第49話 エピローグ

 人力車は、静々ととある街角を行く。

 と…。

「止まって」

 雪華が云うと、人力車は止まった。

「下ろして」

 雪華が云うと、

「大江先生ん所はもうちょっと先ですよ」

 と車夫の笠の下から辰が云った。

「いいんだよ」雪華は云った。「ちょっと下ろして。また戻って来るから」

 雪華は人力車を下りると、その先の道を歩き始めた。

 向こうから、この夜道を、子供が一人歩いて来る。

 男の子である。

 男の子は、やって来る人影にギョッとして立ち止まったが…。

 やがてそれが雪華だとわかって、ハッとした表情になった。

 男の子は、雪仁である。

 立ち止まっている雪仁の所まで来ると、雪華はその前にしゃがみ込んだ。

「私のこと、覚えてる?」

 雪華は微笑みつつ、優しい声音で問いかける。

 雪仁は、うなずいた。

「どうしたの?」雪華は優しい声音のままさらに問う。「こんな夜中に、こんな所で…」

「…僕、家出して来たんだ」

「家出…」

「パパとママが…」

 雪仁はそこまで云うと、言葉を途切らせた。

 何をどう云っていいのか、わからない様子であった。

「…死んじゃったのに、また生き返った…」

 雪華が云うと、

「知ってるの?」

 と雪仁は驚いた顔になる。

「…ごめん。それ、この私のせいなんだよ」

 雪華は顔も声も曇らせて云った。

「お姉ちゃんの?」

 雪仁がきょとんとした顔と声で云った。

 とたんに、雪華の目に、涙が溢れて来た。

 雪華は、思わず雪仁をぐいと抱き寄せ、抱き締めた。

「ごめん。ごめんね。悪いのはこのお姉ちゃんなんだ。雪仁君の、お父さんとお母さんは悪くないんだから。…例えどんなことがあっても雪仁君のお父さんお母さんに変わりはないんだから…。だから、戻ってあげて。ね?恨むんなら、このお姉ちゃんを恨んでね」

「お姉ちゃんは、悪くないよ」

 雪仁が云った。

 ハッとして身を引いた雪華に、雪仁は云った。

「だってお姉ちゃん、悪い人に見えないもの」

 雪仁は、雪華の頬にこぼれた涙を、その細い指で拭った。

「雪仁…」雪華は、再び雪仁をギュッと抱き締めた。「さあ、玄関まで送ってゆくから、お家に帰って。お父さんもお母さんも、心配してるよ」

 雪仁は、うなずいた。

 雪華と雪仁は、手をつないで大江医院まで戻った。

 ほんの短い時間ではあったが…。

 すっかり冷え切っていた雪華の手は、小さく柔らかい雪仁の手を握って、温もりを取り戻していた。

 いや、それは手ばかりでなく、心も…。

「お姉ちゃん、入らないの?」

 大江医院の前まで来ると、雪仁は云った。

 雪華は首を横に振る。

「お姉ちゃんはちょっと余所に用があるから…。でも必ず、また雪仁君に会いに来るから、待っててね。…じゃ、寒いから、家に入って」

「うん」

 雪仁はうなずき、雪華に手を振って、家に入っていった。

 雪華も手を振り、雪仁が家に入ると、人力車の方へ踵を返した。

「雪ちゃん!」

 背後からの声に、雪華はギクリと立ち止まる。

 雪華は恐る恐る、声の方へ振り返った。

 平之助が白い息を吐いて、立っていた。

 平之助は雪仁がいなくなったのを知って、近所を探し回っていたのである。

「…平之助さん…」

 雪華は、蚊の鳴くような声で云った。

 云ったが、目は見られないでいる。

 その雪華の前に、スタスタスタ、と平之助が歩み寄って来る。

 思わず、雪華は後退ってしまう。

 その雪華の肩を、平之助はグッとつかむ。

「雪ちゃん。トミ子さんは僕の方で引き取ることにした。「聖母マリアの家」がもう面倒見れないって云うもんでね」

「…ごめんなさい。迷惑ばかり…お掛けして…」

「そんなことはどうでもいいんだ」平之助の口調は強い。「でも…雪ちゃん、こんなことして一体どうするつもりなんだ?どうしようって云うんだ?雪ちゃん…」

 平之助はハッとして黙った。

 雪華の目に大粒の涙が浮かんで、ハラハラとその頬にこぼれ落ちたのだった。

 ひとたび泣いてしまうと、涙腺は脆くなる。

「ごめんなさい」雪華はか細く震える声で云う。「私のせいで、平之助さんにも彫鉄さんにも、杉戸のお義母さんにもご迷惑をかけてしまって…」

「…会っていかないのかい?雪緒さんに」

 平之助の言葉に、雪華はギクリとなる。

 まじまじと平之助の目を見つめながら、雪華はブンブンと首を何度も横に振る。

「まだ…まだ駄目…」

「まだって…いつならいいんだ?」

「こんな服装なりだもの…ちゃんとした格好で…」

 雪華はブンブンと首を横に振り続けながら、まるでうわごとのようにとりとめもなく、云うのだった。

「雪ちゃん…」

 平之助は云った。

 雪華の肩をつかむ平之助の手に、グッと力がこもる。

「僕は…雪ちゃんが好きだ」

 雪華はハッとした。

 その雪華の唇に、平之助は唇を押し付けた。

 唇を吸うことなど知らない、不器用なくちづけである。

 その不器用さが、好ましくはあったが…。

 雪華は平之助を、押しのける。

「私は…血で汚れています」雪華の声はもう震えてはいない。「平之助さんも知ってるでしょ?見たでしょ?」

「構わないよ、僕は」

「駄目!」雪華は厳しく云い放つ。「私のことなんか、好きになっちゃ駄目!平之助さんはもっとまともな、ふさわしい人がいるから…」

 雪華は頭を下げ、踵を返し、歩き出す。

「雪ちゃん!」

 追おうとする平之助に、

「来ないで!」雪華は厳しく返し、身構える。「来れば…平之助さんでも…斬る」

 雪華は張りつめた表情で平之助を見やっていたが…。

 やがてフッと優しく微笑み、そして…。

 またくるりと踵を返して、立ち去ってゆく。

 平之助はただ佇むのみである。

 雪が、ちらほらと舞い始めた。

 帝都東京の、それがこの冬の初雪であった。



 雪はもう見たくないって思ったのに…。

 雪華は白い溜息をつく。

 雪は、六花とも云う。

 その六つの角が、今の雪華には、地獄の針の山の如く、ちくちくと突き刺さるようだ。

 と…。

 雪華の傍らに、すうっと人力車が来て止まった。

 番傘が、雪華の頭上に差し出される。

 とっぱずれの辰が、凶悪な面構えと裏腹の、人なつっこい笑顔を浮かべている。

 辰に手を取られて、雪華は車上の人となる。

 人力車はすでに幌がかかっている。

 辰は番傘をたたむと、梶棒を握って云った。

「お嬢、どこ行きやしょう」

「どこへでも、任せるよ」

「ヘッ?」辰は驚いて雪華を見る。「本当にいいんですかい?」

 雪華は静かに微笑むのみである。

「へい。…合点です」

 辰は車夫の笠を下げて云った。

 静々と動き出した人力車は、うっすらと白くなり始めた路面に轍を残し、遠ざかってゆく。

 やがてその姿は、雪降り止まぬ闇の中へ、溶け込むように、消えていった。



続・魔俠伝 六花地獄     

               完


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続・魔俠伝 六花地獄 自嘲亭 @jicyou

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