第37話 蒼き峰の王の帰還
祝宴の夜が明け、教会堂の老司祭は日課のとおりの時刻に目を覚まし、夜明けの鐘を鳴らしに寝台を抜けた。
司祭には今日の式の支度がある。
昨夜の祝宴は早々に退席して休んだが、明け方近くまで騒ぎは続いていたようだ。
祝宴の場に現れた、ガルシア・アリスタとその花嫁。
……幸せそうじゃったな。
老司祭は仲の良さそうなふたりのようすを思い起こし、深く息を吐いた。
『わたしはガルシア・アリスタ。二百年のむかし、
二百年前の王の帰還。
村人たちは彼の姿を見た途端、彼が真実の王かどうかなど、どうでも良くなってしまった。
それほどに王は美しく、気高かった。
そして王みずからの
王の帰還を
花婿に
とこしえにともにあることを誓い合う、約束のくちづけ。
慈悲深き神の深慮によって、ひとは二百年生きることはできない。
だから、彼は二百年前のガルシア・アリスタであるはずがない。
けれど……
そういうこともあるのだ。
昨夜、この村には永い刻、遠征の旅に出ていた王が凱旋した。
そのかわり、王は伴侶を得て帰ってきたのだ。
どうやらこのあたりの言葉を知らず、村人たちになにを話しかけられても「
おそらく、こちらの言葉が上手く聞き取れず、しかたなく自分の知っているこちらの言葉のなかで、当たり障りのない文句を繰り返していたのだろう。
新婦の親族も、「
だが、言葉なぞ、いずれ覚えるものだ。
思い返すも、似合いの夫婦だった。
花嫁が身に纏う透かし編みの、あまりの精緻さに、よく見ようと近づいてきた裁縫好きの娘たち。
その彼女らを遠ざけるどころか、言葉が分からないのをものともせずに、身振り手振りで透かし編みの編み方を説明しようとしていた花嫁と、そんな彼女を披露宴の席だと、たしなめもせずに、ときどき、ふたことみこと声を掛けて助け船を出す花婿。
彼がほんものの「ガルシア・アリスタ」かどうかなど、どうでも良いことなのだ。
老司祭は夜明けの鐘を衝き、昨夜はかなり遅くまで起きていたのだろう、寝こけたままの
しばらくして、自室で式に使う祝いの言葉を選ぶべく、聖書を読み返していた司祭のもとに、堂守の少年が駆け込んできた。
「ひ、広場が凄いことになっています!」
血相を変えた少年に釣られるように、長らく痛む腰を庇いつつ急ぎ足で教会を出ると、広場一面に広がる黄金輝石の粒が目に飛び込んでくる。
夜の
見渡せば、アリスタ家の馬車がなかった。
披露宴が終わったあとは、ガルシアとシルヴィア、そしてガルシアの親族であるアシエルは村長の家に泊まることになっていたから、そちらに遷ったのかと、堂守の少年を村長の家に遣って確認させたが、アリスタ家の者は結局、泊まらなかったそうだ。
そうこうしているうちに、黄金輝石を敷き詰めた広場のようすを見ようと、村人たちが騒ぎ出した。
その喧噪の差配は村長に任せることにして、老司祭はどうしたものかとなにげなく教会堂に入る。
そして祭壇の前に置かれたものに気がついた。
それは、結婚誓約書兼結婚証書だった。
教会で保管する分と自分たちで持っておく写しなのだろう、おなじものが二枚。
結婚に際して新郎新婦が神に誓約し、この契約が、正式の手続きを踏んで神に誓われたものであることを証明する書類だった。
書類のなかほどには、ガルシア・アリスタ、シルヴィア・バルトリと直筆で署名が入っている。
あとは、この教会の主席である司祭が、書類の末尾に立会人として、この書類の正当性を保証する署名をすればよい。
結婚証書の上には、封書と、昨夜新郎新婦が被っていた若葉と春の花の冠が置かれてあった。
若葉と花の冠は、なにげなく司祭が持ち上げると、零れるように形を崩し、かさりと音を立てて祭壇に落ちた。
昨日の昼に村の娘たちが作ったものとは思えないほどに萎れ、枯れ果てたその冠。
封書の封蝋にはアリスタ王家の紋章。
宛名に自分の名前を認めて、老司祭は封書を開けた。
封書になかの手紙には、昨夜の披露宴で受けた祝福に対する謝意と、今日の式に、アリスタ家の者は故あってどうしても出られない旨を、幾重にも詫びる言葉が記されていた。
どうして式に出られないのかを詮索することなくこの結婚証書に立会人として署名し、それを「城」に届けて欲しいと。
そして、我らの願いが必ずや聞き届けられるものと信じ、我が国の象徴、雄山羊の蹄が零した夜の
……ああ、彼は、本物なのじゃな。
老司祭は万感の思いで嘆息し、祭壇の奥にある基督磔刑像を見上げた。
彼はまさしく二百年前、国を喪い、戦い続けてきた「ガルシア・アリスタ王」なのだ。
戦うために、戦い続けるために……おそらく、ひとであることを捨てねばならなかった。
だが、それももう終わったのだろう。
だからこそ、還ってきた。
『わたし、ガルシア・アリスタは、シルヴィア・バルトリを生涯妻とし、幸せや喜びは共に分かち合い、悲しみや苦しみは共に乗り越え、永遠に愛する事を誓います』
『わたし、シルヴィア・バルトリは、ガルシア・アリスタを生涯夫とし、幸せや喜びは共に分かち合い、悲しみや苦しみは共に乗り越え、永遠に愛する事を誓います』
誓約の文言は、月並みなものであった。
けれど、彼らにしてみればこれ以上の文言は思いつかなかったのかも知れない。
「そうじゃな……私も務めを果たそうか」
老司祭はそう呟いて、祭壇の抽斗から筆記具を取り出すと、書類の末尾に立会人として自分の名を署名した。
『エネコ・サヴァラ』
サヴァラ家は、王にできないことをする家系なのだ。
司祭の先祖が、なにを思って聖職に就いたのかは分からない。
サヴァラ家の者が聖職に就くことなど、家の系譜をさかのぼっても、それまではひとりもなかったことなのだ。
二百年前……国が危うくなる不穏さを感じて、血族をすこしでも分散させておこうという実家の思惑だったのかも知れないし、サヴァラ家の役割を嫌った本人の事情だったのかも知れない。
だが、国が滅ぶそのとき、彼が王都の教会を護る司祭だったことで、教会に逃げてきた
そして、いま。
王の民を救った先祖や、二百年ものあいだ王に従って戦い続けてきたサヴァラ家の当主……アシエル・サヴァラの功績には到底、及ばないだろうが、これは私にしかできないことだ。
それに……と、老司祭は昨日の祝宴のようすを思い出しながら、嘆息(たんそく)した。
神も罰をくだされることはなかろう。
新郎新婦が「神に誓った」この誓約を守ることは、疑いないと……司祭は確信していた。
司祭は痛む腰を庇いつつ、ゆっくりとした動作で教会堂の外へ、黄金輝石が敷き詰められ、村人たちが騒いでいる広場へと足を向けた。
今日の式が、異例のことではありながら、新郎新婦が不在のまま執り行われることを告げるために。
*
そののち、村は長く、平穏な日々を享受した。
まわりの村が飢饉に見舞われたときでも、その村の実りはほどほどにあり、食べるのには困らなかった。
西班牙と仏蘭西のはざまで、近隣のナバラ王国が引き裂かれるように両国に
この村に近づこうとする軍隊はみな、不幸な山の事故に遭ったり、疫病に
村の者たちはことごとに、村からまだ山を登ったところにある古い城に住む者たちに感謝を捧げ、歳越えの祭りには、この一年の平穏に対する感謝とその平穏が翌年も続くことを、城の
とはいえ、王とその家人が村人の前に姿を現すことはほとんどなかった。
ただ、羊飼いや農夫が、一日の仕事を終え、日が暮れたあとの家路を急いでいると、遙かな草原に遊ぶ、純白の毛並みが月光に輝く金色の蹄を持つ雄山羊と、その背に乗る娘の姿を見かけることがあった。
あるいは力強く天を舞う一羽の鷹を見かけた薬草摘みの娘が、その鷹が美しく精悍な青年に変じるところを垣間見、誘惑されることも。
いずれにせよ、彼らと出会った者たちは、夢見心地のひとときと、控えめに残された牙のあと、数日続く貧血を覚えることになったが、代々の村の司祭は「まあ、たいしたことはなかろうよ」と、問題にしないのがつねだった。
やがて近代化の足音がピレネーの峰にも響きはじめ、平穏よりも都会の便利さを求めて村人たちは、ある者は西班牙領へ、ある者は仏蘭西領へと、山を下りていった。
しかし、村の崩れかけた教会堂で、最後まで村に残っていた司祭が息を引き取るまで、村は平穏であり続けた。
そう……「わたしは汝らが真に望む限り、未来永劫、汝らを護る」と、ガルシア・アリスタが誓った、その言葉のとおりに。
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