第一話 新しい時代

 三十年続いた令和も終わりを迎え、新たな年号が始まろうとしていた。


 時は西暦2050年。


 古田ふるた維静いせいは自動運転車の座席に身を沈めながら、軽く息を吐いた。


「あーあ、なんかヤダなぁ」


 吐息とともに、そんな呟きが口をつく。とうとう一つ前の年号生まれになってしまったことが、年若い彼女には少しショックだった。


 改めてそんなことを思ったのは、目の前のタブレットに映し出された電子書籍の影響かもしれない。〝令和の大変革を振り返る〟というタイトルのその書籍は、彼女の生まれた時代の変遷を記したもの。


「はあ……、なんでこんなの読まなくちゃいけないんだろう?」


 維静はページをめくりながら、ぼそぼそと不満を漏らす。めくるといっても直接画面に触れるわけではない。空中で動く人差し指の動きをセンサーが読み取っているのだ。


 この本を彼女に勧めたのは、勤め先の上司であった。普段の言動から察するに、きっとしつこく感想や意見を聞いてくるに違いない。そう維静は確信していた。冷めた無気力症ばかりが集まる彼女の職場において、彼は非常に珍しいタイプなのだ。


 維静は何度もため息をつきながら、大まかな要点だけを捉えようと所々読み飛ばしながらページを進めていく。こうしてみると、令和という時代はまさに第三次産業革命と呼ぶにふさわしいものであった。その変革はいくつかのキーワードによって語られることが多い。


 例えば〝デジタルレイバー〟や〝医療革命〟などがそれだ。人工知能やロボット技術の飛躍的な進歩により、今や人間が行う仕事は三分の一ほどに激減した。それらの新しい労働力は〝デジタルレイバー〟と呼ばれ、かつて自動化や機械化が不可能といわれてきた分野にまで、その範囲を拡げつつある。


 また脳以外のほとんどの生体組織を交換可能とするに至ったiPS技術の発展は、医療体制を大きく変化させた。のちに〝医療革命〟と呼ばれるこの変化によって医療の大半を占めていた投薬といった手法は影を潜め、人間の平均寿命は百五十を超えることとなる。


(あー、もう、眠くなってきちゃった……)


 瞼が重みを増したそのとき、不意にポンという電子音が鳴った。続けて音声案内が流れる。


『間もなく目的地に到着します』


 タブレットの端に表示された時計は、午後の一時十三分を示していた。維静は画面から目を放し、窓の外に視線を送る。彼女を乗せた車は、古風な外観の家の敷地内へと入っていく。


(うわぁ、古い家。昭和に建てられたのかな? たとえ無料ただでくれても、こんな家には住みたくないわね)


 心の中でそんな悪態をつきながら、維静はかすかな緊張を覚えていた。こういう家の住人は頑固者が多い、これまでの経験がそう警告を発していた。


『目的地に到着しました』


 音声と共に車のドアがゆっくりと開き、夏の太陽に熱せられた空気が熱風となって彼女の体にまとわりつく。


「うぅ、こりゃ暑いわ……」


 接続端子からタブレットを引き抜き、鞄の中にぐいと押し込む。厚さ二ミリ弱で半透明のその端末は、見た目も質感もまるで昔のアクリル製の下敷きのようである。


 車を降りて日差しの下に足を踏み出すと、全身に感じる熱はさらに激しさを増した。思わず手にした薄っぺらな鞄を日除け代わりに頭の上に乗せる。とにかく日陰に入ろうと、彼女は玄関ポーチまで小走りに進んだ。


(ふう、早いとこ建物に入った方がいいかも)


 温暖化の影響で、夏の平均気温は今や三十度を超える。最高気温が四十度に達する日も珍しくなく、夏休みに子供が外を駆け回る姿は遠い昔の記憶となり果てていた。


 古びたドアの近くの壁には、これまたレトロな形状の呼び鈴がついていた。


(いまどき物理ボタンなんて……、やっぱり古い)


 そう思いながら呼び鈴を指で押し込むと、どこか懐かしいメロディが響き渡った。パタパタと手で顔を扇ぎながらしばらく待つ。やがて、音質の悪いスピーカーから女性の声が聞こえた。


『はい』


 維静は口角を引き上げ、張りのある頬にえくぼをつくる。そうして作り笑顔のまま、呼び鈴に向かって声を掛けた。


「こんにちは。わたくし那津なつ市役所、市民生活課の古田と申します。本日は生活調査のため伺いました」


 少し気取った感じに挨拶をすると、すぐさま声が返ってきた。


『少々お待ちください』


 プツンと通信の切れる音がして、急に静けさに包まれたように感じた。遠くでシュワシュワと何かが鳴く声だけが耳に残る。


(あれ? ひょっとして蝉の声……? へえ、まだ聴けたんだ)


 懐かしい夏の風物詩。この田舎の街でさえ、最近ではまったく聴く機会がない。


 突然間近でガチャリと音が鳴る。どうやらドアのロックが解除されたようだ。


 維静は足を揃え、姿勢を正す。だが待ってもドアが開く気配はない。彼女は仕方なく、自らドアノブに手をかけた。


「失礼しまーす……」


 維静はそう言いながらドアを半分ほど開き、中の様子をうかがった。


(えっ! うそ、意外!)


 彼女を驚かせたもの、それは玄関の上がり口でじっとこちらを見る最新式の家庭用アンドロイドだった。古い家に不釣り合いなそれは、疑似生体組織という先端技術によって外見を人に似せてはいるが、やはり表情は機械であることを意識させる。これほど技術が発達した今でも、〝不気味の谷現象〟は健在なのだ。


 このアンドロイド、着用しているメイド服が一部のマニアの購買意欲をそそるらしく、発売から数か月が過ぎても品薄状態が続いている。


『お上がりください』


「あ、はい。お邪魔します」


 促されるままに玄関に入った維静は、あることに気付き肩を落とした。


(あぁ、なんてことなの。エアコンが効いていないなんて……)


 無情にも靴箱の隣にある細長い窓は大きく開かれ、外の蒸し暑い空気が室内へと流れ込んでくる。窓枠に吊るされた風鈴の音色だけが、辛うじて涼を感じさせた。


(ええい、こうなったら覚悟を決めるしかない!)


 彼女は意を決し、靴を脱いだ。玄関に靴を揃え、アンドロイドの後に続いて廊下を歩いていく。家の中は綺麗に掃除され、磨かれたフローリングの床は窓から射し込む光を反射して光沢を放っていた。


 アンドロイドは玄関から一番近い部屋の前で立ち止まると、中に向かって声を掛ける。


『お連れしました』


「ご苦労さま」


 開かれたままのドア、その奥から男性の声が返ってきた。落ち着きのある穏やかな声質。続けて同じ声が維静を招き入れる。


「どうぞ、お入りください」


 維静はそそくさと入口に立つと、ぺこりと頭を下げた。


「こんにちは、古田と申します。突然お邪魔してすみません」


 顔を上げた彼女の目には、ローテーブルの脇に立ち、客人を出迎える中年男性の姿が映った。中肉中背、甚兵衛羽織じんべえはおりを涼し気に着こなしている。


 やはりこういう和装は、日本人にはよく似合う。彼女はそう感じた。

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