川中島合戦(6) 瀬沢の戦い

 

 ・1547年(貞吉五年) 八月  信濃国諏訪郡 堺川西岸  六角定頼



 堺川の西岸、空き屋となっていた百姓家に座り、将棋盤に向かっている。対面に座るのは新助(進藤貞治)だ。

 将棋はあまり好きではないと言っていた新助だが、近頃は多少付き合ってくれるようになった。藤十郎(蒲生定秀)も最初は下手だったが、新助は藤十郎に輪をかけて下手っぴだ。

 まあ、新助は将棋よりも囲碁の方を好んでいるから無理もない。将棋と囲碁では、使う頭が違うからなぁ。


 ふと外に目を向けると、周囲を固める警護兵の兜が陽光を反射して輝いている。その頭上はるか遠くには、乙事ヶ原を望む小高い丘に置かれた陣所に俺の本陣を示す旗が翻っているのが見える。

 既に日は中天に差し掛かり、強い日差しを受けて家の中が随分と暗く感じた。

 耳を澄ませば、瀬沢の辺りから敵味方の鬨の声が聞こえる。今頃は、次郎(大原頼保)の尾張軍も押し出している頃合いか。


「武田は動いたと思うか?」

「左様……」


 何か答えを考える風を装いながら、その実将棋盤から目を離さない新助が少し可笑しい。

 いくら考えても、次の一手で王手飛車取りになるのは変えられんのに。


「……動くでしょうな。動かざるを得ぬはず」


 俺の質問に答えつつ、新助が玉の守りに一手を割く。

 だが、ここに角を打てば……。


「ほれ」

「あ! むぅ……」

「動いても動かなくても同じだ。王手飛車取りは変わらん」


 少し考え込んでいた新助だが、やがて諦めたように頭を振った。


「参りました。投了にござる」

「はっはっは。まだまだだな」




 ・1547年(貞吉五年) 八月  甲斐国巨摩郡 乙事ヶ原  武田晴信



「何だと!? もう一度申せ!」

「ハ……ハハッ! 乙事ヶ原に陣する六角本陣はもぬけの殻にございます! 六角定頼は川を渡っておりませぬ!」


 ば、馬鹿な! 定頼の本陣は確かに川を渡ったはず。何人もの物見がそう報せて来たではないか!

 キツネにでも化かされているのではないのか?


「間違いないのか!?」

「ハッ! こちらに敵は居りませぬ! 旗と陣幕のみにございます!」


 事実なのだと認識すると同時に、目の前が暗くなったような気がする。南の瀬沢から戦の音が風に乗って微かに聞こえてくる。

 既に勘助の別手も登矢ヶ峰から押し出しているはず。この儂の動きが仕組まれていたものだとすれば……


「い、いかん! 諮られたぞ!」


 迂闊だった。後ろに回り込まれる恐怖から判断を誤ったか。

 これでは、瀬沢の陣から無益に六千の兵を引き抜いただけだ。これでは……これでは、勘助と兵部(飯富虎昌)をいたずらに死地に送っただけではないか!


「急ぎ軍勢を返すぞ! 瀬沢の兵部の元に駆けよ!」

「しかし、今から引き返したとて戻る頃には日暮れ近くになりましょう。当初の見込みが外れたとはいえ、六角定頼の本陣は堺川の西岸に在るはず。今ならばこちらから川を渡って戦を仕掛けることも出来ましょうぞ」

「たわけ! 敵の狙いは儂を釣りだすことにあったのだ! こちらが攻めかかっても相手は戦に応じず、時を稼がれるだけで終わるぞ!」


 一つ俯いた美濃守(原虎胤)が馬首を返して転進を指示する。

 ……ええい、遅い。


 辛抱堪らず儂自ら陣頭に馬を走らせた。


「全軍我に続け! 瀬沢の陣に戻るぞ!」


 馬の腹を何度も蹴り、ギリギリまで攻め立てる。馬も疲れていようが、今は一刻も早く戻らねば。

 時を忘れて馬を走らせていると、前方から三騎の使番が駆けよって来た。


 まさか……。


「申し上げます! 横吹の戦にてお味方敗走! 山本勘助殿はお討死との由!」

「兵部は!? 本陣はどうなった!」

「飯富様は瀬沢にて踏み止まり、典厩様(武田信繁)をお逃がしする時を稼ぐと仰せです! 御屋形様にもここはお退き下さいますようにとの由にございます!」 


 兵部……

 儂は……儂は……


「お退き下され」

「美濃(原虎胤)……」

「兵部殿は、残った六千の兵をこれ以上損なわぬようにと仰せなのです。せめて残ったこの手勢を保ち、府中へと退きましょう」

「し、しかし……」

「戦機は去りました。これ以上の逡巡は無用。殿しんがりは某が仕る。さ、お早く」


 くっ……これまでか……


「引き上げだ!」




 ・1547年(貞吉五年) 八月  甲斐国巨摩郡 乙事ヶ原  六角定頼



 武田の撤退を見届けた後、陣所を乙事ヶ原に移した。

 もうすっかり夜も更け、辺りには兵達の炊事の焚火があちこちで燃えている。


「父上! お見事な戦ぶりにございました!」


 陣幕を上げ、次郎(大原頼保)が勢いよく入って来た。武田信虎も一緒だ。


「おお、次郎。お主もよく戦ったと聞いたぞ」

「私は何も……軍奉行の柴田勝家が飯富兵部少輔を討ち取ってございます」

「配下の手柄は将の手柄でもある。柴田にはお主からしっかりと褒美を遣わせてやれ」

「では、恐れながら父上より柴田へ感状を賜りたく存じます」


 ……ほう?

 後ろに控える滝川資清に視線を投げると、無言で頭を下げた。

 なるほど。次郎が配下に感状を賜りたいなどと言うからどうしたことかと思ったが、資清の入れ知恵か。

 西国攻めの間、尾張軍には長い睨み合いを強いた。その分も含めて、ということだな。


「分かった。書こう。他にも武功を上げた者を申すが良い。各々の武功に応じ、褒美を遣わそう」

「ありがとうございまする!」


 一年耐えた上での勝ち戦でテンションが上がっているな。

 まあ、今はそれでいい。


 続いて信虎に視線を向けると、こちらは対照的に神妙な顔をしている。


「陸奥守(武田信虎)もご苦労であった。そなたの働きが無ければ、この戦は今少し長引いていたかもしれん」

「恐れ入りまする。出陣前の願いの儀、改めてお願い申し上げます」

「分かっている。そなたの働きに免じ、太郎(武田晴信)の一命は助けると約束しよう」


 信虎の顔に安堵の色が広がる。

 晴信は瀬沢に出て来た。それは、父・信虎の首級を上げる為だと思う。対する信虎の方は、晴信を殺さないでくれと頼み込んで来た。

 親の心子知らずとは、まさにこの事だ。


 府中に引き上げた武田には、もはや抵抗できる力は無い。

 頼みの岩殿山城は、都留郡で蜂起した小山田信有が攻めかかる構えを見せている。今更岩殿山城に籠るなんてことは出来ないはずだ。

 府中の民衆には既に伴伝次郎の手が伸びているし、武田晴信に逃げ場はない。

 だが、まだ北信濃の戦次第では生き残る目もある。飛車落ちしたとはいえ、未だ『詰み』までは行っていないのが現状だ。


 ならば……


「ただし、陸奥守は急ぎ甲斐の国人らと連絡つなぎをつけよ。太郎が思い余って腹を切らぬうちに降伏を勧めさせるのだ」

「……ハッ!」


 さて、武田が想定外に早く片付いた。

 宇佐美は焦るだろうな。


 だが、武田の降伏を見届けるまではこちらも下手に兵を動かせん。睨み合っている間ならまだしも、ひとたび戦を始めてしまえば、何らかの決着を付けなければならん。


 目に見えて包囲が崩れたことで、長尾が慎重になってくれれば儲けものだが……。


 三好はそろそろ妻女山に布陣した頃合いかな?


 間に合えばいいが……。




 ・1547年(貞吉五年) 八月  信濃国水内郡 善光寺  長尾景虎



 駿州(宇佐美定満)から小さな紙片を受け取り、素早く目を走らせ、一つため息を漏らす。


「甲斐が落ちたな……」

「いえ。武田は瀬沢から引いただけだと申しております」

「半数以上の兵に加え、柱石たる飯富兵部少輔を失った上で、か?」

「……」


 いくら言い訳しようとも武田の負けは変わらぬ。

 武田晴信は六角定頼に敗れたのだ。我が方の策と諸共にな。


 ……だが、不思議と悔しさはない。

 定頼が甲斐に向かったと聞いた時、何故か残念な思いがした。定頼と戦う武田を心の底で羨んだ。

 そして、定頼が負けなかったことをどこかで喜んでもいる。


 定頼と一戦交えるまでは、この心が落ち着くことは無いだろう。


「では、参るか」

「ど、どちらへ?」

「知れたこと。犀川を渡り、八幡原の六角勢を蹴散らすのだ」

「し、しかし……」

「情けない顔をするな。かくなる上は、六角賢頼を踏みつぶし、斎藤利政を打ち砕き、六角定頼の本陣まで進むしかあるまい」

「……ハッ!」


 これより戦場に赴くと決めた途端、心がストンと落ち着いた。

 なんだ。最初からこうすれば良かったのだな。


 そうと決まれば、公方様(足利義輝)に拝謁しよう。戦に勝つまでは二度と戻らぬ。


 立ち上がろうとした時、俄かに周囲が騒がしくなった。

 見れば、廊下の向こうから公方様が渡って来られる。幕臣方が慌てたように周りを囲んでいるが、公方様は意に介さず真っすぐこちらに向かっておいでだ。


 駿州と二人で膝を着くと、やがて頭上から公方様のお声が聞こえた。


「武田が負けたそうだな」

「ハッ! 我が方の策は破れました。面目次第もございません」

「弾正(長尾景虎)のせいではあるまい。して、これからどうする? 再び越後へ引き上げるのか?」

「いいえ。我ら長尾はこれより八幡原に陣する六角を蹴散らし、甲斐の六角定頼本陣を目指す所存」

「そうか」


 常と違い、なにやらお声に決意めいた物を感じて顔を上げた。


「余も出るぞ。六角を討つは父より託されし悲願。ここで手をこまねいて見ていることなど、出来ぬ」


 周囲は一気に騒がしくなったが、公方様のお顔はシンと静まっておられる。

 日の光を背にした公方様のお顔は、どこか輝いて見える。まるで御身に御仏が宿り、後光が差しているが如くだ。


 この公方様の御覚悟があらば、例え鬼神といえどもこれを避くに違いあるまい。


「露払いを仕りまする」



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江雲記―六角定頼に転生した舐めプ男の生涯― 藤瀬 慶久 @fujiseyoshihisa

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