解放


「ケイ、お前そんな、木更と付き合ってるなんてこと、俺に一言も」

「ごめんねカイトぉ、でも言えなかったんだよ。俺、このゼミの雰囲気を壊したくなくて」

 水の入ったジョッキに唇をつけたり離したりしながら、西島くんはぽつぽつと語った。その声には本心からの申し訳なさが含まれていた。その様子に少しだけ毒気を抜かれ、一時的にアルコールの支配から逃れることができた私は、花瀬のメールを思い返していた。


 彼女の占いによる予言は、いつも具体的だった。今回のように漠然とした結果が出たことは、思い返してみると今まで一度もない。もしかすると彼女は、西島くんとマイが付き合っているという占い結果を本当は導き出していたのかもしれない。でもそれを正直に言うと私が傷ついてしまうかもしれないから、『神との交信がうまくいかなかった』という理由でぼかして伝えず、私に一刻も早く飲み会から帰るように促した。

 あのメールと電話は、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。占いどおりしっかりと傷ついてしまった私の胸に、その事実は消毒液のように染みていく。


「そう。そうなんだけど、でもいずれバレてたと思うしいい機会だからカミングアウトしちゃおうか、ってことになって私の中で。で、今、言っちゃった」

 マイがいたずらっぽく笑う。西島くんの肩を抱く手に、さらに力がこもっていくのが見て取れた。一気飲みした日本酒が再び頭に染み込んできて、私はよくわからなくなる。マイって、こんなに意地悪な笑みを浮かべる子だったっけ。私の記憶の中の彼女は、私や他のゼミ員たちと仲良くしていて、お酒を飲むことに対して純粋な楽しさを抱いている人だったのに。そう思っていると、マイは私と城前くんを交互に見比べ始めた。そして口を開く。

「それにさ、今日は二人とも変だったよ。ほぼ同じタイミングでトイレに行ってさ、全然戻ってこなかったし。まあここには一つしかトイレがないから時間がかかるのは仕方ないかもしれないけど、それにしても長かった気がする。おかげでその間に私とケイは一杯ずつ杯を枯らせちゃったよ」


 私と城前くんはお互いに目を見合わせる。一杯ずつ、杯を枯らした?

 トイレから戻ってきたときの光景を思い出し、私は頭を抱える。メロンサワーについていたさくらんぼだ。トイレに行く前に西島くんがかじっていたそれが、戻ってきたときには復活していた。一度、胃に収められた食物が戻ってくるなんて、そんなことは普通ありえない。つまり、あれは二杯目のメロンサワーではなく、三杯目のメロンサワーだったのだ。西島くんの「今日は皆が俺に飲ませようとしてくる」という台詞も、私と城前くんだけに向けられたものではなかったのだ。


「それに、その後きたジンジャーハイ、あれもおかしかったよね。薄切りレモンがついてなかった。別の席で食事をしてた夫婦の方が飲んでたものにはついてたのに。酒じゃないのってケイがいぶかしんだのに、城前が無理やり飲ませたのもおかしかったし。あれって、事前に話し合ったことなんでしょ? 酒を混ぜたかすり替えたか、どちらかをしたんでしょ? ん、二人とも不思議そうな顔してるね。だってわかるよ感じ取れるよ。共通の友人や好きなものについて話すとき、気に入ってる部分とかここが死ぬほど好きだ、と考えている部分とかってほとんどかぶるじゃない。それと同じ。私はケイのことが好き。だからね」


 私は最初からずっと、皆と同じように、ケイの嘔吐が見たかったんだよ。

 マイがそう結んだ瞬間、城前くんのほうからごぽっという水音が聞こえた。続いてなにかが床に落ちる音。ゲロだ。城前くんが、嘔吐したのだ。

 しかもそれは、彼の右隣に座っている西島くんのチノパンをじっとりと濡らしていた。彼は曖昧な笑みを浮かべ「え、皆なに言ってるの? てかカイト大丈夫……うわちょっと汚い」とつぶやいている。よく見ると、その顔は少々引きつっていた。店内には今、私たちが座る席から一番離れたカウンターのところにしか客がいないため、彼らがゲロに気づいた様子はない。しかし厨房からは見えたようで、店長が直々におしぼりと嘔吐物処理セットを持ってやってくる。大丈夫か城前くん、と彼が声をかけるが、城前くんは肩を震わせたままで顔をあげようとしない。泣いてもいるようだった。彼のしゃくりあげるような嗚咽に合わせ、獣臭さとお酒の甘い匂いが混じった、すさまじい悪臭がこちらに漂ってくる。

 それにつられたのか、今度はマイが勢いよく嘔吐した。こちらは城前くんのものに比べ水気と勢い、アルコールのつんとしたにおいが強く、そのぶん広範囲が汚れてしまう。西島くんの右足と、羽織っている灰色のパーカーに飛沫のような汚れが付着した。さらなる嘔吐に混乱した様子の西島くんは「マイまで……ねえなんでこんなにゲロをかけるのさ。もう酔いが冷めそう」と泣きそうな声を出す。それでも表情は曖昧な笑みのままだ。


「もういったん、支払いしてもらってもいいかな……? この様子じゃ食事もできないだろうし。あとごめん、程度によっては多少クリーニング代を払ってもらうことになるかも」

 店長ができるだけ優しく聞こえるように気遣った声で、私に話しかけてくる。それに無言でうなずくと、彼はレジのほうへ向かった。伝票を出しにいったようだ。ぼんやりとそのさまを眺めてから、私は眼前の惨状に目を向ける。西島くんの両隣の二人は、うつむいてしまっていて動かない。一方は泣き、もう一方は笑っているようだった。彼ら二人に向かって、西島くんは微笑んでいる。

「どうしようね、奈良坂。大変なことに、なっちゃった、ね」

 でもその表情にはどこか陰りがある。おまけに彼はのどを詰まらせ、何かを我慢しているような喋りかたをしていた。その顔は、白い蛇のような青白さを湛えている。


 私はそこから、正確にはもう少し下に降りていくとある、喉元の小さな盛りあがりから目を離さずに立ちあがる。そのままふらつく足取りで歩き、城前くんの足とマイの腕をどけ、西島くんの前に立つ。そして、その胸にめがけて、思いっきり嘔吐する。記憶の中のトモヒコくんと寸分違わぬ、あの不格好な笑みを捉えた瞬間、私はその吐瀉物まみれの胸の中に崩れ落ちた。彼の胸に貼りついた未消化のホルモンが、ぺとりと頬に触れる。床でしたたかに膝を打ったが、痛みは感じなかった。

 頭を覆っていた不快感が、霧が晴れるように霧散していく。彼の体温と自分の嘔吐物の温もりを顔全体で感じながら両隣を見ると、マイも城前くんも楽しそうにしてはいないものの、憑きものが落ちたような雰囲気を漂わせていた。もしかしたらお酒やその他いろいろなものが抜け落ちてすっきりしたのかもしれない。マイは申し訳なさそうな顔を、城前くんは唇を噛んで悔しそうな顔をしている。


「本当に、汚い、なあ。なんだよこれ、うっ」

 私はゆっくりと上を見あげる。西島くんの喉ぼとけがなにかをこらえているかのように上下している。ついに、このときがやってきたのだ。

 私はその蠢く白いふくらみから目を離さずに、彼の胸に遺憾の意をこめて爪を立てる。汚いなんて西島ケイ、あんたはこんなに、いろいろな人から。


 そうしてやってきた至上の瞬間に、私は身をゆだねる。待ち焦がれていた彼の吐瀉物を、私は全身で受け止めた。泡立つ液体。咀嚼されてぐちゃぐちゃになったレタス。まだ弾力を保っている肉片。センマイのかけら。たとえ西島くんのゲロといえど、それは私たちが吐き出すものと同様に汚くて臭かった。だけどそれが当たり前なのだ。だって、人が心に秘めている愛情なんてものは、自分以外にはどう頑張ってもゲロにしか見えないから。


 

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西島くんの嘔吐が見たい! 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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