第6話
胸が締め付けられるような感覚で、オニキスは目を覚ました。治まらない動悸を抱えながら、視線だけを動かし周りを確かめる。暗い部屋。オニキスの身体を受け止めていたのはくたびれたソファで、部屋の隅にはすっかり出番の減った文机がある。大きな硝子張りの窓の窓の向こうには、鬱蒼とした木々の群れが広がっていた。見慣れた森の屋敷だ。そう気づいて、オニキスは深く息を吐いた。馬車に揺られ続けたせいで、屋敷に着くなり眠りこけてしまったのだ。
「嫌な夢だ」
きっと王の声を聞いたせいだろう。やはり、王宮に関わるとろくなことがない。思い出したくないことばかり考えさせられる。
今思えば案の定だが、王は間を置かずオニキスを排除しようとした。しかしそれは全て失敗に終わっている。お蔭で不吉の渾名がますます際立つことになった。原因だったはずの魔女が死んでも上手くいかないということで、王も一度手を緩めるしかなかったようだ。それが功を奏したのかは知らないが、最近は不可解な事故も起こらなくなったらしい。本当ならば王の身は安泰になったのかもしれないが、自分は逆に危険かもしれない。この隙に再び殺しに来るくらいのことはしそうな王だ。妙に冷静な頭で、オニキスは考えた。今更、殺意を向けられるくらいではなんとも思わない。
幼い頃のオニキスにとって、王は憎いというより恐怖の対象だった。あの人に逆らえば命はない。今も状況は変わらない気がするが、以前ほどの恐怖心はない。というよりも、なんの感情も湧いてこなかった。ただ虚無だけが胸を満たしていて、怒りも憎しみも感じない、きっと、まともな感情もアンバーと共に殺してしまったのだ。
あの直後のことは、記憶があやふやだった。気付けば全身で血を浴びていて、肉を貫いた感触だけははっきり覚えていように思う。短剣は既に手の中になく、代わりに握っていたのは指先ほどの大きさの黒い石だった。夜の闇のようでいて、決して暗がりでも存在を見失うことがない。まるでアンバーのようだと思った。形見、と表現するのもおかしいのかもしれないが、オニキスはそれを手放すことが出来なかった。今も、石は胸元で不透明な輝きを放っている。
不意に、その石の中に淡い金色が混ざりこむ。不自然な光の反射を認め、オニキスは顔を上げ呟いた。
「もうそんな時期か……」
石に映り込んでいたのは、精霊の光だった。窓の外では燐光が漂い、夜の森を朧気に照らしている。その光景は、意識せずともアンバーと出会った日のことを思い出させた。ともすれば、彼女が何事もなかったように訪ねてくるのでは、と思うことがある。精霊が光る夜は特にそうだ。ありえないと分かっているのに、無為にテラスを見つめてしまう。そうして、誰もいない事実に勝手に落胆するのだ。
しかし、今日は何かが違った。
「……え?」
視界の端に、何か動くものがある。更にはこつん、と何かが硝子に当たる音がした。オニキスが戸惑っている間にも、開けろ、と指図するように音は何度も繰り返される。
まるで己の願望を反映したかのような事象に、オニキスは息を呑んだ。はやる気持ちを抑え、ゆっくり窓に近付き鍵を外す。恐る恐るテラスに出てみて、オニキスは嘆息した。やはり、誰もいない。しかし、気のせいだと片付けて踵を返そうとした時だった。
「ちょっと、どこ見てるんだい! 無視するんじゃないよ!」
唐突に響いた女性の声で、オニキスは足を止めた。慌てて首を巡らすが、声の主は見つけられない。
「ここだっての! 勘の鈍い奴だね、まったく」
呆れたような叱責と共に大きく羽音が鳴り、一羽のカラスがテラスの柵に舞い降りる。それはオニキスと目を合わせると、怒りを露わにするようにカァ、と鋭く鳴いた。漆黒の羽毛と
「いつまでぼーっとしてるんだい。アンバーのお気に入りってお前だろう?」
嘴が小刻みに動き、予想に違わず同じ声が聞こえた――それに今、アンバーと言っただろうか。カラスが喋る驚きよりも、オニキスはそのことにたじろいだ。
「……アンバーの、知り合いですか」
ざわつく心を宥めながら、オニキスはそう問い返した。不可思議な力を使う魔女なら、知り合いに喋るカラスがいてもおかしくはない。
「まぁ、そんなところだよ。珍しく手紙なんて寄越してきたから来てみたんだけど、あっちにはいないみたいだったからさ。面倒見てる子供がいるって書いてあったし、そっちかと思ってね」
「そう、でしたか」
相槌を打ちながらも、カラスの語る声は半分も耳に入って来なかった。手紙、とはいつのものだろう。届いたのが最近のことなら、随分遅れている。彼女は、とうのこの世からいなくなっていた。
「それで、あいつは? ここにいるのかい?」
容赦なく投げかけられた疑問に、オニキスは唇を噛んだ。今まで、アンバーを亡くした喪失感と罪悪感は自分一人のものだった。屋敷にはオニキス以外には誰もいなくて、それが世界の全てだった。しかしアンバーは違ったのだと、今になって思い知る。カラスは彼女の死を悼むだろう。命を奪ったものに憤るだろう。それでも、黙っているという選択は出来なかった。元から隠し事が出来るほど器用ではなかったし、どこかへ罪を告白したかったのかもしれない。
「……アンバーは死にました。僕が――」
殺した、と正しく答えられたのか、自分でも分からない。それほど無様に震えた声だった。カラスの反応を直視できずに視線を落とす。一瞬が数刻にも思えるほど、沈黙が重かった。どんなに罵倒され
ても、呪詛を佩かれても、友の仇と殺されても仕方ないと思っていた。しかしカラスは、けたたましいほどの声で笑い出した。
「なんだ、とうとう死んだのかい! そんなことだろうとは思ったけど、もう済ませてたのか。なら、お前はオニキスだね」
そういったカラスの赤い瞳は、胸元に下げた石を見ているようだった。なぜオニキスの名を知っているのだろうか。いや、それよりも訪ねてきた友の死を笑い飛ばすとはどういう心境なのだろう。
「……怒らないんですか?」
自然とそんな言葉が口をつく。カラスはようやく笑い声を収めると、軽い調子で応えた。
「そりゃあ、私らにはつきものの儀式だもの。あいつも後継になってくれる人間が欲しいって言ってたし、そう望まれたんだろ?」
「儀式?」
カラスの言葉に、オニキスは首を捻った。理解が追い付かない。アンバーの話をしていたかと思ったが、違っただろうか。そんなオニキスの様子を見て、カラスが訝し気に目を細める。
「まさかあいつ、何も説明してないのかい?」
「何のことか……」
戸惑いながらそう返すと、カラスは人とよく似た仕草で首を傾げた。暫し思案するように口を閉ざしていたカラスだったが、突如翼を広げたかと思うとその場で数度ばたつかせた。すると翼から生まれた風が信じ難いほど大きく唸り始め、激しいつむじ風となった。あまりの風圧に目を閉じる。とても自然の出来事ではない。アンバーが使っていたのと同じ、魔女の力だ。
「ちょっと、こっちに来て手をお出し」
心なしか先程より明瞭になったカラスの声で、オニキスは目を開いた。しかしカラスの姿は見当たらない。代わりに佇んでいたのは、一人の少女だった。肩の上で揃えた白金の髪、陶器のように白い肌。血の色が透けたような瞳だけは、カラスと共通していた。丈の短い外套には、半透明の赤い石のブローチがあしらわれている。少女はオニキスの困惑をよそに手を掴むと、自らの手のひらで包み目を閉じた。
「あの、何を」
訊ねようとして、オニキスは少女の異変に気が付いた。髪が、肌が、瞳がほのかに金色の光を放ち、煙のように立ちのぼっている。続いてオニキスの身体も同じように光り始め、涼風が体内を通り抜けるような感覚がした。不思議と、不快感はない。それに、揺らめく光には見覚えがある。これは精霊だ。オニキスと、目の前の少女に宿る精霊が何かしらの反応を起こしているのだ。
「……これは。酷いやり方をしたもんだ」
やがて光が収まっていき最後の一筋が消えたかと思うと、少女は顔をしかめて呟いた。
「……何をしたんですか?」
「記憶を覗かせてもらった。お前の……というかお前に宿る精霊のね」
握っていた手を解いて告げられた内容に、オニキスは目を見張った。少女もまた魔女であると確信してはいたが、彼女たちの力はそんなことまで出来てしまうのか。感心もしたが、頭の中を覗かれるというのはあまりいい気分ではない。そんな思考を見透かしたのか、少女は肩を竦め言葉を重ねた。
「気持ち悪いとか、悪趣味とか思ってるだろう。私だって普段はこんなことやらないよ……でも、自分の口で語る方が辛いこともあるからね」
そう言って、少女は目を伏せた。彼女がどこまでオニキスの記憶を見たのかは知らない。しかしその口振りは、見る前から何があったかを予想していたようだった。彼女は何を知っているというのだろう。しかしオニキスが疑問を口に出すより先に、少女が憤慨したように声を上げた。
「もう、どうりで話が通じないわけだよ! これじゃ力の継承がどんなものなのかとか、その石がなんなのかも知らないんだろう?」
その石、と彼女が指したのは、オニキスが身に着けている黒い石だった。少女の勢いに押され、素直に頷く。いつの間にか手にしていた、という点は不思議に思っていたものの、深く考えたことはない。手放さなかったのも特別な品と思っていたからではなく、オニキスが勝手にある種の心の拠り所としていたからだ。それを聞いて、少女は深々と溜息を吐いた。
「いいか、よく聞け。お前たちが魔女とか魔法使いとか呼ぶ類の人間は、精霊を身体に宿している。私たちが使う力は、その精霊によるものだ」
言いながら、少女はテラスの柵に飛び乗って足を組んだ。どうやら腰を据えて説明してくれるらしい。
「でも、無条件に使えるわけではない。契約と触媒の継承をしなくちゃいけない」
「……そこまでは、アンバーから少し聞いたことがあります」
忘れもしない、アンバーと最後に会った日の会話だった。また今度、と言いながら、結局彼女の口から続きを聞く機会は失われてしまった。少女は不満気に小さく鼻を鳴らすと、尊大な口調で続きを語り始めた。
「まずは契約についてだが、大昔に魔法使いの始祖って人が精霊と交わしたものらしい。けど、これに関しては詳しいことは誰も知らない。言葉だけ残ってて、意識してる奴はほとんどいないな。勝手に引き継がれるから知らなくても問題ないしね。で、触媒っていうのはお前が持ってる石のこと。これは継承の儀式をすることで後継者が手に入れることが出来る。」
そこで少女は言葉を切り、考え込むように額に手を当てた。しかしそれも一瞬のことで、彼女は軽く頭を振って話を再開する。
「まぁ、言葉を濁しても仕方ないね。儀式っていうのは、精霊を宿した、その素質のある者が魔法使いを殺して力を引き継ぐことだ。身に覚えがあるだろう」
瞬間、呼吸が出来なくなったかと思った。責め立てるような口調でなくても、自分以外がその事実を口にするのは堪えるものがあった。しかしオニキスが気構え出来るのを待つことなく、少女の言葉は続く。
「その石はアンバーそのもの。あいつを殺したことで身に宿っていた精霊が石化して、お前の手に納まった」
聞きながら、胸元に手を伸ばす。あの時、いつの間にか握り締めていた石の艶めく漆黒を、アンバーのようだと思った。これは本当に彼女が残したものだったのだ。知らず知らずオニキスが完遂していた、儀式によって。
「力を振るうようになれば、私たちはただの人としての名を捨てる。受け継いだ石の名を、力の象徴として名乗るんだ。あいつは
そう言いながら、少女は胸に留めてあるブローチに触れた。カーネリアン。ここに来て初めて、少女は自分の名を告げた。言わずとも石を見れば分かると考えていたのかもしれない。アンバーも常に琥珀の耳飾りを身に着けていた。そして――。
「……で、お前の石は
「最初から……」
腑に落ちた、というのだろうか。初めて出会った夜、アンバーは精霊の光を指して『あれが見えるのか』と言った。そしてオニキス、と名を付けた。あの時からそのつもりだった、ということになる。面識のない子供の世話を焼いたのも、惜しげなく知識を与えたのも、全て自分の目的のため。いずれにしても、オニキスはアンバーを殺す定めだった。そこに、自分の意志はない。
「私たちの一生は長いけど、その中で必ず後継者を見つけられるわけじゃない。精霊を宿す人間も減ったしね。アンバーは幸運だった。だから、お前が気に病む必要はないぞ」
カーネリアンはそう断言した。最後の一言を言うためにこの話をしてくれたようだ。彼女は意外にも気遣いの人であるらしい。しかし今のオニキスにその言葉は響かなかった。
「僕は、だからって……」
紡ごうとした言葉は、不自然に途切れて消えてしまった。悲しいのか、怒っているのか、自分でも感情の区別をつけ難かった。一つ言えるのは、随分長いあいだ思い違いをしていたらしいということだ。アンバーにとってのオニキスは、都合のいい存在だっただけなのだ。傀儡として利用しようとする顔も知らない貴族たちと何ら変わらない。彼女と過ごした日々に、誰からも受け取れなった一片の愛情のようなものがあると――そう思っていたのは、自分だけだったのだ。
「……とにかく、魔女にはそういう事情があるってことだ。お前、まだここに住んでるんだろう? また顔出すから、大人しくしてなよ」
黙りこくったオニキスにそう声を掛けると、カーネリアンは柵から飛び降りた。話はここで終わりのようだ。再びつむじ風がテラスに吹き荒れると、カラスの姿になったカーネリアンが夜の森に消えて行った。見るともなしにその様子を見送り、やがて空が白み始めたことに気付いても、オニキスはその場を動けないでいた。
「……お腹が、空いたな」
思い出したように身体が空腹を訴えて、オニキスはのろのろと部屋の中に引き返した。昔も、こんな風にテラスで腹を空かせていた気がする。あの時はずっと、死にたくないと思っていた。けれど今初めて、死んでしまった方が良かったかもしれない、と思った。
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