第9話

 名無しの王子が逃げた、という噂は、密かに王宮内に広まりつつあった。とはいえ大抵のものは無関心だ。様々な思惑からほぞを噛む貴族もいたが、大きな話題にはなっていなかった。青ざめたのは、勅命で動いていた兵士たちである。たかがカラスを追い払うのに手間取ったうえ、ほとんどの者がいつの間にか眠りこけており、気付いた時には次の日の朝だったのだ。その頃には王子の姿はどこにもなく、いくら周辺を捜索しても見つけることは出来なかった。その旨を報告しに王都に戻った男が一人いたが、戻ってきたのは別の者だった。怒りに任せて王が首をはねたのだ。新しく派遣された伝令からは速やかに任務を遂行せよ、との言葉だけを受け取り、兵士たちは文字通り命がけで名無しの王子を捜索した。でなければ代わりに自分の首がはねられる、というのは皆の共通した認識であった。しかし三日経っても、一週間経っても進展はなく、兵士たちは死を覚悟し始めていた。そんな、ある時のこと。

「おい、こっちだ!」

 これまでの苦労を嘲笑うかのように、呆気なくそれは見つかった。屋敷の近くの森を歩き始めてほどなく、兵の一人が声を上げた。視線を集めていたのは、木の根元にうずくまった影である。全身は泥にまみれ、身に着けていた衣服は無残に引き裂かれていた。痩せた身体は肉が抉り取られ、流れた血は周りの地面を黒く汚している。腹からは内臓の一部が飛び出し、肩からは白い骨が覗いていた。見る影もないほど凄惨な死体だったが、見開かれた瞳と縺れた髪は間違いなく探し人のものだった。

「獣にやられたか」

 傍の木の幹には生々しい爪痕が残り、近くには灰色の体毛も落ちている。運よく逃げ延びたものの自然の力に淘汰されたのだと、兵士たちは判断した。この辺りは探索済みだったはずだが、油断して戻ってきたところを襲われたか、あるいは獣が今まで隠していたのだろう。

「首を斬るか。陛下に確かめて頂かねば」

「髪で充分だろう。ようやく帰れるな」

 安堵の息を吐きながら、兵士は死体の頭から髪を一房切り取った。仲間たちと言葉を交わし、彼らは亡骸に目もくれず森を去っていく。

 ――その一部始終を、一羽のカラスが見届けていた。



『オニキスが熱を出した。子供の発熱はどう対処するのだったか。粥を食べさせてやったが戻してしまう。このまま死んでしまうのではないか』

「……あれはアンバーの課題で考えすぎて顔が火照ってただけだし、戻したのはあんまりにも苦かったからですよ。味見くらいしてください」

 綴られた文言にいちいち言葉を返しながら、オニキスはページをめくる。残されたアンバーの日記は彼女の長い人生、かと思いきやほとんどがオニキスと出会ってからのものだった。アンバーは存外子供好きで、しかしその扱いはあまり得意ではなかったようだ。些細なことにも驚いて、苦悩て――そんな当時のアンバーの感情が、事細かに記されている。オニキスは時間をかけて、少しずつそれらを読み進めていた。自分の思い出と重なったり、食い違ったり、知らないことも多くあった。読みながら胸が痛むこともあれば、思わず笑みが零れることもある。昔を思い返しながらこれほど穏やかに過ごしているのは、不思議な感覚だった。

 ふと、ここ数日で聞きなれた羽音が響いた気がして顔を上げる。頭上を見れば、屋根の隙間から赤目のカラスが侵入してくるところだった。

「おかえりなさい。どうでしたか?」

「ちょろいもんだね。あいつら、すっかり勘違いして帰っていった」

 すぐさま少女の姿となったカーネリアンが、得意げに胸を張った。結果は上々だったようだ。今日をもって、名無しの王子は死人となった。オニキスが提案し、カーネリアンが細工した計画だ。生きている限り追われるなら死んだことにしてしまえ、というわけである。あの死体の実態は、ただの土塊つちくれだ。カーネリアンの魔法で一時的に人のように見えている。永続的なわけではないが、王が死亡をを確認するには充分だろう、とのことだった。渋るかと思っていたカーネリアンは意外にも乗り気で、嬉々として死体を作り上げていた。そこで憂さ晴らしをされていたような気がしないでもない。自分の姿をしたものが血みどろになっていく光景はなかなか辛いものがあったが、頼んだ手前黙って見ているしかなかった。その会心の出来栄えとなった死体の行く末を見届け、カーネリアンは一仕事を終えた解放感からか大きく伸びをして息を吐いた。

「さあ、これで晴れてお前は自由の身だ。私もようやくこのあばら家からおさらば出来るよ。お前はここに残るのかい?」

 あばら家、と彼女が称するのはアンバーの小屋のことだ。屋敷に戻るわけにもいかなかったので、そのまま間借りさせてもらっている。カーネリアンはこの環境に大変不満があったようでよく愚痴を零していた。確かに隙間風は酷いし、物も散らかりすぎている。雨が降らなかったのだけは幸いだった。それでも、幼い頃に閉じ込められた地下牢よりは数倍ましだとオニキスは思っている。何よりここには、アンバーの痕跡があった。離れるのは正直名残惜しく、カーネリアンの言うようにここに住もうかとも考えた。しかし、今は。

「……いえ。一旦国を出ようかと思っています」

 兵士たちは王に死亡を報告してくれるだろうが、万が一見つかれば再び追われないとも限らない。今のうちに手が届かない所へ逃げるのが得策だろう。ついでに知らない土地へ行って見聞を広めるのもいい。そう言うと、カーネリアンも概ね同調してくれた。

「確かに、それが堅実だね。ずっと引き籠ってたんだし、旅するのもいい経験だろう。ただね、私が心配なのは……」

 カーネリアンは口を噤むと、じろりとオニキスをねめつけた。値踏みするように頭からつま先を見回して、再度口を開く。

「お前、路銀はどうするつもりだい。野宿ばかりしていられないだろう。街道では野盗も出るし、体力だってないだろう。まだ力もろくに使えないから私みたいに飛んでいくわけにもいかない。あてはあるのかい? でなきゃ国を出られても行き倒れだ。それにまともに人に触れて来てないんだから、自分が相当世間知らずってことは自覚したほうがいいぞ。世の中いろんな人間がいるからな」

「……ええと」

 捲し立てるカーネリアンに、オニキスはまともに反論が出来なかった。国を出るのはいいが、具体的な行動の仕方は考えていなかったのである。彼女の言う通りだった。

「ああもうそんなことだろうと思ったよ! お前そういうところアンバーにそっくりだ! 言うだけ言って肝心なところが雑なんだから!」

 自棄のように叫んだかと思うと、カーネリアンは再びカラスに姿を変えオニキスの頭上に陣取った。そして容赦なく嘴で旋毛をつつく。

「いた、痛いですよ!?」

「本当に世話の焼ける! 屋敷から換金できそうなもの見繕ってやるから金はそれでどうにかしな! あとはある程度慣れるまでは私が付いて行ってやる。感謝しろこの馬鹿!」

 降り注ぐ罵声に混じった言葉に、オニキスは瞠目した。つまり、カーネリアンも一緒に来てくれるということか。

「……いいんですか?」

 思わずそう訊き返すと再び鋭い嘴に襲われオニキスは閉口した。

「一応、親友の忘れ形見みたいなもんだからね。野垂れ死にされたら寝覚めが悪い。ちょっと言って来るから、お前は食事用の野草でも集めときな」

 そう言い残し、カーネリアンは再度屋敷の方へ向かって飛び去って行った。つつかれた頭をさすりながら、オニキスの口元には自然と笑みが浮かぶ。

「頑張って生きないと、ですね」

 死ぬことはいつでもできる。だから少しは足掻いてみようと思った。過去に受け取っていた愛も、今与えられた優しさも、もう疑うことはない。生きるためにここを離れて、旅をして、けれどいつかは戻って来よう、とオニキスは思う。愛しき森の魔女の庭に骨を埋める――それはとても、幸福な気がしたから。

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名無しの王子と森の魔女 イツキ @nekoyume

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