少女の常識

篠宮りさ

少女の常識

 レースカーテンの隙間から光がこぼれる。漫画をめくる手を止め、少女は大きく欠伸をした。何度も読み返した漫画をベッドの上に放り投げる。猫とハートが描かれた子供っぽいベッドだ。彼女はそれに似合わない身長で狭い部屋を闊歩する。端から端まで歩いても歩幅五つ分くらいの広さである。机の上は物が積み上げられ、作業できるような場所はない。中学理科、と書かれた教科書や通信制高校のパンフレットの中に、漫画や雑誌が混ざっている。彼女はその山の上に今読んでいた漫画を乗せると、カーテンを引いた。

 明るい日差しが一気になだれ込む。一辺五〇センチほどの正方形の窓である。窓の淵に溜まった埃が風で吹かれ、暗い部屋の中でライトアップされていた。踊るように舞う埃を眺めるのが好きだ。掴もうと思って手を伸ばしても、掴めたのかそうでないかさえ分からない。実体はあるはずなのに触れた感触がほとんどない。あんなにキラキラ踊ることができるのに、日の光が無くなった途端薄汚い塵となって床に落ちてゆく。その姿に惹きつけられた少女は、晴れた日の昼下がりに窓を開けるのが習慣になっている。

 少女が部屋から出なくなってもう五年が経つ。何のことはない、中学で最初の友達づくりに失敗し、孤立した。心が弱かった少女は学校に行くのをやめた。よくある話だ。はじめのうちは熱心に訪れていた担任教師も匙を投げ、両親は今年受験の兄に期待をかけるようになった。実際少女も自分自身に呆れ返っており、毎日漫画を読んだりパソコンでネットを彷徨ったりして過ごしている。いつしか外に出るのが怖くなっていた。自分を置いて発達しきった世界。稚拙な頭で満足にコミュニケーションも取れない自分を、他人と比べて際立たせるのが嫌だった。自分には何もないと分かっているからこそ、それを実感するのを恐れていた。時間は巻き戻せない。世界はなくならない。床に座り込んで上を眺めながら、少女は毎日自問自答していた。このままでいいのか、と。しかし、変わるのは怖い。時間だけが過ぎていくことによって彼女は取り残されていた。少女はまだ「中学一年生」だ。

 そんな少女にはひとりだけ、友人がいた。小学校時代に仲の良かったミリアちゃん。その名前に似合わず日本人形のような顔立ちをしている彼女もまた、引きこもりだ。ひょんなことから連絡を取り合うようになった二人は、時折電話を繋げてありもしない話をする。高校の制服を着るとしたら、どんなのがいい。私、赤いリボンがついたセーラー服がいいな。私はチェックのスカートを履きたい。茶色いローファーで帰りに寄り道したい。

 その日も少女はミリアちゃんと電話で話をしていた。その日は雨で、唯一の楽しみがない日だった。少女は問いかけた。将来、何になりたい。ミリアちゃんは答えた。私はサッカー選手になりたいな。

 意外な答えに少女は驚き、理由を聞く。そうね。サッカーはできないんだけれど、あんなに素早くボールを追いかけられるって、すごくない?私、絶対に転んでしまうと思うの。あ、でも、その理屈で言ったら、野球選手やバスケットボールの選手でもいいわね。

 そう言ってミリアちゃんは笑った。少女は適当に相槌を打ち、今度は自分の夢を語る。私はねえ、小説家になりたいな。まるで、世界がひっくり返るような物語を書くの。今までの普通とか、常識が、一気に変わってしまうような。まるで今までの世界じゃないような、新しい世界をつくるの。

 ミリアちゃんはへえ、と楽しそうに言った。いいわね。それ。でしょう。私たち向けの世界になったら素敵ね。そうね。せかせかしない、静かで誰もいない世界。

 ひとしきり盛り上がったところで、二人の間に沈黙が訪れる。話すことがなくなってどちらも黙ってしまうのが、電話を切る合図だ。じゃあ、今日は、と言いかけたところでミリアちゃんが言った。

 ねえ、常識っていつかは本当にひっくり返ると思うの。

 そのミリアちゃんの言葉の意味を、私は半年後に知ることになる。



 新型コロナウイルス。

 中国の武漢から発症したこのウイルスは、瞬く間に世界中に広まった。感染力が高く、特に高齢者は致死率が高い。アメリカ合衆国を筆頭に、感染者は全世界で約一七八万人、死者は九・五万人にのぼる。はじめは楽観視していた人々も、数々の有名人の感染や死亡でその危険性を知り、大型ショッピングモールや百貨店は休業を余儀なくされた。それどころか学校や学習塾までもが休校し、会社員はパソコンを使ったテレワークに移行せざるを得なくなった。ニュースでは毎日のように新しい感染者の情報が流れ、ついに四月、内閣総理大臣より初の緊急事態宣言が出された。東京、神奈川、大阪などの七都府県を対象に、都市圏では特に外出自粛を要請されている。密閉、密集、密接を避けねばならず、数々のサービス業が倒産した。当たり前の日常は失われ、家を出て遊びに行こうものならネットでバッシングを浴びるようになった。マスクは品薄で値段は高騰し、手作りマスクが推進されるようになった。

とにかく家にいることが善とされる世の中。世界は、ひっくり返ってしまった。


 少女は驚いていた。

 まさか、本当に世界の常識が変わってしまうなんて。家にいることが善、外に出ることが悪とされるなんて。少女でさえ肯定できないような今の彼女の状況を、他でもない世界が肯定している。家にいていいんだよ、そのままでいいんだよと全世界から優しく守られたような気分だった。彼女がどれだけ家にいても、それは世界から見て「普通」なのだ。何より両親が自分の体調を心配してくれる。本当に久しぶりのことだった。自分が世界のサイクルに参加できたような気持ちだ。皆と同じように、家に居る。毎日、ほとんど外出もせずただじっと家に居る。たったそれだけのことで突然「当たり前」のレッテルを手に入れられたことが心の底から嬉しかった。

 少女は少しずつ変わっていった。毎日決まった時間に起き、三食きちんと家族と共に摂るようになった。家事の手伝いや部屋の掃除などを進んで行うようになり、母親は涙ぐんで喜んだ。少女は躍起になっていたのだ。普通の称号を放したくなかった。ただそれだけだった。今の世界の状況は、世界が自分にチャンスをくれたのだ。落ちこぼれた私に、もう一度やり直す機会が与えられたのだ。その機会を逃すわけにはいかなかった。痩せて顔色の悪かった彼女の顔はだんだん頬に赤らみを取り戻し、身体は徐々に健康的な肉付きとなり始めた。

そして少女はとうとう外に出た。母親と一緒に日用品の買い物に出かけたのだ。道にはほとんど人がいなかった。大通りでも車はあまり通らず、いつも行くスーパーの看板だけが煌々と光を放っていた。昔家族で行ったボウリングセンターの扉に、当面休業の張り紙があった。どこも同じように光を落としていた。街は、世界は、静かだった。

少女は嬉しかった。ずっと自分を変えるきっかけを求めていた。渇望していたものを手に入れることができ、少女は舞い上がっていた。この世界の喧騒が収束したら学校に行こう。勉強して、大学に行こう。両親は泣いて賛成してくれた。さっそくネットで少女に見合った学校を探し始めた。家の中は活気で満ち溢れていた。食事を食べていても感覚がないほどフワフワした気持ちでいた。頬を赤らめて笑う少女は以前の彼女ではないみたいだ、と兄は驚いていた。体が火照る。気持ちの高ぶりが抑えられない。心なしか少し息が苦しい。天井が回る。誰かの足が見える。床が冷たくて気持ちいい。目がかすむ。見えない。…。



 『只今のニュースです。大阪府に住む一六歳の少女が新型コロナウイルス感染により死亡しました。大阪府での若者感染は初の事例となります。また、アメリカでは…』



                                     終

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少女の常識 篠宮りさ @risa0621

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