チェーンソーマーダーインザホール

吉野奈津希(えのき)

1.


 桐子の胸に穴が空いた。胸に穴が空いただけなら私にとってはどうでもいいことだし、穴が空いたからといっても人間案外死ぬものじゃなくて桐子はいつも通り生活しているしせいぜい体育の時間に着替える時にその穴を隠すくらいなのだけど、桐子の穴からは殺人鬼がずるり、と出て人を夜毎に傷つけていく。困る。それは困る。

 私はその事実に胸を痛める。私の胸にも穴が空いているんだろうか?


2.


 同じ高校の名木田桐子なぎだきりこは真面目が服を着たようなわかりやすい見かけで、黒縁眼鏡を書けて髪の色は真っ黒で、ボブスタイルの髪型をしているけどどうにも垢抜けない。十代というのはアイデンティティの確立にあれこれ試行錯誤するもので、今の私は色々あってお酒にタバコに髪染め最高、教師の目をごまかすためにあれやこれやと八面六臂の大活躍、教師からは「こいつは絶対クロだ」と思われながらも「え〜なんか証拠あるんですかぁ?」みたいなおちょくりを繰り返したために表面的な問題事は起こしていないけれど教師たちから大注目、みたいなことになっているので自分のアイデンティティについてあれこれ気にしない。皮肉なことに個性っていうのはそれを気にしない人間の方が発揮されちゃう、あると周囲にみなされてしまうものなのだ。私はそれを裏付けるかのように「あいつ絶対クロだぞ」っていうのと黒崎くろさきって苗字のせいで教師にも同級生にも「クロ」って呼ばれる「猫かよ!」なんて思うけどそういう風に自分の延長で名前をつけられるのは嫌いじゃない。

 でも、桐子は学校でもクラス委員をやっているものだから長でもないのに「あー、えっと委員長さあ」みたいに呼ばれる、若者との交流のやり方を知らない教師たちはそういうクラスの雑な風潮にあっさり乗って、親しむつもりで桐子のことを、真似て委員長委員長と呼び始める。

 それが桐子のもともと持っていたコンプレックスを刺戟する。欠落を意識する。そういう欠落が穴になる。桐子の胸に穴が空く。


 電車の中がオレンジ色に染まる。学校帰りに電車に乗ると、川を渡る橋の上で夕日が車内に差し込んでそうなるのだ。桐子はその光をちっとも眩しく思わないかのように表情を変えないで座っている。


「桐子さぁ、そうやって真面目な顔し続けるの疲れないわけ?」


 私はそういう桐子を見ているとなんだかモヤモヤとして聞く。

 モヤモヤモヤモヤ、私の生活はそういうことが多い。


「別に」


 つまらなそうに桐子がいう。そういう桐子がつまんねーなぁ、なんて私は思う。


3.


「ねえねえ、クロさ、ジェイソンの噂聞いてる?聞いてる?ジェイソン」

「はあ?」


 教室で居眠りをしていると同じクラスの美奈が聞いてくる。ジェイソンは十三日の金曜日シリーズの名物殺人鬼で、といっても第一作目では違うんだけど、まぁとにかく名物殺人鬼でバンバン人を殺す。私は第10作が好きで未来の世界で宇宙に行ってナノマシン技術によってメタルジェイソンになって女性型アンドロイドと殺しあう、未来でも宇宙に行っても殺人鬼は変わらず殺人鬼なのだ! と私はその手の映画が好きだからテンションが上がってしまうのだけど、ゲラゲラ笑いながら不意に悲しくなったりする。殺人鬼として殺し続けること、それは元々の本人が持っていた性質を過剰にエスカレートさせるということで、視聴者の欲望のためにどんどん歪められているということで、それは残酷なことなんじゃないかって悩む。私が私であるようにジェイソン・ボーヒーズはジェイソン・ボーヒーズでありコンテンツに求められるシナリオ、必然性なんかを超越した人間のあり得た「もしも」があったはずでそれを私たちの欲望で歪めて殺す存在としてどんどん望まれて強化されて……というのは考えすぎか。

 とにかく私はちょっと知っている。マニアほどではないけどまぁ知っていると言っていいだろう。


「少しは知っているけど」


 美奈は絶対知らないだろ、絶対。なんて思いながらそう返す。美奈は貞子とかですら「え、あのテレビから出てくる怖い人に名前なんてあるの!?」ってレベルなのでジェイソンを知っているわけない。


「なんかチェーンソー振り回して色々な人おっかけるんだって!」

 ダウト、絶対知らねえなてめー。


 チェーンソーを振り回すのは悪魔のいけにえのレザーフェイスなのだけど、そこは置いておいて、ここのところそういう存在が出てきて世間を騒がしていることを知る。

 SNSの発展の良い面なのか悪い面なのか、あっという間にチェーンソー男の目撃情報が集められて、いっちょ注目を集めたいような人間によって箇条書きでまとめられてパワーワードで装飾されてバズ、バズ、バズ。あっという間にみんなの知っている事柄になって「やばいやばい」と盛り上がっていく。


「クロ、見てよこれ。動画だって撮られてる」


 そう言って見ると数分の動画が開始する。


 荒い画質、揺れる画面、でも確かに男が映っている。住宅街のような場所で、まだ昼間だ。人通りが少ないのかチェーンソー男しかいない。チェーンソー男は歩くのが上手くないのか、ずんぐりむっくりした歩き方で片手にチェーンソーらしきものを持っている。「やば、あれ、やばくない?」「え、まじでチェーンソーじゃん」「うそお、逃げた方がいいでしょ」とか半笑いの会話が聞こえて来る。撮影者たちだ。目の前でチェーンソーを持った存在がいても人は自分が決めたユーモアの中で立ち振る舞ってしまう。それは本当に良いことなんだろうか。

 やがてチェーンソー男がカメラの方へと気づく。急加速で駆け出してきてチェーンソーのブイイイイイイイイイ!という音が迫ってきてそれと同時に「ヤバイヤバイ!」「死んじゃうよ!死んじゃうよお!」という叫びと画面が乱れてバタバタという音がして動画が終わる。


「やばくない? これやばいでしょ?」


 美奈が上気したような顔でそれを言う。日常に非日常が混ざってきて、その境界を安全圏で確認して楽しむ、そんな感覚。


「これ、どこの人がアップしてるの?」

「ん〜、わかんない」


 美奈のスマホの画面をタップして画像を載せているアカウントを見る。『ヤバイ動画まとめ!』みたいなアカウント名で、他にもどこから拾ってきたのかわからない動画が並んでいる。


「これ、作りものの可能性は?」

「わかんない」

「本当かどうかわかんなくない?」

「え〜クロ、ノリ悪いなあ。怖いし別にどうでもよくない?」

「そうかなぁ」

「本当かどうかとか、ぶっちゃけ私どうでもいいと思うけど」


 そう言われる。美奈の言葉に色々思うことはあるのだけど、それは私の個人の考えだな、という気持ちもあって言葉を押し留める。

 私は本当かどうか、というのは重要なことでそこに体重がかかっていて、それの真偽を確認しないと収まりがつかないのだけど、美奈はそれがどうでもよくて、むしろそれを介して盛り上がれることが重要で、それが美奈にとっての真だとすると……となって私が否定をしていいのかわからなくなる。

 ただなんかモヤモヤするし、その話題に乗るのがなんだか気分のらないな、と思って私は適当にその話を済ます。


「そっか〜、私的には結構ヒットだったんだけどな〜、まぁリツイートしとこ!」


 そこにもモヤモヤするけど、そこは流す。美奈は最近はまっている音楽だとか部活のことを話してくれて、私はそれに乗ってワーワー話す。

 美奈はドタバタしていて桐子の机にぶつかる。桐子の筆箱が落ちる。


「うっわーごめん委員長」


 そう言って、桐子の筆箱を拾って渡す。


「委員長らしいかっちりした筆箱だね。やっぱりそういうの好きなんだ」


 美奈は桐子の筆箱をそう形容する。

 でも、その筆箱は桐子の家族が適当に買い与えた筆箱で桐子の趣味じゃなかったりする。


4.


 学校が終わって電車で帰る。友達でバイクとか自転車に乗っている人はいるけど、私はその手の乗り物が苦手なので乗らない。

 電車に乗っている。私の帰りに時間帯はそこまで人がいなくて、あんまり乗り合わせる人もいない。

 ガラガラっと隣の車両から人が入ってきて、そいつは私の方に歩いてきて何も言わずに他にも思いっきり空席がある座席で、私の隣にわざわざ座る。


「タバコ臭い」


 桐子だ。


「今は吸ってないんだけど」

「いや、タバコの臭いって残るから。普通にわかる」

「え〜まじ」

「まじだよ。だから先生たちも普通にあんたのこと目に止めてるんだよ」

「え〜知らねえ〜言ってよ!」

「いや、結構私、黒崎に言ってたけど」


 桐子は学校と違って周りの目なんて気にしないで平気で足組んで、私の方を見向きもしないでスマホをいじる。炭酸ジュースをプシっとあけてゴクゴク飲む。

 桐子は結構フランクなノリがいいやつで、私はそういう風に話すのが楽しい。

 スマートフォンをいじっている桐子の指が止まる。


「くっだらな」


 そう桐子が言った書き込みは美奈が言っていたのと同じ動画。

『ジェイソン出現?真昼間の殺人鬼!』というキャンプションが付いていて、もう拡散されている数が万に達している。


「全然ジェイソンじゃないよね、これ。ホッケーマスクでもないし。あとチェーンソーは持っているけどマスクも皮でもないしそんなに背も高くないからババ・ソーヤーでもないわけじゃん。こういう適当なこというやつどうしようもないと思うんだよね、うざい。死んでほしい。というかこういうのをTLに流してくるやつもどうかと思うんだよね、正直。自分の頭で考えられていないクズだよ」


 そう言って、慣れた手つきで桐子はブロックブロックブロック、桐子のブロックリストはとんでもない数に達していて前に見た時は数千アカウント。気に食わないアカウントをわざわざ探して先行ブロックしている場合もあるらしくて「うっわ〜やべえなこいつ」なんて思うけど大抵桐子がうざがっている層は私もブロックしていたりして、それを指摘すると同じ穴の狢みたいになるので私は何も言わない。

 ただもっとうまくやればいいのになぁ、なんて思う。桐子は何をするにしても真面目すぎるのだ。

 自分と合わない人だとか、気に食わね〜って思う人だとか、そういう人はいくらでもいるわけで、私は美奈とかの考えを「自分はできね〜」って思うけどそれは出来ないってだけでいちいち噛み付くのは面倒くさくてしない。道端に落ちている石をひっくり返して「うげ〜」なんて思ったりしない。でも桐子はそういうことをしてしまう。カリカリする。


「今日来んの?」

「あー行こうかな」


 そう言って私は桐子の家に行く。


5.


 桐子の家には誰もいない。父親は朝から夜中まで働いているし母親はそんな夫にうんざりしたのかそれとも構ってほしいからなのか一日中ほっつき歩いている。桐子の家はマンションの一室なのだけど、小洒落たマンションの入り口からは想像出来ないくらいに桐子の住む一室は物が多くて雑多な印象だ。桐子が買っているわけではなくて、父親と母親がお互いに好きなものをポンポン買った挙句に開封も整理もろくにしないで積み上げていくものだから混沌と化した状態になっている。

 机の上には万札が一枚。


「うちの親の愛は金だからね」


 どうでも良さそうに桐子は言う。毎日のようにそのお金が置かれていって、桐子はお金をほどんど使わないもんだから桐子は常に財布にぎっちりお金が入っている。


「いる?」


 そう桐子は聞くけど、そういうお金はどうでもいい気がするし、桐子からそれを受け取ると私にノイズが混じる気がして受け取らない。

 桐子の頬に触れていじくりまわす。仏頂面の桐子の顔が真顔のままだ。


「それはいらないなぁ」


 そう言って二人でベッドに倒れ込む。


「歯は磨いたわけ」

「磨いたに決まってんじゃん、さっき駅でガシガシ洗ったっての」

「たしかにそういう感じだけど」


 桐子に口づけをして舌を差し込んで、桐子の輪郭を確かめるように体を撫でる。桐子の体は細くて、ちゃんとご飯を食べているのか気になるけれどそれを聞いたりあーしろこーしろと言っても桐子はご飯をろくに食べてくれないのがわかるので何も言わずに「痩せたなあ」なんて思いながら体に触れる。

 首筋に舌を伝わせてゆっくりと這う。


「勉強もしないであんたこういうの勉強してるわけ」

「うっわ心外、ここでぐらいでしかしてないんですけど。才能ですよ」

「そういう才能嬉しいわけ」

「人を愛する才能ってやつだよ」

「そういう言い回しだけは頭が回る」

「舌だって回る」


 そう言って桐子のシャツのボタンを外す。一度調子に乗って乱暴にブチブツブチってやったらマジでキレられたので一つ一つ丁寧に外す。

 そうして桐子の胸の中心にある穴を今日も見つける。私は穴を無視する、いや、正確にはその存在を無視できないのだけどその回りにゆっくりと舌を這わせたり、他の部分を触れたりするし、行為に支障をきたさない。私はこういうムードを大切にする、私というか私と桐子は大切にする。こういう共同作業にその時重点を置いていない話題はタブーなのだ。いや、もしかしたら私がそう思っているだけかもしれないけど。

 こういった行為がやたらと神聖化されるっていうのは互いにほぼ生まれつきセットされた抗えない衝動みたいなものを快楽に昇華する共同行為というところが多分重要とされているところで、やたらとセンシティブな事柄とされるのは結局のところ日常生活では皆そういう繊細な感情を持たないというところに起因しているのだと思う。好きな食べ物を聞かれて恥ずかしがる人間はほとんどいないけど、好きな性的衝動を引き起こす事柄を聞かれると恥ずかしがったり、屈辱に感じたり、する人は多い。でもつまるところそれらの事柄は違わないと思うのだ。

 本質的にセットされた衝動だというのに、食欲だとか睡眠欲はOKで性欲はどうして隠されるのだろう? 教師に「さっきタバコを吸っていただろ!」って言われて、実際にはその日吸っていない時に感じる得も言えぬ感情が湧き上がるのはなんでだろう? チェーンソーを持った殺人鬼をジェイソンと言われると「いやそれレザーフェイスだから」と文句を言いたくなるのはなんでだろう? 全部私の中では一直線な事柄な気がする。

 そんなことを考えながらも私のすぐれた経験値の蓄積された体は桐子との共同作業に精を出してフワフワとした天井に達する。


「あいつらは自分のことを知られたくなくてしょうがないんだよ」


 思ったことを桐子に話すとそう、答えられる。


「自分のことを知られたくないし、知られたくない癖に自分のことを正確に考えるのを面倒臭がってる。だから、適当にふわっとした認識に落としてごまかす。食べ物の趣味とかは本当は知られたら恥ずかしい事柄かもしれないのに、みんなが知っているから、みんなが問題ないと思ってるから、なんて理由でなぁなぁに済ませるんだよあいつら。雑なんだよ」


 さっきまで私の前で声をあげていた桐子が冷静なトーンでそんなことを話すのはシュールだったけどそれは桐子が私を承認してくれている、だからいろいろ私に見せても構わない、ってことでなかなか悪い気もしないし、「あー、たしかにそうかもな」なんて思う。

 何に重点を置くか、というのは重要で美奈が友人と盛り上がるのを重点においている、ということで私と桐子は多分そこがズレているんだと思う。


「あーあ、バカばっかだよ、バカばっか。私があんな趣味の筆箱使うわけなくない? もらったやつだっての。でも私ってことになるんだよなあ。適当すぎる」


 そう言って桐子が私の胸に顔を埋める。桐子はそうしてしばらく泣く。

 桐子の胸の穴は埋まっている。いつもこうした一連の流れで、桐子の胸に生まれていた、いや欠けていた穴は埋まる。

 はじめはもっと家族で喧嘩したとか、そういうことがきっかけだったんだけど、だんだん桐子が適当な見方、偏見みたいなものを感じた時に穴が空くようになっていく。

 桐子の穴はここのところどんどん空く頻度が近づいていて、しょっちゅうこんなことをしている。


「そうだね、バカばっかだよ」


 でも本当にバカなのは多分私たちなのだ。こうやってゆっくりと色々なところからズレている。それを悲しんでいるけどどうしたらいいかわからない。それをわかっているから私たちはこうして身を寄せ合ってばかりいる。少しでも自分たちが一人でないと思うために、まだズレていない、ズレきっていないと思うために。

 行為が終わって桐子の部屋で山ほど積まれたDVDを崩して見る。桐子は「人が死ぬやつが見たい」と言って毎回のようにホラーだったりモンスターパニックだったりアクション映画をチョイスして見る。


「まだ死なないのかな、さっさと死ねばいいのに」


 なんていいながら桐子はDVDを流す。私はそこまで興味がないのでそうやってだらだらとDVDを見る。十三日の金曜日とかもそうやって知った。

 このまま私たちがなんとなく上手く世の中とやっていければいい。このまま何も起きなければいい。ゆっくりと私たちが世の中と調和出来ていけばいい。

 夜には一緒に眠る。その時にはもう桐子の胸に穴が空いていて、そこから機械音がする。

 ブイイイイイイイイイ……

 この中から噂の不審者が出ているのだと直感する。

 この中にチェーンソー男がいる。じっくりと見ると引きずり込まれそうだから何も見なかったことにする。夜中に桐子の体から何かが出てきて、外に出て行くのがちらりと見えるけど私は寝ている振りをする。

 ブイイイイイイイイイ…… 

 このまま何事もなく上手く行くといい。

 そう思う。

 でも、そんな風に上手くはいかない。大変なことになる。


6.


 チェーンソーを持った殺人鬼(実際には噂を聞いた時には人を殺してないんだけど)が人を襲い出す。死亡者は幸いなことに出ていないけれど重傷の人はちらほらと出てくる。

 美奈が大怪我を負う。


「ごめんね、お見舞いにきてもらっちゃって」


 ベッドの上で美奈が弱々しく笑う。美奈の足はズタズタで、リハビリ次第で普通の生活は出来るようになるけれど、もうスポーツは出来ない。

 病室の隅にあるゴミ箱には寄せ書きが捨てられている。寄せ書きには『ミナ先輩ファイト!カムバック待ってます!』と書いてあって、それは美奈の部活の後輩たちからだ。美奈は陸上部だった。


「バカみたいだよね。色々頑張っちゃって。毎日毎日走ってさ、でもチェーンソー持った人間から逃げきれないぐらいの速さでしか走れなかったんだよ私、なんだったんだろうね」

「それは……」


 何も言えない。化け物に逃げられなかったからといって美奈のこれまでの努力が嘘だったわけではないし、それを恥じる必要なんてない、人間が及ばないからこそ化け物なのだ。でもそれを美奈に伝えて何になるのだろう?

 美奈だってそんなことはわかっているのだ。美奈はただそう言って気晴らしをしたいのだ、理不尽に抗えなかった、理不尽に飲まれてしまった自分と自分の現状を咀嚼しようとしているだけなのだ。

 だけど、それでも私は何かを美奈に伝えるべきなのかもしれない。美奈が今まさに否定しつつある、自分の努力だとか、積み上げてきたことを否定する必要がないということを。

 どうやって?


「ごめん、ちょっと帰ってもらっていいかな。クロが悪いんじゃなくて、ちょっと人と話すのが辛い。きてくれてありがとう。ごめんね」

「うん……」


 私は何も言えない。私は物分かりがよすぎるのかもしれない。


7.


 チェーンソーを持った殺人鬼の被害が増えていく。情報が拡散されていく。

 チェーンソー男の情報はインターネットで拡散されていくにつれてどんどん本質から変質していく。 

 最初はジェイソンと言われていて、今ではチェーンソー男、設定もどんどん盛られていて最初は頭のおかしくなった精神異常者として言われていたのが虐待されていただとか、女性にモテない男の憎しみだとか、夢を失ったから人の夢を奪おうとしているフリーターだとか、果ては現代に蘇った口裂け女だとか言われていてそもそも男じゃなかったのかよ、って感じで何でもかんでも話が付け加えられていく。


 桐子と電車で遭遇しなくなる。

 私は桐子の家を訪ねる。十中八九いるはずなのだけど、桐子は出ない。


「いつまでそこにいるつもりなんですかー」


 返事はない。私は辛抱強さだけはあるので入り口の前待つことにする。

 夜中になって私は桐子の父親と会う。


「何やってんだ高校生が」


 酒臭い。私はタバコ臭いことはあるけれどそういう臭いは好きじゃない。


「桐子待ってます」

「お前みたいなさぁ、やつが悪いこと覚えさせられるとさぁ、困るんだよな」

 ペッ、と私の目の前に唾を吐かれる。


「子供は帰れ」

「散々家を空けてる人がそれを言うんですか」

「はぁ?」

「桐子をそうやってほったらかしておくのに桐子にあーだこーだ口だすんですか?」


 思った以上に感情が乗ってしまう。私の中の冷静な部分が自分を諭す。落ち着け黒崎、その理屈は面倒さえ見ていればいくらでも縛っていいことになるぞ、黒崎、お前はそれでどう思ったんだ?

 でも私の口は適当な理屈をこねていく。


「お金だけ置いて、それで親の顔するのっておかしいでしょ、楽したくて放置しているんだからそれなのに文句言うのは自分のやったことに対して都合良すぎませんか、いや、何にもやってないことに対しての責任という」

「うるせえな、こんな夜中にいるガキが文句いってるんじゃねえよ」

「それは論点ずらしてますよね、そういう話ではないでしょ」

「うるせえ! 警察呼ばれたくなかったら帰れ!」


 言い返したくなる。でも、桐子の父親の声があまりにもうるさくて、私は言葉をつい失ってしまう。びびってしまう。

 それでマンションを出てしまう。帰り道を歩いてしまう。


 そうして帰り道でチェーンソーを持った男とすれ違う。


8.


 チェーンソー男の身長はそんなに大きくない。仮面はホッケーマスクでもなくてドンキホーテとかで売っているお面だ。もう元のジェイソンとかの話題は遠いところに行ってしまったらしい。目の前にいる男、殺人鬼としてのチェーンソー男は私の知っているジェイソン・ボーヒーズでも、レザーフェイスでもない。ありとあらゆる偏見のパッチワークの怪物だ。でもその巨体ではない、どこにでもいるような男が仮面をつけてチェーンソーを持っているという中途半端なリアリティが私にとって映画の中の殺人鬼なんかよりもずっとリアルな死の恐怖を与えてくる。

 チェーンソー男は私には目もくれない。フー、フーという声がする。息が苦しいのかもしれない。

 チェーンソーには血が滴り落ちている。

 ブイイイイイイイイイ……という音がする。刃についた血が散る。私にもちょっとかかる。声が出そうになるけれど、怖すぎて声は出ない。

 私にはチェーンソー男はすれ違ってそのまま歩いていく。

 私の足はガタガタと震えている。

 チェーンソー男はどこに行った?

 振り返ってチェーンソー男の行く先を見る。桐子の家だ。

 チェーンソー男が今殺そうとしているもの。

 桐子の父親だ。


9.


 桐子と私は中学校からの腐れ縁で、初めて会った時の桐子は別に委員長でもなければ真面目でもなかった。むしろ適当に遊び呆けているのは桐子の方で私は勉強をガリガリガリガリガリガリ。

 私の家は結構の教育について熱心、というか熱心すぎて束縛のレベルのやばい家庭で私が宿題を終わらせていないと母親が怒り狂って私の大切な本だとかゲームだとか友人との写真をゴミ箱に投げ捨てたりガスコンロで焼いたりする。

 私はすっかりそれが普通のことだと思っていたので宿題をそれなりに必死にやるのだけど、うまくいかなくて大切なものを壊されても無感覚になっていく。


「子供なのになんで言われたことができないの!」


 私はひたすら謝り続ける。ごめんなさい。

 でも桐子はそれに激怒する。

 私はいつも持ち歩いていた筆箱が変わっていることについて桐子が私に質問して私が「ああ、あれ捨てられちゃって……」と答えて桐子が前のめりになって私からあれこれ根掘り葉掘り。

 桐子が震えながら怒り狂う。どうしてたまにおしゃべりするぐらいの私のことでそんなに怒るのかピンとこないくらいに怒り狂う。


「あんたそんなのおかしいよ、あなたのものはあなたのものでしょ。他の誰かが勝手に捨てたり、壊したりするなんてありえない。絶対おかしい、狂ってる」


 そう言われる。

 私は衝撃を受ける。これっておかしいのか!

 それ以来ゆっくりと家に違和感が芽生える。

 芽生えた違和感が徐々に形となり、高校入学あたりで完全に芽吹く。

 反抗期だ!

 私は髪を染めるし夜遊びに出かけるしタバコは吸う。私はとにかく家に染まらないように動く。動いて動いて、動いて動いて動いて動いて、動きまくる。でもこの私の動きもまた家の影響を強く受けているんじゃないだろうか? 強い反発は結局家の強い力を認識してしまっているから起きていることで、私は結局自分の家の存在に縛られているのか? 

 そんなことを思うけど家に帰りたくなくて桐子の家に泊まったり出歩いたり、夜遅くに家に帰ったりすることを繰り返す。

 私はそんなことをしているうちに真面目の塊みたいな存在になっていつの間にか委員長と言われていたりする。私がメイクとかを始めたきっかけは桐子なのに桐子は殆どメイクをしなくなる。

 私は桐子に深い質問が出来なくて、桐子と体を何回も重ねるけれど、そこには触れずに周辺をなぞるように触れていく。

 桐子の穴には私は一度も触れていない。


「だから、帰っていいのかな」


 そう、一人呟く。不意に脳裏によぎる。私の胸で泣いていた桐子、病室で泣いていた美奈、昔家で一人泣いていた私。



 ——自分のことを知られたくないし、知られたくない癖に自分のことを正確に考えるのを面倒臭がってる。だから、適当にふわっとした認識に落としてごまかす。食べ物の趣味とかは本当は知られたら恥ずかしい事柄かもしれないのに、みんなが知っているから、みんなが問題ないと思ってるから、なんて理由でなぁなぁに済ませるんだよあいつら。雑なんだよ。


 ——あーあ、バカばっかだよ、バカばっか。私があんな趣味の筆箱使うわけなくない? もらったやつだっての。でも私ってことになるんだよなあ。適当すぎる


 桐子はそう言った。

 筆箱の話とかを愚痴っていた。あの時桐子はもっとみんな考えろって言ったのだ。それで怒っていたのは桐子がわかってほしいって思っていたからだ。だからあれは、桐子がわかってほしい、って私に言っていたってことなのだ。

 委員長とか、娘とか、そういう枠組みでしか見られていない、悲しみ、怒り。そういうものをもっと直接的にわかると伝えるべきだった。

 バカばっか。

 その通りだ。本当にバカだ。

 私も。

 桐子も。

 私は走る。チェーンソー男を、桐子を止めるために。


10.


 マンションにたどり着く。

 エレベーターにチェーンソー男が乗る。科学文明を使ってるんじゃないよって思うけどその間にエレベーターが上にいく。

 私は階段を駆け上がる。

 叫び声が聞こえる。


「うあああああああ!」


 桐子の父親だ!

 桐子の部屋がある3階に駆け上がる。渡り廊下にチェーンソー男の正面姿と桐子の父親の背中姿を見る。

 桐子の父親はドアの前に立っていて、震え上がっている。

 逃げて!と言おうとした瞬間に父親が部屋に向かって叫ぶ。


「逃げなさい!」


 そしてチェーンソー男に突進する。


「うおおおおおおお!」


 桐子の父親がチェーンソー男ともみ合いになる。

 ブイイイイイイイイイ!という音と殴りつける音と叫び声が混ざり合う。周囲の部屋は怖がっているのか何も反応がない。警察を呼んでいる家庭もあるかもしれないけれど、15分はかかるだろう。


「うあああ!」


 桐子の父親が殴りかかって、均衡を保っていたのは最初だけで、あっさりとチェーンソー男に形勢逆転をされて私は走って近づこうとしているけれど間に合わない。

 チェーンソー男の刃が桐子の父親の腕を削り取って血が飛び散っていく。


「おおおおおお!」


 そう叫んでいた桐子の父親の声が不意に消える。ショックで失神した様子で、チェーンソー男が姿勢を立て直し、チェーンソーを父親に向ける。


「だめだよ! その刃を止めて!」


 私はそう叫んで目の前の存在に向かっていく。

 ブイイイイイイイイイ!という音がするが気にしない。こんなの嘘だ、こんなの間違いだ、こんなのは何かのノイズなんだ。

 恐怖を押し殺してかける私はヒーローなんかじゃない。

 私はただの桐子の友達だ。

 チェーンソーが私の肩に触れて切り裂いていく。でもそんなことはどうでもいい。


「聞いてよ、違うんだよ!私たちは何も見ていない!」


 目の前のチェーンソー男は何か、桐子の欠落した一部だ。

 桐子の穴が、いろいろな人に委員長委員長と言われて適当な認識で見られていてできた欠落。それが穴となった。こぼれた肉が形を持った。


「私たちが思っているよりも、ずっとみんなは考えているんだよ。私たちがみんなのことをバカだって思ったのと同じくらい、私たちだってバカだよ」


 目の前のチェーンソー男は曖昧な認識の集合体だ。適当なことを言われた噂が桐子の穴からこぼれ落ちた存在を形作って暴力を帯びる。

 でも、もとは桐子なのだ。桐子がそうであれと、願った憎しみの果て。

 私はチェーンソー男を、いや、目の前の存在を抱きしめる。


「美奈はね、陸上部で大会前だった。それで練習を重ねていて、確かに思慮にかけるし、リテラシーはガバガバだし、勉強も出来ないけど私じゃ絶対できないくらいの練習をしていたし一生懸命だった。桐子、桐子はそれを知っていた?美奈がただワーワーうるさい人だと思ってなかった?今の桐子の父親を見たでしょ、何を言っていた?」


 ブイイイイイイイイイ!激痛と赤い飛沫。


「あなたが言ったんだよ、私に、そんなのおかしいって。だから私はおかしいと気づいたし、桐子と友達になったんだ。だから私は言わないといけない。ちゃんと目の前のことを見ろって怒っていたあなたが今は何も見えていないんだよ。その仮面で何も見えなくなっているんだ。そして私もそれを見ないように放置してたんだよ。今の私たちはおかしいんだ。こんなの絶対おかしいんだよ」


 チェーンソーの音が止む。目の前のチェーンソー男が苦しみだす。


「桐子、あんたはいい子なんかじゃない」


 私は抱きしめる力を強くする。


「でも、私の友達でしょ。一緒になんとかやっていこうよ、少しは、手伝うから」


 そう言った瞬間、目の前のチェーンソーの仮面が崩れ落ちる。

 男の姿だった目の前の殺人鬼はもう殺人鬼じゃない。私の腕の中で細くて、今にも折れそうな少女の姿になる。やがてその少女の姿もしゅるしゅる、と小さな欠片になって、大元の桐子の元へと戻っていく。

 チェーンソーが崩れ落ちて、消え去っていく。


11.


 それからの話というと私も桐子も桐子の父親も気絶していて駆けつけた警官に保護されて救急車で運ばれて、私と桐子の父親は速攻で治療を受ける事が出来て幸いなことに命の別状はないということになる。

 美奈と同じ病院で、ある程度回復した美奈がリハビリがてら私のところに遊びに来る。


「まぁ、なんとかやってみるよ、適当に」


 そう言って美奈が笑って、私は少し救われたような気持ちになる。

 桐子と父親の関係、というと微妙なところだ。

 桐子の父親が「逃げなさい!」と叫んだのは桐子のため、だとは私は思うのだけど桐子はだからといって「それで急に私が態度を変えるのも違くない?」ってことで劇的な和解はしない。私もそりゃそうだ、なんて思う。思いの強さとかだけで和解してたら私はこれから余計束縛が強くなりそうな私の親とも仲良くしなくちゃならなくなる。それはごめんだ。

 でも桐子は私のお見舞いついでに父親の病室によってお土産ぐらいは渡すらしい。

 別にこれから桐子が家族だとかとどうしていくかなんて正直なところ、私はどうでもいい。

 結果じゃないのだ。私たちが今回間違えたのは。

 チェーンソー男はみんなのあやふやのイメージの集合だ。適当なことを言って、適当な見立てがされて、それがどんどん集まって強化されて、化け物になった。


 でも、私たちだって結局のところそうだ。


 私は桐子の父親のことを全然知らなかったし、桐子は美奈のことを全然知らなかったように、人間は一つではない様々な面がある。

 穴も同じだ。私も、桐子も、きっと誰でも穴を持つ時が来る。

 でも、適切に見つめないと、その欠落はとんでもない姿になってしまう。

 もしかしたら私や桐子がいつか包丁で今回のような騒ぎを起こすかもしれない。私たちはちゃんと理解されたいと思うし、それを願うからには理解しなくちゃいけない。それでも、どこまで行ってもどうしようもないのなら、私は私自身か桐子のために拳を握り締めるか包丁を持つかして戦ってもいい。

 私たちが見つめなくちゃいけないのはそういう生き死にの話なのだ。

 でも、今回はいろいろ軽率すぎた。私も向き合わなきゃいけなかった。

 私はこれから桐子と色々話そうと思う。好きな食べ物の話とか、学校のこととか、将来のこととか、趣味の話とか、桐子の家の不満とか。また十三日の金曜日シリーズを一緒に見てもいい。やっぱりチェーンソーじゃないってことを再確認だとか、作品に含まれた機微だとかをもう一度私たちなりに考えたって良い。

 少なくとも言えることは、私はまだ何も知っていない。

 もしそれで、意見の不一致で桐子と殺しあうことがあったとしても、それは仕方がない。でも、それを恐れていたら始まらない。恐れないで桐子と関わっていきたいと思う。

 ズレたらズレたで、割となんとかなるもんだ、なんて思う。少なくとも殺人鬼と戦うよりはマシだろう。

 そもそも、コミュニケーションなんて最初から殺し合いのような激しさを内在したものなのだ。


「黒崎、おつかれさま」


 桐子が今日もお見舞いにやってくる。

 さて何の話を今日はしようか。

 チェーンソーの耳障りな音ではなくて、軽やかな桐子のローファーの足音を聞きながら、私はそう思う。〈了〉

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チェーンソーマーダーインザホール 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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