が努力して自分よりレベルの高い奴に食いついていかなくちゃいけないはずなのに。なぜ自分がわざわざレベルを落とさなくてはいけないのか。翔太はむすっと口を尖らせた。


 田口さんは翔太の考えていることが分かったのだろう。


「自惚れんなよ。お前より上手い奴いっぱいいるだろ」

「分ってますよ、そんなこと」

「だったら、自分は素人とは違うみたいに考えんのやめろ。だいたいお前がこいつら誘ったんだろ。お前の自己満足の為にこいつらがいるわけじゃない。不満ならちゃんと教えてやれよ」

「……」


 斉藤も持田も無言で二人のやりとりを聞いていた。


「ごめんね、足引っ張ってて……」

 常山が呟いた。


「いや! ツネちゃんは気にしなくていいよ! まだ入ったばっかなんだから。よくできてたよ」

「……翔太、俺らにもそれ言えよ……」

 斉藤が呟いた。


 部室に夕方の熱気がこもり、皆、汗をかいていた。


 意外なことに大島も来ていて、まだ幾分不機嫌な顔をしていたものの、顧問の役割を果たすべく地道な基礎練習が始まった。


 もはやこの音、この光景が放課後の名物になりつつあった。時折聞こえてくるグラウンドからの声々。ボールの音。部活の音。その中に混じるブラバン。


 しばらく揃って練習していると、ドアがどんどんと叩かれ、ほとんど叩くと同時にドアが勢いよく開いた。


「平井、お前のノックはマジで意味がないな」

「え、なんで」

「叩くと共にもうドア開けてんじゃん」


 田口さんの言う通り、なんのためらいもなく平井は部室にあがりこんできた。


「すごかったな~、野球部の応援」


 一同は練習する手を止めた。大島は憮然とした表情で黙っていた。


「活動予定、ちゃんとこなしてんだろ」

「だよなあ。お前らほんとすごいよ」

「なんか用」


 平井は空いていた椅子に腰を下ろすと、尻ポケットに差していた扇子を抜いてぱたぱたと自分に風を送った。


「ぐっちゃん、バンドのメンバーまで集めてさあ」

「……別に俺は知らないよ。あいつらも野球部の応援に来たんだろ?」

「ははー。楽器持って?」

「バンドマンだから、練習でもあったんじゃないの」


 田口さんが悪びれもせず言うと、大島はそれを戒めるようにごほんと咳ばらいをひとつして、

「別にブラバンがああいうことを仕組んだわけじゃなくて、父兄との合同で応援したってだけだからな」

 と、言い訳をした。その横で田口さんはやっぱりにやにや笑っていた。


「まあいいわ。でもコンクールでその手は通じないよな」


 平井は手にしていた扇子で大島と田口さんにひらひらと風を送りながら言った。


 すると、田口さんは平井の言葉をのらくら聞き流していたのが、急に真面目な顔つきになり、

「なに、コンクールって」

「なにって。コンクールだよ、秋にあるんだろ。活動予定に書いてあったじゃん」

 平井の言葉を受けて、全員が一斉に翔太を見た。


「お前……」


 大島が顎然とした様相で喘いだ。


 持田も田口さんも「こいつ、やりやがった……」という怒りともなんともつかない顔で翔太を睨み、斉藤と常山は口をぽかんと開けていた。


 翔太はまずい空気を感じてはいたものの、開き直るよりないなと判断するや、

「いや、それはだから、初めに予定してたことだから」

 と殊更に明るく一同を見渡した。


 大島が信じられないという顔で、

「お前、もしかして申込とかもう……?」

 ほとんど祈るような気持ちで翔太の顔を覗き込んだ。


 翔太は頭をぽりぽりとかき、言いわけのように口の中でもごもごと呟いた。


「だって締切があるから……」

「この人数で出るんか!」

 叫んだのは田口さんだった。


「だから、ほら、小人数編成部門の自由曲で」

「翔太!!」


 確かにこの人数と今の実力ではコンクールに出るなんて発想自体がどうかしているというのも分かっていた。しかし、せっかく火のついたブラバンをここでなんの目的もない、ただあてもなく地道な練習だけを繰り返すものにしてしまったら……。


 翔太には自信がなかったのだ。斉藤や持田、常山がこのままずっと、有態に言えば高校三年間の放課後をブラバンに費やしてくれるかどうかということが。


 何らかの目標がなければ。なんでもいい。目に見えて、確かだと思えるものがなければ、続けて行くことはできない。実際、野球部の応援だって無謀だとは思ったものの、そこへ向けて練習することでど

うにかこうにか形だけはついたではないか。それならばコンクールだって同じこと。そこへ向けてひたすら練習すれば不可能なことではないはずだ。


「そんな深く考えなくてもいいじゃないですか。とりあえず出るだけ出てみましょうよ。思い出作りと思って! ね!」


 それぞれの様子を見守っていた平井はぱちんと扇子を閉じると、立ち上がった。


「とにかくさ、生徒会の会議でコンクールの参加費はもう会計通ったから。お前ら、金だけ出させてコンクール出ないなんてのはありえないからな」

「会計通った?」

「ああ、もう、ちゃーんと金払ってあるから」


 大島はますます信じられないという顔で翔太を睨むと、

「お前、申し込みを勝手に……」

「いや、勝手じゃないっす」

「俺がしてないのに、じゃあ、誰がしたって言うんだ!」

「副顧問っす」

「え?!」

 大島と田口さんが同時に声をあげた。二人は顔を見合わせた。


 訳が分からないのは持田たちで、

「副顧問って、誰?」

 と翔太の顔を見た。


 翔太はすまなさそうに苦笑いを浮かべ、うーんと唸った。言っていいのか、どうなのか翔太は迷っていた。


 しかしその迷いをぶっちぎったのは平井だった。

「校長だよ。な、大島先生」

「ええ?!」

 次に叫んだのは一年生三人だった。


「……生徒会長か」

「……」

「あいつの入れ知恵か」

 翔太は答えなかった。


 平井はにやにや笑いながら、

「ま、とにかくそういうことだから。コンクール、交通費も出るから。心おきなく練習してよ。生徒会からは、以上。報告な」

 そう言い残して部室を出て行った。


「どーも、おつかれさまっしたー」


 翔太は平井の背中にぴょこっと頭を下げた。


 それから振り向くと田口さんも大島も怒りを通り越してすっかり憔悴した様相で、目がうつろになっていた。


 ……ちょっと強引だったな。翔太は独断で決行したこの計画を初めて後悔した。でも、相談するような余地はなかったのだから、仕方がない。大島にしろ、田口さんにしろ色んな理由をつけてコンクールに出るなんてことは面倒がって「また来年にしろよ」とかなんとか言うのは目に見えていたから。


 もう後には引けない。翔太はおもむろに自分の鞄から一通の封書を取り出した。


「えー、それじゃ、発表しまっす。全国高校吹奏楽部コンクール、地区予選は夏休み明けてすぐありまーす。夏休み中は猛練習っすね」


 封書にはコンクールの日程と会場が書かれていた。翔太はそれを大島に差し出した。


 夏休みに部活などやるつもりの毛頭なかった田口さんをはじめ、何も知らなかった部員一同は完全に言葉を失っていた。窓の外では彼らの代わりに蝉の鳴き声が合奏を始めていた。



 「生徒会長の入れ知恵」と大島が言ったのは、当たっていた。いや、入れ知恵というより、完全に生徒会長の仕業だった。翔太は一連の企みを持田にも斉藤にも言わずに、ひっそりと進めていた。それも、野球部の応援に行くことが決定的になるのと時を同じくして。すでにその頃から作戦は始まっていたのだ。


 生徒会に一年間の活動予定を書かされた時、翔太はもうすでにコンクールの情報を調べていて、応募に必要な書類もきっちりプリントアウトして持っていた。


 翔太たちのようにろくに人数もいないブラバンでも参加可能な小人数編成の部門、課題曲ではなく自由曲で出られること、編成は自由であることなど調べはついていた。即ち、翔太たちでも「出場可能」であるということを。


 しかしこれは翔太にとってもある種の賭けだった。顧問が書くべき書類を勝手に投函しようとしていたのだから。


 大島の名前で各項目を埋め、応募する。何も難しいことはない。応募すればコンクールの参加校として登録され、あとは後日送られてくるであろう日程などの指示に従うだけだ。


 が、問題はそこだ。あくまでも生徒である翔太が無断で応募したという事実は変えられない。罪に問われたら、また停学を食らう可能性は十分ある。そうなったら、ほとんど100%の確率で翔太は留年するだろう。


 田口さんを悪く言うつもりはないが、やはり翔太は留年は避けたかった。


 それに、問題はまだあった。応募用紙には学校のハンコが必要で、それをどうやって押印するか。翔太には学校のハンコなんてものがどういうものかも分からなかったし、誰が持っていてどこにあるのかも知らない。これがなければ書類が完成しない。


 翔太は誰にも相談することができず、その間にも時間が過ぎて行くことに焦りを感じていた。こんな事をしているうちにコンクールの締切が来てしまう。


 こんな時どうすればいいのか。誰かに相談できないものか。ずっと悩んでいるうちに、翔太の脳裏にある人物の姿が浮かび上がってきた。


 それは天啓。折しも翔太は放課後の食堂前のベンチに座って紙コップのコーヒーを啜っている時だった。


 紙コップのコーヒーに入った氷は薄いコーヒーをさらに薄くさせるが、唇に触れる氷の冷たさは心地よかった。制服の白シャツの胸元に風を送り込み、ほっと息をついた。


 その時ふと仰ぎ見た食堂の二階の窓。翔太は閃いた。そうだ、生徒会だ。


 部活のことで何かあったら生徒会へ……って、最初に言っていたではないか。最初というのは、もちろん新入生への部活紹介の時のことだけれども。


 翔太とてブラバンを廃部にしようとする生徒会を信用しているわけではなかった。が、生徒会の、即ち生徒会長の言うことが正論で、もっともだという気持ちもないではなかった。


 ちゃんと活動して頑張る部活に活動費を用意してやることは至極当然だし、財政的に無駄があれば排除するのも当然だ。これまで癒着や腐敗があったのなら、会長がそれらを改善しようとするのもまた当たり前すぎるほど当たり前ではないか。そういった意味では会長の正義漢は信じられるような気がした。


 自分達がまっとうにやれば、会長は力を貸してくれるはずだ。


 翔太はコーヒーを飲み終えると、さっそく生徒会室へと続く階段を上がった。


 生徒会室に入るのはこれが二度目だった。一度目はブラバンの存在を確かめるため。あの時も会長そっけない態度ではあったものの、ちゃんとブラバンのことを教えてくれた。翔太が賭けたいのは、そこだった。会長の冷たさも厳しさも表面上だけのものだ、と。


 生徒会室の扉を叩くと、中から「どうぞ」と返事があった。


 翔太はそろっとドアを少しだけ開けて中の様子をうかがった。室内は会議中らしく、会長と平井の他にも数名の生徒がいて、なにやら真面目に議論している真っ最中らしく皆一様に半分怒ったような険しい顔をしていた。


「あのう……」

「あれ、ブラバンの。どうした」


 平井が立ち上がった。翔太はほっとして、中に入り後ろ手にドアを閉めた。


「平井、今、会議中」


 一人の生徒会役員がじろっと翔太を睨んだ。が、平井は気にするでもなく、

「なんか用事?」

「用っていうか、その、部活のことでちょっと相談があって」

「トラブル?」

「いえ、そういうんではないんですけども……」

 翔太は上目づかいにちらっと会長の顔に視線を向けた。会長は背筋を伸ばしてきちんと椅子に座っており、手元に束ねたプリントをめくっていた。


「会長にちょっとお話が」

「……俺に?」


 会長は翔太の言葉にプリントから目をあげた。


 ホワイトボードに書かれた議題や机に置かれたプリントの文字をさっと読み取る限り、どうやら夏休み明けの文化祭について話し合いがされているところらしかった。


 文化祭。この、文化とはほど遠い学校にもそんなものがあったか。翔太は首を伸ばしてプリントの文字をさらに読もうとした。


 すると会長は翔太の視線を遮るように、

「今、三役会の途中だから。一時間してから、もう一回来て」

 と言うと「出ていけ」と言わんばかりに手を一振りした。


「……三役会ってなんすか?」


 翔太は小声で平井に尋ねた。


「会長、副会長、議長、会計だけでやる会議。役員全部集める前の会議の下準備みたいなもん」

「はあ」


 平井はドアを開け「悪いな」と翔太の背を押しながら外へと追い出した。


 一時間もどこで時間を潰そうかと翔太は迷ったが、そのままドアにぴたりと体を寄せると耳をくっつけて会議の様子を窺った。


 安普請なドア越しに生徒会役員たちの声が低くくぐもって聞こえる。文化祭に参加できるクラブの展示や、各クラスの参加について話し合っているらしかった。


 何をそんなに激しなくてはいけないのか分からないが、議論は時として大きな声になり、喧嘩ごしの言葉が飛び交っていた。


 しかし会長の声だけはいつもと変わらぬトーンで、静かに淡々と彼らを治めているようだった。翔太はその様子からも、やはり会長に頼るよりほかないと決意を新たにしていた。


 結局翔太がじっとドアにくっついていたのは二十分ほどだったろうか。会議の終了を告げる声と、がたがたと椅子を引く音。急に緊張が解かれたように明るく喋りだす平井の声。翔太は猛スピードでドアの前を離れ、階段を飛んで下りた。


 階下で待っていると生徒会役員がぞろぞろと階段を下りてきて「おや」という顔で翔太に目を留めた。翔太は彼らに「おつかれさまでーす」と頭を下げて見送り、再び生徒会室の扉を叩いた。


 今度は臆することなく、返事も待たずにドアを開けた。


「終わりました?」


 平井はちょっと面喰ったような顔をしたが、すぐに笑いながら「一時間後って言われなかった?」と翔太を招じいれた。


 会長はホワイトボードに書かれた文字を丹念に消していた。


「で、なんだって」

「ブラバンの活動予定のことなんですけども……」


 言いかけて、翔太はちらと平井を見やった。平井がこれを聞いてもいいのか、ダメなのか?


 その疑問に平井自身が気づいたらしい。平井は「俺、コーヒー買ってくるわ」と言うとさっさと部屋を出て行った。


 翔太は平井が会計という役である以上に、会長の右腕のような役割をしていのが理解できたような気がした。日頃ひょうひょうとしている平井も、実は相当な切れ者らしい。


 会長と二人になった翔太はほうと大きく息を吐いた。それから、会長の背に向けてくっきりと言った。


「コンクールのことなんですが」

「コンクール」


 会長がオウム返しに繰り返しながら翔太を振り向いた。


「活動予定にも書いてあったと思いますが」

「……」

「あれ、たぶん、ていうか、絶対、大島も田口さんも嫌だって言うと思うんです」

「……かもな」

「めんどくさいから」

「……だろうな」

「でも、俺は出たいです」

「……」

「そりゃあまだコンクールとか出れるレベルじゃないのは分かってます。でも、目標とかあった方が絶対上手くなるし。練習するじゃないですか。練習しないと上手くならないわけだし」

「……で?」


 会長は半身だった体の正面を翔太に向けた。いける。翔太は鞄からすでに書きこんだ書類を取り出した。


「ここに、コンクールの申込用紙があります」

「ほう」

「ハンコ」

「判子?」

「ここに、ハンコ押さないと応募できないんです」

「……判子以前に、これ、誰が書いた」

「……俺っす」

「……」


 会長は書類を読む目をあげた。


「ようするに」

「はい」

「コンクールに出たいが、大島はこれを書くのを拒否するだろう、と」

「はい」

「だからお前が大島の名を語って記入した。そういうことだな」

「はい」

「で、判子がいる、と」

「……はい」

「それで、俺にどうしろと?」

「なんとかしてください」

「……なんで俺に頼む?」

「え」


 翔太は思ってもみない返答に言葉に詰まった。なんでって、会長なら何とかしてくれると思ったから。それでは答えにならないだろうけれども、他になんと言えばいいのだろう。でもここまで手の内明かしたらもう取り繕う言葉や誤魔化しはいらないはずだ。そんなものはそもそも会長には通用しない。


「会長ならなんとかしてくれると思って」

「……」

「会長はブラバン潰したかったみたいですけど、でも、なんだかんだ言ってちょいちょい俺らをフォローしてくれたりするじゃないですか。だから俺は会長は本当はブラバンに対して結構好意的なんじゃないかなと思って……」


 一息にそう言うと、翔太は今になって急に鼓動が早くなり、会長の視線をまともに受けていることがいたたまれなくなって下を向いた。


「別に俺はブラバンを潰したいなんて思ってない」

「でも」

「ここは勉強のできる進学校でもないし、スポーツに特化した名門でもない。ただの工業高校にすぎない。しかもどっちかっていうと馬鹿寄り。でもな、そういう馬鹿でもなんかやりたいとか、やればできるとか思いたいじゃん。生徒会はそういう手助けをするのも仕事のうちだと俺は思う。中退者数が県下一なんてのもどうにかしたい。義務教育じゃないから本人の自由とか勝手なんてのは屁理屈だ。勝手にやった結果がどうなるかなんて、考えれば分かることだろう。生徒会が学校の自治組織として存在するなら、全校生徒の為になることをやるべきなんだ」

「……」

「水泳部は海パンだけでいいから金かかんないとか。空手部が強いのは喧嘩慣れしてるからなんて言われたら、さ。悔しいだろ。頑張ってんのはみんな同じなのに。水泳部も空手部もあいつらめちゃめちゃ練習してるだろ。毎日朝練やってるなんて、あいつらぐらいのもんだよ。だから強い。だから、それを慕って毎年部員が入る」

「じゃあ俺らも……」

「ブラバンだって楽器はあるわけだし、お前らが頑張れば他にもやりたいって奴出てくるんじゃねえの」


 会長は机に置いた書類を取り上げた。


「この申込、俺が預かる」

「どうするんすか」


 翔太はまだどきどきする胸を押さえながら、会長を見つめた。会長はにやりと不敵な笑みを浮かべ、

「お前さ、ブラバンにもう一人、副顧問っているの、知ってるか?」

「え!」

「まあ心配すんな。申込は俺が手続きしておいてやるよ。大島と田口には黙ってろ」


 副顧問って、誰だ? 翔太はそんなこと知らなかったし、もちろん一度も考えたこともなかった。ブラバンが復活して、校内でも目立って活動するようになっているというのにその存在は姿を見せたことがないのだから、やる気のない大島以上にやる気のない奴がいるということか。


 誰ですか、それは。翔太が尋ねようとすると、ドアが開いて平井が紙コップ片手に戻ってきた。会長は書類をまとめて鞄に入れると、どさりと椅子に腰を下ろし眼鏡を外した。


 さも疲れたというように眼頭を押さえると、

「平井、ブラバンはコンクールに出るから参加費がいるんだってよ」

「ほー。コンクールって出るのに金いんのか。でも賞金は出ないんだろ」

「当たり前だろ」

「なんだ、つまらん」

「あのう」

 翔太はもう一つ、聞きたいことがあった。会長が頼りになるのは、分かった。あと、もう一つ。


「なに?」

「会長と田口さんって、なんかあるんすか」

「なんで」


 会長が眼鏡をかけ直し、さっきまでとは打って変わって冷たい目でぎろっと睨んだ。


「なんでって……」


 一番初めに、ブラバンの存在もあやしかったのに会長だけはちゃんとブラバンの部長が誰かを知っていたし、田口さんのライブにも来ていた。なのに口ぶりは冷たく、田口さんも会長のことを口にする時は憎々しげに言う。あからさまに敵対するというよりは、何か確執のようなものが感じられ、二人が相対する時、互いの名を口にする時、そのいちいちに火花が散るような緊張が走るのを無視することはできなかった。


 翔太がなんと言おうか考えているうちに、平井がすかさず口をはさんだ。


「同級生だよ」

「え?」


 翔太は面喰って平井を見た。会長が一言「平井」と制するように名前を呼んだが、そんなこと気にする風でもなく平井はにやりと笑って、言葉を継いだ。


「田口と会長、同じ中学出身」

「そうなんですか?」

「……そうだよ」

「それだけ?」

「それだけ」

「なんかあって、仲悪いんすか?」

「……別に」


 会長は怒ったようにむすっとした顔で平井と翔太の両方を睨んだ。もうこれ以上何も言うつもりはないというのが、その表情から読み取れた。


 平井も意味ありげに笑うだけで、

「とりあえず、お前らブラバンは練習しとけよ」

 と言うだけだった。


 その時翔太の脳裏を突如として田口さんのライブを見に行った時のことが蘇った。


 そうだ、あの時、会長はなんと言った? どのバンド見に来てんのか尋ねた時、会長は「中学の同級生がやってるバンド」と言ったではないか!


 では、なぜ会長はそれがブラバンの田口さんだとはっきり言わなかったのだろう? 一体二人の間になにが? なにかトラブルが?


 問い質したかったが、これ以上突っ込んで会長の機嫌を損ねると元も子もないと思い、翔太にしては珍しく一歩引いておくことにした。


 会長がブラバンの為に骨を折ってくれるのは、この馬鹿高校の生徒の可能性の為というのは本当だと、思う。それは信じられる。でも、ブラバンにこうも肩入れしてくれるのは、やはり「なにか」あるのだ。


 翔太は生徒会室を後にして部室へ向かった。

 それからきっちり一週間後。生徒会長はコンクール申込が完了した旨を伝えに、秘かに翔太を生徒会室へ呼び寄せた。


 そこで翔太が見たのは、書類に書かれた校長の署名捺印だった。


「なんで、校長が……。どうやって?」

 訳が分からずにいる翔太に、会長は静かに答えて言った。


「副顧問がいるって言っただろ」

「はあ」

「校長がブラバンの副顧問なんだよ。校長も学生ん時ブラバンだったらしいよ」

「それ……会長は知ってたんですか」

「部活の顧問や副顧問が誰かなんてこと、ちょっと調べれば分かるんだよ。こっちには各クラブの情報や記録があるし、卒業アルバムの写真にだって載ってんだからな」


 翔太は唖然としてぽかんと口を開けていた。


 会長は続けて、言った。


「校長、喜んでたよ」

「え……」

「人数少なくても、やればできることもあるだろうから。頑張れってさ」

「マジで……」

「あと、ダメ押しで大島の判子も押しといたから」

「どうやって?!」

「そんな珍しい名前でもなし、どこでも売ってんだろ。大島の判子」

「……」


 翔太はますます大きく口をあけて、会長をまじまじと見つめた。


 会長は悪びれる様子もなく「曲はなにすんの」と言うと、一度だけふふっと微笑んでみせ、それからすぐにいつものクールな顔で、コンクールの日程の書かれた用紙を翔太に差し出した。


「ま、がんばれよ」


 そう言うと、ぽんと肩を叩いた。翔太は返す言葉が見つからなかった。


 生徒会室の壁にかかった年間行事予定に「吹奏楽部コンクール出場」の文字があるのが目に入ると、翔太は無言のまま会長に深々と頭を下げた。会長はそれ以上何も言わなかった。



 夏休みにまさか部活をやることになるとは。それは大島と田口さん二人の嘆きであり、持田や斉藤たちの驚きだった。常山だけは翔太に味方していて「せっかくだから」と言ってくれていた。


 翔太はそんなわけで、常山を除く一同の視線に多少なりとは申し訳なさと居心地の悪さを感じつつ、部活はとにかく毎日行うことになった。


 というのも、小人数編成にしても、小人数にもほどがあるというほどの「小人数」。曲は自由でなんでもいいとは言っても、そもそもやれる曲に限りがある。


 そこで考えたのが大島と田口さん二人による編曲作業だった。それも、実際に全員に音を出させながらの譜面作り。ワンフレーズを吹いては楽譜にし、消してはまた吹いて、また楽譜に書き。


 パート譜を作ることから始めて、果たして本当に夏休み明けてすぐにあるというコンクールに間に合うのか翔太は不安だった。


 が、文句を言える立場ではなかった。


 大島にしても、校長の名前が出てきたからにはこれ以上のらくらやるわけにもいかず、夏の間は毎日バイトと弟の面倒をみて過ごすつもりだった田口さんも巻き込んで、とにかく体裁だけでも整えなければ洒落にならない気持でいっぱいだった。


 斉藤と持田は夏休みの間バイトでもしようかと考えていたのを全面的に返上し、常山は毎夏行われているという自分のうちの道場の合宿への参加も取りやめ、全員が文字通り一丸となってブラバンの活動に取り組み始めていた。


 翔太は悪いとは思ったものの、それでも、自分勝手ではあるがやっぱりブラバンがまともに機能していくことに喜びを禁じえなかった。


 朝は十時にはもう部室へ行き、昼まで基礎練習や筋トレをする。


 筋トレは斉藤には地獄でしかなく、運動部の連中にまざってグラウンドを走らされた時は心底ブラバンに入ったことを後悔した。が、そのおかげといってはなんだが十日もすると体がきゅっと締まってきたことで、ちょっと許す気持ちになったりもした。

 一方、みんなを驚かせたのが常山で、あんなにも細く頼りない様子なのに筋トレにもランニングにも息ひとつ乱さず涼しい顔をしていて、戯れに持田が常山の腹を一突きしたところ怖いぐらいに固い腹筋に覆われているのを知って、全員がまた改めて常山に一目を置くことになった。


 昼食はクーラーの効いた図書室でとり、一時間ほど昼寝して、また練習。


 そうやって出来上がった曲。それは「情熱の薔薇」だった。


 その曲を選んだのは田口さんだった。田口さんは「いい曲だろ」と翔太を見た。


 翔太はブラバンのコンクールに出るのにその選曲はありなんだろうか? と内心不安に思った。というのも、いくら小人数の自由曲とはいえ、コンクールでは賞を取る為の傾向と対策があるから。有態に言えば、賞を取りやすい曲というのが厳然として存在するのだ。審査員好みとでも言うのだろうか。


 翔太はもともとコンクールにおける音楽の優劣を争う基準というものに疑問を感じていた。一体、誰にそんなものを決められるのだろうか、と。そりゃあ技術やハーモニーや、いろいろあるのだろう。専門家が聴けば違いははっきりとあるのだろう。でも、それが正しくて、聴く者を感動させるかというのはまた別問題ではないだろうか。それと同時に、やっている自分達が楽しいかどうかなんてことも。


 それでもコンクールに出るからには三位入賞ぐらいは目指したい。せっかく出るんだし。それが翔太の本音だった。


 が、田口さんが決めたのは「情熱の薔薇」。翔太は田口さんが自分の趣味で言っているのだと思ったし、入賞なんてまるで考えていないということもはっきりと分かってしまって、不満というか、不安というか、正直な気持ちをどう言えばいいのか戸惑っていた。コンクールの審査に疑問を感じつつも、やはり賞だって欲しいと思う矛盾を。


 賞を獲りたいのは、それによってブラバンが校内でも注目される存在になるし、今年はもうダメでも来年また一年生が入ってきたら入部希望者が現れるかもしれないという思惑もあってのことだった。

「なーんか、不満そうだな」


 田口さんは翔太の気持ちを見透かすように言った。


「不満とかそういうんじゃないっすけど。これ、田口さんは自分とこのバンドでやったりしてるんですか」

「いや? やってないけど」

「なんでブルハ……」


 それは斉藤たちも同じ気持ちだった。持田はてっきりクラシックをやるものと思っていたし、斉藤も常山もブラバンを題材にした映画みたいにビッグバンドジャズでもやるのかと思っていた。


 だから田口さんがよりによってロックを持って来たのには驚くあまりぽかんと口を開けたまま固まってしまった。


 一年生を見渡すと、田口さんは言った。あの、野球部の応援に行った時のように頼もしく、優しく、部長然として。


「この曲、俺達には意味があると思うから」

「意味ってなんすか。そりゃあいい曲だけど……」

「俺、ダブっただろ」

「はあ……」

「学校辞めようかと思ってたんだけど、まだ、もうちょっといてもいいかと思って。そう思えたのは、翔太が暑苦しくせまってきたからっていうのもある」

「暑苦しいって、そんな、ひどい」

「デブ、もっちー、ツネちゃん」


 三人は急に呼ばれて驚いた顔で、田口さんを見た。


 田口さんは三人の目をじっと覗き込むように言った。


「お前らは俺の言ってること分かるよな」


 三人はそれぞれ胸の中に翔太の「暑苦しい」場面を蘇らせた。ブラバンにかける馬鹿げた情熱。田口さんに来てもらう為の情熱的な努力。練習に捧げる情熱。仲間と、ブラバンを守ろうとする情熱。そして、ここから少しでも前に進もうという情熱。


 常山が最初にこくりと頷いた。


「僕も学校辞めようと思ってたんですけど……」

「ツネちゃん」

「藤井くん見てたら、もうちょっといてもいいかなって思えたんです。藤井くんの情熱は、時々ちょっと頓珍漢でうわっすべりしているようなところもあるかもしれないけど」

「ツネちゃん!」

「でも、一生懸命だ」


 翔太は「俺って頓珍漢でうわっすべりしてたんか……」と呟いた。


 持田と斉藤は「知らんかったんか」「気づいてなかったのかと口々に言ったが、その顔は笑っていた。


「そういうこと」


 田口さんがきっぱりと結論づけた。


「この曲でコンクール出るぞ」

「でも、この曲だと入賞は難しいかもしれないっすね」

 翔太が力なく漏らすと、田口さんは目を大きく見開いて驚愕し、叫んだ。

「入賞するつもりだったんか! あつかましいな、お前! 身の程を知れ!」

「……やっぱり無理っすか」

「お前は本当にドリーマーだな! こんな初心者集団で入賞なんて、よく考えたな。俺、そんなこと考えもしなかったわ!」


 しょぼんとする翔太。呆れかえる田口さん。そこへ斉藤がおもむろに割って入った。斉藤には翔太の気持ちも分かる気がしたし、何よりもここまで翔太に引っ張られてきたのも事実なので、加勢する気持ちだった。


「そう言わないで、努力ぐらいはしましょうよ」

「は? なに言ってんだ、デブ」

「できないって決めつけたら、なんもできないでしょ。不可能でもいいじゃないですか。夢ぐらい見たって。言うのはタダなんだし」

「デブ、お前……」


 斉藤は翔太を振り返った。そしてまた田口さんに向きなおった。


「ここまで来たら、もうちょっと翔太の情熱に乗っかってみましょうよ」

「……異議なし」


 持田が右手をあげた。持田も翔太にいつの間にか感化されている自分を自覚し始めたところだった。

 翔太は感極まっていきなり持田に飛びついた。


「もっちー!」

「もっちー言うな」


 抱きついたのを冷たく押し返された翔太は、今度は拒絶しそうにない常山に抱きついた。



 恐らく翔太たちがこれまで味わってきた「夏休み」という時間の中で、この夏が最も「短い」ものになった。


 休みなく毎日練習したおかげで、夏休みが終わる頃には「情熱の薔薇」はちょっとはまともな音楽となって校内を響き渡るようになっていた。


 とにかくひたすら同じ曲をやるものだから、それを毎日聞かされる運動部の練習は誰もが洗脳の如く情熱の薔薇を口ずさむようになり、ランニング中も脳内をエンドレスで流れるのは情熱の薔薇で、それが少しずつ生徒たちのテーマ曲になっていくようでもあった。


 無論、苦情というか、文句は出た。うるさいとか、違う曲やれとか。その度に田口さんが前に出て「俺ら、コンクールに出るから。コンクールでこれやるからさ。それまでちょっと大目にみてよ」と片手拝みに頼んだ。


 コンクールと聞くと誰もが驚いた。「マジで!」とか「その人数で!」とか。当然の反応だろう。が、彼らはその後決まって「じゃあ、しょうがねえな」と言い、「がんばれよ」と去っていく。それには翔太は少し驚いていた。


 ブラバンが認められつつある。最初はブラバンに入ることそのものをやめるように言われたのに、今は少なからずブラバンを応援してくれている。


 大島と田口さんの編曲でできあがった楽譜は平然と「一人二役」みたいな編成になっていたが、パーカッションとユーフォニウム、パーカッションとトロンボーンといった具合にそれぞれが懸命に練習したおかげで、ますます音楽としての完成度は高まりつつあった。


 翔太はミスなく演奏することができると、その度に涙ぐみそそうになり、音楽を心から楽しいと感じていた。


 それは持田たちも同じ気持ちだった。野球部の応援の時よりも格段に「音楽」となっている自分たちの演奏に感動していたし、それぞれの音がぴったりと重なる瞬間を感じると、今まで経験したことのない充足感を感じたりもしていた。


 ブラバンがコンクールに出るという情報は、夏休みが明けて、帰宅部でブラバンの練習を知らない者たちにもあっという間に広まり、今や翔太たちのブラバンは校内でのちょっとした人気者だった。なにせ食堂や渡り廊下で、色んな生徒が翔太たちに声をかけるのだから。


「ブラバン、コンクール出るんだって?」

「お前ら、頑張れよ」

 といった具合に。


 翔太は、野球部の応援の時に相手校の女の子たちに囁かれ、笑われた言葉が脳裏をかすめると、すぐにそれらに向って胸の中で言い返していた。


「ほんとにやるんだ!」

「てゆーか、できるんだ!」

「うわー、マジであの学校でブラバンってやってるんだー」


 本当にやるし、できる。こんな学校でも、自分たちでも、やれる。


 コンクールを迎えるまでの間、それは翔太にとって魔法の言葉のようでもあった。



 コンクール当日。その日は朝からひどい雨が降っていた。


 大島は校外での活動ということもあって、制服をきちんと着てくるように口を酸っぱくして言い、これは主に田口さんにだが長髪をどうにかしろとえんえんと言い続けていた。


 翔太たちは夏服のシャツの襟や胸につける校章の刺繍を確認し、「標準服」と呼ばれるくそ真面目なストレートのパンツにアイロンをかけ、それぞれ楽器を担いで会場までバスで向かった。


 田口さんは長い髪をひっつめて一つに束ね、形だけは真面目そうに装っていた。


「校長とかも来るのかな」


 持田がカーブの度に大きく揺れるバスの窓から、激しい雨に煙って見える町並みを眺め、独り言のように言った。


「さあ、どうだろうな。来たら来たで、大島は気まずいんじゃないの」

「生徒も見に来ていいんだろ」

「タダだからな」

「でもこの雨じゃなあ」


 翔太は答えながら、同じように窓の外を見つめた。


 常山と斉藤はそれぞれ家から違う路線で会場へ向かっていた。翔太たちの乗るバスもいつもなら通勤通学で混みあうのに、日曜で、しかも大雨のせいか空いていた。


「ツネちゃん、楽器大きいからこの雨じゃかわいそうだな」

「翔太、お前さあ、いい加減その考え方改めた方がいいぜ」

「なんで」

「ツネちゃんって俺らなんかより数倍タフだと思うよ。本当は。細いけど、筋肉ばりばりだし。たぶん殴り合いになったら絶対俺らよりツネちゃんの方が強いよ」

「そうかなあ」

「それに」

「それに?」

「友達が死んで、中学でいじめられて、そんでもまた立ち直ってこうして俺らとブラバンやれるぐらいなんだから。精神的にも、俺らよりずっと強いよ」


 二人の話を黙って聞いていた田口さんが不意に口をはさんだ。


「俺もそう思う。傷ついたことのある奴は、強いよ。で、立ち直る奴は、最強。この先、ブラバンにツネはなくてはならない存在になる」

「田口さん……」

「あいつ、リズム感もいい」


 市営のコンサートホールにバスが到着すると、ホールの周辺にはすでに大勢の楽器を持っているが故に一目でブラバンと分かる高校生が集まっていて、順番にホールの中へ誘導されていくところだった。

 女の子たちのさす傘の色とりどりの鮮やかさが、ぱっとそこに花が咲いたようだった。


 ホールの受付にはもう大島と常山が来ていて、三人を見ると、

「お前ら、楽譜ちゃんと持ってきたんだろうな」

 と心配そうに尋ねた。


「おーちゃん、なにそんなビビってんの?」

「だってお前、俺、ブラバンがコンクール出るなんて考えたこともなかったから……」


 大島は消え入りそうな声で言うと、大きなため息を吐きだした。不安と緊張のため息を。


「それは俺も考えなかったよ」

「他の先生たちも見に来るって言ってたし」

「へー。それって、校長も?」

「……」


 田口さんが言うと、大島はどんよりとした表情で押し黙った。


「あ、来るんだ」


 気の毒に大島はプレッシャーで押し潰されそうになっていて、あの、野球部の応援の時よりもっと青い顔をしていた。


 そんな大島を励ますように田口さんは、

「うちのバンドメンバーも見に来るって言ってたよ」

「お前、まさか……」

「心配すんなよ、助っ人はないから」

「……ほんとかよ……。お前はすぐに嘘つくから……」

「人聞き悪いな」


 二人が言い合っている間に、翔太は常山のそばに寄った。常山は静かな調子で、

「受付、もうすませたから」

「そう。早く着いたんだな」

「うん。こんな雨だとバス遅れるかもしれないと思って、早めに出たから」

「さすがツネちゃん」

 常山は何か思い出したようにふふっと笑った。


「どうした?」

「受付で学校名言ったらさ」

「うん」

「え? って。二回も聞き返された」

「だろうなあ」

「受付の人の顔がさ、マジで!? ってあからさまにびっくりしてて。なんかこっちが申し訳ないような気持ちになったよ」


 ツネちゃんが、最強。田口さんの言葉は正しい。翔太は静かで健やかな常山がさもおかしそうに笑うのを見ながら、いずれこいつがブラバンの部長になって、みんなを率いて行くだろうと確信した。


「斉藤は?」


 さっきからハンカチで濡れた鞄や楽器ケースを拭いていた持田が、一同を見ながら尋ねた。


「あいつまだ来てないの?」


 田口さんは大島との小競り合いをぴたっとやめて、

「おーちゃん、デブは?」

 と真面目な顔で問うた。


 すると大島は翔太たちを指差しながら、

「お前ら一緒じゃないのか」

「俺ら、路線違うから……」

 翔太が答えると、田口さんが横から口をはさんだ。


「こういう時一番早く来そうなのにな、デブ。あいつ太ってるけど神経はこまかいよな」


 それから「ちょっと電話してみ」と続けた。


 ますます混雑してくる受付と、ロビー付近のざわざわとした様子と出場する生徒の緊張感は翔太たちを刺激すると共に、もう今から人々の反応が想像できるだけにいたたまれないような気がして胸苦しかった。


 ここにいる誰もが、翔太たちの学校名を聞くと驚くだろう。そして、笑うだろう。でもなぜ笑うのだろう。落ちこぼれのレッテルはまだ何もしていないうちから貼られていて、絶対にはがせないのだろうか。


 慣れない空気はそれぞれの心を少しずつ重くしていく。


「藤井君とりあえず、中入ろう。ここ混んでるし。出場校は席が決まってるから。Cの5から11番までだって」


 常山が翔太の顔色を窺うように、シャツの袖を引いた。


「あ、うん……」


 持田が斉藤に電話をしながら、先に行ってろとばかりに手を振ってみせた。それを潮に一同はホールの中へと入って行った。


 背後ではますます雨が強くなるような気配。激しい雨音。翔太が振り向くと、持田は眉をひそめてなにか会話しているようだった。


 翔太は着席するとパンフレットを開き、自分たちの出番を確認した。7番目。これだと昼前には出番が来るだろう。


 ホール内をきょろきょろと見回していた常山が、後方から二階席にかけての観客席の人数の多さに驚き、

「結講お客さん入ってるんだね」

 と翔太に話しかけた。


 が、翔太には常山の声があまり耳に入っていなくて、次第に冷たくなっていく指先を温めるように拳を握っては、開いて、前方のステージを凝視していた。


「タダだからな」

 代わりに答えたのは田口さんだった。田口さんは「心配すんな」と言うように常山ににっこり微笑んだ。

「タダなんですか」

「金とったら誰も観に来ねえよ」

「はあ」


 常山はもう一度客席を見渡した。父兄と思われる人たち。他高の生徒たち。どこかで見たようなと思われる顔は自分たちの学校の教師陣だった。


「あ、先生たち来てる」

「……タダだからな」

「あ、あれ、生徒会長」

「……」


 その呟きには田口さんはもう答えなかった。


 そうしている間に持田が席へとやって来た。翔太は半分腰を浮かせて勢い込みながら、

「斉藤は?」

 と持田に詰め寄った。


 すると持田はみんなに顔を寄せるように体を折り曲げ、なぜか小声で、しかし、緊迫した面持ちで、

「やばい」

 と一言言った。


「やばいってなにが」

 大島はすでに蒼白になっていた。


「大雨警報」


 持田はそう言うと、はあっと大きく息をつき、眉間に刻んだ皺をますます深くしながら言葉を継いだ。


「警報出てるんだって。で、今、斉藤んちの方のバスも電車も止まってるって」

「マジで!」


 翔太は叫んでから、慌てて自分の口を押さえた。

「雨でバス止まるってあるか、普通」

 田口さんもさすがに焦ったのか、せきこむように持田に詰め寄った。


「途中の高架が水没ってるらしいっす」

「バスなら通れるだろ、車高あんだから」

「バスだから、通らないんすよ。公共交通機関は無茶できない」

「電車は」

「俺も今ネットで調べたんすけど、落雷で全線止まってるって」

「……そんな……」


 ぼそっと呟いたのは、翔太だった。それは、ここしばらくご無沙汰していた、しかし、懐かしい感情「絶望」。

「そんなことって……」

「そうなると、他にもたどり着けない学校とかあるんじゃないの」

「全員ってことはないだろ。少々人数欠けても影響ないんじゃないの」

「……俺らは五人しかいないんすけど……」

「……」


 そんなことってあるだろうか。翔太たちは唯一無二の、たった五人きりのブラバンなのだ。今一人でも欠けたら到底演奏などできない。


 翔太の胸を、あの懐かしい絶望が埋め始めていた。泣きたいような、叫びだしたいようなやり場のない感情で、握りしめた拳に固く力をこめた。でなければ暴れ出しそうで。


 持田が大島を見ながら、

「……棄権っすか」

 と、探るように尋ねた。


 大島はここへきて初めて顧問として、いや、教師として生徒から試されていると思うと飴玉を誤飲したように咽喉が締め上げられる苦しさに言葉を失った。


 大島は彼らにまだ諦めるとか挫折というものを味わってほしくはなかった。大人になれば嫌でも経験することになるのだから。せめて今は、頑張ったら報われるのだということを味わって欲しい。


 この学校に赴任してきた時、大島は生徒たちが常に不貞腐れていてなんの夢も希望もなく、やる気のないことに驚いていた。自分達はどうせ頭が悪いからと、あらかじめすべてを諦めてしまっているのがありありと見て取れた。そんな生徒たちの全員に可能性だのチャンスだのをどうやって教えることができるかまるで分らなかった。


 自分の仕事は彼らを最低の成績であろうともとにかく卒業させることでしかないことにも、嫌気がさしていた。


 そこへ突如現れたブラバンの復活。それは大島に教師の使命を思い出させるものだった。


 大島は悲しそうな持田の目を見返した。


「まだ時間ある。諦めんな。デブが来るまで待とう」


 大島はそう言うと腹をくくってどしんと椅子に腰をおろした。


「お前らも落ち着いて座ってろ」


 その言葉に常山も持田ものろのろと椅子に座った。常山が翔太に「藤井君」と呼び掛けた。


 プログラムを見たのであろう他校の生徒たちが翔太たちをちらちらと見ては頭を寄せ合って、何事か囁き合うのが目に入る。好奇の視線。


「翔太、座ってろよ。俺、ちょっと電話してくるから」


 田口さんは翔太を押さえこむように椅子に座らせると、一人ロビーへと出て行ってしまった。


 一同はただざわめきに包まれているホールの熱気の中で、嵐にもまれるような心を抱えて座っているより他なかった。


 緞帳の下りたステージが翔太にはひどく遠く感じられた。まるで拒絶されているかのように。


 ふと気がつくと隣に座っている常山が鞄から楽譜を取り出して、膝の上で広げていた。


 常山は翔太の視線に気がつくと、

「ここ、難しいから。自信ないから」

 と恥ずかしそうに笑った。


 見ると楽譜には音符が見えにくくなるほどびっしりと書き込みがしてあり、注意されたこと、また、注意しなければいけないこと、強弱やアクセントについても事細かに書いていていて、それは常山がいかに真面目に練習に取り組んでいるかの証だった。

 楽譜を見つめる常山の頭の中では、今、情熱の薔薇が鳴り響いているのだろう。自分たちの練習の軌跡が、鮮明に浮かんでいるのだろう。


 翔太は例によって涙ぐみそうになり、視線を逸らした。


 消えない。こんなに頑張ったという事実は、決して消えない。上手くいかなくても。


「あのさ、自分たちの出番の二つ前になったらチューニングとリハーサルの時間がちょっとだけあるんだよ。そこでおさらいすればいいよ」

「藤井君」

「うん」

「ブラバン、誘ってくれてありがとう」

「え、なに、急に」

「いや、言ってなかったなと思って」

「……」

「おもしろいよ、ブラバン」

「……そっか」

「一人では、できない」

「……うん」


 もう翔太は常山の顔をまともに見ることができなかった。一人でいたいと言っていた常山が「みんなで」と言ったこと。それは翔太にとってずしりと重く響いた。


 今は祈るような気持ちで斉藤の到着を待つばかりだった。時計を見ると、もう開始時刻の十分前だった。


 ホールに着席を促すブザーが鳴る。コンクールの始まりを予告するアナウンスが流れ、騒がしかった客席は次第に静まり始めていた。


「田口さん、戻ってこないな」


 開会の挨拶がすみ、プログラム一番の学校の演奏が終わった時、持田が前かがみになりみんなの顔を見た。


「なにやってんだ、あいつ」


 大島はそう言いはしたものの、斉藤の到着が遅れていることで気が気ではなく、もう頭はどうやって彼らに棄権という苦渋の決断を告げようかそればかり考えていた。またチャンスはある。今回駄目でもあきらめるな。文化祭でも演奏できるんだから。いや、そんなんじゃ彼らの心に響かない。どうすればいい。大島はステージを睨んで、いくつもの言葉をシュミレーションしていた。


 持田は大島のやきもきした気持ちを察したのか、翔太に向って、

「そもそも誰に電話しに行ったんだ?」

「さあ……」

「まさか弟とか」

「ああ、そうかもね。警報出てるんだったら心配だろうし」


 ステージに次の学生たちがぞろぞろとあがり、それぞれの楽器のポジションを修正したり、確認したりしている。


「……どこもやっぱり人数多いな」

「ああ」

「あれ、全員来てんのかな。電車止まって来れない奴とかいんのかな」

「いるだろ、そりゃあ」

「それでもあんなに人数いるのか」


 そうやって持田は演奏の合間合間に何事か話しかけてきた。翔太は持田が不安のあまり何か喋らずにはいられないらしいのが分かる気がした。田口さんは演目が進んでも席には戻ってこないし、斉藤が辿り着く気配はまるでない。大島も動揺のあまり目はうつろで、さっきから溜息の連発だった。


 そんな中で常山だけは静かに「すごいね」とか「うまいね」などと控えめに感想を述べていた。


 プログラムが進み休憩を挟んで大島が席を立つと、入れ替わりに生徒会長が翔太たちの座っているところへやって来た。


「もうすぐ出番だな」

「……はあ」

「ブラバンのコンクール出場、二十年ぶりらしいよ。校長が言ってた」

「はあ……」

「これでひとまずブラバン存続は安泰なんじゃないか」

「……」


 翔太はすっと視線を逸らした。


 会長は何もブラバンを潰そうと思っているわけじゃないというのはもう分かっていたが、このコンクールに出る為に骨を折ってもらったというのに、ここでやっぱり棄権しますってなったら……と思うとなんと申し開きすればいいのか分からなかった。


「どうした?」


 翔太をはじめ持田や常山の態度が妙に頑なであることに心づいた会長は尋ねた。


「あいつは? あのトロンボーンのデブ」

「……」


 翔太が無言でいる、と代りに常山が会長を見上げながら答えた。


「斉藤君、雨で電車もバスも止まっててまだ来てないんです」

「えっ」


 翔太はやっぱり会長の顔をまともに見ることができなかった。自分のせいではないが、会長に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 会長は無言で翔太を見つめていた。


「おーい、今、ぐっちゃん……じゃない、田口がイチロー……じゃない、ええと、バンドの奴に頼んで車出してデブ拾いに行って貰ってるって」


 そう言いながら大島が走って戻ってきた。そして会長の顔を見るとぎょっとして立ち止った。


 会長はいつものクールな様子で、

「間に合うんですか」

 と尋ねた。


 問われた大島は教師であるというのに妙にどぎまぎしながら、

「ぎりぎりかもしれんけど」

「……そうですか」

「校長には言うなよ。言うなら、俺が言う」

「……」

 それには会長は答えなかった。ただ何か思案するように口元に手を当て、眉間に皺を寄せていた。


 その時、再開のブザーが鳴った。着席を促すアナウンス。会長は「それじゃあ」と言うと、客席へと戻っていき、代わりに大島がどさりと脱力するように腰をおろした。


「マジで間に合うんすか」

 翔太が噛みつくように大島に尋ねた。


「分らん」

「先生」

「俺に分かるわけないだろ」


 大島はキレたような乱暴な口調で吐き捨てると、腕組をしステージを睨みつけた。大島も焦っているのだ。無理もないことだった。


「あ、田口さん」


 常山がぽろっと漏らした。見ると通路を田口さんが戻ってくるところだった。


 翔太はまたしても、今度はすがりつくように田口さんに尋ねた。


「田口さん、斉藤は……」

「イチローにデブの電話番号も教えたからうまく拾ってくれると思うけども……」

「間に合うんすか」

「……後はもう運を天に任せるしかないな」

「……」


 持田はさっきから無言で交通情報を調べ、息を凝らしてそれらのほとんど絶望的とも言える情報を一人で見つめていた。


 凄まじい混乱と渋滞と。持田は斉藤がもう辿りつけないとほぼ確信し、しかし、それを翔太に言うことができなくて、今はこの絶望に一人で耐えていた。


 コンクールが再開され、また他校の演奏が繰り広げられても、もう常山もさっきのように感想は言葉にしなかった。


 時計は残酷に針を進め、それぞれの頭上を絶望の黒い雲が立ちこめていた。巨大な嵐の前触れのように雲は彼らを圧倒し、息もできないような苦しさをもたらしていた。


 アナウンスがとうとう翔太たちのリハーサル室への案内を告げた。が、誰も立ち上がろうとはしなかった。少なくとも、四人は。


 それを受けて大島は静かに口を開いた。


「行くぞ」


 このまま彼らをここにいさせることが可哀そうで、大島は自分の生徒たちを次々に席を立たせ、先頭に立ってホールを出た。


 悲壮な様子で鞄と楽器を手にしロビーに集合すると、大島は翔太の肩に手を置いた。


「今日が最後じゃないから」

「……」

「お前ら一年だし、まだあと二年、あと二回チャンスある」

「……」

「来月は文化祭もあるし」

「……」


 この言葉を彼らに言わなければいけないことが、大島は心底辛く、翔太の肩に置いた手をそっとはずすと、大きく息を吸い込んだ。


「棄権……」


 実行委員に連絡してくる。大島がそう言いかけると、背後で大きな声がした。


「ちょっと待って!」


 びっくりして全員が振り返った。


「棄権なんてしなくていい」


 静まり返っているロビーに靴音を響かせて近づいてきたのは、生徒会長だった。


「俺がデブの代わりに出ます」

「えっ!」


 思わず全員が叫んだ。いや、正確には田口さん以外が。田口さんは憮然とした表情で会長を睨んでいた。


「な、なに言って……」

「楽譜見せて」


 会長は翔太に右手を突き出した。驚いたことに会長は左手に楽器ケースを携えていた。


「会長、それ……」

「中学ん時の同級生がいたから、借りてきた」

「てゆーか、できるんすか?!」

「……こいつ、中学でブラバンだったからな」


 大きなため息の後、ぼそっと呟いたのは田口さんだった。翔太たちは愕然としながら会長と田口さんを交互に見た。


「こいつ、中学でトロンボーンやってたから」

 田口さんが不機嫌な顔のまま、もう一度言った。


 呆然とする翔太の代わりに常山が楽譜を差し出した。


「でもお前部員じゃない……」


 大島がさっきまで張りつめていた糸がいきなりぶっちぎられたせいで、混乱しながら喘いだ。


 すると会長はしれっとした、いつもの調子できっぱりと言い放った。


「誰にそんなこと分かるっていうんすか」

「……な……。だって、お前、それ……」


 それはそうかもしれないけども。でも校長も来てるし、他の先生たちも見てるし。審査員には分らないだろうし、証明することもできないだろうけれども。でも、だからって。けれども。


 大島の脳内は「けど」と「でも」に埋め尽くされ、他の日本語が崩壊したように、金魚のように口をぱくぱくさせ息を吸い込むだけだった。


「リハ、行くぞ」


 田口さんは一言それだけ言うとくるりと踵を返し、すたすたと歩き出した。それに続いて歩きだしたのは生徒会長だった。


 翔太は平井の意味深な笑いや態度がぱっと頭に浮かんだ。そして脳内で静電気火花が起こるようにぱちぱちと彼らと交わした会話や、田口さんの様子や、あれやこれやがいっぺんにフラッシュバックし、滞っていた電子回路がぱちっと繋がるのを感じた。


 ブラバン復活を阻止するような言動で翔太を煽り、田口さんを引っ張りだしたこと。全部会長の作戦だったのだ。田口さんを学校に戻すための。「中退する生徒」について言及していたことも辻褄があう。


 何があったのか知らないけども、彼らはかつて一度は同じブラバンの「仲間」だったのだ。


「お前の譜面はバンド編成だな」


 歩きながら楽譜を見ていた会長が田口さんの背中に向って言った。


「いいんだよ。その方がかっこいいんだから」


 田口さんがぶっきらぼうに答えた。


 翔太たちは顔を見合わせ、それから、慌てて駆け出した。


 リハーサル室と書かれたプレートのあるドアの向こうは重厚な造りで防音が施され、床も壁も飴色をした美しい木製で翔太たちにしてみれば「場違い」なところだった。そもそもこのコンクールに出ること自体が場違いなのだけれども。言うなれば「違和感」。袋菓子の中の乾燥剤のように邪魔っけなものだ。


 それぞれ楽器を準備し、チューニングすると、田口さんが「軽く合わせとくか」と言って、会長を促した。


 翔太は会長が初見で楽譜を素早く読み、正確に音を出し、リズムを刻むことに衝撃を受けていた。それは、経験者の音だった。真面目に練習して身に付けた音。体で覚えたことというのは、そう簡単に忘れるものではない。


 一度通して楽譜を確認し、曲の頭と、難しいところを一度だけさらうと、それだけで持ち時間はいっぱいだった。



 持田はショックから立ち直れないような青い顔で、まだ信じられないといった面持ちで会長を上目づかいに見ていた。


「あの、会長」

「なに」


 翔太はリハーサル室を出て、ステージ袖へと移動する通路を進みながら会長の背中に話しかけた。


「中学ってどこ出身なんすか」

「T中」


 会長が答えたのは、コンクール優勝常連の名門校だった。翔太が度肝を抜かれていると、会長はちらっと後ろを振り向きにやりと笑った。


「じゃあ、田口さんも……」

「田口、アンサンブルで優勝したことあるって聞いてない?」

「聞いてませんよ!」


 思わず大きな声を出すと、通路にいたスタッフから「静かに!」と注意された。翔太は慌てて口を押さえた。そして今度は会長の背中にもう一歩詰め寄る格好でひそひそと囁いた。


「会長と田口さんって、本当は仲良いんですか」

「……」


 その質問には会長は答えなかった。翔太は今度はさらに歩みを進めて、その先にいる田口さんの背中にくっついた。


「田口さん」

「ふん」

「……会長って、なんでこの学校入ったんすか。めっちゃ頭いいんでしょ」

「インフル」

「はい?」


 階段をあがり、ステージの袖まで来ると緞帳の陰から満員の客席が垣間見えた。


 ステージには他校の大所帯のブラバンの生徒が所狭しと椅子と譜面台を並べ一心に演奏を繰り広げているところだった。


 ステージ袖に待機する格好になった翔太たちに会場スタッフが、

「この後だけど、椅子はそのままになるから。一番前の列に座って」

 と指示した。


 こんな四〇もの椅子が並ぶステージで、たったの五人でやるなんて。翔太はそう思うといたたまれない気持ちになり、

「僕ら五人なんですけど、椅子はどけてもらえないんですか」

「君ら五人だけど、その後はまだ三〇人とか四〇人だから。椅子片付けて、またセットする時間ないよ」

「……ですよね……」

 スタッフがまるで馬鹿にするように、呆れたように鼻先で笑ったような気がした。


 そのやりとりを黙って聞いていた田口さんが翔太を振り向いた。


「会長、受験の日にインフルエンザで試験受けられなくて、しょうがないから二次募集でここに入ったんだよ」

「え、マジすか」

「インフルじゃなかったら、今頃超進学校に行ってたはずなんだけどな」


 田口さんは笑っていた。笑いながら、翔太の気持ちを鼓舞しようとしてくれているのが分かった。

 ちらっと会長に視線を送ると、会長はにやにや笑う田口さんを無視するようにことさらに取り澄ました顔で、譜面に並ぶ音符を目で追っていた。


 とうとう前の学校の演奏が終わった。ぞろぞろと引き上げて行く生徒たちとすれ違いながら、翔太はその中に「え、五人しかいない」と笑いの滲む声をはっきりと聞いた。田口さんも持田も、もちろん会長も黙ってそれを聞いていた。


 が、黙っていない奴が一人いた。


「五人でなにが悪い」


 去っていく他校の生徒にぴしゃっと言い放ったのは驚いたことに常山だった。細い体で重い楽器を抱えて、常山は彼らを睨み据えていた。


「よせよ」


 会長が常山を制した。


 翔太と持田は、常山のそんな攻撃的な声を聞いたのが信じられなくて唖然としていた。


 プログラムが読み上げられ、会場中に響き渡る。と同時に、どよめきと、笑いが巻き起こった。そういう反応をされるだろうと初めから分かっていた。


「はい、出て」


 スタッフに促されると、田口さんが翔太たちを振り向いた。


「あのさ、座んなくていいわ」

「え?」

「椅子。座ってやる必要ないから」

「いいんですか」

「座ってやれなんてルール聞いてない」


 それだけ言うと、田口さんはステージへ向かってずんずん歩きだした。


 会長もそれに続き、翔太たち一年は慌ててその後を追って出た。


 五人の姿がステージ袖から現れると、どよめいていた会場は驚き、戸惑い、普通なら拍手するところをそれさえも忘れてしんと静まりかえってしまった。


 やっぱり場違いなんだな。まあ無理もないか。全員じゃないにしても自分たちの学校の生徒が日頃の行いが悪いのも事実なんだし。馬鹿なのも本当のことだし。……だから傷つかないってことではないのだけれども。


 翔太たちは田口さんの指示通り、ステージに並んだパイプ椅子には座らず、スネアやハイハットをセッティングして中央に横並びに緩やかな弧を描いて立った。


 フットライトが眩しく、熱気を頬に感じた。見ると客席はやはり無言で翔太たちを見守っている。


「翔太」

「……え」


 ステージ上だというのに、田口さんが息だけの声で翔太を呼んだ。顔は前を見据えたままで。


「がつんといくぜ」


 田口さんはそう言うと、客席に向って礼をした。慌てて翔太たちも頭を下げた。そこでようやくぱらぱらと拍手が起こった。


 ステージの上、田口さんがひとりひとりと視線を合わせる。翔太たちはそれに頷いて返す。マウスピースを口にあて、田口さんが低い声でカウントするのを聞き、最初の音……!


 あとはもう夢中で、何が何やらさっぱり分からなくなっていた。客席の反応はやっぱり驚きと笑いに満ちていたが、翔太たちは自分の出す音を互いに確かめあい「情熱の薔薇」を演奏した。


 皆、懸命だった。心が一つになるのを翔太ははっきりと感じていた。それは「自分たちだってやればできるんだ」という心だった。「馬鹿にすんな」という憤りであり、「やってやる」という負けん気。そして「楽しい」という気持ち。


 演奏そのものは決して高いレベルだとは言えなかったし、まったく間違えなかったかというとそうではなかった。でも、フルコーラスをやりきることができたし「音楽」になっていた。


 翔太は感動のあまりまた涙がじんわりこみあげそうになっていたが、持田と常山、それに田口さんは同じことを考えていた。それは翔太が熱血野郎で、翔太にこそ「情熱の薔薇」があるから皆がそれについてきたのだ。本人はまるで分っていないけれど。


 演奏を終えてもまだ胸がどきどきしていた。田口さんが翔太たちを見る。そして、礼。


 するとまだ信じられないものを見たという顔をしていた客席からどっと押し寄せるような拍手が沸き起こった。翔太は会長がほっと安堵のため息を漏らすのを聞き逃さなかった。


 頭を上げて眩しい気持ちで客席を見渡す。すると、最前列の右手通路に斉藤と男前ギタリストが立っているのが目に入った。


 翔太は思わず「あ」と呟いた。斉藤は必死の顔で、周囲の人がちょっと引いてしまうぐらいの熱意をこめて拍手を送っていた。翔太は斉藤に向って深く頷いて見せた。


 ステージを下りて、楽器をケースに収め、ロビーに出ると会長は「じゃあな」と二階席へ続く階段へさっさと向って行った。


「田口さん、なんか言わなくていいんすか」

「……」


 翔太が会長にも聞こえるようわざと大きな声で田口さんに呼びかけた。が、田口さんは「別に」とつんとそっぽを向いてしまい、何も言おうとはしなかった。


 仕方ないので翔太が会長の背中に「ありがとうございました!」と叫んだ。


 やっぱりなんかあるんだなあ。翔太はそう思った。言葉にできるような簡単なことじゃないんだろうな、とも。でも、いい。彼らもまた言葉ではなく音楽で心を通わせることを知っているのだから。


「なんだよ、なに見てんだよ」


 翔太の視線に気づいた田口さんがふんと鼻を鳴らした。この人も決して素直な人ではないのだ。けどちゃんと分かっている。人の気持ちとか、どう生きるべきか、とか。


「あ、あれ、斉藤君」


 常山がロビーの隅に立っている斉藤を見つけ、指差した。


 斉藤は何とも言えない顔で翔太たちを遠巻きに見ており、さっきの会場での感激した面持ちの拍手とは一変して今にも泣きそうな顔をしていた。


「あー! デブー!」


 最初に大きな声で、それも明るく呼び掛けて駆け寄って行ったのは田口さんだった。


「心配したんだよ!」

「あ、あの……」


 斉藤は巨体を縮こまらせ、ぎゅっと唇を噛んで俯いた。


「イチローと会えた? どこで拾ってもらえた?」

「あの、俺……。すみませんでした!」


 斉藤ががばっと勢いよく頭を下げた。声が涙で湿っていた。


「俺、間に合わなくって……。迷惑かけて……」


 洟をすする音が言葉のひとつひとつの間に挟まる。思えば斉藤も真面目に練習し、ランニングも腹筋も汗まみれになって頑張っていたのに、こんなアクシデントで間に合わなかったなんて一番つらいのは斉藤だろう。翔太は思ったままを口に出そうとした。


 すると田口さんが突然斉藤の巨体にぎゅうっと抱きついた。そしてまるで子供をあやすように背中をぽんぽんと叩いてやりながら、いつになく優しい声で囁いた。


「こういうことがあるからさ、早め早めに出ないとな?」

「……」

「なんだよ、泣くなよデブ。まだ来年もあるんだから」

「……」

「来年はもっと上手くなってるし」

「……」

「なあ、デブ、俺らの演奏聴いてくれたか?」

「……」

「会長よりお前の方が、上手いよ」


 泣くなよと言われたのに、斉藤は田口さんに抱きしめられる格好で声をあげておいおい泣きだしてしまった。


 こういった場合、遅刻や「間に合わない」なんて事態は責められることなのかもしれない。少なくとも、他校では。社会では。けれど一番悔しくて悲しいのは斉藤本人ではないか。


 恐らくこの先斉藤はどんな場合でも「最悪の事態」を想定して動く人間になるだろう。


 翔太たちも斉藤を取り囲み、口々に「泣くなよー」とか「文化祭でもやれるんだしさあ」と慰めながら、しまいには巨大な体で子供みたいに泣く斉藤がおかしくって笑いながら、小突いたり、背中を叩いたりしていつまでも一つの輪になっていた。



 気がつくとまた季節が一巡し、翔太は卒業式の席へ連なっていた。


 翔太は一学期に停学になったおかげで追試に次ぐ追試となったが、どうにか留年は免れて無事進級できることになり、ほっとしていた。


 卒業式に在校生が出ることはないのだけれど、翔太をはじめ持田、斉藤、常山、それに田口さんが片隅に座っているのは理由があった。


 そう、それは、翔太たちが「ブラバン」だから。翔太はここまでの道のりを「奇跡」だと思っていた。


 が、他の誰もそうは思っていなかった。ブラバンの復活は当然の結果だと思っていた。


 翔太は、本当なら田口さんも卒業だったはずなのになと思うとちらっと田口さんの顔色を窺ったが、別に気にしている様子はなく黙って楽器を手にじっと前を向いていた。


 卒業証書が各クラスの代表に渡され、在校生代表の送辞が読み上げられ、式次第は淡々と進んでいった。


 あれほど慣れ親しんだ「絶望」という感情はもう遠い思い出のようになっていた。そのことが翔太は不思議なような気がしていた。


「卒業生代表、答辞」


 式の進行をしているのは大島で、プログラム片手に体育館のステージ前に立っている。この一年で大島もずいぶん変わった。あのやる気のないだらだらした様子はもう微塵も感じられなかった。


「あ、会長」


 呟いたのは持田だった。見ると卒業生の席から立ち上がり、まっすぐにステージへ進んでいくところだった。


 翔太たちは俄かに厳粛な気持ちになり、ステージへ登壇する会長を静かに見守った。


 会長は中央に据えられたマイクの前に立つと、一礼し、ポケットから一枚の紙を取り出した。


「答辞」


 会長のいつもの落ち着いた声が凛として響き渡った。


「長かったような、短かったような三年間が、今、終わろうとしています。こうしてここにいると、初めてこの学校の門をくぐった日の事もはっきりと思い出すことができます。


 入学式の日、これからのことを考え期待と不安の入り混じった複雑な気持ちになりました。先輩たちの活動に憧れて入部した部活動では、思ったより練習が厳しく、何度も根をあげそうになりました。また、初めて学ぶ専門の勉強はとても難しくて頭がくらくらしたりもしました。けれども、友達ができるにしたがって学校生活が楽しくなり、いけない事とは知りながらも授業中に雑談を交わしたり、週刊誌をまわし読みしたりする余裕もでてきました。


 高校生活の一番の思い出となったのは修学旅行です。宿舎でカラオケ大会をしたり、夜遅くまで騒いだりしたこと。スキーのできる者とできない者とが助け合い、共に上達したことがとても印象に残っています。


 こうした高校生活を通して友情を育み、落ち込んだ時は慰めてくれたし、辛いことがある時は助けてくれたりして、そうしてここまでたどり着きました。いい思い出ばかりではなかったけれど、この高校に来て良かった。


 難しい専門科目に頭を悩ませ、レポートに追われ、逃げ出したくなることもあったし、勉強に興味を失い辞めてしまおうかと思うこともあったけれど、今日まで頑張りぬいて本当に良かった。


 この学校を悪く言う人もいますが、本当は明るくて素直で前向きな人ばかりです。大切なのは人にどう思われるかという事ではなく、自分の心をしっかり持つという事です。それをこの学校で過ごすうちに教えられました。


 先生方に迷惑をかけることもありました。意見が食い違ったり、お互いを理解し合えないが為に言い争うこともありました。憎むこともあったけど、そんな気持ちもこれから十年、二十年した時にきっと懐かしく、温かい気持ちで思い出せることでしょう。


 僕達は三年間の高校生活を終えて、これから社会に出て行きます。また辛い事や苦しい事にも出会うでしょう。けれど、今までさまざまな困難を乗り越えてここまできたのだからこの先何が起きても、きっとくじけることなんてないと思います。


 長い人生のうち、三年なんて本当に短い時間だけれど、僕達にとっては何十年分にも匹敵する内容を持っていました。それでも、僕達が後輩の皆さんに残せるものは何もないように思えます。もし、皆さんにアドバイス出来ることがあるとすれば、それは学校生活を楽しくするのも、つまらなくするのもいつでも自分の気持ち次第だということです。今は誰にも認められなくても、一生懸命頑張っていればきっと誰かが気付いてくれるはずです。粘り強く努力を続け、残った高校生活を大切に過ごしてください。


 三年間お世話になった先生方、苦楽を共にした友達、十八年間育ててくれたお父さん、お母さん、本当にありがとうございました。


 今のこの素直な気持ちをずっと持ち続けていきます。溢れるばかりの感謝の気持ちをこめて、これでお別れの挨拶とさせて頂きます」


 会長は手にしていた紙をまたポケットにしまい直し、深々と礼をした。


 大切なのは人にどう思われるかでなく、自分の心をしっかり持つこと。楽しくするのも自分次第、か。


 翔太はまたちらっと田口さんの横顔を見やった。田口さんは卒業生の席へ戻る会長をじっと見つめていた。


 まだ外の空気は凍るように冷たかったが、空が美しく澄んでいてすべてを清浄にしていくようだった。


 大島が翔太たちに合図を送っていた。


 翔太たちブラバン一同は立ち上がると、大島の言葉を緊張しながら待った。


「卒業生、退場」


 田口さんが小さくカウントをとった。一瞬、生徒も保護者もどよめいたが、ブラバンは「情熱の薔薇」を思いきり勢いよく吹き始め、卒業生を送り出していった。


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情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう(全編一気読み版) 三村小稲 @maki-novel

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