涙はいつか絆をたばねる糸になる
沢村基
涙はいつか絆をたばねる糸になる
ラグビー場には乾いた北風が吹いていた。
スコアは12対17。5点差で負けている。しかし、ワントライ取り返せば追いつける点差だった。残り時間はあと7分。
県大会はトーナメント制だ。ここで負ければ高校生最後の試合になる。勝ち抜けば、全国大会への切符が待っていた。それは俺たちの代が三年間追い求めた悲願だった。
「あと7分で必ずワントライとるぞ」
主将の俺は怒鳴った。グラウンドに立つメンバーは、まだ誰もあきらめた顔していない。体のあちこちに泥と芝生をくっつけながら、全員が燃えるような瞳をしていた。
スクラムからボールが出る。スクラムハーフの大石が俺にパスを放る。受け取ってキックのモーションに入った時、相手の選手がまっすぐこちらに突っ込んでくるのが見えた。蹴り上げたボールは、相手選手の手にはじかれ、蹴ったのとは反対側の味方陣内に転がった。
ベンチから悲鳴があがった。チャージを受けての痛恨のキックミスだった。マイボールスクラムの逆転のチャンスが、最悪のピンチへと変わった瞬間だった。
本当は主将なんて器じゃなかった。今でもそう思う。監督に指名されてからは、仲間と、監督、コーチのあいだに挟まれて悩むことばかりだった。
一番やりにくかったのは、俺にフォワードの経験がないことだった。俺のポジションはスタンドオフで、司令塔とも呼ばれる戦術の要となるポジションだ。アタック戦術、ディフェンスの陣形……必死に勉強はしたが、スクラムを組んだ経験もなければ、人の重なり合う密集でもまれることも少ない。
副将はロックの秋嶋で、中学生のときからずっとフォワードをやってきた。体を張ってスクラムを押し、人が重なり合う密集戦に飛び込む。俺の足りない経験を補うように配置されたのだと、頭ではわかっていた。ただし、こいつは言葉に容赦がない。
「バックスにこんなミスをされたら、フォワードはやってられねーんだよっ!」
試合後の反省会で、声を荒げることもあった。そのたびに俺はみんなの前でバケツの水を浴びせられたような気分になり、自分の統率力の無さにさいなまれた。
敵に体をあてる痛いプレーをフォワードの選手にまかせて、バックスは楽をしていると思われているんだろう。そんな立場にいる自分の声がチームメイトに届くのだろうかと不安になり、その不安から逃れるようにがむしゃらに先頭を走り続けてきた。
リーダーとして、バックスのひとりとして、常に真剣に取り組む姿勢を見せなければ、フォワードの信頼を得られない。いつも崖っぷちに追い込まれているような気分だった。
なのに――その自分が、一番大事な場面で取り返しのつかないミスを犯してしまった。
ボールを獲得した相手選手は、味方の歓声を浴びながら、ゴールラインに飛び込んだ。
ゴールキックは成功。点差は十二点差に開いた。
終わった。
ぞくっと全身が震えあがるような戦慄のあと、喉の奥が熱くなってきた。
「泣くな!」
ビリっと鼓膜がしびれるような大声は、聞き慣れた秋嶋の声だ。
「まだ終わってねーだろ」
背中に大きな手が置かれる。汗に濡れた背中に体温が染みてくる。
「最後までしがみついて、あがいて、俺達らしく終わるぞ」
土埃で汚れた顔は、この状況に少しもひるんではいなかった。その気高い表情に呼応して、俺は一度うなずき、息を吸い込んだ。
「俺たちの意地、見せんぞ!」
半泣きのまま、必死の気迫で叫んだ。
あれから5年。今年は2020年、昨年のラグビーワールドカップでの日本代表の活躍は、人々を熱狂させ最高の盛り上がりを見せた。
俺は大学を卒業して、ラグビー選手として大手メーカーに採用された。社員として働きながら、トップリーグの選手として活動する予定だ。今年は東京オリンピック、パラリンピックが開催され、多くのアスリートにとっても特別な夏になる予定だったのだが――新型コロナウイルスの影響により、オリンピック、パラリンピックは延期。ラグビートップリーグは中止。ほかのスポーツも同じ状況だ。
幸いにも俺はまだ解雇されていない。しかし、ラグビー部の活動は休止したままだ。
梅雨が明けた。夏の日差しが街を照らしていても、気持ちは晴れなかった。
もともと成長の止まっていたこの国の経済はさらに痛手を被った。物流、医療従事者は疲弊し、思うように働けない人々の生活は逼迫している。
この現実を前に、スポーツで誰かを勇気づけることなどできるだろうか。スポーツ観戦なんて精神的、経済的余裕があったときの娯楽であり、今はそれどころではないというのが世間の本音なのではないだろうか。
俺は、長年憧れてきたはずの「スポーツ選手」という肩書きに、うっすらと呵責を感じていた。丈夫で健康な肉体があるならば、ボール遊びに興じていないで、地道に誰かのために尽くすべきなのでないのだろうか。
実家の母に電話を入れた。
「ごめん。今年も帰れない」
もう何年も、夏合宿や遠征でお盆に帰省したことがなかった。
俺の実家は、古い商店街の一角で喫茶店という名の軽食屋をやっている。両親と妹の家族経営でやってきたが、それも4月からの1か月は営業を自粛せざるをえなかった。収入も減って大変だっただろう。今まで好きにやらせてもらってきた。もうスポーツ選手としての未来に見切りをつけて、恩返しするべきときなのかもしれない。
「テイクアウト始めたのよ」
受話器の先の母は元気そうな声を出した。
「お昼になったら駐車場にパラソル出して、コーヒーとお弁当売ってるの。結構売れるのよ。昔のラグビー部の子も時々来てくれるし。秋嶋君とか大石君とかね。下の代の子達も」
あんた慕われてたのねえ、と母は感慨深く語っている。
そうか。みんなうちのことを気にかけてくれてたのか。胸が詰まるような感じがした。
「ラグビー部の同期の中で、隼人だけが社会人チームまでいった、って自慢に思ってくれてるのよ。だからね、こっちのことは心配しないで」
まるで俺の迷いを見透かしているようだった。
5年前のあのとき、敗戦を迎え、俺はロッカールームで仲間に頭をさげた。
全部俺のせいだ。俺たちの3年間をつまらないミスで終わらせたのは自分だ、と。
「違うだろ」
秋嶋が怒るように低い声を絞った。
「キックチャージ受けるときの練習もしておけばよかった、だろ?」
俺は思わず秋嶋の顔を見た。悔し気に眉を寄せて目を細めたまま、水滴の落ちた床を睨んで言う。
「お前がひとりでキック練習するのに、誰かに敵の役をやってくれなんて言い出せなかったんだろ? 頼めない空気を俺たちがつくってたから。ひとりでやって俺たちを休ませてくれたんだろ? お前だって本当はとことん自分の技術を磨きたかったよな」
俺は首を垂れた。毎日みんなへとへとになるまで練習をしていた。俺のために余計に走らせることなんてできない。
秋嶋は急にくしゃっと顔をゆがめた。泣き笑いの顔で言う。
「お前は才能あるのにな。ここで終わらせて、ごめんな」
謝るな。謝らないでくれ。
つまらない遠慮をしたのは俺だ。壁をつくっていたのは俺だ。
鼻水をすすりあげると、涙だけが頬を伝って流れ落ちた。冷えきった頬に、火傷するのではないかと思うほど熱い滴だった。
今ならわかる。
秋嶋が率先してみんなの不満を言ってくれたからこそ、俺は全体のことを最優先に考えることができた。正面から本音をぶつけてくれたからこそ、裏でこそこそ悪口を言われなかった。
高校生のときは、そこまでわからなかった。ガキだったから。自分のことで頭がいっぱいだったから。言動の裏にある人の誠意に、気づける人間でありたかった。
立場になんかこだわらずに思ったことを素直に伝え、そしてみんなにもっと感謝すればよかった。
珍しく父親からメールが届いた。サブジェクトに「近況」と書かれたメールには、写真が添付されていた。酔芙蓉のピンクの花、近所の猫、そして八幡神社の写真だった。
ひらくと堅苦しい文面で、季節の挨拶に続き、今年の自治会の盆踊りの準備がまったく進まないことが書いてあった。
三枚目の写真の八幡神社は、小さな頃から毎年秋祭りに行った懐かしい場所だった。写っているのは、建物や境内ではなく、石を積んで作ったすり鉢状の舞台だった。外周は内側になるほど階段状に低くなっていく。中心に四角く土を盛ってあり、秋祭りにはここで奉納相撲が行われていたらしい。実際に力士の姿を見たことはない。とっくに伝統はとぎれ、単なる史実となっている。
「ここのお相撲は三百年前からやっていたそうです。昔の人だって生活が大変だったけれど、それでもお祭りをやって、相撲をやっていた。それが人間というものだと父は思います」
長い前置きをして、父はおそらくこれを俺に伝えたかったのだ。
江戸の人々は今よりずっと貧しい暮らしをしていただろう。医療も未発達のなか災害や疫病に怯え、自動車も耕運機もない世界で、重労働に耐えて毎日を生きていた。その日々を支える娯楽は祭りだ。相撲の余興だったのだ。
この国の経済が発展し豊かになるずっとずっと昔から、「競技」は神への献物であると同時に、ハレの日を飾る庶民の楽しみであり、大切な祝祭だったのだ。
鍛えた力士たちが、体をぶつけあい、押し合い戦う。老若男女みんなが熱狂して「おらが村の闘士」を応援する。そんな祭りの夜があって、また労働の日々を暮らしていけるのだ。
いてもたってもいられない気分になった。素早く着替え、ジョギング用のシューズを履いた。
まずはアップから。足首を回し、軽く跳ねてから、合宿所の外周を走り出す。
風が吹く。道路にはスポットライトのような木漏れ日が揺れ、地面はまだらに光る。
取り戻せ。人々の熱狂を。活力を。
辛い現実を生き抜くための、一瞬の興奮を。
この一歩から作り出せ。
「まだ終わってねーだろ」
いつかの秋嶋の喝が心を奮い立たせる。
どんな苦境に立たされたって、ひとりぼっちで戦ったことなど一度もない。
了
涙はいつか絆をたばねる糸になる 沢村基 @MotoiSawa
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