第五話 パラダイムシフト
「それで、訊きたい事というのは?」
維静がそう問い掛けると、幻居は膝を組みなおしながら言った。
「君は〝ベーシックインカム〟というものを知っているか?」
「いえ。何ですか、それ?」
「最低所得保障の一種さ。全ての国民に対し最低限の生活に必要な現金を定期的に支給する政策のことだ」
「生活保護みたいなものですか?」
「あれは受給条件があるが、ベーシックインカムにはそれがない。全ての国民に差別なく平等に配られる。これだけ文明が発達した今でも、人類はかつてMDGsやSDGsで取り上げた目標のひとつ〝貧困の撲滅〟というテーマを達成できていない。ベーシックインカムはそれを実現する上でも有効な制度だ」
「なんか、社会主義っぽい感じ……。配給制度みたい」
「それは誤った解釈だ。現在でも現金給付は条件付きで行われている。君の言った生活保護をはじめ、失業保険給付や子育て支援などがそうだ。そういう条件付きの現金給付制度をひとまとめにして平等に行うようなイメージだな。あくまで経済の仕組みは資本主義のまま、その中で行われることが前提となる」
「へえ。必要最低限以上のお金がほしい人は今まで通り自分で稼げるというわけですね。自由競争を阻害するわけでもないし、仕組みが単純だから誰にでも理解しやすい。何より平等なのがいいですね。ただ、問題は財源ですが……」
「そうだな」
「現行の給付制度に加え、年金などの社会保障がベーシックインカムに集約されたとしても、はたして
「それだけか?」
「は?」
「他にも歳出削減が期待できる部分があるだろう?」
「う、うーん、なんでしょう?」
「君たち公務員の大幅な人員削減だよ」
「リ、リストラですか?」
「そうだ。民間の失業者が増え続ける中、君らはなんだかんだと理由をつけて現在まで自分たちの雇用だけは守り通してきた。君が言った給付制度や社会保障制度のために、全国でどれほどの公務員が雇われているか想像してみたまえ。それらが全部不要になる。なぜならベーシックインカムのような単純な制度に人の手はほとんど必要ないからだ。既に導入済みのAIだけで十分だろうさ」
「な、なるほど。それほどの規模となれば相当な金額になるかも。でも、そんなことしたらますます失業者が……」
「だからこそだ」
「え?」
「失業者が増えるからこそ、多く仕事が奪われた今だからこそ、大きな変革が必要とされている。そのためのベーシックインカムだ」
「だけど、それでは仕事をしない怠惰な人間が増えて……」
「仕事をしないから怠惰なのではない。仕事以外にも人を成長させ、人生を充実させるものはいくらでもある。それは学生の頃を思い出せば、すぐにわかるはずだ。ようは、個人の意識の問題。仕事がなくなることで怠惰になると考えるのは、過去の価値観に縛られた者たち。仕事という
「で、でも、だらけた生活を送る人は確実に増えると思います」
「それがどうした? 仕事があろうとなかろうと怠ける者は怠ける。そして人生は己のもの。そういう生き方を選ぶ者はそうすればいい。以前なら国や経済の根幹を揺るがす問題といえようが、いまや労働のほとんどはデジタルレイバーがやってくれる。勤労を義務とし、それを美徳とする時代は終わりを迎えたのだ。どのような人生を送るか、もはやそこに社会的な義務は存在しない。残ったのは個人の権利だけなのだよ」
幻居は一息つくと、こう続けた。
「それでも問題だというのなら、かつて勤労を義務としたように、怠惰であることを禁じればいい。たとえば生涯を義務教育にすればいいわけさ。勤勉であるための手段が、仕事ではなくなるというだけの話だ」
維静は身体に衝撃が走るのを感じた。彼女はこれまで、自分が生きてきた社会の仕組みを持続させることは当然だと思っていた。だがそれだけに固執していては、いつかは時代の流れに取り残されてしまう。そのことに今初めて気が付いたのだ。
「人類は大きな変革の時期を迎えているんですね……。わたし、そんなこと思いもしませんでした」
「君の勤め先の環境は、お世辞にも進歩的とは言えない。そんな中で、既存のものに囚われる思考が身についてしまうのは仕方のないことだ」
「はは、友達からも考えが古いと言われたことがあります」
「古いことが全て悪いというわけではないぞ。古き良きものを大切にするのは素晴らしいこと。ただ、新しいことに目を向けることも忘れるな。何を捨て、何を取り入れるか、何事もバランス感覚が重要だ」
そのとき、金魚鉢からチャポンと水音が響いた。その音は幾重にも木霊し、維静の意識をゆらゆらと揺り動かす。
(えっ、なに? 眩暈? 疲れたのかしら……)
「……そろそろ、時間切れのようだな」
幻居はそう言って、少し寂しそうな表情を見せた。維静は意識が定まらないまま、それをぼんやりと眺める。
「楽しかったよ。君の価値観に少しでも影響を与えられたのなら幸いだ」
徐々に彼女の視界が色彩を失っていく。
やがてセピア色の世界に幻居を残したまま、彼女の意識は闇へと引き込まれていった。
「――はっ!」
維静が目を覚ましたのは。移動中の自動運転車の中であった。
しばらくの間、呆然とする。
目の前では接続端子に繋がれたタブレットが、例の電子書籍を映し出したまま。端の時計に目を向けると、午後の一時十三分を示していた。
(うそ……、まだこんな時間。まさか、あれが全部夢だったの?)
座席から乗り出すようにきょろきょろと窓の外を見るが、どこにもあの古い家は見当たらない。
彼女は再び座席に身を沈め、記憶を辿った。夢の中の男との会話は思い出すことが出来る。でもなぜか、彼の名前や顔は浮かんでこなかった。
(いずれは会話の内容も忘れ、全て消えてしまうのかな……)
そんな考えが頭をよぎる。理由はわからないが、忘れることを怖いと感じた。
(……いや、違う)
胸に手を当て気持ちを落ち着ける。
やがて不安はおさまった。それは自分の中の価値観やものの見方が大きく変化していることに、彼女が気付いたからであった。
(大丈夫。この変化はきっと消えない)
維静は気持ちを切り替えるように、自動運転車のAIに向かって声を掛けた。彼女の指示通りエアコンが止まり、車の窓がゆっくりと開かれていく。
入り込む夏の風が、髪をサラサラと撫でる。今までの自分なら絶対にこんなことはしないだろうと彼女は思う。でも今は、この暑い風が不思議と心地よい。
どこからかシュワシュワと鳴く蝉の声が聞こえたような気がした。
パラダイムシフト 藍豆 @Aizu-N
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