無明の霧

有部理生

口笛が呼び込むモノは

「霧の中で口笛さ吹くでねぇぞ」


幼い私に祖母はそう言って聞かせた。


「なんで?」


当時私は大好きなアニメの主題歌を口笛で演奏したくて、朝も夕も問わず口笛を練習していた。突然の理不尽と思える叱責に、当然のごとく私は理由を尋ねる。


「霧の中で口笛吹くとな、××が来てお前をさらっちまうわ」


確かにその時の窓の外は白いもやが立ちこめけぶっていたように思う。


「嘘だ、そんなのいるわけないもん!」


当時私は実家や祖母の家にあった図鑑を片っ端から読み漁り、夕方のアニメ以外は教育テレビをお供としていっぱしの科学者を気取っていた。当然非科学的なものごとなどこの世にありうる筈はなく、全てが科学で説明できると信じていた。


「嘘でねぇ、おっかないから口笛はやめなさい!」


連れ去られる恐怖よりも、むしろ祖母の気勢が怖くて私は眼に涙を滲ませた。その後の記憶は定かではない。幼い心に過負荷がかかったせいだろうか。


それ以来祖母の家では口笛を吹かなくなった。霧の発生時に限らず、口笛を吹いているところを祖母に見つかったら怒られる、と強く恐れたからだ。結局口笛の練習は幼稚園や小学校で少しずつ続け、小学校中学年に差し掛かるころにはなかなかの名手になった。


記憶といえば、結局祖母の言っていた××とは何であったのだろう? 霧の中で口笛を吹くと連れ去られるという因果は覚えているのに、肝心のそれを起こす主体の名を覚えていないとは。


友人に一度この話をしたことがある。


「それって夜口笛を吹くと蛇が来るってやつじゃない?」


「私の祖母は霧って言ってたけど……それに毒蛇じゃなきゃ蛇なんてとってもかわいいのに、なんで怖がる必要あるんだろう?」


「あんたねぇ……霧深いのも夜も似たようなものじゃない? あ、でも、本当は蛇って口笛なんてきこえないんだって」


「身体じゅうの皮膚や肺を使って結構音をよく聞いてるって話はきいたけど、口笛に反応する理由がわからないよね。蛇遣いんところから脱走したわけじゃ有るまいし」


「へぇ、そうなの……じゃなくて、夜口笛を吹くと寄ってくるのは蛇じゃなくって人攫い・人買いだって話、知ってた?」


「ううん、なにそれ」


「昔は人買い同士で口笛で連絡しあってたんだとか何とか」


「確かに怖い感じはするけど、逆に情報伝達の法則がわかれば乗っ取って一網打尽にできるんじゃない?」


「出た、絶対問題解決する人間」


「それにさすがに今どき人買いが口笛は無いでしょ、人身売買組織があったとしても普通に無線くらいは使ってるでしょ?」


「そりゃまぁ、そうだけど……」


「じゃあ怖がる必要は無いね」


「うーん、まだなんかあったような……」


そこで昼休みが終わった。結局この話題は繰り返されることも無かった。


祖母や友人との思い出を思い出したのには理由がある。今朝私の住む地域が一面霧に覆われているからだ。白く渦巻く雲粒が辺りを流れて、雲間からごく微かに落ちる陽光に時折きらめいて、。あまりの美しさに、ふと口笛で霧に一曲捧げたくなった。

祖母の叱責はもちろん思い出したけれど、いまさら幼少期に教えられた迷信に縛られるのもおかしいような気がして、かえって反発心が湧く。


「私が知っている中で一番綺麗な曲を奏でよう」


私は霧を前に記憶を辿り、メロディーを息に乗せ窄めた口より吐き出す。時おり即興もいれながら最初の数小節を吹ききった。天地自然と繋がるような昂揚感。息を吐ききり息継ぎをする瞬間。



私は一人暮らしである。戸締りはしっかりとしている。ペットの類は飼っていず、この部屋ではゴキブリの類も見たこと無い。


「何っ!?」


一瞬びっくりしたが部屋を見回しても何も異常は無い。


少し迷って、もう一度そろそろと口笛を吹き始めた。霧は相変わらず渦巻き、密度が増したのか少し暗くなったようだった。


二回目の息継ぎ。


また何かの気配。


今度はいちいち反応しない。霧が濃くなったようだ。


三回目の息継ぎ。


何かの気配が近づいたような。慌てて口笛を再開する。窓の外は相変わらずの渦巻く霧。


四回目の息継ぎ。



何かの気配は、気配は、広がって……


心霊現象には気を確かに、心を強く持つのが良いのだという。死者は所詮生者には勝てないのだという。神様は人間の信仰で力を得るから、人間に否定されれば力を失うのだという。


。あの日の祖母の恐ろしい形相が、恐ろしいことが起こるのだと心から信じている顔が脳裏から離れない。


霧はまだ晴れない。

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無明の霧 有部理生 @peridot

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