第7話
目が覚めた頃には、既に日が傾き始めていた。夕暮れというにはまだ早いが、白く光っていた太陽が赤みを帯び始めている。二日も続けてソファで寝たせいで、身体のあちこちが軋んでいた。起き上がって何かしようという気にもなれない。考えることすら億劫で、もうこのまま眠っていよう、という結論に至った。しかしその直後に耳が拾った音で、オニキスは渋々身を起こした。金属が擦れる不快な響き。折り重なるような蹄の音。どうも昨日から既視感のある出来事が重なる。開け放したままだった窓から外の様子を窺うと、ちょうど門前にいくつかの騎馬が到着したところだった。オニキスが帰ってからの時間を考えると、王都までいって引き返してきたのではなく、他の者が追ってきたのだろう。
――どうせ、ろくでもない話なんだろうな。
心中で呟きながら、オニキスは来訪者を迎えるために玄関へ向かった。居留守を使いたいのは山々だったが、ここで無視をすれば後々厄介なことになるのは目に見えている。溜息を吐きながら出向いた前庭では、やはり王家の紋章を身に着けた兵士が数人固まっていた。
「謁見は先日済んだばかりのはずですが、ご用件は?」
そう訊ねると、代表と思しき男が進み出て一通の書状を差し出した。反射的に受け取って兵士を見返すと、相手は不機嫌そうに顎をしゃくった。読め、ということらしい。口をきくなとでも言われているのだろうか。とりとめもなくそんなことを考えながら、オニキスは封を解いた。開いた書状に綴られた文字に目を通すと、そこにあったのはまたも理解しがたい罪状だった。
「国外追放……」
先日、王都でさる有力貴族が王の暗殺を企て失敗したらしい。それが名無しの王子の王位継承を主張する一派の筆頭であったため、オニキスはその責を負ってヴェール王国から去らねばならない――要約すると、書かれていたのはそんな内容だった。
「……捕えられた人のことも知りませんし、暗殺も関与していません」
「だとしても余計な火種を生む。即日退去せよとの仰せだ」
一応弁明を試みたが、取りつく島もなかった。都合よく火種を撒いているのは王の方ではないのかと思ったが流石に口には出さなかった。それにしても即日退去とは、ひどい無茶を言う。
「――それと、従わぬなら切り伏せよ、とも命を受けている」
オニキスが何か言おうとする前に、兵士がそう付け足した。従わぬならと言いつつも、手は既に剣の柄にかけられている。兵士の行動は、そちらの方が都合がいいと言外に告げていた。ならばわざわざ書状など作らず殺しにくればいいのに、王も回りくどいことをするものだ。
「いいんですか? 不吉の王子、なんでしょう?」
「魔女は死んだ。長く続いていた呪いも消えたと王は仰った」
「さあ、早くしろ。答えを聞く前に切り捨ててやってもいいんだぞ」
堪りかねたように兵士が剣を抜く。脅しているつもりなのだろうが、生憎とこれで狼狽えるほどの繊細さは失ってしまった。それに、もうどうでもよかった。屋敷で放っておかれても気力を失って衰弱していくだろうし、ここで切られてもたいして寿命が変わると思えない。どちらを選んでも、結末に大差はないのだ――そう考えながら俯いたその時、刃が弾いた陽光が瞳を刺激し、オニキスに過去の光景を思い起こさせた。
――肉を抉る生々しい感触。溢れ出す血は暖かく、けれど肢体は徐々に温もりを失っていく。
脳裏に次々甦るのは、罪を犯した日の記憶である。死を思うというのは、奈落を背にしている気分だった。落ちてしまえばその先は空虚で、何もない。身体が受ける苦痛より、オニキスはそれが恐ろしかった。死んでもいい、などと思ったくせに、指先が震え出す。全て失って、得るものもなく、先にあるのも虚ろだけ。それが、堪らなく怖い。
「僕は……」
王命に従う、と言えばいいはずだ。少なくとも今のこの状況からは逃れられる。だが、国を出たところで王が簡単に自分を解放するだろうか。それにこの森は、唯一家と呼ぶことが出来た場所だ――たとえ、儚い思い出に過ぎなかったとしても。
「どっちも嫌、です」
ここで死ぬのも、王に怯えて生きるのも。抗うだけの力もないのに。唇は勝手にそう答えていた。兵士の目が一瞬見開かれ、そして歪む。
「ならば、その首をおとなしく差し出せ!」
激高した兵士が剣を振りかぶる。咄嗟に後ずさるが、軟弱なオニキスの足ではとても逃げ切れない。しかし、斬られる、と歯を食いしばった時だった。黒い塊が視界に飛び込み、兵士の顔に覆いかぶさった。鋭い爪と嘴が皮膚を裂き、兵士は情けない悲鳴を上げた。
「なんだ、こいつ! カラス……!?」
喚く兵士とけたたましいカラスの鳴き声で、庭は騒然とした空気に包まれた。カラスが暴れる度に、黒い羽が宙に踊る。その合間に、血の色の透ける瞳が見えた気がした。
「なにぼさっとしてる! さっさと逃げな!」
場にそぐわない少女の声が聞こえた瞬間、オニキスは走り出していた。追え、という慌てた兵士の号令にかぶせるように、激しく羽ばたく音が聞こえた。それを振り切るように森へ踏み込み、ひた走る。落ち葉を蹴散らし、枯れ枝を踏み折って、がむしゃらにそこから離れることだけを考えた。どこへ向かうのかもわからないまま、森の奥へと分け入っていく。次第に息が上がり、激しく脈打つ心臓に耐えられなくなって、オニキスは足を止めた。一度立ち止まると全身が悲鳴を上げ始め、手頃な木の根元を選んで座り込む。足の裏がじくじくと痛んだ。どこかで靴が片方脱げてしまったようだ。そうでなくても息は整わないし、手足は震えて力が入らない。今見つかったら、確実に捕らえられてしまうだろう。
――それにしても、カーネリアンは無事だろうか。
今更になって不安に駆られる。カラスの姿だったが、あれは間違いなく昨夜知り合った魔女だった。なぜあの場に居合わせたかは分からないが、自分が逃げた代わりに彼女が捕まるような事態になってはいないだろうか。魔女の力があれば兵士など取るに足らない相手に思える。しかし、それでも三年前のアンバーは捕えられてしまった。またあの時と同じことになってしまうのか――そう拳を握り締めた時、不意に頭を叩かれたような衝撃があった。次いで聞こえる、悠々とした羽音。
「こんな所でへばってたのか。お前、ちょっと体力無さすぎじゃないかい?」
呆れたような声が降ってきたかと思うと、カラスから姿を転じたカーネリアンがオニキスを見下ろしていた。今のはどうやら鳥の足で蹴られたらしい。彼女は怠そうに肩を回していたが、傷ひとつ見当たらなかった。顔色も至って平常だ。
「やれやれ、暗くなってきた上に森の中を突っ切って飛ぶんじゃ流石にくたびれるね……どうしたんだ、呆けた面して」
「いえ、あの、ありがとうございました。あいつらは?」
慌てて、訝しむカーネリアンに向き直る。兵士たちの処遇について、彼女はにやりと笑みを浮かべて答えた。
「お前みたいなひよっ子に心配されるほど落ちぶれちゃいないよ。全員縛り上げといたから当分は安心しな。魔女があんな相手に引けを取るとでも思ったかい?」
「そうだとは思いましたが……でも、あの時は」
言い淀んだオニキスだったが、記憶を覗いたカーネリアンにはそれで通じたらしい。上機嫌だった表情が、険しいものへ変わっていく。
「あいつの場合は……まぁ、いい」
何かを言いかけて、カーネリアンは口を噤んだ。重苦しく息を吐くと、今度はオニキスに問い掛ける。
「とりあえず、だ。まずはお前の考えてることを聞いておこう。私もつい手を出しちまったけど……お前、死ぬ気だったのか」
淡々としたカーネリアンの質問は、予想外にオニキスの胸に突き刺さった。それは恐らく、答えが『是』だからだ。抵抗らしい抵抗もせず、黙って頭を垂れる。それは受動的な自殺とも言えるだろう。けれどオニキスは逃げ出した。寸前になってまた怖くなった。結局、自分はどうしたかったのだろう。
「……分かりません」
カーネリアンは、苛立ちを隠そうともせず顔を顰めた。答えになっていない、どっちつかずの返事に機嫌を損ねるのは当然だろう。だが、本当に分からなくなっていた。死を恐れて忌避する気持ちも、希望のない生から逃れたいという思いも、本物だった。どちらに天秤が傾くかは、きっとその時々のあやふやなものでしかない。
「死にたくないって、ずっと思ってたはずなんです。けど生きていても邪魔者か道具扱いで、それなら死んでしまってもいいと。でも結局、怖くなったんです。自分でも分からなくなってしまいました……ただ」
「ただ?」
流れ出るのに任せていた言葉が止まる。一瞬だけ、先を続けることを躊躇した。だが、自分が惨めで矮小な存在であるなど今更だ。改めて確認するまでもない。それでも、オニキスが求めてしまったもの。
「たぶん僕は、誰かに愛されたかったのだと思います」
それは生きていくための糧であり、死の安息を得るために必要なものだ。ただ一つでもそうと信じられる証拠があれば、宙に浮いたような流されるばかりの人生ではなくて、道標を見つけられたのかもしれない。もっとも、仮定でしか語れない話であったが。
「……ああもう、面倒臭いね! 全部アンバーが悪いんだ!」
黙ってオニキスの話を聞いていたかと思ったカーネリアンが、突如として頭を抱え声を上げた。彼女はこれ以上ないというほど深く溜息を吐くと、オニキスの頭を思いきり叩いた。衝撃に目がくらむ。
「立ちな。黙ってついて来い!」
オニキスが目を瞬かせるうちに、カーネリアンは歩き始めた。有無を言わさぬ態度に、あわててオニキスも後を追う。
「ついて来いって、どこへ行くんですか!?」
至極当然の疑問をぶつける。彼女は森のより深くに向かおうとしているようだった。オニキスの声に僅かばかり足を止め、カーネリアンは言った。
「アンバーの家だよ。お前の求める答えをやろう」
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