コンプレックス

白と黒のパーカー

第1話 コンプレックス

「彼女の症状からみた結論は、美しい物しか視界に捉える事の出来なくなる病気……と言う他ないでしょう」


 私が思い出せる一番昔の記憶はこの言葉から始まるワンシーンだった。

 

 私はどうやら醜いらしい。

 答えは簡単で、鏡に映らないから。

 私の瞳は自動的に美醜を判断し、相応しくないとされたものは暗い靄のようなもので見えなくなるのだ。

 写真を撮ろうが、高名な絵描きに精密な模写をさせようが私の瞳には映らない。

 

 醜い物が映らない瞳を別に不便に思った事はない。

 大抵のものは見ることが出来ないから所謂普通の生活とやらも送ることは出来ないが、よく考えてみてほしい。醜い物は見なくて済むのだ。

 それだけの事だが、ただ『それだけの事』が一体どれだけストレスを生み出さない事なのか。それは私にしか分からないだろうが一人優越感に浸れるほどだと記しておこう。

 

「少し良いかい? おや、また日記を書いていたんだね」


 兄が私の部屋をノックして入ってくる。

 

「あら、お兄様。そうよ、今日は私のお気に入りのペンとお気に入りのノートに素敵な世界を紡いでいるの」

「そうか。美幸の綺麗な瞳に映るものは珍しいからね。そのペン達もさぞや喜んでいる事だと思うよ」


 私の目は自由が効かないけれど、目の前に広がる私だけの世界には美しいものだけが集められている。

 例えばこの、マゼンタカラーに彩られたシャープペンに鍵付きのお洒落な手帳。

 これらは私の瞳に映り、新しい世界を教えてくれたものたちだ。

 これらを得た私は夢中で自分が美しいと思う事を書き記し始めた。それは時には白馬の王子様がお姫様を救う物語に、時には一日の美しかった出来事を書き記す日記へと様変わりする特別なものだった。

 当然、私のことを可愛がってくれるお兄様の事も書いている。


「それでお兄様。用事とは何かしら?」

「ああ、その事なんだけどね。どうやらまた母さんの調子が良くないみたいなんだ。だから薬を買いに行こうと思っていてね」

「……あら、そう」

「それで、暫く美幸の手伝いには来れなくなるから伝えておこうと思ったんだ」


 お兄様は優しい。いつも私のことを気にかけてくれて愛してくれている。

 そんな優しいお兄様は私を捨てたあの醜い母親の事もしっかりと面倒をみている。

 そのことに軽い嫉妬の気持ちを抱きながらも、薄く微笑み、行ってらっしゃいと声をかけた。


 私の両親はとても美しい人達だった。

 母親はどこへ行っても名前の通じる程の女優であり、父親は今一番注目されている政治家である。輝かしい二人の存在。だからこそそこに生まれた私には居場所がなかった。

 存在の不確かな病に侵された私は父からすれば邪魔な存在でしかなく、そんな足枷から解放されるために彼はやがて私たちを捨てた。

 

 そこからの母親は酷いものだった。私を産むんじゃなかっただの貴女のせいで幸せな世界が壊されたんだと散々な言いようで、私を打ち続ける。

 兄が見つけてくれるまで止むことのなかった容赦のない暴力は私の心に強くトラウマを植え付けて今でも体の震えが止まらない。

 その少し後くらいだったろうか、今まで私の憧れだった綺麗な顔の母親を瞳は映すことを辞めた。

 以来自分の部屋へとずっと閉じ籠っていて、少し前に扉の前を通ったときには低い唸り声を響かせながら呪詛のような言葉を吐き続けていた。

 

 所詮臭いものには蓋をするしかなかった父親の方も、何をしくじったのか全てを失い。数日前に首を括ったとの話を兄から聞いた。

 ざまあみろと思う気持ちもないでは無いが、美しいものしか見ることのできない私は自分の顔の様に自身の心まで醜くなってしまうのはあってはならない事だと思い直し、今では彼らを憐むようにしている。

 私は思うのだ。憐みの感情は決して後ろ向きなものではないと。最も美しく趣深い感情こそが憐みだと、そう信じてやまない。

 

 私には優しい兄がいる。

 そんなお兄様は極度の恥ずかしがり屋で、幼い頃に私がプレゼントした美しい仮面をいつもつけて生活をしている。

 認めたくはないが、性格以外は完璧であった両親から生まれてきたのだ。お兄様は当然のように優秀で火の打ちどころの無い方だった。

 なにより、私の病が診断された頃から徐々に始まった虐待から幾度も守ってくれた心強い味方だったのだ。

 捉え方によっては家庭崩壊を引き起こした中心である私を憎んでも仕方ない立ち位置に居るにも関わらず。

 過去に一度不安になって尋ねてみた事があった。


「お兄様は私を恨んでいないのですか?」


 現状唯一の味方である人にこんな事を訊くのはとても怖かった。小刻みに震えていた私をお兄様は優しく抱きとめてくれ、そしてゆっくりと話し始める。


「あのね、美幸。僕は君が生まれてから一度も醜いと思ったことなんて無いんだよ。それどころか、なんて美しい妹が生まれて来てくれたんだろうと。その日は一日中神に感謝したくらいさ」

「お兄様……ありがとう。でも一日中だなんて、それはやり過ぎよ」

「あはは、そうだね。確かにそうかもしれない」


 その日のやり取りは今でも一字一句違えずに思い出せる。

 私を安心させるための冗談や頭を撫でてくれた優しい手の感触を忘れたことは無い。


 私は今までの人生を振り返ってみても幸せだったと言えるだろう。

 それは一重にお兄様の存在が大きいことは言うまでも無いが、私の病にも救われているのだと改めて思う。

 醜いものが見えなくなると言うことは、私にとって必要では無い情報は常に省かれていると言うことなのだ。

 耳から入ってくる情報すらもお兄様とのお話の機会を除けば殆どないのである。

 欲を言うならば、私の本当の顔を見てみたいと言う気持ちも無いわけではないが、何不自由無い暮らしをさせて貰っている身からすればそれは望みすぎと言うものなのだろう。

 私にはもうお兄様しかいないのだ。

 彼まで潰れてしまえば、とうとう私は終わりを迎える。

 それは怖くて仕方がないし、お兄様のいない人生など到底あり得ないのだ。

 だからこの病は別に治らなくても良い。

 そう、思っていた。


 ある日私が目を覚ますと、煤けた汚らしい天井が見えた。

 一瞬それが全く理解できなかった私は、認識の混濁で酔って吐いてしまう。

 自分の吐瀉物が喉に詰まり窒息しそうになりかけた私は急いで起き上がり、喉の奥へと指を入れてもう一度吐き出した。

 胃の中に何も入っていない状態で吐き戻す事への苦痛で涙ぐんでしまうが、間違いない。

 今目の前に映っているのは直前に私の胃の中から出たものだった。

 酷く不快な臭いとともに色と形、様々な情報が私に叩きつけられる。

 おかしい。意味がわからない。これは醜いものでは無いのか。次々と疑問が湧き上がるが、それに対する完璧な答えなどない。

 このままこうしていても仕方が無いと私は起き上がり、今まで自分が眠っていたベッドへ振り向けば、そこには何日も取り替えられずに放置されていたであろう黄ばんだシーツに、ボロボロで所々擦り切れてしまっているタオルケットが一枚あるだけだった。

 頭の中にはてなマークが広がり、何も理解できないし理解したくも無い状況が押し寄せる。

 逃げる様に辿々しい足取りで、美しい私の世界が広がる机へと向かえば、そこにあったはずのマゼンタカラーのシャープペンは半ばから折れており、鍵付きの手帳は破られ不快な臭いを発しながら丸めて捨てられていた。

 一瞬のうちに襲いかかる絶望の濁流に飲み込まれ、私は呆然と立ち尽くす事しかできない。

 

 暫くそのままでいると、どんどんと背後から何かが近づいてくる音が聞こえる。

 我に帰った私はお兄様が来てくれたのだと理解して、縋るために振り返る。

 

「お兄様!」


 私が話しかけるのと同時に、その手は私をベッドに押し倒した。

 

「……え?」


 分からない。解らない。判らない。理解らない。

 いや、違う。わかりたくないのだ。

 私を押し倒したそれは丸々と太った醜い肉塊で、さっきから忙しなく私に腰を打ち付けながら私の顔を愛おしそうに舐める。

 粘ついた唾液は付着した側から不快な臭いを放ち、私に吐き気をもたらす。

 ついに耐えきれず嘔吐く私を、その肉塊は容赦なく打つ。


「お前なに吐いてんだよ!殺すぞ」


 そう暴力的に叫んだ後、私の首を絞め始める。

 

「ああ、気持ちいいよ。美幸、君は本当に美しい」


 やめて。やめて。やめて。

 なんで、どうして、この汚い肉塊からお兄様の声が聞こえるの。

 黙ってよ!その声で、これ以上を私を穢さないで、辱めないで。

 私から……唯一の味方を奪わないで。


 あれからどのくらい経ったのだろうか、とにかく解放された頃には私は身体の至るところから異臭を放っていた。

 臭くて汚らわしくて仕方がない。

 シャワーを浴びようと扉を開けて廊下に出れば、もう既に慣れかけているものとはまた別の異臭が漂ってくる。

 私の部屋の位置から考えるとおそらく母親の部屋だろう。

 ゆっくりと近づいて、覚悟を決めて扉を開ける。

 ぶぶ、ぶぶと言う虫が飛び回る音が聞こえて思わず顔を顰めるが、それよりも奥にあるものから目を離す事が出来ない。

 部屋の奥に佇むそれは多分、母親だったもの。

 顔は灼け爛れて元の美しさなど微塵も感じられない程で、身体はガスが溜まっているのかブクブクと膨張しており所々それが破裂して黄緑色のどろりとした液体を垂れ流していた。

 どうしようもない惨状に無理矢理顔を逸らせ壁に目を向ければ、おそらく自分の血で書かれたのであろう夥しい量のごめんなさいと言う文字があった。

 何があったのかまではわからないが、誰がやったのかは薄々想像がつく。

 無残な死体に混乱していた頭に、少しずつ平静が戻ってくる。

 このままこの家にいれば、いずれは私もこうなるという漠然とした思いが私に絡みつく。

 逃げなければいけない。

 そう決意した瞬間、後ろから頭を殴られた。

 薄れゆく視界の中で美しい仮面を付けた肉塊が私を担ぎどこかへ連れて行くのを感じる。

 そこで、私の意識は途切れた。


 冷たくて硬い感触を背中に感じて目を覚ます。

 辺りを見回すが、誰もいない様だった。

 霞みがかった思考を頭をふる事で正常に戻し、

何があったのかを思い出す。

 どうやら私が担ぎ込まれたのはあの肉塊の作業場のようで、その真ん中にある手術台の様なものの所に寝かされていることまでは分かった。

 急いでここから逃げなければならない。

 このままでは殺される。それは絶対に嫌だ。

 なんとしてでも逃げ延びて、今度こそ私としての人生を歩き出すのだ。

 そう自分に喝を入れ、自由に動かしづらい身体を捻り寝返りを打つ。

 なんとか、横向きになった私は両手を使い手術台から降りようとした所で身体の異変に気づく。

 

「……あ…れ?」

 

 地面に最初に着くはずの足がない。

 蒼ざめた顔のまま、まさかと下半身へと顔を向けると足の付け根から先が切り落とされていた。

 強力な痛み留めを使っているのだろう。だから痛みにも気付けなければ、身体が妙に動かし辛かったのだ。

 呆然としていれば、遠くの方からどんどんと言う足音が聞こえてくる。

 絶望が私の心を満たす。

 再び私の目の前へと現れた肉塊は下卑た笑い声をあげて、私を抱き抱え手術台へと戻す。

 何が楽しいのか、切り落とした私の足とその為に使用した器具を見せつけてくる。

 まるでアイスを舐める様に、足の指先にしゃぶりつく様をまざまざと見せつけられながら、再び私の上へとのしかかってくる。

 私を凌辱し始めた肉塊は先程まで大事に抱えていた足を放り出し、私の身体を貪り始めた。

 ぴちゃぴちゃ、という不快な音を鳴らしながら首元を舐めている。

 恐らくコイツを殺せるチャンスは今しかない。

 私はやつが足を切り落とすときに使った器具を見つからないようにじわりじわりと此方へと手繰り寄せる。

 音を鳴らさない様にどうにかしっかりと右手に掴んだ私は、思い切り左手で肉塊を突き放した後器具を横へと振り抜く。

 奇妙な程抵抗なくその器具は首を切り落とした。


「お兄様……」


 美しい物しか見せる事の無かった時の事を思い返しながら、両手を使い這いつくばってこの忌々しい場所から逃げ出す。

 作業場はどうやら地下にあった様でなんとか階段を登った所で、最大の誤算に再び絶望が溢れてくる。

 ここは地下室なので出口となる扉は天井にあるのだ。

 足のない今の自分ではどう足掻こうが届く事はない。

 おそらくあの肉塊はそこまで計算した上で足を切り落としたのだろう。

 万が一逃げ出す様な事があっても無駄だと理解させる為に。

 どうしようも無いこの状況に既に諦めの感情の方が強くなっている事を悟る。

 

「どこからおかしくなったんだろう。だって醜いものが見えなかった時はお兄様だけは普通だったのに」

 

 そんな事は考えても無駄だと言う事は理解しているが、思わずにはいられない。


「もしかして最初から狂ってたのかな」


 答えのない問いを延々と口から垂れ流す。

 衰弱し切った身体は次第に冷たさを帯びてくる。

 地下の冷気も相まってとても寒い。


「そうだ、どうせなら最期に私の顔をみてやろう」


 美しいものしか映さなかった瞳はもう無くなった。

 これでやっと本当の私を見る事が出来る。

 地下の階段をもう一度這いつくばって降り、近くにあった鏡へと向かう。

 生まれてから初めて見る自分の顔に少しの緊張と恐怖感を覚える。

 一歩また一歩と鏡に近づくたびに心臓が早鐘を打つ。鼓動が耳元で聞こえる様でとても喧しい。

 たどり着いた鏡へ意を決して顔を上げるとそこには。


「ああ、なぁんだ」


 鏡に映る自身の姿をみた私は思わず笑いが溢れる。

 

 先程殺した兄の所へ這って行き、私は器具を頭へ振り落とした。

 

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