川中島合戦(5) 八幡原布陣

 


 ・1547年(貞吉五年) 八月  信濃国更級郡  滝川一益



 急流で知られる千曲川だが、今は穏やかな流れを湛えている。

 逃げる村上勢の背を追ってここまで来たが、どうやら犀川の北、善光寺へと逃げ込まれたようだな。


「佐渡守(村上義清)を逃がしたか……」

「茶臼山にも敵の旗が見えます。犀川を越えて進めば、足利の本軍に当たるは必定ですぞ」


 馬上の赤尾美作(赤尾清綱)が古強者らしい顔つきで視線を配る。

 確かに、追撃はここまでにした方がよさそうだな。


「茶臼山か……厄介だな」

「左様ですな。うかうかと犀川を渡れば、背後を突かれる。かといって茶臼山の敵に攻めかかれば、足利の本軍が川を渡って参りましょう。

 一旦ここに陣を張りますかな?」


 美作め、試しているのか。若輩の身で畿内の鎮台軍を率いる儂の眼を試している。

 どうすべきか、美作ほどの者が分からぬはずはなかろうに、な。


「……千曲川の南、海津に陣を敷く。茶臼山と善光寺の敵勢が反撃に出た場合、八幡原では挟撃に遭うだけだ。千曲川を防備として、後続の到着を待つ」

「ハッ!」


 陣の設営までは敵の夜襲を警戒せねばならんな。

 だが、こちらにも後続があることは敵も分かっていよう。うかうかと仕掛けて来られぬのは向こうも同じ。

 ここでまた、睨み合いか。


 一番組の徒歩兵が仮の陣所の設営にかかり、辺りは少し騒然となる。

 まずは周囲の村落へ使いを出そう。元よりわが軍は一切の略奪を禁じられているが、禁制を欲しがる村も多かろうし、当面の兵糧も買い付けられるか調べておくべきだ。


 春先から始まった戦が、既に秋に差し掛かろうとしている。

 さすがに冬までここで過ごすことはあるまいが……。


 しばらく川と山を眺めていると、陣所の設営の指図に行った美作が戻ってきた。


「お奉行……いや、侍大将殿」

「どうした? 何か問題でも起こったか?」

「それが……土地の百姓数名が、この軍勢の御大将にこれをお届けするよう仰せつかったと申しておりまして」


 見れば、美作の手には小さな紙片が握られている。

 密書か。だが、一体誰からだ?


「内容は?」

「それが、どうにも信じかねる内容でして……」


 ふむ……?


「見せよ」


 紙片を受け取ると、びっしりと小さく文字が認められている。

 ふむふむ……これは……。


「葛尾城に使いを出せ。この紙片を御本所様(六角賢頼)に急ぎお届けするのだ」

「承知しました。百姓へはどのように?」

「委細承知した。報せは本陣へ届ける故、返事は数日の後になる、とそう伝えろ。百姓どもに褒美の品を持たせるのを忘れるな」

「ハッ!」

「それと、陣所を変更する。千曲川は渡らず、八幡原に陣を敷く」

「畏まってござる」




 ・1547年(貞吉五年) 八月  信濃国諏訪郡 諏訪社本陣 六角定頼



 葛尾城の賢頼から本陣を八幡原に移すと文が来た。

 半ば運任せだったが、どうやらこちらの手が上手くハマってくれたようだ。


「順調のようですな」

「ああ。左近将監(滝川一益)に予め教えておかなかったのは本所(六角賢頼)の手落ちだがな。まあ、左近も馬鹿じゃあない。何も言わずとも無闇に戦を仕掛けるようなことはしなかっただろうが……」

「とはいえ、一つ間違えれば策を潰す恐れもありました。宇喜多は頭の良い若者ですが、本人の勘働きの良さ故か、いささか他人に話を通すことを疎かにしがちな所がある」

「……うん。新助(進藤貞治)からもそこのところを教示してやってくれ」


 隣の進藤が軽く頭を下げる。

 客観的に見て賢頼と宇喜多直家のコンビは悪くないんだが、今の側仕え程度ならともかく、本格的に副将格を務めるとなれば諸将との意思疎通は円滑にしとかにゃならん。

 要はコミュニケーション不足だ。そういう所が『弟からも恐れられた』と言われる原因なんだろうなぁ。


 まあ、逆に言えば、それだけ宇喜多が頭のいい男だということでもある。宇喜多にすれば、必要なコミュニケーションは取っているつもりなんだろう。

 もうちっと人の間で苦労をすれば、自然と理解できることだとは思うんだが……。


「ま、ともあれこれで越後は任せてしまえるな」

「あとは武田ですな。本所様は武田は放っておいても立ち枯れるとお考えのようですが……」


 視線を目の前の絵図面に落とす。

 巨摩郡に散らしてあった黒石が瀬沢に集められている。どう考えてもあっちはヤル気だなぁ。


「そうもいかんだろう。ここまで来て陸奥守を見捨てるわけにもいかん」


 諏訪から出陣する時の信虎の姿が脳裏に浮かぶ。

 つくづく父親ってのは悲しい生き物だよな。


「では……」

「うむ。俺も陣を動かす。武田の間者の耳にも聞こえるよう、大々的に出陣の触れを出せ」

「陸奥守殿、次郎様(大原頼保)には、使者を遣わしておきまする」

「よろしく頼む。さっさとここを終わらせて九州にも兵を出さねばならん」


 言ってしまってから思わず口を手で覆った。

 やはりと言うべきか、『九州』という単語を聞いた瞬間新助の眉間に皺が寄る。


「何度も申し上げておりますが、あまりにお急ぎになっては却って仕損じましょう。今は目の前の戦のことだけを御思案くだされ」

「分かった分かった。その話はまた今度聞く」


 まったく、この年になってもまだ新助に小言を言われねばならん。

 コイツもいい加減のんびりすればいいのに……。


「大本所様が近江でごゆっくりなされれば、某もかように口うるさいことを言わずに済みまする」


 まるで心の声が聞こえていたかのような新助の言葉に思わずぎょっとしていると、新助がいつもの仏頂面で続けた。


「お顔を見ればそれくらい分かり申す。いい加減、某も承亀様(六角定頼)のお守りから解放されたいもので」

「う、うるさい! いいから出陣の支度にかかれ! ほれ、急げ!」

「……やれやれ、でございますな」


 チクリと嫌味を言って腰を上げる。

 こういうとこは昔から変わらんな。まったく……。




 ・1547年(貞吉五年) 八月  信濃国諏訪郡 瀬沢本陣  武田晴信



「何!? 六角定頼が!?」

「ハッ!」


 物見の報せに儂の隣に居る兵部(飯富虎昌)も驚いた顔を隠せないでいる。

 想定外だ。まさか定頼の本陣が動くとは……。しかも、我が甲斐に向けて……。


「越後の足利はどうした!? まだ六角を破ったという報せは来ぬのか!?」

「未だ……。善光寺平にて兵を整え、八幡原に布陣する六角賢頼勢と合戦をすると申して来たきりでございます」


 うむむ……。

 間もなく武田信虎と戦を始めようかというこの時に……。


「定頼本陣の兵数はいかほどか?」

「その数おおよそ三千程。大原勢には加わらず、堺川(立場川)の上流を渡って乙事ヶ原を通り、我らの背後に回る物と思われます」

「三千……? たったの?」

「ハッ! 旗の数も少なく、多くても五千を超えぬかと」


 たったの三千……。

 油断か? それとも、罠か……。


「兵部。どう思う?」


 ……


 さすがの兵部も虚空を見つめたきり口を開かぬか。


 ……どうする?

 定頼の本陣を捨て置けば、我らの退路を断ちに来るは明白。例え信虎を討ち取ったとしても、次は尾張次郎(大原頼保)が押し出して来よう。そうなれば、我らは逃げ道を失う。


 勘助の別手を呼び戻し、ひとまず退がって陣を整えるか?

 だが、退き戦になる。損害も馬鹿にならぬし、ここで退がれば府中まで押し込まれかねぬ。小淵沢では敵の大軍を止めきれんだろう。


 ……いや。この思考そのものが定頼の罠だ。

 後方を扼し、戦わずして退がらせることこそ彼奴の狙いだ。

 ならばいっそ、兵を返して定頼の本陣を討てば……。


 そうよ。本陣を討てばこの戦は終わる。定頼の本陣が壊滅すれば、逆に諏訪まで押し込むことも不可能ではない。六角賢頼の本軍は八幡原で釘付けだ。


 別手に五千を割いたとはいえ、我が手元には未だ八千の兵が残っている。

 三千の敵を下すことは、決して不可能ではない。

 やはり油断か。これぞまさしく千載一遇の好機!


「兵部。儂は打って出るぞ」

「別手は、いかが為されます? 今から呼び戻していては機を逸しまするぞ」

「別手はそのまま。ここを一千五百の兵で守らせ、別手と合わせて一日の時を稼ぐ。その一日の間に六角定頼を討つ」

「……」


 兵部は未だ肚が決まらぬか。


「何をしておる。お主は先陣として急ぎ堺川を渡れ」

「……いえ。某にはここの守りを仰せつけられたい。先陣は鬼美濃(原虎胤)に仰せつけられませ」


 鬼美濃か。確かに、その方が相応しいかもしれぬな。


「分かった。ここの守りは任せる。一日の時を稼げ」

「承知仕った」




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