机上のハネムーン

北見 柊吾

机上のハネムーン

 僕が帰ってきた時、りえこは家族共用のパソコンでベネチアへの旅行記のブログを見て溜息をついていた。


 ダンディでかっこいいお金持ちな旦那様と、行ってみたかったいろんなところを全部見て回る。それが、りえこの長年の夢だ。勿論、今の生活とは誰でもわかるような格差がある。


 だから多分に申し訳なさもある。やっぱり後悔してるんだろうな、と考えてから現状維持で精一杯の自分自身を省みて、罪悪感にさいなまれる。


 深呼吸、深呼吸。幸いにも、まだりえこは僕が帰ってきたことには気づいていないらしい。気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと僕はドアの前で数を数える。


 一。二。三。


 僕とりえこは大学で出会った。大学のサークル、机上旅行部で僕が一目惚れした。話してみて、さらに好きになった。高校生の時修学旅行で行ったオーストラリアに感動した僕と同じように、旅行で行ったアメリカに感動したと語ったりえこ。仲良くなるのに時間はかからなかったことは覚えている。それから何度も話すようになって、何度も一緒に机上旅行にも出た。大学生の頃は何も知らずに楽しめた。あの頃と違うのはなんだろう。足りないのはお金と時間と、サークルの部室に置き忘れた夢と。それ以外にもあったのかもしれないが、余計だったものはすべてまとめて随分前に不燃ごみに出していた。



 りえこは別のページをクリックした。すぐに新しい旅行記のページが開く。



 大学時代、二十歳を過ぎて二人で何度も通いつめた居酒屋で何度もりえこが話してくれた理想の旦那像も結婚生活も、僕といる今の暮らしからは程遠い。それはよく分かっている。もっとお金持ちで、もっと優秀な地位を持っていて、もっとダンディで高身長で、僕よりもずっとイケメンで。



 商社で働いてて、なんか、もうしょっちゅう海外に仕事で行っちゃうけど私も一緒に連れてってくれて、私はその間に美術館とか見てまわったり。あー、でも一人でまわるのも寂しいよね。やっぱり空き時間は一緒に行くの。デートって感じで、エスコートしてもらって。あー、そうね、私意外と、ちゃんと見たい派だからそんなにガツガツいかれても嫌かな。


 向かいに座って大好きな軟骨をつまみながら。サワーを少し飲んだだけで酔っ払って。あの店の雰囲気と、りえこの酔う姿は今でも色鮮やかに思い出せる。




 少しでも、りえこの夢を叶えてあげたいからこそ、事あるごとに宝くじも買ってみている。残念ながら結果はお察しの通り。とことん僕という人間は運は使い果たしているんだろう、一万円以上当たったことがない。りえこの落胆する顔が見たくなくて、買ったことを隠すようになって、どれだけ経っただろう。外れていることを確認する度に、ごめんなと心で呟く僕を何回見ただろう。数えるのをやめて、どれだけ過ぎただろう。




 付き合って一年半、僕からプロポーズした。りえこの両親には反対されたものの、半ば駆け落ち気味に結婚した。それで良かったと思っていた。僕は情熱的な恋に浮かれていたんだと思う。後悔というか、申し訳ないと思うばかりだ。まだ、りえこも昼間はパートで働き、二人で生活費をやりくりする毎日。奥さんに働いてもらっている僕は、やはり夫として失格なんだろう、と思う。同級生の中でも早くに結婚して、若手の社員としてはそこそこ貰っているとは思うけれど、まだまだ貯まっていくお金はすずめの涙。




 意を決した僕は、ゆっくりとドアを開ける。りえこは振り返って、おかえりなさいと言った。電源が切れる前にパソコンは閉じられた。僕はいつもと変わらずただいま、今日もおなかがすいたよと言う。昔より口角が下がった笑顔で、出された夕飯を黙々と食べる。今日はまた新たな、なんとかという変わった形のパスタらしい。りえこはなにか話をしていた。他愛のない話だった。いつも通り、りえこの料理は非の打ち所がない。心とは反対に、腕は軽やかにフォークをまわして口に運ぶ。



「あのね、今日はあなたに見せたいものがあるの」


 りえこが唐突に僕の目を見て言った。瞳の奥は凛としていた。見つめ返す。りえこの頬に入っていた力は案外あっさりと抜けた。僕が恋をした、ふにゃり笑顔が代わりに浮かぶ。


「きて?」


 連れていかれて久々に踏み入れたりえこの部屋は僕が知っていた頃と違い、夢の国が広がっていた。


 エッフェル塔、エトワール凱旋門。紙で作られた手作りの建造物たち。所狭しと並んだミニチュア絵画。そして、顔をくしゃくしゃにして笑いあいながら手を繋ぐ僕とりえこ。


「まぁ、私達にはこれくらいがお似合いなのかなと思ってね」


 りえこはそう言って、見たこともない大人な笑いを浮かべた。分相応。その顔がそう告げているようにも見えた。妥協は、少なからず心残りを生む。


 それでも。


 毎晩りえこと、この人形ごっこに興じるのもいいだろう。久々の海外旅行だ。

 そういえば、新婚旅行すら、お金の事情で行けていない。数年経ってしまったが、これが実質の夫婦水入らずの新婚旅行だろう。

 僕もりえこも、大学生の頃に戻った気分がした。


「パスポートはちゃんと持っている?」


「うん、準備した」


「じゃあ、出発だ。搭乗口に向かおう」


 紙の裏からわずかに透けていくつも浮かびあがる離婚届の緑から目を背けて、僕はりえこに笑いかけた。

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