川中島合戦(4) 足利出陣
・1547年(貞吉五年) 七月 越後国頚城郡 春日山城 宇佐美定満
”えい! えい! おおーー!!”
”えい! えい! おおーー!!”
ふぅ。何とか出陣まで漕ぎつけられたか。
まったく、御屋形様(長尾景虎)にも困ったものだ。
定頼が北信濃に出てくるまで待つなどと……。
確かに此度の戦は六角定頼を北信濃におびき出して討つが最上だが、さりとて村上を放っておくわけにもいかぬ。村上方の砥石城は、まさに今、六角勢に攻め立てられておるのだ。
葛尾に籠る村上佐渡守(村上義清)は一旦越後に下がらせることも出来ようが、砥石城の徳川はそうもいかぬ。
今更砥石城を救うことは難しいが、徳川を見捨てたと見做されれば関東のお味方も動揺しようし、厩橋城の味方が動かねば六角を討つことは叶わぬかもしれぬ。
何としても『徳川を救援する』と号して兵を信濃に進めねばならんのだ。
それに、今の六角の主力は定頼ではなく息の賢頼が率いておる。
定頼を討てずとも、賢頼を討って六角の主力を退ければ、戦の趨勢は大きくこちらに傾く。定頼を失えば六角家が大きく動揺することは間違いないが、それは定頼の後継者たる賢頼を討っても同じこと。
定頼は既に老齢にあり、後継者が大原次郎ではまだまだ庶人が頼りなしと思うは必定。
総大将が賢頼と言うのならば、賢頼を討てば良いのだ。
此度の戦、狙うは六角賢頼の首。
そのことを、ようやく御屋形様にもご納得頂けた。
……だが、此度のことでつくづく思い知った。
真に御屋形様の心中を満たしておるのは『六角定頼に挑み、これを越えたい』という欲求のみ。
他の事は全て雑事とすら思っておられるのやもしれぬ。
六角が出てくると聞いて関東出兵を早々に切り上げられたのも道理。御屋形様の目には、関東遠征などは全てが雑念と映っておられるのやもしれぬな。
危うきことだが、それ故に眩しくも映る。儂を含め、武士たる者の心中にはそうした欲求が眠っておるのも事実だ。
だが、御屋形様ほどにその想いに無邪気にはなれぬ。皆、守らねばならぬ家があり、家族が居り、家臣が居り、領民が居るのだ。
一途に己を貫く姿は確かに美しい……が、それだけでは人は動かぬことをご理解いただかねばならんな。
「駿州殿、駿州殿」
「む……おお、伯州殿(新発田綱貞)」
気が付けば伯州殿が馬を降り、怪訝な顔で儂を見ていた。
「いかがなされた? 何度か呼びかけたのだが……」
「いや、失礼をば。少し疲れが出たのかもしれません」
そう言って少し眉間を揉んだ。
いや、今のも失言だったか。関東からここまで、幾たびも戦を重ねてきた。疲れているのは儂だけではない。
「然もありなん。此度の戦で駿州殿は大層なお骨折りをされた。だが、今少し働いて頂かねばなりませんぞ」
幾分か労わるような顔で伯州殿が儂の二の腕を軽く叩いた。
どうやら失言とは受け取られなかったようだ。機嫌は損ねずに済んだか。
「お気遣い痛み入る。揚北の衆にも大変なご苦労をしていただいておること、感謝に堪えぬ。もうひと踏ん張り、お願い申し上げる」
伯州殿が大きく頷くと、再び馬の背に跨って胸を張った。
佐々木の一族でありながら、あくまでも我らと共に戦ってくれるのは心強い限りだ。
「では、我らは一足先に北信へと参る」
「御頼み申す。茶臼山に陣を張り、村上の撤退を援けて下されい」
「心得ておる。我ら揚北衆一同、ご本陣の到着までは何としても犀川を守り抜きましょうぞ」
互いに礼を交わすと、伯州殿がそのまま馬に跨って自軍へと戻って行った。
さて、我らも軍を進めるか。
・1547年(貞吉五年) 七月 信濃国小県郡 砥石城 石川清兼
日が暮れて寄せ手が陣を下げた。
どうやら、今日の戦もここまでのようだな。
城内の各所を見回っていると、あちこちでの地面に鍋が置かれ、煮炊きの煙が上がっている。
だが、その鍋を囲む兵らの顔は随分とくたびれてしまっている。
城内は既に怪我人で一杯となっており、動ける者は曲輪の各所で飯を食い、土の上で休まざるを得ない。
籠城を始めてから二月か……。
誰も彼もが疲れている。ここ数日は特に、寄せ手の攻勢が激しさを増すばかりだ。
葛尾城より後詰を出すと文が来てから既に一月が経つが、未だに援軍の気配は無い。このままでは遠からずこの城は落ちることになるだろう。
山の下では斎藤勢が同じく煮炊きをする煙が上がっている。
二年前の伊那郡の戦では斎藤も手痛い傷を負ったはずだ。あの時、もっと果敢に攻めていれば、今のこの苦境は無かったかもしれん。
だが、攻めきれなかった……。
敵本陣を攻める好機はあった。亡き三河守様(徳川清康)ならば、本陣に突撃して斎藤山城守(斎藤利政)の首級を挙げておられたやもしれぬ。だが、六角定頼はそうした三河守様の勇猛さを読み、逆に本陣に罠を張って待ち構えていた。
斎藤との戦でも桶狭間の敗戦が頭をよぎり、儂は果敢に前に出ようとする殿(徳川広忠)を押しとどめてしまった。
つくづく、儂は戦が下手なのであろうなぁ……。
「ここに居られましたか」
背後から声をかけられて振り向くと、孫十郎(榊原長政)が具足を鳴らしながら近づいて来る。
やがて手が届く距離まで近寄ると、声を潜めて言った。
「半蔵殿(服部保長)が戻られました。どうやら六角の本軍が北信へと進み、葛尾城を攻めているようにございます」
「何!? では、こちらへの援軍は……」
「難しいでしょう。越後から足利様の軍勢も北信に進んでおられるということですが、果たして間に合うかどうか……」
むむ……。
寄せ手の勢いが増したと思っていたが、まさか六角の本軍がこちらを無視して葛尾城を攻めるとは……。
「このこと、知っている者は?」
「殿と平八郎殿(本多忠高)、平右衛門殿(大久保忠員)、それに某でござる。殿より、急ぎ安芸守様(石川清兼)を呼んで参れと言われてお探し申し上げておりました」
「村上方の諸将には未だ知られておらぬのだな?」
「はい」
信濃の諸将に痛くもない腹を探られてはと思い、徳川旧臣だけで集まることは控えておったが、こうとなればそうも言っておれぬか。
「委細承知した。夜半に参上するとお伝えせよ」
「いえ、殿は今参れと仰せで――」
「今は人目に付きすぎる。場合によっては、密かに殿をお逃がしせねばならん。室賀、屋代らに見とがめられると厄介だ」
「……承知いたしました。左様に殿にお伝えいたします」
孫十郎が具足を鳴らしながら再び来た道を戻っていった。
……さて。
どのように殿に申し上げるべきであろう。
殿の御身を第一に思えば、ここは城を落ち延びた方が良い。
この城は保ってあと一月。一月の間に斎藤を追い払えなければ、城を枕に討死ということにもなりかねん。
だが、足利が……長尾景虎殿が六角を打ち破られれば、状況は一気に変わる。
その時殿が城を落ちて居れば、足利の中での再起も難しくなる。
最後まで砥石城に籠って戦った将が取り立てられるのは必定。諏訪を失い、今また城を落ち延びてしまえば、信濃にも徳川の拠って立つ地は無くなる。
難しい所だ……。
こうした時、三河守様ならばどう為されたであろうかなぁ……。
・1547年(貞吉五年) 七月 甲斐国巨摩郡 中山城 武田晴信
「何!? 兵部(飯富虎昌)、今一度申せ!」
「物見の報告によれば、諏訪上原城の内外には割菱紋の旗が多数はためいておるとのこと。恐らくは御父君、武田信虎様の旗印である、と」
不意に膝から力が抜け、床几に尻餅をつく。
よりにもよって父上を陣頭に立てるとは、六角定頼め……。
「いかが致しますか? 当初の策ではこちらは積極的に争わず、北信濃の成り行きを見守るとのことでしたが」
「……放ってはおけぬな。事が武田家中の内紛となれば、甲斐国内でも敵方になびく者らが出てくる恐れがある。父上の……武田信虎の首級だけは何としても挙げねばならぬ」
とはいえ、勝てるか?
相手は父上、大原次郎に加え、六角定頼の後詰もある。相手が城に籠ってしまえば、攻めて勝つのは至難の技だ。
何か良い手は無いものか……。
「やはり、野戦しかないかと存じまする」
「勘助、控えろ」
一歩進み出た山本勘助を兵部がたしなめる。
だが、今はどのような策でも聞いておきたい。
「良い。申してみよ」
「ハッ! されば、巨摩郡より討って出て瀬沢に陣を敷き、横吹にて野戦に及べば、兵数の不利は補えまする」
……ふむ。
……いや。
「確かに瀬沢は狭隘な地だ。大軍の利が活かしにくい場所ではある。
だが、単純に兵を討ち取るのみでは勝ちは覚束ぬ。尾張勢にいくばくかの損害を与えたとて、六角定頼が後詰を出せば兵員の補充は容易であろう。
ひと戦に勝ったところで、こちらの損害が多ければそれ以上の戦が出来ぬぞ」
「されば、瀬沢の登矢ヶ峰という山がござる。ここに兵を伏せれば、瀬沢、横吹の地は一望の元に見下ろせまする。各陣の様子も手に取るように分かりましょう。
瀬沢の地で御屋形様がご本陣を張り、そこに敵が攻めかかった機を見計らって登矢ヶ峰に伏せた決死隊が敵の後ろを突く。
名付けて”
……むう。
確かに父上の首級さえ挙げられれば、大原頼保や六角定頼などは放っておいても良い。
足利も北信濃に出陣しておるし、六角としてもこちらにばかり気を配ってはおれまい。足利との戦が長引けば、六角と和睦する目も出てくる。
父上が六角方に居る限り和睦など思いも寄らぬことだったが、父上さえ亡き者となれば、必ずしも六角と争う必要も無い。
そうとも、父上の首級さえ挙げてしまえば……。
「……よし。瀬沢まで陣を進める。皆に出陣の支度をさせよ」
「ハッ!」
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