第36話 祝祭
胸を
それどころか、ますます胸のつかえは増すばかりだ。
彼の気鬱の原因は、彼の末の娘がいなくなってしまったことだった。
知人に騙され家業が傾き、持参金が用意できなくなってしまったばかりに、修道院へ遣った娘。
だが、その修道院では修道士と女院長が男女の関係を結び、修道院の娘たちに口にするのもおぞましい不徳を強要していたのだという。
罪を犯した娘たちはべつの修道院へ遣られ、それ以外の娘たちはひとまず実家に戻された。
だが、マルコ・バルトリの娘、シルヴィアはそのどちらでもなく……ただ、「いなくなった」と告げられた。
修道院に「探してくれ」と頼み込んでも梨の
マルコもまた、彼女が行きそうなところを
ただ、
商売で儲けが出れば「この金があのときあったなら」と娘を修道院に遣った自分を責め、店で立ち働いていれば、店の片隅で懸命に帳簿を眺めていた少女を、こころの平安を求めて教会に行けば、教会の学舎で「お父さんみたいな商人になるの!」と笑っていた娘を思い出しては涙ぐんだ。
もともと商人にはあまり向いていないと言われつつも家業を継いだ無口なシルヴィアの兄はますます無口に、気立てのよいシルヴィアの母は、あいかわらず気丈にそんな夫と息子を支えていたが、このところめっきり老け込んできたようだった。
五月なかばのある夜、いつものように疲れ果てるまで働き、倒れ込むように眠りについたマルコを起こす者がいた。
「新婦がお父上をお待ちかねですよ」と言い、寝室の扉を出るように差し招く。
高山の空を映したかのような澄んだ蒼い瞳と、ゆるく波打つ黒髪。
貴人の衣装を
……これは夢なのだ。
娘のことばかり考えてしまう自分の弱さがみせた夢に違いないのだ。
だが、夢でなにが悪い。
夢でもシルヴィアに逢えるのなら、一言でいい、自分の過ちを詫びることができるのなら。
マルコは青年の手を取った。
夢のなかの青年の手は、夜の夢がそうであるように、ひやりと冷たかった。
*
高原の夜は五月もなかばとはいえ、かなり冷える。
夜とはいえ、いまの気候はそんなに寒くないはず……と、威尼斯にいるつもりのマルコは、吹き渡る夜風の冷たさに思わず、肩を抱いた。
そのマルコの背に、掛けられた上着。
上等の羅紗でできたそれには、とりどりの刺繍糸で刺繍が施されている。
上着を掛けてくれた見ず知らずの娘に礼を言うが、娘はきょとんとしていた。
あらためてくるりと周囲を見渡す。
寝室の扉をくぐっただけのはずだったが、周囲の光景は一変していた。
どこかの村の教会堂の広場。
若い頃はそれなりに交易船に乗って修行したマルコだったが、この村の記憶はない。
粗末な
高価な胡椒や丁子がふんだんに使われていると
気がつけば、宴席にはすでに肉も酒も存分に飲み食いし、すっかりできあがった村人たちが集っている。
みな、上機嫌でなにかを語り合っているが、マルコには意味が分からなかった。
異国の言葉なのだろうが……
そう……これは夢なので仕方がない。
赤ら顔の男に手を引かれ、押し込まれるように座らされた席は、村人たちの席より一段高い。
そして、マルコとおなじように、寝間着姿のまま、寝ぼけ
そういえばさきほど青年に起こされたとき、寝台のとなりに妻の姿がなかった気がするが……なるほど、先に来ていたのか、と、妙に細かいところで辻褄の合っている夢に感心する。
ふたたびきょろきょろと周囲を見回せば、マルコの座っている席の向かって反対側には夢の青年が座っていて、酒を注ぎにきたらしい村娘になにごとかを囁いている。
どうやら夢の青年はこの村の言葉を知っているらしかった。
マルコの前にも酒が用意され、祝いの膳にも食欲をそそる香りのする肉料理や焼きたての
恐る恐る酒を飲むと、こんな鄙びた村には似つかわしくない上等の葡萄酒の味がした。
つづいて肉料理を口に運ぶ。
香ばしく焼いた豚皮、胡椒の薫り高い鶏肉には丹念に干し葡萄が詰めてあって、美味だった。
どこからどこまでもよくできた夢だと感心していると、年老いた司祭らしい男が声を張り上げ、なにかを告げる。
と、村人たちは一斉に立ち上がった。
広場の入り口、宴席からすこし離れた場所に停められた馬車から姿を現したのは……マルコの娘だった。
蜂蜜色の髪を大人っぽく結い上げて、
髪を結い上げているせいで、首飾りとおなじ宝石を加工して作った異国風の飾りが耳に揺れているのがよく見える。
そしてマルコの娘は、威尼斯貴族のような裾の長い黒の
青年の纏う外套の裾には金糸と銀糸で刺繍が施されており、外套の留め具は手のひらほどもある金細工。
留め具の意匠は前足を上げて
マルコは胸がいっぱいになった。
そして祈らずにはいられなかった。
ほんのひとときでも、この夢が長く続くことを。
と、シルヴィアがマルコの姿を目に留めた。
花嫁衣装の裾を
思わず立ち上がり、前へ踏み出したマルコの胸にシルヴィアが飛び込む。
「父さん、心配させてごめんなさい」
涙ぐんで謝る娘の身体は緊張のせいかすこし冷たく、顔色は白粉のせいでもなかろうがずいぶんと血の気がない。
それが愛おしくてマルコは娘の背を撫でさすりながら、
「おまえは悪くない。わしこそ、おまえに謝りたいことがたくさんある」
そう繰り返した。
やがて、花婿が追いつき、家族との再会を喜び合う花嫁の肩を抱き、マルコの手を取った。
「お初にお目にかかります。わたしの名はガルシア・アリスタ。貴殿の娘御、シルヴィア嬢をこころより愛し、妻に迎えたいと願う者です。事情により、挨拶が遅れてしまいましたが、この婚姻を是非ともお許しくださいますよう」
祝宴の盛大さをはじめ、新郎新婦の身なりから推測するに、おそらくはマルコより財産も身分もある青年の丁重を極めた願い出に、文句のあろうはずもない。
だが、娘の行く末を案ずる親として訊いておくべきだろうと、マルコはひとつ、ガルシアに問うた。
「アリスタ殿は相当の身分をお持ちの方とお見受けしますが……。こちらはうだつのあがらぬ
ガルシアはマルコの不安に首を横に振った。
「けっして」
老いて節の目立つようになったマルコの手を、親しみを込めて両の手で包み、「けっして」と繰り返す。
「わたしは、みずからの不徳によって国を失った王です。いまのわたしには、多少の財産の持ち合わせはありますが、身分はありません。親族もいまは従弟がひとりいるばかりで、彼女を悪く思う者はおりません。そして、できる限り平穏に暮らすことを望んでおります。そしてその穏やかな暮らしには、どうしてもシルヴィア嬢が必要なのです」
ガルシアの言葉には、マルコが満足できるに足るだけの真情が籠もっていた。
……これはどうせ、夢なのだ。
そう……なにもかもが自分の思い通りになる……
マルコは鷹揚に承諾し、「こちらこそ、ふつつかな娘ですが、末永く娘を頼みます」と新郎に頭を下げた。
村娘のひとりが、
蜘蛛の糸のように細く紡がれ、輝くような純白の綿糸で編まれた威尼斯の透かし編み。
拡げればひとつの辺が両腕を伸ばしたくらいの長さのある正方形のそれを、花嫁の母は、なんどもなんども愛おしげに娘の頭を、頬を、肩を撫でながら娘に被せた。
新婦の親の承諾を得て、新郎新婦が、マルコのいる場所よりもう一段上の、宴席のいちばん上の台にのぼった。
古びてはいたがそれなりにしっかりした作りの椅子にふたり並んで腰掛けるそのさまは、ふたりの身に纏う衣装の華麗さとあいまって、さながら王と王妃のように見える。
新郎が村人に対してなにかを告げ、その声に応えて村人たちが湧き上がった。
一斉に自分たちの持つ
いったいなにを告げたのか……嗚咽する者、
涙に濡れる者たちの顔にも、喜色が溢れている。
花婿が花嫁を立たせ、顔にかかった
ふたたび湧き上がる喝采。
宴が華やぎを増して再開された。
大人とおなじ意匠の衣装に身を包んだ少年少女たちが歌と踊りを披露した。
伴奏は粗末な打楽器と草笛、そして手拍子だけだったが、歌も踊りも音楽も、素朴ではあったがどれも素晴らしい。
ほどなくマルコとその妻、シルヴィアの兄は、次々に雛壇に登ってくる村人たちにもみくちゃにされた。
手を取られ、肩を叩かれ、何杯も乾杯の杯を交わす。
「ソリオナク!」
と、口々に掛けられる言葉の意味はさっぱり分からないが、祝福されていることだけは間違いないようだ。
やがて新郎新婦が手を取り合って退席した。
しばらく経って戻ってきたふたりの衣装は、村人たちが着ているものによく似ている。
青年の着ているものは、羅紗の生地の風合いそのままの中着にズボン、紺青に染められた羅紗のベストとおなじ色のサッシュベルト。
頭には春の若葉を編んで作った冠。
娘は花婿とよく似た中着にくるぶしまであるスカート、紺青のベスト。
刺繍糸を編んで作った組紐の髪飾りに春の野の花の花冠といった出で立ちだ。
透かし編みの肩掛けだけが、娘の故郷、威尼斯のものだ。
上手く作られているが、さきほどの
市場で取引される高級品を見慣れたマルコの見るところ、おそらくは娘の手作りであろうと思われた。
ふたりの衣装はどちらも、色とりどり、たくさんの刺繍で飾られている。
村人たちがふたりのために用意した衣装だと思われた。
最初に着ていた衣装と、その値はくらべようもない。
けれど、刺繍のひと針ひと針、衣装に込められた新郎新婦のこれからの幸福を願う気持ちはけっして劣るものではない。
いつのまにか新郎新婦と似た衣装に着替えていた夢の青年が、雛壇のすぐそばの地面に立っていた。
新郎と違うのは、腰に二本、
手首と腰に揺れる金銀の鈴。
さきほど夢の青年となにごとか話し込んでいた村の娘が、おもむろに青年のかたわらに立って謡いだした。
マルコの知らない言葉。
聞いたことのない異国の謡。
『勇敢な雄山羊のウレスコサパタ
ピレネーの峰を疾風の如く
駆ける姿は天翔る星の如く』
夢の青年は娘の謡に合わせて踊り出す。
曲刀を引き抜き頭に掲げ、足を高く蹴上げるその姿は、雄山羊のようだ。
青年の動きに合わせて、涼やかな鈴の
『美しい雄山羊のウレスコサパタ
その毛並みは峰を飾る初雪の如く
その足には金の靴を履く』
謡の意味は、マルコにはまるで分からない。
懐かしいようでいて、耳慣れない旋律。
『恐れを知らぬ雄山羊のウレスコサパタ
天に輝く陽を目指し征く
火の輝きに魅せられたかの如く』
だが、言葉の意味など分からなくても、構わない。
青年の踊りが謡の意味を雄弁に語っている。
美しい山々を疾駆する気高い一頭の雄山羊。
雄山羊は思うさま、故郷の峰を駆け巡り、やがて、天を目指すのだ。
『天を駆ける雄山羊のウレスコサパタ
ピレネーの
青年が助走を付け、軽やかに跳躍し、隣で謡う娘の頭を飛び越した。
宴席の村人たちが湧き上がる。
そして感極まった村人たちは立ち上がり、女たちは謡を、踊りに自信のある男たちは夢の青年に合わせて踊りを、それ以外の男たちは手拍子をはじめる。
『誇り高き雄山羊のウレスコサパタ
夜、駆け上がる姿は獲物追う鷹の如く
昼、疾駆する姿は
踊る男たちはだれもかれも、完璧な足裁きで雄山羊を演じ、ある者は古びた剣を、ある者は木切れを剣に見立てて打ち合った。
むろん、最初から踊る夢の青年の技量には、だれも追いつけない。
ほかの者が下手なのではけっしてない。
だれもかれも、マルコがこれまで見たこともないような巧みな身のこなしと拍子取りで雄山羊を演じている。
だが、それでも黒髪の青年の跳躍する高さ、身体の切れは……別格だとしか表現しようがない。
『輝かしき雄山羊のウレスコサパタ
疲れを知らぬ蹄はいましも陽に届く
太陽のかけらを囓りとり、金の蹄で夜を裂く』
花婿が静かに立ち上がった。
『いや栄えあれ雄山羊のウレスコサパタ
勇者の血潮、陽の吐息、すべて我らが富と福』
ひときわ、
その隣で花嫁が軽やかな笑いとともに手拍子をし、雛壇のしたで夢の青年が力強く大地を蹴り上げていた。
『とこしえにあれ雄山羊のウレスコサパタ
花婿の謡に村人はみな、涙していた。
マルコのかたわらにはいつのまにか娘が立っていて、広場の端へと手招きした。
マルコとその家族はシルヴィアの手招くままに、雛壇を降りた。
先へ進む娘の手招く方には、開いたままになっている扉がある。
「おまえにはいつもつらい思いをさせたな」
娘に駆け寄り、その手を取ってマルコがぽつりと言った。
後悔なのか歓喜なのか、自分でも分からない感情の溢れるままに涙ぐみ、強く娘の手を握る。
娘の手は、婚姻の宴の盛り上がりには似つかわしくないほど、ひんやりとしていた。
それがマルコには、いずことも知れぬ異国の地にひとりで嫁ぐ、娘の心細さを表しているようにも思えて、胸が詰まった。
「そうでもないわよ、父さん」
困ったように娘が応えた。
「わたしはいまとっても幸せで、これから頑張ってもっと幸せになるつもりよ。もちろん、父さんと居た頃だって、不仕合わせだと思ったことなんてなかったわ。『神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者のためには、
新約聖書、『
神は、神を愛する者たち、すなわちみずからのお考えによって召された者たちとともにこの世のすべてのことを関係させ、かつ、今を生きるひとびとの魂の糧となるように差配してくれているのだと、聖書は言う。
「わたしがガルシアさんと逢ったのは、言わば『天の配剤』なのよ、きっと。だから、父さんにも母さんにも、これからはなかなか会えなくなってしまうけど、悲しまないでね?」
見慣れたシルヴィアの気安い笑顔。
マルコの目に涙が溢れて頬を伝った。
シルヴィアの母は人目も気にせずに嗚咽し、シルヴィアの兄は「身体に気をつけて」とシルヴィアの肩を叩いた。
そして「おまえにはもったいないくらいのいい婿君じゃないか」と、掠れた声で呟いて、いつもは無愛想な口許に、微かに笑みを浮かべた。
*
マルコは朝、ひさしぶりにすがすがしさを感じつつ目を覚ました。
善い夢を見たのだ。
行方知れずの娘が、立派な青年と結婚した夢。
あれがほんとうだったなら……と、昨日見た夢に思いを馳せつつ寝台を抜け出すと、足許がざりざりする。
見れば、足が泥だらけだった。
どうしたことかと辺りを見回せば、寝台のうえに上着が投げ出されていた。
マルコのものではない。
染めない羅紗布を肩に羽織るだけの、威尼斯ではあまり見かけない上着。
裾に、山羊や羊、鷹や雲雀……動物の刺繍が施してある。
隣に寝ている妻を揺り起こすと、泣きはらした顔の妻が、上着を羽織ったまま寝入っていた。
ほどなく、マルコの息子が血相を変えて父の部屋に駆け込んできた。
三人とも、昨日の夜、おなじ夢をみて、夢で貰ったものを持ち帰ってきていた。
では、あれは夢ではなく現実だったのだろうか?
あの夢の場所はどこで、自分たちはどうやって辿り着いたのか?
だれも答えられなかった。
だが、それでもいいのだ。
娘も言っていたではないか。
すべては『天の配剤』なのだ。
娘はきっと……この世界のどこかで、あの美しく立派な花婿と一緒に、幸せに暮らしている。
その夜以来、威尼斯商人マルコ・バルトリとその家族は、こころ穏やかに家業に励み、シルヴィアの父はこの十年後、シルヴィアの母は十二年後に天に召された。
シルヴィアの兄は多少の財産を、シルヴィアの夢を見た一年後に
三人とも、いつも、揃いの古ぼけた上着を身につけていた。
ほつれができれば丁寧に繕い、大切に、大切に着続けた。
すこし生活に余裕ができ、召使いを数名、雇うことができるようになった後でさえ、この上着だけはひと任せにせず、かならずシルヴィアの母が洗ったという。
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