長く、深い夜
平崎芥郎
長く、深い夜
夜が来た。日付が変わる午前零時。私は矢野詩織と一緒のホテルの一室に泊まっていた。というのも、高校時代の美術部仲間と、そしてその後もお酒を飲んだ結果、私も詩織も泥酔してしまった。終電を逃し、夜行バスの微妙な値段の高さに困惑し、その結果泊まることにした。しかし、こんなにも酔いが覚めるのが早いとは思わなかった。確かに、飲み会会場からホテルまでは少し寒いほどの涼しい風が吹いていたが、それで自分の酔いが覚めるとは思わなかった。
そして今、私は非常に眠れない。
「…………やばい。寝れんくなった」
「本当……?私すごく眠い……奈緒って、そういうとこあるよね……」
「そういうとこって?」
「えぇ……酔っているのに喋らせるの……?」
「それはお互いそうじゃんか」
「あぁ……そうだった……」
詩織の束ねていた長い髪が、酔っ払い特有のバランス感覚により揺れている。白い肌が間接照明に反射しながら垣間見ることが出来る。私はそれを撫でながら、そんな話をしていた。
「羊数えてみたら?よくあるやつ……うーん」
「それで寝た試しないんだけど……やってみるわ」
「うんうん……」
「羊がいっぴーき。羊がにひーき。羊が」
スー…………スー…………
「詩織、起きろ。お前が寝てどうする」
「えぇ……私眠いって言ったじゃぁん……やめてぇ揺らさないでぇ……吐くの防ぐために私は寝るんだからぁ……」
「じゃあ一緒に吐こうぜ」
「勘弁してぇ……あ待って待ってほんと吐くまずいまずい」
「え、マジ、待ってちょっと待って」
私は咄嗟に近くにあったゴミ箱を持ち、詩織の髪を束ね、詩織の顔をそこへ寄せた。
はぁ……はぁ……と辛苦の表情を浮かべながら、口で呼吸をしている。
「……大丈夫…………?ごめん……」
「はぁ…………はぁ……うっ」
ゴミ箱の中から、液体が袋に入る音がビチャビチャと部屋に響く。
「はぁ……はぁ……っ…………はぁ……」
私はその様子を見て、背中を擦ることしか出来ずにいた。
思えば詩織はそこまでお酒に強くはなかった。私と詩織は同じ大学に通い、家も近いので遊ぶ機会も飲みに行く機会も多かった。少しシャイな詩織は、思い切って飲んでしまうところがあった。今日もその思い切った部分が出たのだろう。
「はぁ……はぁ…………み……られたっ……なかった……」
「ん……?吐いてるとこ見られたくなかった……?」
「ん…………はぁ……はぁ……」
「ごめん……見ちゃった」
「うぁぁぁ……見ないでぇ忘れて早く寝てぇ……はぁ……はぁ」
「ごめぇん……見たし寝れんし多分忘れられないかもしれん……」
「うわぁぁぁ……もぉやだぁ……しんどいぃ」
「今日はわざわざ来てくれてありがとうございます。本当はみんな揃ってやりたかったけど……田中君と吉永君は仕事で、優は他の飲み会らしくて来れなかったので……今度飲む時は全員揃うといいですね!じゃぁ……かんぱーい!」
かんぱーい!
美術部に男子がいるケースはなかなか無いことだが、私の美術部━━━━━━━━とはいえ私の代に限ったことだったが━━━━━━━は男子が二人いた。二人とも明るい性格ではなかったが、周りには好かれる、可愛がられるような子だった。
「田中君と吉永君、気まずかったのかなぁ」
「いや、それはないんじゃない?むしろ行きたかったと思う。グループでめちゃくちゃ悔しそうにしてたし。あ……でも吉永君はどうなんだろ……って感じはする」
「分かる。田中はこういう集まりでニコニコしてるもんね。吉永は自分の時間っていうか、パーソナルスペースずっと意識してるイメージある」
「一人だけイーゼル遠かったもんね。私たち割と近くしてたのにさ」
当然のように男子たちの話題が繰り広げられている。詩織は横に座っていた清水愛佳と話している様子だった。
「あれぇ、しおりん飲んでないじゃーん飲もー?何頼むー?」
「あ、じゃあ……私、梅酒ロックかな……」
「え、しおりん梅酒ロック飲むのぉ?良いねぇ、じゃあ私芋の水割り飲むぅー!」
「愛佳めちゃくちゃおっさんじゃん」
「おっさんなのぉ?だって美味しくない?芋焼酎」
詩織は喧騒な空間の中であるものの、楽しんでいるようだった。私もお酒を飲むことは嫌いではない。むしろ好きな部類であったのだが、詩織はどちらかというと、お酒を飲むことではなく、空間が好きな部類だった。
「さぁさぁしおりん飲みなよぉ、ほらほらぁ……」
「あ……うん」
そういうと愛佳は詩織にロックグラスを持たせ、ひたすら凝視している。詩織は口角を少し上げたあとに微笑み、梅酒を細い喉に流し込んだ。
「良いねぇ良いねぇ!しおりんってやっぱり飲んでるところエロいよねほんと」
「え……エロい……?そうかな……」
「エロいよほんと……ほらほらもっと飲もぉ?なんなら、私の芋焼酎飲んでいいよぉ?」
「あ、う、うん……」
私は知っていた。詩織は、何かに動揺すると口角を少し上げる癖があることがあった。私は他の仲間と飲みながら話しつつ、詩織の様子を気にかけていた。
「愛佳……?あんたいい加減にしなよ」
私は愛佳と詩織の間に入り、愛佳の肩に手を置いた。しかし、愛佳は私の手をゆっくり払いのけた。
「いいじゃぁん。私はぁ、しおりんが飲んでるとこがみたいっつってるだけじゃぁん?」
私は怒りに燃えていた。この清水愛佳という女はあんなことをしたにも関わらず、懲りていないのかという怒りが、確かに私の中にあった。
愛佳は詩織とずっと同じクラスで、詩織のことを『しおりん』と新入生歓迎会の時から呼んでおり、彼女は何かと詩織に対して好意を寄せていた。それは直接的な時もあれば、精神的な時もあった。詩織は単純に喜んでいるようだったが、周りは愛佳の詩織に対する溺愛ぶりに少し、恐怖を感じる人もいた。
というのも、私がそれに気づいたのは二年の夏の時だった。
夏休みにもかかわらず、バイトもなかった私はその日自室でパソコンに向かい、絵を描いていた。すると、スマートフォンが振動した。時刻は十二時をすぎていた。
『奈緒……どうしよう……』
詩織との個人チャットの通知だった。普段詩織と会話する時は、大体明るい話題や好きなことの共有(この時は近くの美術館の個展の内容が多かった気がする)が多かった。だからこそ、珍しかった。恐る恐る私はゆっくりと返信文を打ち込み、返信した。
『なんかあった?』
少し間が空くと、既読がついた。
『愛佳ちゃんが怖い』
『どうすればいいか分からなくて、誰に伝えればいいか分からなくなって……』
詩織はこの時ずっとあの癖をしていたのだろうと思う。その文章から、動揺と恐怖に怯える詩織の様子が浮かんだ私は、
『わかった。ひとまず詩織んち行ってもいい?』
という返信をしながら、出かける準備を整える。
『うん、わかった……』
『そう言ってくれると思って、今向かうところ』
私は詩織の家に行き、インターホンを鳴らす。階段を下りる音がした後、ドアの真ん中にある硝子部分に白と黒の影が浮かぶと、ガチャとドアが開く。そこか、部屋着姿の詩織がゆっくりと顔を出した。白のパーカーに黒のジャージ姿は、学校の時や遊びに行く時のイメージと比較すると珍しい印象を受けたが、新鮮な気持ちが勝った。
「あ……奈緒、ごめん……なんかしてた……?」
「ううん。絵描こうとしたら冷房効きすぎてだらけてた」
「よかった……とりあえず上がって」
「うん……大丈夫?」
「正直……大丈夫じゃない……」
私はしっかりお邪魔します、と一言添えて靴を揃えながら上がる。薄茶色の螺旋階段を上り、奥の扉を開ける。
(おぉ……詩織の部屋ってやっぱり物多いな……)
部屋には本棚が左右に壁一面にあり、それらの前にも本の山が積み重ねられている。床にはピンクのカーペットが敷かれ、左の奥にはベッドが置かれている。中央には透明なテーブルがあり、そこにはパソコンとスケッチブック、数冊の本が積まれている。
「ごめんね……せっかく夏休みなのに……」
「謝んないでいいよ。なんかあったみたいだし、友達が困ってるのに助けないのはね」
「かっこいいね……奈緒」
「……それで?何があったの?」
「う、うん……これ……見てくれる……?」
それは愛佳との個人チャットの画面だった。今日の八時から会話は始まっており、九時に愛佳の文章で止まっていた。
『おはよー!しおりん今何してるのー??』
『今絵描いてたよ。どうしたの?』
『そっかー!私はしおりんのことでいっぱいで、今日はしおりんのために絵を描いたよー!見てー!』
その下には写真があった。部屋の中で裸の女の子がこちらへ笑いかけている。右手には筆を持ち、左手にはパレットを持っていた。
「え……」
私はそれを見て確信した。長い髪に白い肌、少し上がった口角。間違いなく、それはスマートフォンの奥にいる詩織の姿そのものだった。
「……見た?」
「……一応最後まで見る」
「…………うん」
部屋は張り詰めた空気を一層重くし、ドアを開けていた時の詩織とは違う詩織がそこにいる。
『えへへ……どう?』
『……しおりん??』
『寂しいよぉ……感想今日中に欲しいな??』
『今度しおりんにこの絵あげるね♡』
「…………よし、見終わった」
「……奈緒、私」
私は奈緒の口の前に掌を見せて制止した。
「……とりあえず、話を整理しよう。あと、ポットか何かある?お茶飲もうと思ってさ」
「あ……じゃあ持ってくるね……」
「うん」
詩織は落ち着こう、落ち着こうとしているのだろう。胸に手を当て、深呼吸をしながら部屋を出た。
(…………ごめん、詩織。許せっ)
私はあの会話以前の詩織と愛佳を知りたかった。少し予測できることではあるが、あの会話単体であれば、ただ一人の女が一人の同じ部に所属する女を溺愛している、というだけだ。しかし、あの動揺している様子を見ると、それだけではない。私は確信したかった。ゆっくりと指を下へ動かす。ここからは想像できたものもあったが、想像を絶するものもあった。
八月一日
『しおりんげんきー?』
『うん、元気だよ。』
『しおりん、今度の火曜日遊びに行かない??』
『ごめん……その日バイト入ってる……』
『えぇーーー!そっかぁ……じゃあまた今度行こうね!!』
『うん。誘ってくれてありがとね』
ここまでは、ただの友達同士の会話だ。問題はこれ以降の会話だ。突然愛佳が可笑しい方向へ動き出す。
八月二日
『おはよぉ!!しおりんしおりん!手紙今年も送ったから届いたら見てね!』
『どうして?』
『やっぱり形にしたいもん!私のしおりんへのき、も、ち♡』
『そっか……ありがとう』
八月三日
『しおりんしおりん……私は今しおりんに会いたい気持ちでいっぱいだよぉ……寂しいなぁ……』
『ごめんね……バイトとか親戚の集まりがあってさ……』
『そっか……空いてる日とか無い??』
『無いかな……あったら連絡するよ』
『うんっ!ありがとー!!!』
この様子だと、詩織は二日の時点で愛佳とは距離を取りたいと思ったのだろうが、愛佳の挙動は泊まることを知らないようだ。
八月四日
『しおりん!手紙届いた?出来るだけしおりんへの愛を書いたつもりだよ♡どうかな??』
『しおりーーん!寝落ちしたーー?』
『これからも、もっと手紙書いてあげるね!今日も送ったから届いたら見てね!』
八月五日
『しおりん、好きだよ。』
『うん。ありがとう』
『えへへー!!ほんとに好きーー!!!』
八月六日
『しおりん、会いたいなぁ……。今から行っていい?』
『愛佳って、私の家知ってるの?』
『知ってるよー!葉子から聞いたー!』
『そっか。でも……いろいろバタバタしてるから、来て欲しくないかな……』
『えぇー!!なんかしてるのー??お引越しー??』
『うん。そんなところ。』
『そっか…………会いたいなぁ』
八月七日
『ねぇしおりん。しおりん駅前いなかった?』
『ううん。叔父の家に泊まってたから駅前は通ってないけど……』
『しおりん。午前九時半に喫茶店に入って、シロノワールとコーヒーのセット頼んで、ゆっくりした後、午前十一時に図書館行って本借りたよね?森鴎外の『山椒大夫・高瀬舟』とレンブラントの画集!午後一時に文房具店行ってビリジアンとスカーレット買ったよね?しおりんしおりん、しおりんって嘘つきさんなの??でも、そんな嘘つきなしおりんも大好きだよっ!えへへー!!』
「は!?」
その後に『あの会話』があった。私は反射的に詩織のスマートフォンをカーペットに落とす。
(何…………何なのこいつ……私が見てないところで、一体何が……)
そう考えていると、詩織がティーセットとお湯が入っているだろうポットをトレーに乗せて戻ってきた。
「持ってきたよ……」
「あ、うん。はいこれ」
私はお茶のパックを詩織に渡した。
「これ…… 」
「詩織、動揺してるっぽかったから、持ってきたの。レモンバームの茶葉はリラックス効果あるってうちのママが言っててさ」
「ありがとう……奈緒……」
「とりあえず飲んで落ち着こ」
「うん……」
詩織の目は赤くなっていた。今にも泣きそうな様子だ。顔は少し俯き、鼻を啜っている。
レモンバームの爽やかな香り、喉を伝う熱くも穏やかな優しさが私と詩織を包み込んでいるような気がした。
「……どう?少しは落ち着いた? 」
「……うん……ありがと……」
私はカップとソーサーを詩織の左隣へ動かし、自分の身体もそこに置いた。
「大丈夫……辛かったね……」
「うん……うん……」
詩織が私の胸に顔を埋めると、今まで我慢していたのか、抱えた感情を全て吐き出すように号泣した。私は何も言わずに頭を撫でた。詩織がどういう気持ちで私に個人チャットで助けを求めていたのか。どういう気持ちで今日まで過ごしてきたのか。私には正直、詩織の口から知る事はできるが、心の傷を完全には治せない。私はカウンセラーではない。だからこそ……詩織は乗り越えなくてはいけない。
やがて、詩織はゆっくりと顔を私に向ける。
「………詩織、とりあえずさ、ざっとでいいから話してくれる?」
「う……うん。さっきの絵……誰かは分かるよね……」
「……詩織だよね。これ。あ、ごめんスマホ持ちっぱだった……」
「ううん……平気。それでね、その絵の女の子の腰……見てくれる?」
「腰……?うん……ん?」
私は詩織に言われ、描かれた女の子の腰を見ると、そこには痣があった。アメーバが張り付いているような形をしている。
「これは……痣?」
「そう…………それのこと、奈緒に言ったことあった?」
「いや……聞いたことない……もしかして、あるの……?」
「……うん」
そう言うと、詩織はパーカーを脱ぎ始めた。
腰の辺りを見ると、確かに絵と同じ位置に茶色の痣があった。
「……ほんとだ…………同じところ……」
「……母斑って言うんだって、うちのお母さんが言ってた。遺伝性はないんだけど、うちの家系は母斑が出来やすいんだって」
「ふーん……ん?待って?そのこと、誰にも言ってないよね?」
「うん……恥ずかしくて、誰にも言ったことないの……なのに……描いてあるの……母斑が。それだけじゃないの」
パーカーを着ながら、詩織は本棚の下にある引き出しから、木の箱を取りだした。
「それは……?」
「……手紙」
「手紙……?」
木の箱を開けると、そこには沢山の手紙があった。その一枚を取り出し、詩織は意を決してそれを開く。
しおりんへ
しおりん好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き
愛してるよ
しおりん♡
愛佳より
「うわぁ……」
「うっ……うぅ…………」
詩織は目を瞑りながらも、その惨状を思い浮かべているのか、苦しそうだ。
「これ……愛佳が?」
「うん…………しかも、内容はほとんど同じなの……四日から毎日……」
「……気持ち悪いなこれ…………」
「私……どうすればいいか分からなくて……警察にも相談しようとも思ったの……でも、迷惑かけたくないし、お母さんにこんなこと知られたら、美術部やめなくちゃいけなくなっちゃうと思ったの……」
「そうだったの……ちなみに、夏休み前から、こういうことはあったの?」
「う、うん……これほどではなかったけど、お弁当作ってきたりとか……いつもトイレ行こうとすると付いて来たりとか……私に突然挨拶したかと思うと、急に身体見て笑ってたりとか…………」
「……もしかして…………個人チャットとかも、毎日?」
「そう……!そうなの……」
(もはや溺愛どころか、ストーカーじゃんそれ……)
手紙を送られていたのは、個人チャットで見た。しかし、こうも凶悪な内容であり、それでいて四日以降となれば、詩織の精神的苦痛は計り知れない。
(ん……?四日からなのに、手紙多くない……?)
「詩織、その手紙って、四日からの全部?」
「…………ううん。でも、全部愛佳が私に宛てた手紙……」
「……え?」
「愛佳……去年の夏休みから毎日この手紙送ってるの……」
「……夏休みからって…………てことは、秋休みも冬休みも?!今年の春休みは?ゴールデンウィークは?」
「秋休みはさすがに来なかったの。芸術祭と文化祭あるし……ただ、冬休みは送られてきてた……」
(愛佳が今年もって言っていたのはそういうことだったんだ……)
「最初は、友達と文通して見たかったからって愛佳に言われて……私、楽しそうだなって……。でも、こうなるなんて……」
「こうも一方的に好き好き言われてたら、そりゃしんどいでしょ」
「うん……ごめん奈緒、また泣きそう……」
「うんうん……よしよし頑張ったね……よく言えたね……」
この一連の行動で気掛かりなのは、愛佳が何故詩織の母斑を知っているのかということだ。もう少し範囲を広げて言うなら、愛佳がどうやって詩織のことを知っていったか、だ。ただ、こうも精神的苦痛をさせている人間という印象がつけられると、今まで得た詩織への行動が全て負の行動に見えて仕方がない。個人チャットで詩織の家を葉子から聞いたと言っていたが、本当は誰からも聞かずに尾行したのではないかとも、詩織が目を逸らしている間にGPS機能がついた何かを鞄に入れて監視しているのではないかとも考えてしまう。実際、八月七日の詩織に対する発言を見るに、ストーキング行為をする人間だというのは証明されている。
(これはさすがに警察に言うしかないのでは……あっ)
「詩織……実はさ……私、詩織がティーセット持ってくる間に、愛佳とのチャットのやつ、見ちゃったの。ごめんね」
「ううん……むしろ当然だと思う……それに、どちらにしろ私が見せてただろうから……」
「うん。それでさ、七日に葉子から聞いたって言ってるし、直接葉子に聞いてみよ?本当に詩織の家のこと言ったのかさ」
「……今から?」
「うん」
「……葉子ちゃん、出るかな……」
「もうバイト終わるんじゃない?今三時だから……大丈夫でしょ」
私は葉子に電話をかけた。予感通り葉子は電話に出た。
「もしもーし。どしたん?」
「あ、もしもし葉子ー?実はさ、今私詩織の家にいるんだけど、葉子来る?」
「んー?なんやなんや?奈緒、もしや詩織んこと狙っとるん?」
「そうじゃないって。話すると長くなるから、とりあえず詩織んちに来て。場所分かるでしょ?」
「おん。ちょうどバイト終わったさかい。秒で行くわー」
「はーい…………葉子来るってさ」
「そっか……」
詩織の表情が少し暗くなる。私以外にこのことを知られてしまうと思っているからだろう。
「……詩織、もしかして迷惑かけてるなって思ってない?」
「…………うん」
「詩織。詩織は迷惑かけられてんじゃん愛佳に。何も迷惑かけてないって」
「うん……」
「大丈夫だから、ね?」
「……ありがとう、奈緒」
そうこうしているうち、インターホンが鳴った。葉子が到着したのだろう。
「見てくるね」
「……うん」
私は階段を下り、玄関へと向かう。
「はーい、開いてるから入ってー」
「はぁい」
「…………え?」
(その声は葉子とは違う。この声は……まさか……!)
私は玄関のドアに向かって走った。ドアがガチャと鳴った時、私はそのドアを自分の身体で押し、抑えつけながら鍵を閉める。
「えぇー?なんで閉めるのぉー?はいってっていったじゃーん。それに、なんでしおりんの家に奈緒がいるのぉ?」
「……やっぱりあんたなのね」
その鼻に着く喋り方や猫かぶったような声の高さ、間違いなく扉の外にいるのは清水愛佳だ。
「やっぱりぃ?どういうことぉー?」
「あんたのこと、詩織から聞いたのよ!あんた詩織にあんなストーカーみたいなことして、よくそんなこと言えるわね!」
「えへへ……だってさぁ、しおりん可愛いんだもんっ」
「可愛いからっていう理由じゃ済まないわよ……!そのせいで詩織、精神やられてんのよ!!あんた、馬鹿じゃないの!?」
「……へ?ばかぁ……?はぁ…………?何言ってくれちゃってんのあんたぁ……?」
そう言ったかと思えば、突然パリンと音がした。私の頭に少し痛みが走る。それは、硝子の破片だ。
(嘘……こいつ、鈍器持ってんの……!?なんで……?)
上を見ると、そこには拳があった。
(ドアを拳で割るとか、化物かよ……!!)
拳にはいくつもの指輪がつけられていた。とはいえ、相当な力でないと割ることは不可能だ。私は咄嗟に上へ走らなくてはと思った。
(このままじゃ、詩織が危ない……!)
気づけば足はもう階段へ向かい、駆け上がり、部屋に飛び込んでいた。
「え!?奈緒、なんで!?」
「詩織、愛佳が来た!!」
「え!?どうして!?」
「わかんないよ!でも今扉割られた!もうすぐで来る!」
「嘘!なんで!?怖いよやだ死にたくない!!」
「だからこうして来てるんでしょ!?何ができる……!」
「しおりぃん?どこにいるのぉ?」
そうこうしていると、愛佳は遂に家の中に入ってきたらしく、その高い声は音の響いている様子からして、階段の前にいるようだった。
「嫌!!来ないで!!来ないで!!本当に来ないでよ!!やだやだ!!」
詩織が恐怖でパニックに陥っていた。顔は青ざめ、頭を抱え、目を瞑りひたすら叫んでいる。
「しおりぃん?そこにいるのぉー?えへへぇ、今から行くねぇ?」
「やだぁ!!来ないで!!!」
「詩織!落ち着いて!大丈夫!!大丈夫だから!」
(このままじゃ、愛佳がこっちに……!どうすれば……)
「もうやめて!!出てってよ!!嫌いなんだよ!!!」
「…………へ?」
(……階段を上る音が…………止まった?)
「え、嘘……しおりんが……私のこと……嫌い……?」
「そうだよ!!嫌いだよ!嫌いだから、もう関わらないで!!話しかけないで!!近寄らないで!!」
「そんな……嘘…………だ……」
そういうと、階段を上る音は少しずつ遠くなっていく。やがて、ガチャという音が二回鳴ると、それ以降音は聞こえなくなった。
「……帰った…………の?」
「う、うん……みたいね……」
「う、うぅ……なおぉ……!」
「詩織……!」
気づけば私達は泣いていた。強く抱き合いながら、確かに生きていることを確認しあった。
「え!?どないしたんこれ!!詩織!奈緒!!」
「あぁ……葉子ちゃん来た……」
「はぁ…………どう説明すればいいのやら……」
その後、葉子が警察へ連絡し、警察の捜査が始まった。詩織の両親がそれを聞きつけて、その惨状を目の当たりにすると、詩織と私を抱きしめてきた。
「詩織……!良かった……本当に無事で良かった……」
「お母さん……お父さん……!」
「奈緒ちゃんも無事だったんだな!うんうん!」
その直後、清水愛佳は器物損壊罪で逮捕された。原因は「矢野詩織を愛していたから」という理由だったらしく、私と詩織は、もはや何も言葉が出ないほど絶句した。聞けば愛佳は、母親の不倫が原因で両親が離婚。その後父親と二人暮らしであったが、その父親が酒癖が悪く、暴力を振るわれることもあったという。だからこそ、誰かに対する愛情が欠如しており、その愛されたいという感情が、詩織に向いたのではないか、というのが警察の見解だった。
当然、清水愛佳は退学処分となり、懲役三年が言い渡される………………はずだった。
言い渡されたのは懲役二年、執行猶予二年というものだった。
三、四年前、刑の一部の執行猶予制度というものが施行された。これは三年以下の懲役又は禁錮を言い渡された場合において、一部の執行を猶予するというもので、その対象になったという。並びに、清水愛佳は父親から受けた暴力により、精神が不安定な状態であったということも考慮され、結果的に三年ではでは無くなったとの事だった。
私達は、もう彼女が近づいて来なければそれでいいと思った。彼女の家庭については、災難であるとは思うが、だからといい、好意を寄せている人の家を壊してまで逢いに行くことも、ストーキングをすることも、常軌を逸している行為には変わりがない。
詩織の母斑の存在を知っていたこと等については、もはや疲労が蓄積しており、聞かなかった。初めて事情聴取をされた私達は、その六時間後にようやく各々の自宅に戻ることが出来た。
そして時と場所を戻し、飲み会会場。
清水愛佳は、最初は詩織に対し謝罪の意を述べ(本当なら私にもする必要があるが、あまり気にしなかった)、酒を飲み始めた途端、その態度は変貌した。途端に詩織に対して、執拗に酒を押し付け始めたのである。
「愛佳……?あんたいい加減にしなよ」
「いいじゃぁん。私はぁ、しおりんが飲んでるとこがみたいっつってるだけじゃぁん?」
そしてこのように至った。
私はもう、このままでは腹の虫が治まらないと思っていたそのときであった。
ドンッという机を叩く音が喧騒な雰囲気を一気に冷めさせる。横を見ると、詩織が一万円に掌を押し付けていた。
「…………」
(……詩織…………)
辺りが静まり返り間を置くこと四秒弱。詩織が静かに口を開いた。
「……ごめんねみんな!私用事思い出した!奈緒と一緒に明日のレポートの仕上げしないと行けなくてさ!ね?そうだったよね!ね!」
「…………う、うん、あぁそうそう!そうだったわ!」
「ごめんね……それじゃ、私達先帰るね。また今度呼んでね!」
そういうと、詩織は私の手とバッグを持ちながら、会場を出た。
少ししか知らないような通りを歩いているうち、詩織が口を開いた。
「奈緒、ごめん……!」
「いいや、あれは詩織悪くなくない?」
「口裏合わせてもらってって意味だよ」
私達は昨日、飲み会に清水愛佳が来ると伝えられた。あの事件があった以上、私達は出たくないし、顔も見たくないと言っていたのだが、詩織がその時、あることを条件に参加を希望した。
『じゃあ、もし愛佳が私や奈緒に何か気分を削ぐようなことをしちゃったら、私達は帰ってもいいかな……?それでいいなら、私達は行こうかなって思うんだけど……』
そして、その作戦は案の定決行された。
「まぁ、そりゃやるよね。あぁいう人ほど、いい加減だし、変わらないし」
「良かった……私、奈緒がもうすぐ怒るんじゃないかなと思ってさ……奈緒が怒ると怖いから、私から動いちゃえっ、って思ったの」
「誰がこわいってー?」
「え?私そんなこと言っちゃってたー?酔ってるのかも?」
「じゃあ、飲み直す?」
「じゃあホテル取って、飲み直そっか?その方が朝まで飲める……!」
「詩織、あんたいつからそんな酒クズになった……?」
「んー?違うよ。私は…………奈緒と飲むのが好きなだけだもん」
「え、なになに。告白?」
「…………」
「……本当に?」
詩織は普段飲みに行った後よりも、顔を赤らめ、静かに頷いた。
こうして、私達はサシ飲みをした。
そして、ようやく今に至る。
詩織は吐き終えたらしく、その表情は若干恍惚なようにも見える。
「はぁ…………疲れた……」
「詩織、初めて私の前で吐いたんじゃない?」
「あれ?そうだっけ……?」
「うん。私が大体吐いてるじゃん?」
「緊張……かな?」
そういうと詩織は笑った。私もそれにつられて笑ってしまう。
そうしていると、私はさっきのことを思い出していた。
「私は……奈緒と飲むのが好きなだけだもん」
あの後、詩織は私が告白か否かを聞いた時、静かに頷いた。
(そういうことで……いいんだよな……?そうだよね……?)
改めて詩織を見る。
束ねた長い黒髪は間接照明の光を浴び、その美的感覚を刺激させる。その下に相反して光を浴びる白い肌。教科書に書いてあったミロのヴィーナス像と同じ大理石このような光沢を放ち、妖艶かつ印象的な色を魅せる。
その後ろには、私と詩織の影がそこにあった。私が思い浮かんだものはただ一つだった。
一六四二年、油彩で描かれた光と影の大団円。それは被写体深度の概念を予め知っていたかのような遠近感のバランス、キアロスクーロ、言わば明暗法で作られたコントラスト、視点の違う人物を、計算的に導いた統一感。まさしくそれは、私が見ていた光と影の美しさそのもの。
(『夜警』だ……)
「どうしたの……?」
「詩織……」
「……奈緒?」
私はゴミ箱をおもむろに取り上げ、ダブルベッドの横に置いた。気がつくと、私は詩織に魅入っていた。詩織は何かを言おうとしていたが、私はそれを遮るように接吻をした。
「ん……は……」と詩織の息と声が漏れる。少し舌をつけ、お互いの背中に手を当てる。
「はぁ……ん……んっ…………」
そうしていると、詩織が私の胸を少し押した。
「はぁ…………さっき私吐いたのに……なんで……?」
「しょうがないじゃない。したくなったんだから」
「…………私初めてだったんだけど」
「……私もそうよ」
「えぇ、尚更なんでよ……」
「…………好きだから?」
「…………もう一回しよ。ファーストキスが吐いた後なんて嫌だ。やり直し」
詩織は頬を膨らませながら、ユニットバスの方へ歩いていく。
(…………ちょっと強引すぎたかも)
私は反省しながらも、さっきした接吻のことを思い出す。
唾液が静かに喉を伝い、お互いの舌のざらつき、髪の毛の一本一本が見えるような距離感。私は、何か悪いことをしてしまっているのではないかと思ったが、どこかでこうしたかったのかもしれないとも思った。
「ただいま」
少しムスッとした表情を浮かべながら、詩織が私の横に座った。
「……しよ」
「…………うん」
私はそうとしか言えなかった。さっきの接吻を謝るのは違うことであるうえ、責任感のようなものを感じたからだ。
私は詩織の身体を自分の方へ抱き寄せた。そうして私と詩織は、もう一度軽く接吻をし、やがて舌を絡め始めた。自分の舌先で詩織の舌の真ん中を突く度に、詩織の身体がビクつき、「んっ……うあ……」と声を漏らす。私は本能的にこれが詩織の感じるところなのかと思いながら、詩織の頭を撫でる。このまま……時間が止まってくれたら、という絵空事を考えながらも、心は多幸感に溢れていた。
そして私は舌を引っ込める。詩織の頬を両手で触れる。少し目を閉じつつも、その綺麗な黒目が確実に私を見ていた。
「あ……あぁ……そんなに見つめないでよ……」
「ほぼ毎日見てる顔じゃん?」
「そうだけど……恥ずかしいんだよ……」
詩織が目を左へ逸らす。私は視点を自分の顔に戻すように、両手で調整する。
「だ、だからぁ……」
「私も好きよ。詩織」
「……うーん…………奈緒の馬鹿」
そういうと私達は、また口腔内の戯れを楽しむ。クチュ……チュ……という音に支配されつつ、お互いに目は閉じていた。
すると、詩織は私の胸に手を当て始めた。
「ん……詩織……?」
「……ん……く……奈緒ってさ……したことあるの……?」
「……ない」
「…………する?」
詩織は、私の着ていたシャツのボタンに手をかける。
「詩織……したことあんの?」
「…………私もない。でも……奈緒となら……いいかな」
「…………じゃあ……しよっか……」
「う、うん…………」
お互いの服をゆっくりと脱がしていく。やがて、お互いの全身が露わになった。
「いつも思ってたんだけどさ……詩織って大きいよね……服越しだと分かりにくいけど……」
「お母さんにもよく言われる……そういうけど、奈緒は結構形良くていいなぁ……」
「それ私のこと貶してる?」
「そうじゃなくて…………触っていい?」
「ん……どうぞ?」
詩織は両手を恐る恐る私の胸に当てる。なんだか今までされたことのない感触に、身体が擽ったさを感じてしまうが、詩織はそのようなことは何一つ気にせずに、私の乳房に触れている。
「何さ……そんな私の胸好きだったの?」
「うーん……やっぱり綺麗だなって……」
「そういうあんたもいい胸してるじゃんか」
私はここぞとばかりにやり返そうと、両手で詩織の乳房に触れる。
「ひゃん……!」
「ひゃんってなんだよひゃんって」
私は面白くなって、両手の親指を乳頭に当てた。
「や……待って……うぁ…………」
乳房に触れていた詩織の両手が力をなくしたように脱力する。それはやがて全身にまで及び、詩織は後ろへ倒れた。
「はぁ……はぁ…………ダメだって……弱いんだからぁ……」
「ふーん……?そうなんだ?」
私は馬乗りになり、秘部を詩織の秘部に合わせる。
「は……あぁ……だめっ……奈緒…………」
「……だめなの?」
「あ……うぅ…………馬鹿……」
身体全体を詩織に合わせる。舌を絡め、足を絡め、本能に身を任せる。秘部を合わせ、少し離しを繰り返していく。
「はぁ……う……あぅ……はぁ…ん……」
「はぁ…………はぁ……」
私も少しずつ息が荒くなった。詩織に触れる度、血液のドクンッ、ドクンッという音が聞こえてくるような気がした。詩織も触れられる度に声を漏らし、目は細く口を開きながら深い呼吸をしている。
「はぁ……奈緒…………だめ……なんか…………くる……かも」
「うん……私も…………やばい……はぁ…………くる……」
私は秘部を合わせ、腰を使いながら擦る。
「ん……!!奈緒だめ……あ、はぁ……んぁ……くる……!」
「詩織……すきだよ……はぁ……ん……あ……」
「やぁぁ……!!」
秘部を離した瞬間、私の身体は意に反してビクンと揺れる。詩織も身体を反らし、ビクビクと身体を揺らす。お互いが呼吸を整えた後、私は猛烈な眠気と快い感覚に襲われ、目を閉じていく。視界が黒に染まるなか聞こえたのは、詩織が目を閉じながら言った、「私も……好き」という言葉だった。
長く、深い夜 平崎芥郎 @musehasn0talent
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