アフターメイム.迷うこと無く名のある夢を
「……ただいま」
目が覚めた私の第一声はそれだった。
「おはよう」
リョウも挨拶を返してくれる。
私は周りを見渡す。
閉ざされたカーテン。表面にびっしりと水滴をまとい、机に小さな水たまりを作っている、コーラの注がれたコップ。伏せられた写真立て。稼働するクーラー。四時二十分で止まったままの時計。ベッドに腰かけているリョウ。
水滴が外側に溜まったコップ以外は、迷夢に行く前と変わっていない。時間が経っているのかどうか、疑わしい。
「ずいぶん悲しい夢を見てたみたいだね」
リョウのその言葉を聞いて、私は自分の目から涙が一筋、こぼれ落ちているのがわかった。
人差し指で、涙をぬぐう。
「そんなことないよ」
私は首を振る。
「私にはもったいないくらい、素敵な夢だった」
「そっか」
リョウは力なく笑う。その目の下には、どす黒いくまがまだあった。
私の中に、ある疑問が生まれる。
迷夢で願ったことって、いつになったら叶うんだろう。
あるいは、あれは本当にただの夢に過ぎず、願いを叶えるなんてことはできないのかもしれない。
もしそうだったら、とんだ取り越し苦労だ。夢の中を駆け回っただけの、私の一人芝居になる。
私が今までやってきたことって、全部ただの夢に過ぎなかったんじゃないか。その不安が私の胸に芽吹く。
いけない、私が弱気になってどうする。
まずは現実を確認しよう。ここが夢ではないと、確かめるんだ。
さすがにリョウの前で頬をつねるわけにもいかないので、机の下で見えないように太ももをつねった。痛かった。
「今、何時?」
「四時過ぎだね」
リョウは時計も見ずに答えた。
なるほど。二時間半ぐらいか、寝てたのは。
私はからからの喉にコーラを流し込んだ。炭酸が口の中で弾けて、眠気を散らす。手が濡れたので、服の裾で拭いた。
その間、リョウはずっとこっちを眺めていた。
「……なに?」
つい、変な声が出てしまった。
なんか、気まずい。リョウの顔をまともに見られる自信がない。
私はついさっき、夢の世界のリョウをぶん殴って、しかも友佳里のことが好きだと明言したばかりなんだ。
もしや、私は寝言でなにか言ってしまったのか?
それとも、夢の世界のリョウの記憶が現実のリョウにも反映されたとか?
まずい。それは非常にまずいぞ。ていうか恥ずかしい。
リョウが唇を開くのが、スローモーションに見える。私は緊張して彼の次の言葉を待った。
「また、味噌汁を作ってくれないか?」
……へ?
リョウが口にしたのは、なんてことのないお願いだった。
それだけ? 本当に?
「みほろの作ってくれた味噌汁が、飲みたくなってさ。だめかな」
「いい、けど」
私は拍子抜けする思いで彼の願いを聞き入れた。
リョウは、私の気持ちに、気づいていない? だったら、それはそれで、いいんだけどね。
嬉しいような、少し残念なような、複雑な感情が私の中で入り乱れる。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
私はリョウの部屋のドアを開けて、部屋の外に出る。
部屋を出たあと、閉めたドアに背中からもたれかかって、自分の胸に手を当てた。
ああー、緊張したー!
心臓が、ばっくんばっくん暴れている。
自分の中に閉じ込めている思いが、ばれたのかと思った。危なかった。
どうも夢で友佳里と会ってから、いろいろ溢れ出ちゃってしかたがない。
頭を振って、思考を切り替える。
今は、リョウに味噌汁を作ることだけを考えていればいい。
キッチンに行き、二回目だというのにすっかり慣れた手つきで味噌汁を作ることができた。もう、得意料理と言ってもいいんじゃないか。
私は完成した渾身の力作をあったかいうちにお椀に注いで、リョウの部屋へ運ぶ。
「できたよー」
リョウの部屋に戻ると、柔らかな光が私を出迎えた。
窓際にリョウが立っている。部屋の電気は消され、代わりにカーテンが開けられて、窓から夕陽が差し込んでいた。窓の外では、赤と青の色が空で溶け合っている。
リョウは、すがすがしい顔で夕日を浴びていた。心なしか、目の下のクマが少しだけ薄れているように感じる。
クーラーも切ってあって、ちょうど涼しくなったばかりの夕方の風が、遠慮がちに入ってくる。カーテンがふわりとなびく。私は驚いて、思わず率直な感想を言った。
「窓、開けたんだ?」
どういう心境の変化なんだろう。
リョウは部屋に入ってきた私を見て、再びベッドに座り込んだ。ぎしっとベッドのスプリングが鳴く。彼は照れくさそうに笑った。
「こうした方が、いいと思ったんだ」
それから、思いついたように一言付け加える。
「電気代、もったいないからね」
理由はそれだけじゃないとわかったけど、私はなにも訊かなかった。
黙って机の上にお椀を置く。リョウは箸を持った手を合わせた。
「いただきます」
「うん、いただきなさい」
赤くなった太陽の光を受けながら、リョウはお椀を傾ける。
私は夕焼け空を眺めるふりをして、横目で様子をうかがっていた。
視界の端に、ちらりとあるものが目に入る。伏せられていた写真立てが、起き上がっていた。私が味噌汁を作っている間に入れ替えたんだろう。中身がプリクラに変わっている。
これって……
もしかして、一人で部屋の模様替えをしたくて、わざわざ私をいったん退室させたんだろうか。
心の整理は、一人でゆっくりしたいものだからね。
回りくどいけど、「帰れ」と言わなかったのはリョウらしいやり方だと思った。
リョウは味噌汁を飲んでから、ほう、と息をついた。
「落ち着くなあ」
ただそれだけの言葉が、私にはとびっきり嬉しかった。
夏の風が私たちの肌をくすぐる。ほどよく気持ちいい。
「みほろ、ありがとう」
リョウは真剣に、だけど優しく私に声をかける。
「いいよ、これくらい」
私は手を振ったけど、彼は静かに笑みをたたえた。
「味噌汁もだけど、友佳里がいなくなってから、みほろは俺たちのために頑張ってくれたんだろ?」
ふいに、世界の歩調が緩やかになったような感じがした。
リョウは、私のしてきたことを、知っている?
私が疑問を眼差しに滲ませていると、当たり前のことだと言わんばかりに、リョウの唇からするりと言葉がこぼれた。
「わかるよ。幼なじみだから」
私たちの間だけで通じる、魔法のキーワードだった。この言葉の鍵で、私たちはお互いの心を開けて覗くことができる。
「俺の知らないところで必死に走り回って、なにかすごいことをやってのけてくれたんだろう?」
これは、夢かと思った。
私が迷夢でいろんな人たちに出会って、助けたり助けられたりして、今ここにいることを、リョウは察してくれている。
リョウは味噌汁をきれいに飲み干して、お椀と箸を机の上に置く。
ごちそうさま、と手を合わせてからリョウは私を見やる。その瞳には、力と光が帰ってきている。
彼は、夕焼け空みたいな、しっとりと晴れた表情をしていた。
空になったお椀の中に、逆さまになったノーネイムの顔が映っていたような気がした。まばたきすると、ノーネイムの顔は消えていた。だけど、私は確かに見たんだ。あの仮面の目の下に、もう涙の跡のような線は刻まれていなかったのを。
安心しなよ。こっちのリョウは、私に任せて。
くあ、とかわいい声が聞こえた。リョウの口から、あくびが漏れたんだ。
目尻に浮かんだ涙をぬぐい、彼は言う。
「この眠気はみほろが連れてきてくれたんだって、なんとなくだけどわかるよ」
リョウの瞼が重そうに下がってきていて、首が少し揺れていた。
リョウが、眠って夢の世界へ行こうとしている。
私が迷夢でしてきたことは、無駄じゃなかったんだ。
そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「ありがとう、みほろ。ちょっと、夢を見てくるよ」
ちょっとと言わず、存分に見てこい。そして、友佳里にも会ってこい。会って、たくさん話すといい。積もる話もあるだろうから。
「おやすみ、リョウ」
私が見送ると、リョウはベッドにゆっくりと倒れて、目を閉じた。少し遅れて、寝息が聞こえてくる。
その目の下にあった深いくまは、嘘のようにうっすらと消えていく。夜明けみたいだなと思った。
ふと、枕元の時計に目をやる。時計はいつの間にか動き出して、四時二十一分になっていた。まるで止まっていた時間が、解凍されたように。
私は再びリョウの顔を見る。
あ、笑ってる。
私は机に肘を置き、頬杖をついてリョウの寝顔を眺め続けた。この寝顔を見るために、頑張れた。夢の世界を救うことだってできた。
友佳里の死が消えたわけじゃない。まだ悲しみがなくなったわけじゃない。
けれど、今、リョウはやっとぐっすり眠ることができた。
それが今の私のしあわせ。私がこの手でつかんだ、心臓の鼓動よりももっとずっと大切な夢だ。
これ以上はなにも願わない。
迷夢の力も、もう借りなくていい。
だから、リョウ。
きみは、迷わず夢を見てね。
窓から爽やかな風が吹き込んで、私の髪を弄んだ。
もう夏休みが始まった。それなら、うんと休んで、楽しまないとね。
私も軽く目を閉じると、さっき見たプリクラに映っていた風景が色鮮やかに蘇る。
瞼の中では、友佳里とリョウ、それと私の三人が、ばかみたいにはしゃいで笑っていた。
リョウも、同じ景色を見ているのかな。
窓の外で太陽が沈んでいく。
眠るにはちょうどいい空の色になった。
あれだけ寝たのに、あくびが私の口をこじ開ける。リョウのがうつったかな。
しょうがない。私は自分の腕を枕にした。
リョウと友佳里に、私も交ざるとしよう。
三人で、おんなじ夢が見られるといいな。
おやすみなさい。
私たちは夢を見る。
昨日までの日々を輝かせ、明日を照らしていくために。
メイムメイム 二石臼杵 @Zeck
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