狸に寝言、花に盃。(お題:夜の花見)


 果たして一升瓶を片手に花見盛りの夜の公園を闊歩するスーツ姿のOLがこの世に一体何人いるだろう。私が想像できる限りその数は零だ。

 零と言えば、似た感じで「澪」というスパークリング日本酒がある。私の好みにもぴったりで飲みやすく、何よりあの「名残惜しくなる量」が魅力的だ。あともう一本飲みたい。そんな気持ちになるくらいで留まれるベストな量で、私も日々愛飲している。まあ慣れてくるとそんな名残惜しさを見越して二、三本買い揃えてしまうので元も子もないのだが。


 そもそも私が夜に何故こんな日比谷公園くんだりで一升瓶片手に歩く羽目になったのかと言えば、まあ一口に言えば「破局」したのである。それも結婚寸前のタイミングでだ。

 三十を来年を控えた二十九の春先、ようやく遠距離を続けていたK(仮称:クズ男のKと解釈しても可)から都内転勤の報せと共に「大事な話がある」と連絡を受けた。これは間違いなくゴールインだ。散々彼のキャリアの為に遠距離を許し、時折入る甘えた電話を寝る間も惜しんで応対し、久しぶりに会ったと思えばどこへ連れていくでもなしに速攻ラブホテルに連れられ、ドライブしたと思えば簡単な渋滞にイラつき黄色い信号でアクセルを踏み込んで警察に頭を下げるハメになる。

 そんな情けなさも呑み込みながら私は彼を大切に育ててきた。勿論、そこには彼に対する愛情もあった。同時に彼がある程度将来性の見込みがある点も耐えてきた理由だ。時折見せる適当さや隙も可愛いなコイツゥって思えばそれなりに許した気になれたし、結婚すれば互いの生活も揃えるところは揃える必要が出てくるから、直すべきところは直す、直らないところはどこまで許容するかを徹底的に、本腰入れて話し合えば良い。

 そんな手塩にかけて育てた恋人が、三年近くの転勤を終えて帰ってくる。それも重大発表も兼ねて。そう思って舞い上がるのは仕方がないと思いませんか。そこの読者さん。ねえ、そう思いますよね。

 舞い上がった気持ちのまま友人との飲み会でここまでの出来事を全てつらつらと語り、すまんけどあたし一抜け、と焼酎を一気に飲み下した数日後、飲み会グループの中で職場が近い友人から受け取ったのがこの今抱えている一升瓶だった。あの一気飲みに感銘を受けたと渡された日本酒のラベルには達筆で「寝言」と書かれていて、彼女たちの私に対する熱い想いに私は感極まったものである。次の飲み会で覚えてろと受け取った一升瓶のラベルを眺めながら今は思いう。果たして彼女らはこの結末が読めていたのだろう。

 ともかく、一升瓶を入れた紙袋を片手に約束のレストランに向かうと、Kは神妙な面持ちで入口に立っていたわけだ。定期的に会っていたはずなのにどうしてか、一皮も二皮も向けたようではないか。はて、そんなに立派にスーツを着こなせる人間だっただろうか。男子高校生のような整髪料の付け方しかできなかった彼が、綺麗に髪を整え、顔のムダ毛を処理してツルツルの状態でそこにいる。


 ああそうか、彼は覚悟を決めたんだな、と私は思った。


 Kが選んだフレンチはなかなかに美味しかった。どこでこんな店知ったのかと聞くと上司に教えてもらった、と。成る程上司とも懇意にしているのならこの先も安心ね。

 メインも終えてデザートも最後の一口を残すほどになったところで、彼は真剣な眼差しを私に向けた。


「実は、大事な話があるんだ」

「一体何、そんな改まっちゃって」


 今思うととんだ茶番だ。分かってるけど、花を持たせる為に言ってあげますみたいな斜に構えた返答。そう、この後私振られるんですよ。とっても簡潔な一言で。


「別れてほしい」


 多分、レストラン中の客が心の中で「え、このムードでそれ?」と思ったに違いない。なんなら水を注ぎにきてくれたスタッフがKのことを二度見していたし、後ろの記念日を楽しむカップルのうち女性がばね仕掛けのおもちゃのように振り返ったのが見えた。なんなら目が合った。

 真っ白になった私に構わず彼は自分の思い描くロマンティックな離別シナリオを突っ走り始めていた。長々と、つらつらと、奴は無駄な装飾をつけて語っていたが、必要のない箇所を全て削除するとこうなった。


「他に好きな人ができたから別れてほしい」


 君のことを思って、なんて言葉も出てきていたが、そんなこと言われても私のことを思うならここでエンゲージリングの一つでもケースから差し出してみろとしか思わないし、結局は彼が涙ながらに別れのエピソードを語っているだけで、申し訳なさとか、そういった類のものはまるで感じられなかった。ここまで来てもKは自分第一を貫くのか、といっそ清々しいほどだ。

 そして、極め付けにはこの言葉だ。


「実は、妊娠してるんだ」


 普段生活している中で一升瓶が丁度手元にあって助かった、なんてタイミングそうそうないのだが、私は実についていた。奇跡みたいに最高のタイミングでその機会がやってきたのだから。恐らくこの辺りも友人たちは想定していたと思う。

 次の瞬間には、一升瓶「寝言」は彼の頬骨を薙いでいた。右頬が漫画みたいにヘコんだまま吹っ飛んでいくKを見送り、私は「寝言」を担ぐと倒れる彼の前にしゃがみ込み、そして感情のまま低い声で彼に返答を告げた。


「こっちから願い下げだ、クズが」


 場内に燦然と鳴り響く拍手の音に振り返ると、主に女性陣が盛大に手を叩いていた。私は一升瓶を抱え、手荷物を手に取り上品に会釈をしながらレストランを退店した。お代は全て彼持ちにした。何故か改めてお食事に来てくださいと割引券も貰った。徳をした気には全くならなかった。

 


 とにかく、そんなわけで今私は夜の日比谷公園を一升瓶を抱えて歩いている。イチャつく男女、路上で漫才の練習をする二人組、項垂れて動く気配のない老人。様々だ。ただ、公園に群生する桜だけはとても綺麗だった。街頭が放つ白熱灯の輝きの中でその淡い桜色を揺らしている。

 ここで飲むのも悪くないかもしれない。そう思った私は、一番近い桜の木の下に彼がくれたハンカチを敷いて座り、一升瓶の蓋を開けた。開けたところで、そういえばコップがないことに気がついた。ついていない。


「おや、お嬢さん。良い酒を持っているじゃないですか」


 顔を上げると、そこには一匹の狸がいた。ドッキリか何かかと思って周囲を見るが、それらしきスタッフはいない。おまけにその狸は手元にチーズ鱈とお猪口を二つ持っているではないか。準備が過ぎないだろうか。


「よければこのチーズ鱈と一杯交換しませんか」

「いや、別に貰い物なんで。むしろお猪口借してください。ついでに一緒に飲みましょうよ」


 私の返答に狸は気を良くしたのか、隣にぺたんと腰を下ろすとどこから取り出したのか、50センチ幅くらいの小さな茣蓙を私と狸の間に敷き、そこにチーズ鱈とお猪口を置く。狸が持ってきたチーズ鱈はどこにでもありそうなコンビニオリジナルのコスパが良いものだ。最近の狸はコンビニも利用するのか、果たして電子決済などを使うタイプもいるのだろうか。やっぱりローソンを愛用しているのだろうか。等と横道逸れたことを考えながら「寝言」のキャップを開け、二つの綺麗な切子の細工がされたお猪口に酒を注いだ。透き通るような純粋無垢な液体がお猪口の中で波を打つ。


「最近はめっきり日本酒を飲む人も減りましたね。飲みやすい缶タイプが増えましたし、そっちの方が気軽に飲めますから」

「狸さんも最近は缶派ですか?」


 切子細工の中で揺れる日本酒を嬉しそうに街灯の光に透かしている狸にそう尋ねると、狸は「もっぱら檸檬堂ばかり飲んでいます」と答えた。成程、わりに新しいもの好きだ。


「昔はお供えには日本酒が定番でしたから。私たちもよくそういったものを頂いていました。このお猪口なんかもそこで頂いたものです。あまりにも綺麗なので、今も大切に使っています」


 チーズ鱈をひと噛み、「寝言」を一口。シンプルな所作を経た狸の横顔は、この世の幸せを享受したとでもいうかのように満たされたものだった。


「でもそれって、本来神様にお供えするものだから、狸さんに宛てたものではないのでは?」


 狸は目を丸くして私を見た。しばらくじっと見つめた後、にこりと笑い、酒をもう一口飲む。


「それにしてもこの日本酒、とても美味しいですね。どこに置いてあるものなのですか?」誤魔化したなこいつ。

「気に入ってもらえて嬉しいけど、残念ながら知らなくて。私が結婚するって言ったら友人にお祝いでもらったんです」

「結婚されるんですね、それはめでたい。おめでとうございます」

「まあ、するはずだった、というのが正しいんですけどね」


 私はついさっきまでの束の間の幸福を思い出して苦笑する。首を傾げる狸を尻目にお猪口の酒を空にする。


「他に好きなひとがいるから別れてほしいって言われちゃって。しかも相手を妊娠させたって。びっくりしました。普段からコスパ重視なんて言葉を使ってどこにも連れて行ってくれない彼が、珍しく良いレストランを予約してくれたから、これは何かあるなと思ったんだけど。まさかそれが最後の晩餐とは誰も思わないですよ」

「それは、御愁傷様です」

「まあこの日本酒で一発殴ってやったし、お代は彼に付けたんで」


 思い返せば出かける時も近場で、ドライブなんかで遠出なんてした記憶もない。家でゴロゴロしているのが好きで、私の文句も大体ベッドに押し倒されて有耶無耶にされていた気がする。お金なんかも私が殆ど出していたし、彼が出したところなんてほとんど見た記憶がない。

 いや、でも結局私の脇が甘かっただけか。それでも時折見せる優しい表情や可愛らしい仕草に幸福を感じて「まあ、いつか変わってくれる」とでも思っていたのかもしれない。その挙句が、今回の別れ話だ。

 もしかすると、彼の支出の主は例の「妊娠中の浮気相手」だったのではないだろうか。むしろ妊娠中の恋人こそが本命であり、私が「浮気相手」だったのかもしれない。だとしたらとんだピエロだ。


「なんか、カッコ悪いですね、私」


 囁くようにぽつりと漏らすと、狸は顔を上げた。チーズ鱈はいつの間にか既に半分近く減っている。


「相手の甘え顔に浮ついて、いろんなことを許してきた結果がこれですから。もっと、お互いの懐が見えるような相手と付き合うべきだったのかもしれない。そうでないと、対等な付き合いなんてできないんでしょうね」

「本来ならそういう関係を付き合うことで築いていくものでしょう。懐を見せた貴方に甘えて自分の懐を見せようとしなかった彼にこそ責任があります」

「そう、ですかね」


 狸との会話はそれからしばらく途絶えた。互いに無言のまま日本酒を舐め、公園の夜景を眺める。いつの間にかガヤは消え、公園には私と狸だけになっていた。風を受けてさらさらとざわめく雑草や木と、等間隔の街灯にじりりと触れて焼ける虫の音。そして最後に、私たちの咀嚼音と日本酒をすする音。

 不思議と今の環境は嫌いじゃない。ただ淡々と目の前で起きていることを受け入れ、愉しんでいるような感じだ。なんだか心地いい。

 

「ところでお嬢さんは、花札はできますか?」

「花札ですか?」


 唐突に聞かれて私は思わずオウム返しで答えてしまう。最後に遊んだのは中学生とかそれくらいだったと思う。年始にもらったお年玉を賭けて従兄弟たちとゲームに興じる中の一つに花札があった。一番歳上に随分と巻き上げられたっけ。


「よければ、今から少し遊びませんか? もちろん、お嬢さんが勝ったら褒美も用意しましょう」

「褒美、ですか」

「対価はありません。勝って得するか、負けるか。それだけのことです。恋人に酷い目に遭わされたあなたから何かを奪おうとは思いませんよ」


 つまりのところ、私に損はまるでないということのようだ。確かに、ここで花札に興じて大敗を喫したらもう今日は夜も眠れないかもしれない。ちなみに褒美というのは一体なんだろうか。尋ねてみたいのだが、狸は別にそこを詳しく説明するつもりはないようでせっせと準備を始めている。


「さあ、めくってください」


 気がつくと目の前には既にい草模様のシートが敷かれ、中央には花札の山がぽつりと置かれていた。いつの間に。

 戸惑いながらも山から一枚引いて自分の前に伏せ置いた。狸も同じように伏せ、互いの前に一枚の花札が置かれた状態になる。


「さあ、めくりましょう」


 狸と同時にめくる。

 私は柳の光札で、点数は十点。狸はカス札で0点。


「運が良いですね。お嬢さんが親です」

「じゃあ、私から始めますね」


 花札はまず一枚づつ引いて、得点の高い札を引いた方が親、つまりは先手を取れる。場の八枚の柄とマッチする手札を出しながら、役を作って「勝負」を掛ければ勝利し、次のゲームに移る。その繰り返しの中で点数をより多く作った方が勝利するゲームだ。

 花札の中で最も強いのが「光」と呼ばれる特別な札だ。次に動物が書かれた札、短冊が描かれた札、そして植物だけが描かれた札がカス。所謂ハズレ札になっている。猪鹿蝶、なんて言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。あれがまさに花札の役で、猪、鹿、蝶の描かれた三枚の札を揃えると点数になる。


「三戦くらいにしておきましょうか」

「あっという間に決着がつきそうですね」


 私の言葉の通り、一戦目、二戦目はあっという間に決まった。狸がはじめに猪鹿蝶を揃えて五点、赤短(字の書かれた赤い短冊を三枚集めた役)を作り五点。手慣れた手つきで役を作っていく狸にすっかり私は置いていかれてしまった。


「花札ほど運要素の強いゲームもそうありませんね」

「こいこい(役ができた時点で勝負をかけず、更に点数を伸ばす時の言葉。この宣言をした場合、追加の役が作れないとそのゲームで得点ができない)くらいじゃないですか。まあ、あれも運ですけど」

「そうですね。私もしょっちゅう負けてます。狸も、狐も。運勢には少し強いところがありますからね」

「…もしかして、ズルとかしてます?」


 狸は声を上げて、しかし上品に笑った。


「いえ、我々もそこに手を出すと決着が付かなくなってしまうので、暗黙の了解で無くしています。だから安心してください。先ほどの二戦は、純粋に私の手札が良かっただけです」

「それはそれで、悔しいんですけど」

「結婚できなかったこととどちらのほうが悔しいですか?」

「結婚でしょ」


 自分で答えて改めて驚いたが、自分はこんなにもKから結婚の話を待っていたのか。いや、待っていたというよりはいい加減互いの関係を整理したかったのかもしれない。長い交際期間の末に私たちがどうなるのか。果たして子供なんてものを作って、どんな名前にしようかとか、悪阻でしんどい気持ちを彼にぶつけたりだとか、実際に産まれた時の言葉にしようのない感情を二人で味わうことができるのか、とか。

 つまるところ、あの「妊娠」は、私が欲しかったKとの証だった。

 とはいえ、妊娠したとして彼は相変わらず仕事に明け暮れるだろうし、フォローなんて何もしてくれない。自分の好きなことのために時間を使い、必要なことは私が主導で動くことになるだろう。こんな旦那を選ぶんじゃなかったと時折私は思うだろう。

 でも私は、恐らくそういうことを思いたかったのだと思う。例え子供を産むことが辛かろうと、旦那が非協力であろうと、そういうまだ見たことのない明日をみてみたかったのだ。いろんな後悔を引っくるめて、後悔せずのうのうと生きる旦那に殺意を抱えて。微かなポジティブと膨大なネガティブに押しつぶされそうな日々がくることを、とても嬉しかったのだ。


「私、本当に運がないんだなぁ」


 何故だろう、ここにきて泣けてきた。狸と日本酒飲んで、花札やって、そういう非現実的な出来事で少し感覚が麻痺していたのだと思う。だんだんと溶けていく麻痺した感情からまず最初に溢れ出るのが、涙だとは思わなかった。


「それでも、貴方はまだ負けてない」


 狸の言葉に、私は顔を上げた。


「今の状況だって、最後の最後に巻き返せる可能性を持っています。恐らく無意識に出していると思いますが、お嬢さんはもう役が一つ出来ていますよ」


 彼の言葉に私の出した場札を見る。

 盃の書かれた種札と、丸い月の書かれた光札。


ーー松に鶴、桜に幕、桐に鳳凰。『三光』六点。


 あと四点。もしくは一点で逆転できる。


「こいこいで」

「続けましょう」


 あとちょっとで巻き返せるなら、それに賭けたかった。

 最悪の一日だったとしても、何か一つ挽回したい。一升瓶でKを殴ったのもある意味では巻き返しになるのかもしれないが、あれはもうなるべくしてなった事だ。できることなら、ここで勝って終わりたい。点を取って勝つか、何も出ずに全て失うか。そのどちらかでいい。

 減っていく山札から、欲しい札が出てくる気配はない。手元はほとんどがカス札だから、山札からの一枚を狙うしかない。幸い狸はまだ役ができていない。最後まで粘るべきだ。


「それにしても、今日はとても素敵な一日だ。私はとても運が良い。だってあなたという素敵なお嬢さんと酒を飲み語らい、更には娯楽にまで興じている。ありがとう、お嬢さん」

「まるで勝ち越して終わるみたいな言い方やめて下さい」

「おや、まだ勝つ気で?」

「勝ちますよ。勝って今日の〆くらいは気持ちよく終わってやるんです」


 私は場に手札を置き、山札に手をかける。


「素敵なご褒美じゃなかったら、怒りますよ」


 引いた札は、「菊に盃」

 私は三光の中から桜に幕を引き出し、隣に菊に盃を置いた。


「花見で一杯、五点」


 狸は目を丸くして私の役を覗き込んでいた。不思議と嬉しそうにも見えるのが少し癪だ。


 松に鶴、桜に幕、桐に鳳凰。『三光』六点。

 桜に幕、菊に盃。『花見で一杯』五点。

 計十一点に加え、七点以上の場合は点数が倍になる。

 

 結果、狸が合計十点。私は合計二十二点。私の勝ちだ。


「どうですか! 見事に刺さりましたよ役が!」


 顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。

 狸どころかシートも花札も、彼が持ってきたチーズ鱈もなく、やけに減った日本酒だけが私の傍に置かれていた。



 あの夜の出来事が果たしてやけ酒で酔い潰れた私が見た幻だったのかどうかは定かではない。狸がいた証拠も、花札も、彼が持ってきた全てが我に返っていた時には消え失せていて、痕跡をどうやっても追うことは不可能だった。

 それにしても、なんだよ花札って。傷心中の私の元に狸がやってきたと思ったら花札やって励まされるなんてそうそう体験できるものではないし、夢でも見ない出来事だ。花札というところが”それっぽさ”を出しているのがまた面白い。

 まあ、それでも私は狸に逆転で勝ったし、不思議とあの夜は晴れやかな気分で帰ることができた。夢にせよ幻にせよ、あの一夜で持ち直せたところを考えると、私のメンタルはそれなりに強いのかもしれない。


 まあ、帰ってからもう一度大泣きはしたけれども。


 気持ちが落ち着いた後、ひと月ほどしてからあの「寝言」とかいうふざけた日本酒を渡してきた飲み友たちを緊急集会と称して事の経緯を伝えた時、彼女たちは口を揃えるようにして言った。


「ほらやっぱり」


 それはまあ、反論の余地のない言葉ですが、もう少し励ましの言葉というか、当たり障りのない言葉から初めてもらうことはできないのでしょうか。


「やっと夢から覚めたんだから良かったわよ。だってあなたのエピソード、惚気っていうより被害報告書みたいだったから」

「被害報告は流石に言いすぎてない?」

「イライラして渋滞中にエンジン吹かす彼氏なんてホラーでしかないわよ」


 ごもっともで。


「それより、彼を振った後の狸と花札した話をしてよ」


 彼女たちはむしろその後の私と狸の話が聞きたくて仕方がないようだった。


「信じてないでしょ、絶対に」

「まさか、信じるわけないじゃない」

「もういい、この話は終わりで」


 その時、私の携帯電話が急に鳴り出した。

 

「はい、もしもし」

『こちら、Kさんのお知り合いの〇〇さんの電話でよろしいでしょうか』


 元彼氏の名前を出されて私は動揺する。女性の声だが、思い当たる節がない。もしかすると妊娠させて身を固める決意をアイツにさせた浮気相手だろうか。いや、だとしても私に直接連絡をするメリットは何も…。


「こちら、〇〇警察署なのですが」

「あ、警察の方? 私何もしてませんよ」


 つい出てきた言葉だったが本当に私は何もやっていない。いや、一升瓶で引っ叩きはしたが死んではいないはずだ。

 警察署から電話が掛かってくる理由がまるで分からず、嬉々とした表情で様子を伺う友人たちを横目に相手の言葉に耳をそばだてる。


「実は、〇〇さんにトラブルがありまして…。関係する方々にそれぞれ事情を伺おうとしているところなのです。あなたの名前が関係者の一人として挙がりましたもので、ご連絡させていただきました」

「私が、ですか?」


 署員の女性はええ、と肯定した後、一呼吸入れると、こう言った。

 

「〇〇さんが傷害事件に遭いまして」

「もしかして女性関係の縺れとかですか?」

「…やはり、分かりますか?」

「いや、ええ…。関係者なんて言われたらそりゃもう」


 それで、と私は続ける。


「何人くらい挙がってるんですか?」


 電話越しに言い淀む様子が分かった。言いづらそうな低い声のまま、彼女はやがて答えた。


「十四人です」

「十四人」


 友人たちの丸くなった目が見える。十四人。

 単純計算でも隔週で女と毎日会っていたことになる。でも私と彼のスケジュールは不定期だった筈だ。一体どんな付き合い方をしていれば十四人を回せるのだ? 管理職にでも昇進したらさぞかしバリバリの評価をされたことだろう。まあ、今回のことで昇進の道は途絶えただろうが。

 ため息も出ない。私は淡々と事態の詳細を彼女から確認した。


 きっかけは三人の女性の妊娠が判明したことだという。

 彼もその状況に慌て、まず切りやすい関係、つまりは「妊娠していない」女性との別れ話に奔走したという。この時点で既にクズだが、まあ今に始まった話ではないので呑み込もう。

 順調に別れ話を切り出し、関係を切っていく中で、一人の女性が納得できず(というより浮気している側であることをある程度容認していた相手だったらしい)、クズの素性を調べ上げた上で今回のこの坩堝の原因である三人の女性にまとめて喧嘩を売ってしまったのだという。

 

 クズの知り合いだと呼び出された三人に彼女が全ての事実を告げた結果、これはまた不可思議な話だが、その四人はまさかの和解で決着したのだという。互いの状況、そして呼び出した彼女が涙ながらに語る言葉に心打たれ、共感し、親身に話を聞きながらそれぞれの心境を語り合ううちに怒りが氷解していったのだという。

 だが、四人の中で和解できたとしても、問題は解決していない。そう、クズのことだ。四人の中でクズを陥れなくてはいけないという使命感にも似た感情が強くなり、そして何より念願の子供を身籠った三人はその責任も負わせなくてはいけない。その為に彼女たちは一つの計画を立てた。

 その間彼はしばらく恐らく気が気でなかっただろう。

 なにせ、三人とも同じ産院に通院していたのだから。彼曰く、遠巻きに彼女たちが徒党を組んでるのではないか、という疑問はまったくなかったという。恐らく勘付かれてはいけないという点で頭が一杯だったのだろう。

 やがて、散々彼の心を揉んだ上でブッキングした検査日を指定すると、彼は別件の用事があると逃亡を図った。まあ結果から言えば見事御用となり、三人の妊婦が乗るタクシーの中で彼はようやく事の全てを吐き出したのだという。

 三人の養育費、そして他の関係を持っていた女性への慰謝料。果たしてそれら全てを彼が支払える程の体力があるのかは甚だ疑問だが、ともかく彼は三人の女性の手により成敗されたのであった。


「それで私は、その慰謝料に関する相談の為に連絡を頂いたということでしょうか。でもどうして警察署から連絡が?」

「いえ、そこまでなら別に私どもが動く必要が無かったのですが、やはりというかなんと言いますか…彼が自殺を図りまして」


 情けない話だ。


「幸い一命は取り留めて、意識も戻り、現在は事情聴取を進めているのですが、彼から自殺に至る理由を確認するうちに、もう一つ不可解な出来事が現れたのです」

「不可解?」

「彼が言うには、十三人だそうなんです、十四人ではなく。ですが彼を相手取った女性の方々は十四人と言っている。これには参りました。ですので今、彼と関係したと見られる女性を消しこみながら話を伺っている次第でして、貴女で丁度十三人目なんですよ」

「十四人目の方はいまだに不明なんですか?」

「不明です。更に言えば、照らし合わせても出自が分からない女性というのが、あの三人の女性を復讐に向かわせた人なのです。それぞれの証言があまりにも食い違うのですが、〇〇さんは何かご存知ではありませんか」


 私には、一つ思い当たることがあった。

 けれど、それは夢のようなもので、果たしてここでその事情を伝えたとしてそれが正当な証言となるかは怪しい。何より、受話器の向こうの女性の、更に向こうから狸が言うのだ。

 ご褒美、受け取ってもらえますか、と。


「…すみません、私も見当がつきません。浮気されていたこと、妊娠させてしまった女性がいることまでは彼から直接伺っていましたが、別れ話を切り出されて以降は連絡も取っていなかったもので」

 そうですか、と彼女はあっさりと私の言葉を受け止めた。多分、知っている人物は皆無だろうと初めから思っていたのかもしれない。それよりも実際に彼女を知る三人の話を詰めて行った方が明快だと。恐らく彼女たちからも情報は一つも出ないに違いないが。


電話を切ると、向かいの友人らが興味深そうに私を見つめていた。

「なんだったの? 今の電話」


 さて、どう答えよう。彼女たちにはさっき夢物語を話してしまったし、それを今の話に繋げられてもそれはそれで困る。まあ、慰謝料貰えることになったよ、くらいに留めておくのが吉だろう。

 それらの言葉を全て包括した上でようやく出た一言は、こうだった。


「なんか、狸寝入りはしなくて済んだみたい」


   了

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穏やかな空白に注ぐ 有海ゆう @almite

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