箪笥と蟄居したこと

柚木呂高

箪笥と蟄居したこと

 窓から見える泰山木タイサンボクの花が無垢な白い布を広げている。東京ロックダウンが発令されても僕の生活はそう大きくは変わらなかった。恋人も友人もいない、外出する理由もない、学校も随分前から休校したまま夏休みとなったので九畳一間の城で悠々自適ゆうゆうじてき蟄居ちっきょ生活。普段は引き篭もるのに幾許いくばくかの罪悪感が伴うものの、状況が自分の生活を肯定してくれているようで、むしろ社会貢献をしていると所懐しょかいするほどである。


 流しっぱなしの音楽、氷が溶けて汗をかいているオレンジジュースの透明のグラス、立て掛けられたレコードのジャケット、テーブルの上に置かれた鳴らない携帯電話、切り取られた時間。ベッドに腰掛けて床に転がっていた写真集を手に取ってページをぱらぱらとめくる。


「美しい写真ね、個性的で何を取っているのかしら。」

「ああ、これは僕の知り合いの写真の師匠みたいな人の作品集なんだ。街のあちこちにある錆やシミ、苔、カビなどを高解像度で切り取って、まるでジャクソン・ポロックやゲルハルト・リヒターのアブストラクトシリーズのような作品を撮る。」

「へえ、すごい、不思議と吸い込まれそう。」


 見目麗しい少女が写真集をベッドに乗って後ろから覗き込んでいる。同居人と言うには少し奇妙な関係だ、彼女は調度品である、これは比喩ではなくそのままの意味だ。ほんの数日前に現れた彼女は桐箪笥の付喪神、桐子。桐子は桐箪笥だからこの部屋から出れない、だから窓の外の風景と僕の撮った風景写真だけが彼女にとっての外の世界なのだ。


桃人ももひとの写真は好きだよ。」

「それはキミにとっての窓だからそう思うだけで、僕の作品なんかは本当にいくらの価値もないよ。だから外出禁止になって、写真が撮れなくなってせいせいしているんだ。やっと開放されたような気持ちだよ。」


 好きでもうまく行かなくて嫌になってしまうんだ。嫌いになるくらいなら距離を取っていたほうがいい。


 桐子はテレビゲームが好きだ、僕の家には中途半端にプレイして積んでいるゲームソフトがあるから彼女は喜んで遊んだ。外に出られない自分を遠くに連れて行ってくれるようで、楽しいと言っていた。それならばと僕はたまに画面のスクリーンショットを撮って、ポラロイド写真にプリントした。桐子はそれを喜んだ。空を飛ぶ姿、銃を拾えずに殺し合いに負ける姿、川にしゃがむ姿、綺羅きらびやかな城の風景、雄大な山、空中に浮かぶ都市、荒廃した学校、海。


「いつか桃人と街を歩いてみたいわ。そうしたらきっと満足して成仏してしまうかも知れない。」

「キミは亡霊かなにかか?付喪神ってのは成仏するような代物なのか?」

「さあ、わからないけれど、私たちは人にとって良からぬものなのだと思うわ。」

「なんだよ、疫病よりはマシだろう。」


 何日も一緒にゲームをした。食事を一緒に摂って、狭いベッドで眠って過ごした。


* * *


 ある日桐子が苦しそうに咳をして、全身で呼吸をするように喘いでいる。まるで疫病に侵されたような症状で心配をしていると、無理をして笑いかける。僕は焦る。病院に連絡する?家にある薬を飲ませる?でも人間に効いても付喪神には効かないかもしれない。何もできずにまごまごしていると桐子が僕の頭を撫でる。


「これは多分制限時間。私たちは自分の欲望を叶えないとどんどん力が衰えて行って消滅してしまうのよ。これはあなたのおばあちゃんが南部鉄器の付喪神に話していたことを私が聞いて知ったことだけれど、とにかくしょうがないの。外に出たいと願った時点で私の存在は破綻していた。」


 僕は半べそをかきながら彼女の話を聞いて怒っていた。


「おい、ふざけるな、何だってそんなことを願ったんだ。」

「桃人の撮った写真、私にしまっていてくれたでしょう、憧れだったのよ、あなたの撮る世界が美しくて。見てみたかったの。」

「俺の写真なんて。」

「いい写真よ。」


 見ているこちらが苦しくなるような彼女の呼吸に感情が乱されるのを感じる。孤独であること。それを尊ぶこと。それは感情を乱されたくないからだ。


「何か方法はないのか。」

「あれ見たい。あのゲームの最後の場面。」

「はあ?そんなことで。」

「見たいのよ。一緒に見たいの。」


 彼女の存在は、孤独を愛でる僕の荒涼とした心にじんわりと染み込む甘いミルクのようだ。


「クソ、やるぞ、手伝え。」


 そのゲームはただ一人称で無人の街を歩き回るもので、その街の誰かの記憶が流れ込んでくるように回想するものだ。謎解きもあり、殆どヒントもない。僕は歩き回る。無人のガレージ、火のついたままのタバコ、遊具の揺れる誰もいない公園。


「ねえ、ガラガラ音の鳴る手押し車を押して溝にはまって泣いている写真覚えてる?」

「覚えてないよ。」

「中学校の入学式で好きな子と並んで写真を撮って、緊張とドキドキで顔を真赤にしてズボンを強く握っていたこと覚えてる?」

「覚えてない。」

「私は全部覚えているわ。私、あなたのへその緒だってしまっていたのよ。特別なの。あなたのお母さんやそのお母さん、そのまたお母さんのことも覚えているけれど、あなたはもっと特別、へその緒が私の中にあって、ずっと繋がっているような気がしていたわ。」

「僕の写真。」

「好きよ。」

「僕の写真じゃ、キミの願いは叶えられない。」

「好きよ。」


 そんな感情ものにはなんの意味もないんだ。孤独は失わないためのライフハック。何もしないのは、嫌いにならないためだ。好きにならないのは喪失せずに済むからだ。


 メモを取っていき、二人で一つずつ謎を解いていく。外は夜。最後の場面が流れる。画面に広がる夜空の風景、細く踊る光が淡く瞬く。桐子は息を切らしながらそれを眺める。


「きれいな最後ね。」

「クサいエンディングだよ。」

「ねえ見て、桃人と私、こんな色んな場所に行ったのよ。」


 桐子は大量のポラロイド写真をテーブルに広げる。空を飛ぶ姿、銃を拾えずに殺し合いに負ける姿、川にしゃがむ姿、綺羅きらびやかな城の風景、雄大な山、空中に浮かぶ都市、荒廃した学校、海。どれもが既に懐かしい。懐かしいなんて嫌だ。夏の暑さは少し人を自由にさせる。夏のそんな性質が嫌いだ。僕はオレンジジュースを飲むと勢いにまかせて桐子をこちらに引き寄せると唇を重ねた。はずだったが、彼女の体をするりと通り抜けてしまう。


「な、桐子?体が?」

「ああ、いや、その違うの、びっくりして、実態化を解いて避けちゃった。」

「な、な、な、なんだよ!僕の気も知らないで!へその緒をしまっていたから子供みたいに見ているんだろう、で、で、でも僕は。」


 その言葉を閉じ込めるように桐子は僕に口づけをした。


「僕はキミと一緒に外を歩きたいんだよ。」

「私、願い、叶っちゃったわ。成仏できちゃいそう。」

「ひとりなんてもう嫌なんだ。寂しいんだ。好きなんだ。」

「でも願いなんて叶わなくても一緒にいたかったなぁ。」


 そう言うと彼女は消えていった。それが彼女の言う成仏だったのか単なる消滅だったのかはわからない。流しっぱなしの音楽、氷が溶けて汗をかいているオレンジジュースの透明のグラス、立て掛けられたレコードのジャケット、テーブルの上に置かれた鳴らない携帯電話、切り取られた時間。2020年夏、きみと過ごした不思議な時間を僕は一生涯、決して忘れないだろう。


* * *


 ロックダウンが解除されてからのある日、僕は例の知り合いの写真家に誘われて桐子と巡ったゲーム画面のポラロイド写真を作品として合同展示しないかと誘われた。ベルニサージュでは概ね評判で、いくつかの作品は既に売れた。


 家の側まで来ると自分の部屋に電気がついている。確か消して出たはずなのだが、まさか、と思い急いで家に入る。部屋を見回す、九畳一間ががらんとしている。ため息をついてかばんを壁掛けに掛ける。すると後ろに気配がする。振り向くと桐子が申し訳無さそうに立っている。


「桐子……!」

「えーっと、あのね、どうやら本体から離れている時間が長いと活動限界になって消えちゃうんだけど、暫く休むとまた人の姿を取って動けるようになるみたいでその。」

「はあ?じゃあキミ、あれは単なる電池切れみたいなものだったっていうのか?あんなに心配したのに?」

「何よ、電池切れって、人をゲームボーイみたいに!」

「その例えは世代じゃないから分かりづらいよ。」

「桃人。」

「何?」

「大きくなったね、桃人。」

「そういうの止めてくれない?」


 今度一緒に海に行こう。山に行こう。街に出て、キミに似合う服を探しに行こう。

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