第38話 《終幕》祝祭/カルネヴァーレ

 十六世紀 威尼斯ヴェネツィア

 サンタ・マリア・フォルモーザ教会の広場を横切り、水路沿いの道をしばらく歩いて右手に曲がると、天国の道カッレ・デル・パラディーソに辿り着く。

 二月、本来ならば夕暮れのあと、眠りにつくはずの宵闇の街は、仮面祭カルネヴァーレの賑わいと篝火の灯りで昼間のような騒がしさだ。

「おお、だれかと思えばバルトリの嬢ちゃんじゃないか」

 営業中、の看板の掛かった扉を押して、顔を出した娘に、店の店主は気安く声をかけた。

 天国の道も例外なく、仮面祭の行進パラタに参加するひとびとで賑わっていたが、さすがに今夜、飲食店でもないその店で買い物をしようという者はほとんどいないのだろう、店主のほかは先客がひとりいるだけだった。

 店の名は『ヘルメス雑貨店』という。

「もうそろそろ『バルトリの嬢ちゃん』じゃなくて……『アリスタの奥さん』って呼んでくれないかしら? ヘルメスさん」

 蜂蜜色の巻き毛に色とりどりの飾り布を巻き、祭りの仮装なのだろう、貴族の青年風の衣装を身に纏った娘は、店主の挨拶に溜息を吐く。

 榛の瞳を憂色に陰らせた娘の名は、シルヴィア・アリスタ。

 旧姓はバルトリといい、威尼斯商人の娘であったが、いまは夫と夫の従弟とともにピレネーの奥深くにあるアリスタ家ゆかりの廃城で、のんびりと暮らしている。

わしを肝心の式に呼ばんような薄情者の言うことなんぞ、聞く耳もたんわ」

 ふーん、とばかりにそっぽを向く店主の歳の頃は、三十前後といったところだろうか。

「だいたい、あの村は儂が方々ほうぼう手を尽くして探したんじゃぞ」

 欧羅巴ヨーロッパ系の人種ではない。

 肌の色が濃く、腕に蔦模様の入れ墨を入れていることから、埃及エジプトあたりの出身かとも思うが、顔立ちがどことなく違う。

 そして、金髪……というよりは銀色に近い髪の色と、翠玉の瞳。

 ことにその瞳の色は印象的で、彼と差し向かいで話をする者はみな、その瞳を『この世の英知のすべてを閉じ込めたような、思慮深い輝きを湛えている』と評した。

 とはいえ、眼前の娘と話す彼の言動は、思慮深いと評するには、いささか大人げなかったが。

「ほんとに悪かったと思ってるのよ、ヘルメスさん。あのときはわたしもいろいろ慣れるのに忙しくて……」

 ごめんなさい、と謝る娘に店主は向き直り、

「なにも儂は嬢ちゃんだけが悪いとは思っておらん。気が利かんのは、あやつらじゃ。まったく年長者に対する敬意がない」

 憤懣やるかたないといった面持ちで、店主は口をへの字にして頬杖をついた。

 店主がなにを怒っているのか、その実情を知る者がいれば、そのあまりの大人げのなさに驚くことだろう。

 なにしろ店主は、伊太利亜イタリア半島より遙か彼方、西班牙スペイン仏蘭西フランスのあいだ、ピレネー山脈の山奥で挙げられた娘の結婚式に、自分が呼ばれなかったことを根に持っているのだ。

 ……四百年間ずっと。

 娘が仮面祭を愉しみに威尼斯を訪れるのは五、六年に一度といったところだが、そのたびにおなじ会話を飽きることなく続けている。

「おひさしぶりです、ヘルメス王」

 扉を開ける気配もなく娘のかたわらに現れた青年が、店主に頭を下げた。

 店主曰く、「気の利かん、あやつら」のうちのひとり……ガルシア・アリスタである。

 黒の長衣トーガと黒の外套を身に纏うその姿は、ここ数百年、威尼斯貴族の衣装にあまり変化がないことから、仮装らしくは見えない。

 どうしたらいいのかしらとでも言いたげに、ガルシアに向き直った娘の頬に軽くくちづけて、柔らかく微笑みかける。

「そのうちヘルメス王も分かってくださるだろう。気長に説得することだよ。愛しい君。わたしたちの時間はたくさんあるのだからね」

 四百年かかってなにひとつ進展がないのをものともせずに、ガルシアは妻を慰(なぐさ)めた。

「そうね、諦めたらいけないわね」と、殊勝な面持ちで夫の言葉に頷くシルヴィアと、そんなふたりのようすをうんざりした面持ちで眺める雑貨店店主……

 じつのところ、彼らはそうやっていつまでも決着の付かない他愛のない『揉め事』を愉しんでいるのだ。

 彼らはつねにときに取り残される。

 親交を結んだ者たちがいても、相手はすぐに逝ってしまう。

 それゆえ、こういう『揉め事』は、事情を知る者どうしの挨拶代わりのようなものだった。

 永遠の平行線を楽しんでいるのだ。

 もちろん、シルヴィアだけは本気で、雑貨店店主にいつかそのうち「アリスタ夫人」と呼んで貰う野望を捨ててはいないようだったが。

「で、物見遊山に来て早々、ぬしらにきな臭い話をせねばならん無粋は勘弁願いたいところじゃが……アリスタ殿、近頃、威尼斯の夜が少々、騒がしいのを知っておるか?」

 頬杖をついた腕を組み直し、ヘルメス店主が言った。

「知っています」

 すこし冷えた表情で、ガルシアは頷く。

「シュヴァルツシュタウフ伯爵家が、威尼斯に居を定めたとか。ですが、たしか館は本土テッラ・フェルマにあると聞いていますが」

 本土テッラ・フェルマとは、威尼斯が十五世紀に手に入れた、大陸の領土だ。

「そう……黒森の闇ナハト・フォン・シュヴァルツヴァルトが動きおった。たしかにやつらの本拠は本土テッラ・フェルマじゃから、あまりこちらで姿を見かけることはなかろうし、ぬしらはたいてい、ここにおるのは祭りのあいだだけじゃからの、心配するようなことはなかろうが……嬢ちゃんに万が一のことがあってはならん。気をつけるんじゃぞ」

 ぬしらと違って、あやつらは好戦的じゃからの、と雑貨店の店主は付け加える。

 シュヴァルツシュタウフ家とは、吸血鬼の始祖のひとり、リヒャルト・フォン・シュヴァルツシュタウフが興した家名であった。

 彼の出自はあまりよく知られておらず、リヒャルトの名も、ガルシア・アリスタのような、彼が人間であったころのまことの名ではない。

 ただ、強力な闇のあるじのひとりであることは間違いなかった。

 ここ三百年ばかりは独逸ドイツ黒森シュヴァルツヴァルトに居を定めていたために、通称を「黒森の闇ナハト・フォン・シュヴァルツヴァルト」と呼称されている。

 雑貨店の店主はシュヴァルツシュタウフ家を「好戦的」と評したが、みずから好んで人間と、あるいは同族と刃を交えるようなことはなかった。

 敵対した者に容赦はなく、血統の異なる者たちとの仲が良くないのは、吸血鬼ヴァンピーロとしてはつねのことだ。

 勢力の拡大も目指さず、ほかの吸血鬼たちが見向きもしないようなピレネーの片田舎でのんびり田舎暮らしを楽しんでいるか、一族揃って仲良くどこかの街を観光している……そんな始祖はガルシア・アリスタをおいてほかにない。

蒼き峰の主レ・ディ・ウナ・ベッタ・ブルゥ

 それがガルシアのふたつ名であったが、近年は「ピレネーの穏健王レ・モデラート・ディ・ピレネー」と言う通り名のほうが知られている。

恐妻王レ・モッリエ・ドミナント」などという陰口も一部では叩かれていたりするが、これは実体とは掛け離れている。

 彼は妻を怖れているわけではない。

 ただ単に、愛妻の願い事を聞き流すことができないだけなのだ。

「彼らの一族構成は?」

 ガルシアが問う。

「始祖リヒャルトに、その妻、あと、騎士がひとりと人狼の従者がひとりといったところじゃな。噂どおり、始祖リヒャルトの矜持は高い。数にたのむなど誇りが許さぬのじゃろう、族人の数は、ぬしらとそう違いはないが、人狼とその配下の狼の群れ……夜の子供ナハトキンダーたちは昼間でもそれなりに行動できる。敵に回せば厄介じゃ」

 重々しく頷くガルシアの横で、なぜかシルヴィアが表情を輝かせた。

「奥様がいらっしゃるのね」

 きらきらした榛の瞳でヘルメス店主とガルシアを交互に見遣り、「おともだちになれないかしら?」とのたまった。

 雑貨店の店主は、「嬢ちゃんは……いまがいままで、儂の話をちゃんと聞いておったか?」と盛大に溜息を吐き、愛妻家の夫はくちびるに微笑みを浮かべたまま、表情を凍らせる。

「だって、おなじような境遇の奥様ならきっと話も合いそうだし、あんまり交際なさらない方でも、たまに会ってお話ししたり、お手紙をやりとりするくらいならつきあってくださるんじゃないかしら?」

 常日頃、田舎暮らしで妻には寂しい思いをさせている……そういう負い目もあるのか、ガルシアは「できる限りのことをしよう」と、二つ返事で頷いた。

 もちろん、前向きに対処しようと、頷くことくらいはだれでもできる。

 問題は……行動にどうやって移すか、だった。

 リヒャルトの妻女の性格もさることながら、リヒャルトとどう話を付けるか。

 難しい問題だ。

 だいたいにおいて、血統の違う吸血鬼が親交を深めることなどまずないといっていい。

 いわんや、始祖とその妻が会って歓談するなど……穏健だと自他ともに認めるガルシアでさえしたことがないし、そんな始祖がいたという話も聞いたことがない。

「シルヴィアさま、そろそろ行進パラタに交ざらないと、お祭りに乗り遅れますよ」

 雑貨店の扉を開けて、アシエルが呼びかける。

 いけない、とシルヴィアは身を翻し、「ヘルメスさん、またあとでね」と雑貨店を飛び出した。

「ああ、またおいで。儂はいつでもここにおるからの」

 店主は決まり文句でシルヴィアを見送ると、ガルシアと顔を見合わせ……溜息を吐いた。

 ふたりそろって、盛大に。

 店主は、なにも言わずに立ち上がり、店の奥からずっしりと重そうな、手のひらほどの革袋をひとつ出してきて、「当座の分じゃ」とガルシアに渡す。

 ガルシアは革袋に小指を差し入れ、指に付いた薄紅色の粉末を舐めて、ふと笑みを漏らした。

「さすがはヘルメス王、また味が良くなっていますね」

「言っておくが、ぬしのためにやっておるのではないからの。嬢ちゃんが教会に目を付けられて危ない目に遭ったり、村人に嫌われたりするのは不憫じゃと思うからやっておる」

「むろん、そうでしょうとも」と、ガルシアは頷いて革袋を腰に結びつけた。

 じつのところ、定期的にひとの血を必要とする彼らが、ひとのすくない田舎暮らしでもやっていけるのは、ヘルメス・トリスメギストスの協力あってこそだ。

 四百年前とくらべると増えたとはいえ、村人の数が千人を超えることがない田舎で、週に一度の間隔でひとを襲えば、早晩、村人とは対立せざるを得ない。

 ヘルメス店主はそんな彼らのために生き血の代用品を作り、定期的に提供していた。

「仕方なくやっておる」と文句を言う割には、受け取るたびに保存可能期間が長くなっていたり、味が向上していたり、さまざまに改良が加えられている。

 この代用品のおかげで、ガルシアたちは半年に一度ほど、どうしても必要を感じるときにだけ、あたたかい血を得るだけで、餓えることなく身を保つことができていた。

「で、これはこれとして、さきほどの妻の希望についてなのですが……」

「まさかとは思うが」

 雑貨店の店主は眉根に皺を寄せて溜息を吐く。

「ぬしは、なんとかしようと考えておるのじゃなかろうな?」

「まさかもなにも、なんとかできればと思っているのですが」

「無理に決まっておるわ!」

 吸血鬼たちは元来、群れないものなのだ。

 自身の能力に絶対の矜持を持ち、人間はもとより同族ですら見下しているその在り方につけ込まれ、身を滅ぼす者もすくなくない。

 せめてガルシアとくらべて相手が明らかに格下なら、つきあいを強要することもできないわけではなかろうが、蒼き峰の主レ・ディ・ウナ・ベッタ・ブルゥ黒森の闇ナハト・フォン・シュヴァルツヴァルト……控えめに見積もっても同格、闇の血統を得たあとの歳月は先方のほうが確実に長い分だけ、向こうの格が上であるという見方もできる。

「あ~、ちょっといいかな?」

 突然、ふたりの会話に割り込む者があった。

 店の先客だった。

 さきほどから熱心に品定めをしている振りをして、こちらの話に聞き耳を立てていたらしい。

 訳知り顔で、つかつかとふたりのほうへ歩み寄り、どっかりと無遠慮(ぶえんりょ)に客用の椅子に腰を下ろす。

 歳の頃は、雑貨店の店主の見かけとおなじくらいであろうか。

 威丈夫と言ってもいいがっしりした身体に纏っているのは、街の工人ですらもうすこしましなものを着ているだろうと思われるような、着古し、もとの染め色さえ判らなくなった、丈夫なのだけが取り柄の麻布製の上着だった。

 厚手の布ではあったが、なにやらさまざまな薬品で染みだらけになった服の袖をまくり上げ、これまた染みや焼け焦げのある、やはり色褪せたベストを無造作に羽織っている。

 一見しただけでは物乞いにも見えかねない。

 だが、男の全身にみなぎる精気が、この男がなみの男でないことを物語っている。

 そして、男の目に宿る意志の輝きには、不遜を通り越した不羈ふき、知性に裏付けされた確信を持つ者にしか持ち得ないつよさがある。

「その話なら、いい情報を持ってるぜ」

 にやりと笑うその表情は、わけを知らぬ一般客ではあり得なかった。

「貴殿は?」

「テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイムってのが俺の名だが、パラケルスス、通り名で呼んでくれて構わねえ」

 パラケルスス……その名は、当代随一の錬金術師アルキミスタにして医師の名であった。

 ガルシア・アリスタがヘルメス雑貨店を出ると、店の看板の前で仮面を付けたシルヴィアが待っていた。

 行進パラタをすこし楽しみ、今晩の『夕食』を見つけたアシエルと別れたところで、店の前に戻ってきたのだという。

「好きなところを見て回ってくればいいのに」そうガルシアが薦めても、「あなたとじゃなきゃ面白くないもの」と、ガルシアにも仮面を手渡しながら応える彼女。

 そう言うシルヴィアの人懐こい微笑みは、四百年前と変わらず、ガルシアには愛おしかった。

 いつ果てることもなく続く行進パラタ

 仮面祭カルネヴァーレを楽しむひとの流れ。

 そう……これもまた、四百年前、シルヴィアと歩いたあの夜と変わることなく続いていた。

 どちらからともなく手を繋ぎ、行進パラタの流れに交ざって歩き始める。

 喧噪に紛れていると、かえって「いまふたりでいること」が強く意識されるものだ。

 この時代を共有し、言葉を交わすことのできるひとびとの群れ。

 けれども、真にこころを通じ合うことのできるのは、ほんの一握りなのだ……

『シュヴァルツシュタウフの大将は、いま、だれとも事を構えるつもりはないはずだ。ちょいとワケありでね』

 情報の代わりとしてガルシアから酒代をせしめた、錬金術師アルキミスタにして稀代の医師は吸血鬼を相手に話をしているとは思えない気安さで、そう言った。

『すくなくともここ数ヶ月、先方は奥方を巻き込む可能性のある厄介ごとは確実に避ける。だから……ま、あんたの出方次第じゃ、非戦協定は結べるはずさ。協定さえ結んじまえば奥方同士が茶飲み友だちになる機会くらいあるはずだろ』

 多少は下手に出つつ、こちらの戦力が侮りがたいことをリヒャルトに印象づければよい、というわけだ。

 たまには国王らしい交渉ごともしてみせねばな。

 いくつか悩ましいことはあったが、上手くことは運ぶだろう……ガルシアはこの交渉ごとの帰結については楽観視していた。

 それよりも、だ。

 ガルシアはシルヴィアの横顔を眺めながら、浅く息を吐いた。

 問題は……

「どうしたの?」

 仮面を付け、着飾って思い思いのステップを踏む人の波。

 その中にあってひときわ甘く香る白い肌。

 明るい蜂蜜色をした巻き毛。

 優しい輝きを湛えた榛の瞳は、微かに若葉の色を含み、その色はガルシアに祖国の春を思い出させた。

 つねにそこにあり、永遠に変わることなく、けれどすべての瞬間に新しい表情を見せてくれる彼の祖国。

「ほんとに、どうしたの?」

 困ったように微笑んで、シルヴィアはガルシアの手をすこし揺らした。

 その微笑むくちびるの端には真珠色をした牙が覗いている。

 そのくちびるの甘さ、指に吸いつく肌の滑らかさ、たおやかな鎖骨のくぼみ、男を誘ってやまない豊かな胸と官能的な腰のくびれ、しなやかでありながら肉付きのよい太腿……目を閉じていても、ガルシアは彼女のすべてを感じることができる。

 そして太腿の付け根にある彼女の蜂蜜色の繁みは、ガルシアが求めれば、いつでもその色にふさわしい蜜をたたえて薫るのだ。

 ガルシアが彼女を隅々まで知っているように、彼女もまた、ガルシアをだれよりも知っている。

 だが、もっと……だ。より深く、より強く。

 そうすれば……。

「シュヴァルツシュタウフ伯爵夫人は伯爵本人の血統に連なる吸血鬼で……身重だそうだ。愛しいひと」

 ガルシアはそう告白して、シルヴィアを抱き締め、思いの丈を込めて、そのくちびるを奪う。

 行進パラタの流れがふたりを包む。

 ひとびとは流れに逆らって立ち止まるふたりにぶつからないように左右に避けつつも、「色男ベルウォーモ!」だの「お楽しみだねえ!」だの、彼らの幸せを分けて貰おうとでも言うのか、肩だの腰だの、無遠慮にぺちぺちと叩きながら声をかけてゆく。

 なかには彼らの姿に感化されたのか、抱き合う恋人たちも現れた。

 できないものだと諦めかけていたのだ。

 片親が吸血鬼である半魔の子がいることはガルシアも知っていたが……ともに吸血鬼であれば、子は成せないのだと。

 だが、あの横柄な医師のげんに寄れば、「信じること」が肝要なのだとか。

『だいたい、あんたらは俺たちと違って『作り』がいい加減だからな。俺の研究によれば……あんたがその姿に成り変わったときに、『欲しい』と思った能力を手に入れたように、『できる』と信じてタネいて耕しゃいいようだぜ』

 下世話な物言いにはうんざりするが、その内容に、ガルシアの気分は高揚する。

「ほんとう?」

 シルヴィアの瞳が、喜色に煌めいた。

「そんなことって……でも、素敵だわ!」

「ヘルメス王の知人の名医が見立てたから、間違いはないそうだ。……で、ものは相談なのだが、わたしの可愛いシルヴィア、今宵の祭り見物はそろそろ切り上げて、宿に戻ろうと思うのだが……どうだろう?」

 ガルシアがなにを考えているのか、シルヴィアは正確に読み取った。

 いつもならば「そんなこと言わないで、せっかくのお祭りなんだからすこしくらい踊りましょうよ」そう抗弁するはずのシルヴィアは、しかし、今夜ばかりは桜草の花びらのように頬を染めながら「い、いいわよ」と、消え入るような声で承諾する。

「でも、アシエルさんを放っておいても構わないの?」

 こんな状況で彼女はなぜほかの男の心配などするのだろう……とでも言いたげな、不本意極まりないといったまなざしで、ガルシアは自身の奥方の手をもてあそぶ。

 だいたい、いまからふたりで親密な夜を過ごそうかというのに、アシエルがいたところで邪魔なだけだろう。

 城ならば、それなりに広いから見て見ぬ振りもしやすいだろうが、宿は空き家を一軒、借り切っているだけなのだ。

 威尼斯の建物は富豪の屋敷でもない限り、一部屋が狭く、壁が薄い。

 放っておいて構わない……どころか、明け方までかえってこない方が都合が良い。

「アシエルもたまには羽を伸ばしたいだろう。何と言っても、今宵は祝祭なのだからね」

 ガルシアはそう言って、もういちどシルヴィアのくちびるを味わい、抱き締めた。

 そう……最後の審判イル・ジュディッツィオの日を、彼女と、我が子、そしてアシエルとともに迎えるのも悪くはない。

 そしてわたしは神に訴えよう。

 これが神意に適うことなのかは分からない。

 けれど、わたしはこんなにも幸福であったのだと。

 威尼斯の夜はあまたの篝火に照らされ、一夜の真実を求めてひとびとは踊り明かす。

 仮面を被り、思い思いの晴れ着を身につけ、ただこの夜が永遠なれと謳いながら。


 祝祭カルネヴァーレときはいつ果てるともなく続いていた。


La fine

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祝祭 カルネヴァーレ 宮田秩早 @takoyakiitigo

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