喰い逃げ大先生、最後の夏

桑原賢五郎丸

喰い逃げ大先生、最後の夏

 ゴシップ週刊誌の編集をやっていると、様々な噂を耳にする。

 人面魚や口裂け女は別格であるが、中には都市伝説とまでいかないような、しょぼい噂も聴こえてくる。大手芸能事務所関連の触れてはいけない噂もある。


 これもそのしょぼい噂に過ぎないが、喰い逃げ大先生と呼ばれる老人がいたらしい。本名は分からない。その名の通り、喰い逃げに人生をかけた人物だったそうだ。


「残さず、焦らず、払わず」というとんでもない言葉をモットーに、全国のいたる場所で喰い逃げを続けたらしい。捕まったわけではないので全貌がつかめない。


 ただの噂だろうと気にせずにいたところ、昨晩、彼の手記が発見されたとの情報を掴んだ。これをスキャンダラスな記事にすれば、ライバル誌に差をつけることができるかもしれない。火のない所に煙を立てるのが編集者の役割だ。売上によっては臨時ボーナスも夢ではない。


 そう考えた私は、その情報を垂れ込んだ人物に会うことにした。


 都内の喫茶店で待ち合わせたところ、黒いスーツを着こなした壮年の男が現れた。まるでSPかなにかを彷彿とさせる物々しい雰囲気だ。男は手記を手に、錆びたような声で言った。


「記事が完成したら、まず検閲させて頂きます。それだけは約束してください」


 発行前にインタビュー元に確認を取るのは当たり前の話だが、検閲という言葉を使うのが気になった。とりあえず軽く約束し、私は手記に目を通した。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 喰い逃げは、我々老紳士のたしなみである。店を選び、喰い、逃げる。いずれも高いレベルが要求されることもあり、競技人口は少ない。

 最近の軟弱な若者は「喰い逃げなど犯罪者のやることだ」「食べたらカネを払うのは当然」「ただの卑劣な犯罪」などと屁理屈ばかりこね、さも喰い逃げが悪であるかのように主張している。

 体力と度胸のなさを倫理観に置き換え、戦うことを知らない腑抜けた連中だ。ボール1つでサッカーができるのであれば、勇気ひとつで喰い逃げがスポーツになることは疑いようもない。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ者はいないのか。


 オゾンクラッシュ水野、コンコルド伸行のぶゆき、バキューム勅使河原てしがわら、ゾンビフィーバー悦男えつお、デイドリーム古賀、マジカルボヘミアン蝶子ちょうこ、そして私、喰い逃げ大先生。

 彼らと考案した2020年夏の「喰い逃げオリンピック」は忘れることができない。我々にとっては”裏開催”にあたるオリンピックが延期されたこともあり、開催は必然といえた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 手記から目を上げ、黒服に問いかけた。


「検閲というのは、あれですか。犯罪幇助になる恐れがあるからですか」

「そうではありません」

「この人と我々一般人の間には、大きな価値観の相違が見受けられますが、これは大丈夫な人なんですか、喰い逃げオリンピックってなんですか、ふざけてるんですか」


 黒服は何も言わず、手で読み進めるように示した。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 例えば高級フレンチレストランで


「大変美味しかったです。オーナーはいらっしゃいますか」


 と言えば喜んでくれるだろうし、まず金額は発生しない。これが私の技術だ。お互いが気持ちよく喰い逃げできる、これが理想である。

 オゾンクラッシュ水野たちも同じく、通訳を通して感謝を告げる。こうして店側、喰い逃げ側が感謝でつながる幸せな世界がここに生まれるのである。

 だが、どうしても感情がぶつかってしまうことがある。中華料理店でのことだ。当然料理人は中国人である。バキューム勅使河原が通訳経由で感謝を述べたところ、笑顔で金額を要求された。この場合には残念ながら支払う他に道はない。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



「ええと、よくわからないのですが、この方達はすごくエライんですか。庶民をバカにしてるんですか。通訳ってなんですか」

「それは、その方々が外国の方だからです。こちらがバキューム勅使河原氏」


 そう言って黒服は写真を取り出した。

 3秒ほどそれを凝視し、何度か首を捻ったあと、私は高い声で尋ねた。


「ほん、本物……? 合衆国大統」


 黒服は手を立てて私の言葉を止めた。同時に写真も懐に収める。


「え、すると、この皆さんというのは……?」

「ご想像にお任せします」

「ということは、まさか、喰い逃げ大先生とは」

「それ以上は口になさらないでください」


 お互いの為ですから、と黒服は口をつぐんだ。

 乾いた唇をなめ、私は言葉を絞り出した。


「な、なぜ日本でこんなことが」

「それは、御本人様がお書きになられている通り、オリンピックが延期したことにより落胆している国民に話題を与えるためではないでしょうか。その年だけは、とお思いになられたのかもしれません」


 現に、喰い逃げ大先生の噂は2020年を境にピタリとやんでいた。


「お店側には御自ら『どうぞご内密に』と申しておられました。ご存知のように、2020年の夏は飲食店に人はほぼいなかったのですが、どうしても人の口に戸は立てられません」


 自分のつばを飲み込む音が異様に大きく聴こえる。


「やめて頂きたいと思うことは許されませんし、我々にお止めする手立てはない。なので、あまり掘り下げないで頂きたいというお願いで参りました。推測で書かれるとお互いの為になりませんので」


 ふと気づくと、私の周囲を黒服が囲んでいた。確かに、触れてはいけない噂もあるのだ、と重し知らされた。

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