西島、吐いてなくない?ウォウウォウ


 見間違いだろうか。目をこする。それでもやはり、炎は私が座っていた席の七輪からあがっていた。厨房のほうから、ステンレス製のアイスペールを持った金髪の店員が大慌てで出てきて、なかば放り投げるようにして七輪の上に氷を載せ始めた。見る間に火柱は勢いをなくしていき、ぐるりと円を描くように配置されたピートロと、その中心に象徴のごとく置かれた山盛りのにんにくが姿を現わした。どちらも激しい炎にさらされたからか、黒焦げとはいかないまでも、これを食べることはできれば避けたいなと思うぐらいには炭化していた。

「これはどういう」

「あ、セリカお帰り! これは召喚の儀なの。私たちは世界を救うんだ! だ!」

「この世界を包むのは、悪」


 近づいてきた私に、マイと西島くんが意味不明な言葉をかけてくる。二人とも目の焦点が合っていない。困った様子の店員に「後は私がどうにかしますんで大丈夫ですごめんなさい」と声をかけて厨房に戻っていただいた後、私はもやしナムルに箸を伸ばしている城前くんに、視線を送って説明を求めた。


「俺は止めたんだぞお。でもあれよあれよという間に」

「あー! ずるいぞカイト殿、『ピートロをたくさん置くと浄化の炎が湧き出る』と知恵を授けてくださったのはお主じゃろうて」

 そう言って西島くんは黄金色の液体をあおり、城前くんの肩をばんばんと叩いた。ごふ、と彼の口の端からもやしの豆部分が顔を出す。それを見てマイがなんらかのお酒のロックを半分ぐらい飲み干してげはげは笑った。よく見ると、マイも西島くんも城前くんも、違うお酒を頼み直している。


「そういえば西島殿。にんにく大明神が焦げてしまったでおじゃるが」

「ああー本当でござるな木更殿。これでは食べれないでござるな」

「ぬ! ケイお前それは生きとし生けるもの全てに失礼な行為だぞ! ギルティ! 有罪! 処します処しますぅー」

「え、え、ええ。でも苦いのは勘弁でござる嫌でござる癌になってしまうでござる」

「私それはガセだって聞いたことあるよ! はい嘘つきー。西島有罪です、処す処すぅー処す処すぅー、打ち首! 獄門! 研究会!」

「処す処すぅー処す処すぅー、打ち首! 獄門! 研究会!」

「あらまあ、仕方ないでござるな、ではここでハラキリさせてもらうでござる。ビール飲んだらリザレクションするけどね」


 だらんだらんに緩みきった顔で、西島くんがジョッキに残るビールを一気に飲み干した。私以外の二人から割れんばかりの歓声と拍手が送られる。それにならって私も拍手をしながら、儀式の後片づけをおこなう。

 七輪の上に残された焦げ肉はとても苦かったが、誰かが食べないといつまでたっても他の肉を焼くことができない。先ほどは食べたくないなと思っていたけど、やはりもったいなく思えてしまった。


 きっと三人はこれからゲロを吐くだけの機械となりはてるだろうし、まだ食事ができるコンディションなのはこの場で私だけだ。それに、このぶんなら西島くんも勢いのまま酒を飲んで勝手に暴発してくれるだろう。その光景さえ、見られればいい。後処理係に徹してやろうじゃないか。そこまで考えて、私は肉を口に運ぶ箸を止めた。


 私は西島くんの嘔吐が見たい。あの喉ぼとけが蠱惑的に動くさまを目に焼きつけたい。くぐもっているが胸の奥のほうをくすぐるようなうめき声を聞きたい。ゲロを出すためにうつむいたときの、彼の頭のつむじが見たい。城前くんが言うような、嘔吐した直後の複雑な思いがいくつも重なってできた彼の表情を拝みたい。それだけは確かだ。

 でも、私のこの気持ちは城前くんのものとはきっと違う。私は吐瀉物のその先を求めていない。どんな思考も感情も、全ては西島くんのゲロシーンを見たいという欲望に収束する。見たらそれで満足。それで終わり。


 だから、ここまできたらちゃんと見せてほしい。初めて会ったとき私が思い描いた、完璧な嘔吐を。


 しかし、その瞬間、私の耳に信じがたい声が飛び込んでくる。


「ねえー、ケイ。私たち、付き合ってるんだもんね」




   ▼


 それはたしかにマイの口から発せられた言葉だった。彼女たちの会話は私の頭の中で完全にBGMと化していたから、どういう話の流れでその言葉が飛び出したのかはわからなかった。だが城前くんが呆気に取られているのを見る限り、どうやら彼にとっても初耳の情報であるらしいことは理解できた。

 なにかよくないことが起こる、といったところかねえ。花瀬のメールの一文が、細い蛇のようになって私に絡みつく錯覚を覚える。これかよ、よくないことって。ふざけるなよ。てっきりゲロを体にかぶるぐらいかと思っていたのに。


「お酒を飲まないと」


 そうつぶやいた次の瞬間に私のジョッキは空になった。今日一番の大きな声で店員を呼び、日本酒を熱燗で注文する。しばらくして運ばれてきたそれを、お猪口につがず徳利から直に飲み干す。喉が焼けるように熱くなる。でも、もっと酔わないといけない。マイが今いる次元、アルコールによって作られた興奮に、私はたどりつかなくてはならないのだ。


 ちょ、木更それどういう意味。城前くんはもうすっかり酔いが冷めた様子で口にする。だめだよそんなんじゃ。そんなことを言うマイには城前くんでは届かない。到達できない。

「んー、そのままの意味だよ。一か月前、私はケイに告白したの。ね」

 マイはゆったりとした動作で机の下に潜って向かい側に座る西島くんの隣に移動すると、彼の肩に手を回した。私と城前くんの視線が、彼の顔に釘づけになる。


 お願い、否定してください。順調にお酒に侵されてきた頭の外で、必死でそう祈っている自分に私は気づく。ゲロを見ることができたらそれでいい、と思っていたはずなのに、どうして私はこんなにもやもやしているのだろう。


 西島くんはマイの言葉に「んん、んーん? そう、そうそうそうだよ俺とマイは付き合ってる」と同意を示し、気分が悪そうな素振りをしてうつむいた。

「大丈夫、ケイ。吐きそうなの? すいません、お水もらえませんか」

 マイは西島くんの背中をさすり、運ばれてきたジョッキいっぱいの水を彼の口に流し込む。彼女の顔にはいつくしむような優しい笑みが浮かんでいる。


 それを認めた瞬間、消化しきったはずの感情が、いや、そのつもりでいた感情が、形をとって私の中心に集まってくる。この気持ちは、ずっと私の中に未消化のまま残っていたのだ。

 嘔吐を見たいという欲望。この不定形の気持ちに、今の私なら名前がつけられる。西島くんの嘔吐が見たい、という想いの裏の意味。


 私は、西島くんのことが好きだ。ゲロの先に、本当はずっと愛を見ていたのだ。

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