第5話

 吐き気がする。腹と頭を殴られた鈍痛と、すえたような臭気で、オニキスは最悪の気分の中目を覚ました。辺りは暗く、物音ひとつ聞こえない。周囲の様子を確かめたかったが、両腕が後ろ手に縛られ身動きが取れなかった。上半身だけでも起こせないかと足掻いてみたが、無駄に体力を消耗するだけだと悟って諦めた。多少身体を動かして気付いたが、床には黴たパンの欠片やネズミの糞が散らかっていた。目が慣れてくると、壁際に寄せられた木箱の類も見えてきた。どうやら食糧庫かなにかに使っていた部屋らしい。ただし、放棄されて久しいようだが――そこまで考えたところで、扉がきしむ音と共にランプの光が差し込んだ。

「目が覚めたようだな。なら、来い」

 部屋に入るなり男は尊大に言い放ち、オニキスの襟首を掴んで無理矢理引き起こした。喉が絞まる感覚に堪らずえずいたが、男は構う素振りもなく歩け、と命じた。屋敷で見たよりは軽装だったが、やはりこの男も帯剣していた。少しでも逆らえば容赦はないだろう。仕方なしに、オニキスは男の指示に従って歩き出した。

 連れてこられた建物は、構造だけは森の屋敷によく似ていた。同じようにかつては貴族が使用していたものなのだろう。しかし状態は比べ物にならないほど酷かった。壁は汚れてあちこちにひびが入っていたし、少し目線を上げれば蜘蛛が巣を作っている。床材はすっかり傷んで、踏み出す度に不安定な感触を足に伝えた。

「正面の扉だ。入れ」

 そう言って示されたのは、装飾の施された両開きの扉だった。大人しくついてきたのはいいが、何が待ち受けているのかと考えると足が竦んだ。しかし、躊躇することすら許さない、と言わんばかりの視線に威圧されれば、オニキスに逆らう術はなかった。

 震える手で力を込めると、扉は耳障りな音を立てながら道を開けた。中は先程までいた部屋の数倍は広く、どうやら応接間のようだった。ここに限ってはしっかり人の手が入っているようで、床は丁寧に磨かれ家具は片付けられていた。殺風景な部屋の中で、兵士たちが持ち込んだのであろうランプだけが壁際で明かりを灯している。そんな中に、一つだけ信じ難いものが存在していた。部屋の中央あたりに、誰かが横たわっている。闇に溶け込むような黒いドレス、床に流れる濡れ羽色の髪。瞼は固く閉ざされ、快活にものを語る唇は薄く開かれたまま動かない。まさか、と思った。けれど、見間違いようがなかった。

「アンバー!」

「動くな」

 咄嗟に駆け寄ろうとして、背後から再び襟首を掴まれる。だがオニキスは視線を逸らすことが出来なかった。生気のない青ざめた肌、軽々と宙に浮かんでさえ見せた身体は重く床に投げうたれている。なぜこんな所に彼女がいるのか。何があったというのか。何かあるはずもないとたかを括っていた自分を殴ってやりたかった。

「――挨拶よりも先に女とは。流石は売女の息子と言うべきか」

 不意に低く不機嫌な声が耳を打ち、オニキスは顔を上げた。落ち着いて見れば、暗がりにもう一つの人影があった。古びた部屋には不似合いな、真新しい椅子に腰かけている。火影に浮かんだのは、兵士たちとよく似た、しかし金糸や銀糸で華美な刺繍を施された服装。荒れ放題の屋敷に、飾り立てられたその出で立ちはあまりに不釣り合いだった。そして、短く揃えた亜麻色の髪と緑の瞳――自分と同じ色を持つ男。その誰か、などという疑問が浮かぶこともなかった。さして言葉を交わしたこともないのに、その姿は覚えていた。

「呆けてどうした。私の顔を忘れたか」

「父上……」

 呼びかける声はひどく震えていた。ヴェール王国の王。オニキスの父だった人。いまだに父という言葉が出てきたことに、自分でも驚いた。とうの昔に縁は切れたはずだったのに、再びまみえる機会があるとは思わなかった。なぜ今更、それもこんな場所で自分に顔を見せたのだろう。

 だがオニキスがその疑問を口にすることは出来なかった。前触れもなくオニキスは頬を殴られ、衝撃で膝をついた。次いで、頭を床に押し付けられる。吹き飛びかけた意識の中で、オニキスは頭上で王が兵士をねぎらう言葉を聞いた。

「その方、よく押さえておけ。父と呼ぶのを許した覚えはないぞ、名無しの王子。王に跪け」

「……申し訳、ありません」

 息も絶え絶えに謝罪の言葉を口にすると、頭を掴んでいた手がようやく外された。床と接吻している状態よりはましになったが、それ以上顔を上げればまた同じことになるだろう。擦れた額も鼻から流れる血も拭えぬまま、オニキスは次の言葉を待った。

「さて、なぜここへ連れてこられたかは分かっているだろうな」

 分かるわけがない、と言いかけて、オニキスは兵士の言葉を思い出した。反逆罪、と倒れる前に聞いた気がした。王直々に、それを裁こうというのだろうか。

「身に覚えがありません。僕は、自分のことだけで精一杯で」

 反逆どころかオニキスは日々の暮らしのこと以外考えていなかったし、王をどうにかできるほどの知恵もない。どうしてそんな話になるのか見当もつかなかった。しかし王は、オニキスの主張をそのまま受け入れようとはしなかった。

「精一杯、か。そうであろうな。私がそのように命じたのだから。お前はさぞ恨めしいことだろう。王をしいして、王宮に返り咲こうとしたのではないか」

「そんなことは……!」

 反射的に声を上げると、頭を押さえつけられた。口答えは許さない、ということか。王はどうあってもオニキスを罪人として裁くつもりなのだ。

「――あの森には、魔女の伝説があったな」

 唐突に、話が逸らされた。ヴェール王国に広がる森には、魔女が住む。幼子が森に迷い込まないようにと、親が我が子に語る伝説。事実、魔女は存在していた。話にあるような恐ろしい人ではなかったが、不思議な力を使う。

 ふと、嫌な予感がオニキスにのしかかった。身動きは取れなかったが、必死にアンバーの様子を探る。最後に会った日、彼女が屋敷を出て行ったのは王都からの使者と入れ替わりだった。もしあの時に、姿を見られたのだとしたら。そもそも疑われているのはオニキスなのに、アンバーがここにいること自体がおかしい。

 オニキスの思考を遮るように、今度は髪を掴まれ身体を引き起こされた。これ幸いとばかりにアンバーを窺う。相変わらす、彼女からは動く気配が感じられない。

「その女、知っているのだろう?」

 問われて、王に視線を戻す。オニキスは答えなかった。自分のせいでアンバーを巻き込んでしまったのは確実だった。迂闊なことを言えば、更に彼女に害が及ぶかもしれない。それだけは避けたかった。

「屋敷に荷を運んでいた使者が、その女が風にまかれて消えるのを見たそうだ。魔女と共謀して何か企んでいたのではないか」

「……企むだなんて。王に危害を加えようなど、考えたこともありません」

 それを聞いた王は、なぜか愉快そうに目を細めた。

「お前に何かしら関わろうとしたした者――一部の貴族たちだが、次々と不自然な事故に遭ったと聞いている。魔女が妙な術を使ったのだろう」

「存じ上げません」

 王都での出来事や貴族の事情など、オニキスが知る由もなかった。どんな事故かは分からないが、言いがかりも甚だしい。むしろオニキスと関わることで何かあったというなら、それは王自身が命じたことではないのか。

「では、反逆の意思はないと。その女も無関係だというのだな?」

「初めからそう申し上げています」

 強く言い切ってから、しまった、と思った。王の期限を損ねては事態が悪化しかねない。しかし王は意外にも鷹揚に頷き、オニキスを押さえていた兵士に命じた。

「よかろう。縄を解いてやれ」

 その一言で、呆気ないほど簡単にオニキスの戒めは解かれ身体が楽になった。まさかとは思うが、今のやり取りで納得して解放してくれる気になったのだろうか。しかし、微かに芽生えたかと思われた希望はあっさりと打ち砕かれた。

 王は徐に立ち上がると、何かを投げてよこした。それは重い音を立てて床に落ちると、くるくると回転しながらオニキスの膝にぶつかって止まった。タンケンダッタ。ちょうどオニキスの手に馴染むくらいの、とりたてて特徴のない簡素な柄と鞘。実用的、ともいうだろうか。

「殺せ」

 短く告げられた言葉が、頭の中で反響する。意味を理解しかねて視線を上げれば、自分と同じ色の瞳とかち合った。殺す――誰が、誰を。

 奇しくも、王はオニキスが訊ねるより先に疑問に答えてくれた。

「その短剣で魔女を殺すのだ、名無しの王子。奴はいま眠っている。容易いことだ」

「……なに、を」

 口の中がひどく乾いていた。眩暈もする。自分が、アンバーを殺す。出来るわけがない、と真っ先に思った。彼女が何者であれオニキスにとっては恩人で、唯一打ち解けられる相手だった。何も持たない子供に名前を与えて、孤独に寄り添ってくれた人だ。その彼女を殺めるなど、考えることすら耐えがたい。

「なぜ……彼女は、関係ないと」

 弁明しなければ、と口を開くが、ろくな言葉が出てこなかった。何から語ればいいのだろう。アンバーは悪人などではないと、そうすれば証明できるのだろうか。まごつくばかりの自分に焦って、なおのこと思考が纏まらない。そこに王はさらなる追い打ちをかけてきた。

「そうだ、お前とは関係のだろう? 共謀していたわけではないと、それは認めよう。しかしあの女が妙な術を使うのは確かだ。そもそも魔女は古来から悪として語られてきたものだ。お前が知らないだけで何か企んでいる可能性は充分ある」

「そんなことは!」

 可能性などという曖昧なもので処刑しようというのか――そう叫びかけた声は、首筋にあてがわれた鋭利な感触で中途半端なまま途切れた。

「勘違いをするな。お前に選択権はない。魔女が死ぬか、両方死ぬかだ」

 身体が竦んだ。王が一声上げれば、突き付けられた刃はオニキスの喉を切り裂くだろう。よしんば真後ろの兵士から逃げ出せたとしても、王のそばにもう一人、恐らく部屋の外にも兵士が控えていることだろう。オニキスが少し暴れたところで、瞬く間に切り伏せられるに決まっている。助かりたいと思うなら、アンバーを手にかけるしかない。けれどそれは、自分の死と同じくらいに恐ろしい。

「どうした。死にたくないと言っていたではないか」

 指先が鞘に当たる。抜き放てば鋭い刃が現れて、それは簡単に命を奪うことができる。そう、確かにかつて自分は死にたくないと口にした。全身が震え出し、当時の感情がまざまざと蘇る。死は、あまりにも呆気なく、そして空虚だ。だからこそ抗いようもないほど恐怖を煽られ、オニキスは何も考えられなくなった。死にたくないと、あの時はただそれしか頭になかった――けれど、それはなぜそうなったのだろうか。何かが、記憶から抜け落ちている。

「母のようになりたくはないだろう。それとも、その魔女を同じ目に遭わせてやろうか」

 黙り込むオニキスに焦れたのか、王は畳み掛けるように言った。母のように――それを聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた気がした。

『この役立たず! こんなことなら、お前なんて産まなければよかった!』

 甲高い声が脳裏に蘇る。同じような言葉を繰り返し叫んでいるのは、母だった。無意識に封じ込んでいた記憶が、一気に溢れ出す。

 姦通の罪が明らかになって、王妃とその息子であったオニキスは監獄に押し込められた。庇い立てする者もなく、王を恐れた実家にも見捨てられて、母はオニキスにしょっちゅう当たり散らしていた。男も女も入り乱れた、暗く、悪臭の立ちこめる地下牢。人間らしい生活もままならない環境で少しずつ母は気が狂い、息子に限らず手を上げるようになった。同じ牢の囚人を殴りつけ、止めに来た看守には色目を使い、時に突拍子もなく喚き出す。見るに堪えない有様だった。同じ場所に収容されている人間がおかしくなるのも、無理からぬことである――自分も含めて。

 発端は一人の男だった。彼は鎖をつけられてはいたが、牢の中を歩き回るくらいの自由は許されていた。ある時、男は奇声を上げる母の肩を掴んで突き飛ばし、床に転がった身体を蹴りつけた。そして、うるさいだとか殺すぞだとか、そういった類の暴言を吐いたのだったと思う。その言葉を皮切りとして、地下牢に怒号が飛び交い始めた。次第に母には幾人もの囚人がたかって押さえつけ、殴り、唾を吐きかけ、男たちが服を破り代わる代わる辱めた。罵声と嬌声と下卑た笑い声が入り乱れる中、オニキスは蹲ってその様子を見ているしかなかった。ようやく母に近付けたのは、全ての騒ぎが収拾してからのことだ。這う這うの体で傍に行き、うつ伏せになった顔をずらしてやると、もはやそこに母の面影は残っていなかった。瞼は晴れ上がり、鼻は曲がって、髪は血と埃と粘液にまみれ汚れ切っていた。そして誰かがオニキスに言ったのだ。もう死んだ、諦めろと――。

 胃から熱いものがせり上がり、堪えきれず嘔吐した。たいして食べていないというのに吐き気は止まらず、喉は焼け、手は吐瀉物まみれになった。その不快感がまた嘔気を誘発し、更に吐く。あの時からだ。死という言葉は、狂った地下牢と歪んだ母の顔を連想させる。まだ幼かった自分は恐怖に取り憑かれ、死にたくないと繰り返した。

 乱れた呼吸も整わないまま、僅かに視線を上げる。王は口の端を持ち上げ、オニキスの答えを待っていた。アンバーを同じ目に遭わせてやる、と言った。この人なら躊躇わないだろう。妻であった女でさえあのような劣悪な環境に放り込んだのだ。魔女を悪と断じるなら、きっと更にむごい仕打ちもして見せる。そしてオニキスは抗う術もなく、また眺めていることしか出来ないのだ。

「アンバー……」

 ひりひりと痛む喉で名前を呼ぶ。実母よりよほど親しみを感じていた魔女。新しい名前をくれた人。彼女について知っていることは多くないが、少なからずオニキスを救ってくれた存在だった。彼女に母のような末路を辿らせるわけにはいかない。けれど自分に守れるだけの力はないのは分かっていた。

 短剣の柄を握り締める。持ち上げると存外に重みがあり、これから犯す罪を否応なく意識させられた。鞘から抜いた抜いた刃が、鏡のようにオニキスの瞳を映し出す。救いようのない愚者の顔をよく覚えておけ、と告げられているようだった。

「ふん、ようやくか」

 王が何か呟いた気がしたが、上手く聞き取れなかった。覚束ない足で立ち上がり、アンバーの元へ向かう。暗がりの中で、微かに胸が上下しているのが見えた。今はただ静かに眠るだけの顔に、母の最期を垣間見る。心臓が痛いほどに脈打っていた。歯の根も噛み合わず耳の奥で不快な音を立てている。しかしオニキスは、今にも取り落としそうな短剣に再び力を込めた。彼女があんな風に嬲られ、蔑まれるなどあってはならなかった。ならば、いっそ――。

 拙い手つきで剣を構える。息を止め、固く目を閉ざすと、オニキスはアンバーに力の限り剣を突き立てた。

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