第48話 第3部 その7

「和田と川村と刑部とかいうブン屋を殺ったのも貴様か」

 橘藤が云うと、その人物はニヤッと笑い、

「川村を殺ったのは私ではない」

 と云った。

 その人物の掛けているロイド眼鏡がキラリと光った。

 その人物とは、副官の竹中である。

「中越師団長の徳垣中将も参謀長の真柴も死んだぞ」

 橘藤が云うと、

「関係ない」竹中は不敵に笑いつつ答える。「私がつるんでいるのは、竜宮寺大作氏なんでね」

 竹中はさらにせせら笑いつつ続ける。

「今ン所、ここに気付いたのはあんただけだ。隊長殿、こんな形でお別れせねばならんのは、残念ですが」

「貴様、逃げられると思ってるのか?」橘藤は云う。「貴様の後ろにいるのが誰か、わかってるだろう?」

「まったくその通りだ」

 そう云うと竹中は橘藤の肩をグイッとつかみ、くるりと雪華の方に向けた。

「隊長殿、あんたが盾になってくれればいい」

 竹中はせせら笑いのまま云い、さらに雪華に、

「さあ、こいつを斬るのか、斬らんのか。あんたもこいつには恨みがあるだろう?」

 と云った。

「俺ごとこいつを斬れ」橘藤は云う。「そうすれば一石二鳥だろう」

 雪華は正眼に構えたまま、動かない。

 と…。

 雪華がフッと笑った。

 そして…。

「下らない」雪華は云った。「私、帰る」

 ふい、と雪華は構えを解き、そしてくるりと踵を返して、部屋の入口に向かってスタスタ歩き出す。

 一瞬呆気に取られた竹中がニヤッと笑って、橘藤を押しのけ、雪華に向かって発砲した瞬間…。

 雪華はパッと飛んで天井間際でくるりと一回転し、竹中の手と顔を蹴って着地した。

 竹中はもんどり打って倒れ、拳銃も手から飛んで床の上を滑っていった。

 それをすかさず横飛びに橘藤がキャッチして、立ち上がる。

「危ない!」

 叫んだのは、雪華であった。

 竹中が胸元から短刀を取り出し、橘藤に向かって、投げようとしていた。

 橘藤は伏せる間もなかったが…。

 振り向きざまに雪華の右腕が竹中に向けて、一閃した。

 短刀を握った竹中の右腕が、斬り落とされて床に落ちた。

「ギャアッ!」

 竹中は悲鳴を上げて、床に倒れ込む。

 そののたうち回る竹中の傍らに、橘藤がゆっくり近付き、拳銃を向けた。

「…殺すの?」

 雪華が表情を硬張らせて訊く。

「裏切り者は成敗する」氷のような無表情で橘藤は云う。「それが橘藤一族の家訓だ。指図するな」

 ズキューン!ズキューン!ズキューン!

 橘藤は三発、竹中に弾を撃ち込んだ。

 雪華は、目をそむける。

「さて」橘藤は拳銃を放り出して云った。「最後の一仕上げだ。ここを破壊せにゃならんが、やっぱり下らんから帰るかね?」

 雪華はうんざりしたような溜息をつき、

「ちょっと、下がってて」

 と云うと、右腕を、そして左腕を、交互に前へ振り出した。

 雪華が飛ばした気が、部屋の設備を破壊し尽くしてゆく。

 同時に、そこから火の手が上がった…。



 産婦人科病院の石造りの建物から、煙が上がり始めた。

 大通りを完全に封鎖している飛行機の周囲は野次馬と、それを制する警官たちで騒々しかったのだが…。

 病院から煙が上がり始めたのに誰かか気付くと、たちまち人々はそちらに群がり始めた。

 橘藤と雪華が表に出て来たのは、そういう中であった。

 軍人と黒装束の女という異様な取り合わせの二人に、人々は驚きと好奇の目を向けたが…。

 二人は構わず、人々をかき分けて飛行機の傍らにやって来た。

「市ヶ谷まで戻るまでもない。ここで良かろう」

 そう云うと橘藤は、飛行機の傍ら…と云うか、大通りの真ん中に正座した。

 橘藤は軍服の上を脱ぎ、シャツをはだける。

 首周りを露出させた橘藤は、雪華に云った。

「斬れ。云ったろう。逃げも隠れもせんと。俺は結果的に君をダマした。責任は取る。斬れ」

「今さらどうでもいい」

 雪華はうんざりした口調で云った。

「それでは橘藤一族の名折れだ」橘藤は云う。「俺の気も済まん」

「…下らない」

 溜息混じりに雪華が云うと、

「俺を生かしておいても、君の為にはならんぞ」

 と橘藤はなおも云うのであった。

 雪華のまなざしが、鋭くなった。

 橘藤は、ゆっくり目を閉じた。

 雪華が右腕を一閃させた。

 そこから、気が飛んだ。

 ズン!

 傍らの飛行機が、二つのコクピットの間で両断された。

「…ちょうどガソリンが切れた所だから良かったものの」目を開けた橘藤が云った。「満タンだったら大爆発で火の海になる所だったぜ」

 しかし雪華は答えず、くるりと踵を返し、スタスタと行き始める。

「…助けてもらって云うのは何だが」橘藤がその背中に向かって云う。「その甘さが君の命取りにならねば良いがな」

 雪華は立ち止まり、背を向けたまま云う。

「余計なお世話だよ」

「どこへ行く気だ」

「あんたには関係ない。放っといてくれ。…じゃ」

 雪華は再び、スタスタと歩き出す。

 その雪華の前に、人力車が一台止まった。

 雪華がそれに乗り込むと、人力車は走り出し、闇の中にその姿は見えなくなった。

 橘藤はそれを見送りながら立ち上がり、シャツを直し、軍服の上を再び着た。

 そして、通りかかった警官に、「おい君」と声を掛ける。

 上野署から飛び出して来たその若い警官が「ハッ!」と敬礼して立ち止まる。

「俺は東部第七憲兵隊々長、橘藤中佐だ」橘藤は云う。「凶悪犯が一人逃亡中だ。至急指名手配してくれたまえ」

「きょ、凶悪犯でありますか」警官は敬礼したまま直立不動で云う。「何をしでかした奴でありますか」

「そうだな…」橘藤は胸元から細巻き葉巻シガリロを一本取り出すと、火を点け、一吸いして続けた。「さしあたっては、器物損壊だ」

「き、器物損壊でありますか?」

 怪訝な表情をする警官に、橘藤は薄く笑ってさらに云う。

「だが、気をつけろよ。そいつは見た目は華車な娘だが、云わば動くギロチンだ。殺戮マシーンだ…」

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