第8話

 家というより、小屋といった方がいいのではないだろうか。アンバーの住まいだったという場所の第一印象は、そんなものだった。高く背を伸ばした木々に囲まれ、小さな泉の傍にこぢんまりと佇む小屋。一目で分かるほど作りは古く、屋根はところどころ剥がれ、壁の木材も隙間だらけだった。

「魔法が解かれてるからね。見た目はもうちょっとましだったし、人が近付かないように細工もしてあったんだけど……効果が切れたらこんなもんだ」

 そう説明を添えながら、カーネリアンは躊躇うことなく小屋の中へ入っていく。後に続いたオニキスの目に移ったのは、雑然とした部屋だった。一人で暮らすのがやっとという狭さに、寝台と机と本棚が詰め込まれている。床には棚に入らなかったらしい古書が山のように積み上げられていた。屋根が傷んでいる部分の真下は、雨ざらしになっていたせいで床が腐っている。積まれた本の一部もその被害を受けていた。酷い、としか言いようのない状態だったが、カーネリアンはそれらに目もくれず机の方に近付いていく。

「その辺に転がってるのは後回しでいい。用があるのはこれだ」

 言いながら彼女が示したのは、机に置かれていた本だった。顔を覆うほどの大きさの革張りのものだ。他と違って比較的新しいようで、劣化している様子は見られない。表紙には、殴り書きのような文字で何かが書かれていた。

「日記……?」

「見ての通りね。でも今重要なのは、中身じゃなくてかけられてる魔法だ。やたら頑丈なせいで、発動方法見つけるのに丸一日かかったよ」

 オニキスの呟きに答えながらカーネリアンは床に積まれた雑多なものを端によせ、場所を確保した。彼女はその中央でオニキスを手招きすると、先程の日記を足元に置いて向き直った。

「これでよし。あとはお前のその石、貸しとくれ」

「これ、ですか?」

 唐突とも思える要求に、オニキスは逡巡した。彼女の言う石とは、アンバーが残したものに他ならない。思わず胸元に手をやる。これが自分の肌から離れてしまうというのが、妙に心許なかった。

「別に盗ったりしないよ、今回限りだ。すぐ返す」

 急かすのかと思えば、カーネリアンは意外にも真摯な声でオニキスを促した。言葉にならない不安を汲み取ってくれてことに僅かばかり安堵し、オニキスは首から掛けていた鎖を外した。カーネリアンに石を手渡すと、彼女は納得したように頷く。

「この魔法は発動に条件があるんだ。お前の存在と、この石があること。アンバーの置き土産だ、よく見ときな」

 日記の上に石を重ねて置くと、カーネリアンは一歩下がって手をかざした。そして目を閉じ、口の中で何事かを呟き出す。聞き慣れない言葉だが、古代語だろうか。以前アンバーに教わったものに似ている気がした。

 少しして、カーネリアンの身体がほのかに光り出す。オニキスの記憶を見た時と同じだ。よく見ると日記も同じように輝き始めている。二つの光は宙に上って混ざり合い、ひと塊となって徐々に大きさを増していく。やがてオニキスの背丈と同じほどの大きさに育った光の繭が、不意に強い光を放った。咄嗟に目を庇った手の向こうで、光は更に具体的な形を作っていく。波打つ長い髪。しなやかな手足。徐々に加わっていく色彩は漆黒。収束していく光の代わりにそこへ現れたのは、衝撃的なものだった。

「アンバー……!?」

 思わず前のめりになったオニキスを制したのはカーネリアンだった。彼女は静かに首を振る。

「落ち着きな。あれは幻影だ」

 指摘されて目を凝らすと、アンバーの身体は向こう側の景色が透けて見えていた。生身の人間が持つ質量が彼女には感じられない。恐らく触れることも出来ないだろう。しかし、それが分かっても胸の奥が疼いた。形容し難い感情がオニキスの心を苛む。

『――これが発動したということは、カーネリアンがいるな。まずは礼を言う。お前には頭が上がらないよ』

 だが、幻影のアンバーはこちらの心境を慮ってはくれなかった。前触れもなく響いた声は、かつてよく聞いていたものだった。細かな仕草も表情も、間違いなく彼女のものだ。

「まったくだよ。面倒事ばっかり残していきやがって」

『きっとこれを見ながら文句を言っていることだろうが、残念ながら私には聞こえない。いや、本当に残念だ』

 含み笑いをしたようなアンバーの発言に、カーネリアンが舌打ちする。会話しているように見えたが、たまたま噛み合っただけのことのようだ。幻影は改めて口を開く。

『さて、本題といこう。といってもこれは私の自己満足で、独り言のようなものだ。大したことじゃあない……オニキス、いるな』

 不意に名を呼ばれ、オニキスは揺らした。アンバーと視線は交わらない。しかし彼女は、そこにいると確信を持った様子で語り始めた。

『お前に謝らねばならんな。心の準備もないまま儀式を行わせてしまうことに……いや、それ以前に、私はお前が不吉だなんだと言われるようになった原因の一端でもある。全ては私の仕業、というわけだ』

 突然の告白に、オニキスは困惑した、全て、とは一体どういうことなのだろう。アンバーの幻影は目を伏せ、更に続けた。

『……本当は森に来るよりずっと前から、お前のことは知っていた。久しぶりに良い器が生まれたと、精霊たちが騒いでいたからな。私も興味本位で覗きに行ったんだ。お前はまだ、揺り籠の中に埋もれてるだけの変な生き物だった』

「……変な生き物って。というかそんなに前から……?」

 オニキスの呟きに反応したわけではないだろうが、アンバーは遠い日を思い出すように微笑した。その表情があまりにも優しく、彼女はこんな顔をする人だっただろうか、と動揺する。

『最初は手を出すつもりはなかったんだけどな。王妃があんなことになって、子供も危ういって知ったら放っておけなくてな。悪さしようとする奴が手を出せないように、少しばかり手を打たせてもらった。近くにいれば安心だしな』

「そんなことだろうと思ったよ。そろそろ効果切れみたいだけどさ。全部見計らって手紙届く時期を遅らせただろ。ほんっと頭にくる!」

 カーネリアンが悪態をつく横で、オニキスは過去を思った。不吉の王子と呼ばれた由縁。自分を狙った刺客や王自身が見舞われた事故。魔女の呪い、と彼らが言っていたのはあながち間違いではなかったのだ。自分はあずかり知らぬこと――そう思っていたのに、ずっとアンバーに守られていたのだ。幼い頃から、今までずっと。

『力の継承については、カーネリアンが説明してくれていると信じよう。最初からそうしようと思っていたわけではないんだが……といっても、オニキスの名を与えている時点で説得力はないな』

 そう言いながら、アンバーは苦笑した。いや、自嘲だったかもしれない。

『力を渡すっていうのは、自分の全てを託すってことだ。才能だけの話じゃない。それに値するほど想える人間でないと、な。それを考られえるほどの相手がいればいいのにと、ずっと思っていた。強く愛した人間に命を絶ってもらえるなら、それはどれほど幸せかと……私も長く一人でいすぎたんだろうな。だから、オニキス』

 気を取り直すようにアンバーが名前を呼ぶ。それを聞きながら、彼女の死に際を思い出そうとして失敗した。幸せな死を望んだアンバーの最期の顔は、安らかだっただろうか。

『お前はどうだったか知らないが、私はお前に対して愛着も執着もあったこのまま共に時を過ごしても、取り残されてしまうのが嫌だった。その結果が今のお前だ。我ながら酷いぞ。拒絶できない状況を作ろうと思って、これからわざと人間に捕まってやるんだ』

「そういうとこが性悪だっていうんだ。オニキス、これに関しては怒っていいぞ。私なら一生恨む」

「そんな、恨む、なんて……」

 カーネリアンは言うが、怒るだとか恨むだとか考えていられなかった。オニキスにとって重要なのは、あの日々が嘘ではなかったということ。彼女は確かに後継者を育てる目的があったのかもしれない。だがオニキスが感じていた愛着も、アンバーから感じていた温もりも間違いではなかったのだ。アンバーの言葉に、少しずつ心の虚が満たされていく。目の奥が熱かった。幻影の姿が霞んで見える。

『……まぁ要するに、私の我儘に付き合わせて悪かったと、それだけ言いたかったんだ。私の都合ばかりで、お前には何もしてやれなかったな。人の子の愛し方など忘れてしまった……ああ、でも』

  アンバーはふと何かを思い出したように顔を上げ、両手を差し伸べた。まるでそこに、オニキスを見ているかのように。

『――せめて一度くらい、抱きしめてやればよかったな』

 そう呟いたのを最後に、アンバーの姿は急速に薄れ始める。魔法の時間はもう終わりだ。所詮これはただの幻影――それでも、オニキスはれを伸ばさずにいられなかった。

「アンバー!」

 一歩踏み込んで手が触れた瞬間、アンバーの幻影は弾けて消えた。散り散りになった光が、膝をついたオニキスを慰めるように目の前をちらつく。手のひらでそれを受け止めると、微かな熱が肌に溶けていった。残ったのは、彼女の日記と、オニキスに託された石。つ、と横から伸びてきた手がその二つを拾い上げると、オニキスにそれを押し付けた。

「お前が持ってな。中身も読みたきゃ読め」

 カーネリアンはそう言って隣に腰を下ろし、オニキスの頭を乱暴に撫でた。堪えきれずに嗚咽が漏れる。

「……これでもまだ、愛されてないって駄々をこねるか?」

 その問いに、オニキスは何度も首を振った。あれほどまでに確かなものを見失っていたなど、自分はそれだけ愚鈍だったのだろうか。

「私たちは適当な奴に力を渡したりなんかしないよ。その気がなければ石も残らない。変な話だけど、力の継承は最大の愛情表現なんだよ。まぁ、受け取る側はたまったもんじゃないっていうのも分かるけどね。そこは私もアンバーも経験してることだから」

 僅かに声を落として、カーネリアンは語った。彼女たちにも先代にあたる人物がいた。アンバーもカーネリアンも、あんな風に身を切られるような思いをして力を受け継いだのだろうか。

「嫌だとは、思わなかったんですか?」

 どうしても気になって、オニキスはそんな疑問をカーネリアにン投げかけた。普通なら、説明されたところで人の命を奪うような真似などしたくはない。身近にいて親しみを感じていた相手なら尚更だ。

「抵抗がなかったわけじゃないけど、時代が違うからね。私の時はもっと精霊が身近で、魔法使いたちの価値観も周知されてたから。相手が望むなら、って感じだったかな。でも、耐えきれなかった奴もいる」

「そう、ですか」

 短く言葉を返し、オニキスは沈黙した。魔法使いの価値観、というのは長く生きれば備わっていくものなのだろうか。自分はこれからどうなるのだろう。話を聞く限り、魔法を使う者の寿命は気が遠くなるほど長い。アンバーの石を受け継いだオニキスも長い時を生きるのだろうか。だが今のところアンバーたちのような力は使えないし、今後使えるようになるのかも分からない。先が全く見えなかった。

「僕、どうなるんでしょう」

 考え込むうちに、いつの間にか口に出していた。カーネリアンの眉間に深く皺が寄る。かと思うと、先程は撫でてくれた頭を勢いよくはたかれた。

「そんなもん、自分で決めな! いいか、もう一度同じことを訊くぞ」

 カーネリアンはオニキスの顔を覗き込み、逃がさないとばかりに押さて睨みつける。

「お前の力はまだ眠ってる。けど、これからお前を生かしも殺しもするだろう。どっちを選ぶかはお前の自由だ。どうする?」

 ――前は、死にたいのか、と問われたのだったか。分からない、とオニキスは堪えた。しるべを失ったと思っていたからだ。アンバーの思いを正しく受け取った今なら、どうだろうか。自暴自棄なことをしようとはもう思わない。だが、オニキスがいる限り王は殺そうとするだろう。生きていても逃げ場はない。それならば。

「一回、死のうかと思います」

「はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げたカーネリアンを宥め、考えたことを説明する。不機嫌に歪んでいた彼女の唇が徐々に緩んでいくのを見て、オニキス自身も力が湧いてくるような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る