三度目のセックスの後、彼女の腕にハンコ注射の痕があることに気付いた。

ラッコ

三度目のエッチの後、彼女の腕にハンコ注射の痕があることに気付いた。

 愛梨の二の腕に、わりかしはっきりBCGーーわかりやすく言うところの『ハンコ注射』の痕があることに気付いたのは、三度目のセックスを終えたあとのことだった。


 白くてシミひとつない肌に突如浮かぶあがる18のくぼみ。毛穴すら見つけるのも難しい陶器のようなその肌は、彼女が日常的に施している手入れの存在を感じさせる。無意識で手を伸ばし、そのくぼみの深さを確かめるように指先をそっと触れると、ちょうどタンクトップを着終わったばかりの愛梨が、ビクッとしたように振り向いた。


 切れ長の涼しげな瞳が、いぶかしげに私を捉える。


「え、なに?」

「……ンコ注射」

「え?」

「いや、痕あるなって。ハンコ注射の」


 そう言うと、愛梨は自分の二の腕に視線を送り、むにゅっと掴むと手首を内側に回転させるように動かした。細身ながらも、しっかりと、しっとりと柔らかいものが大人しくその動きに合わせ、形状を変える。自分で見るには、少し外側にあったらしい。


「え、みんなあるんじゃないの?」

「ない人もいるよ。私ないし」

「え……あ、ホントだ。え、なんで?」

「私、帰国子女でしょ?」

「へー、ない国もあるんだ」

「赤ちゃんのときは受けたんだけど。ほんこん……れんこんだっけ」

「瘢痕?」

「それ。瘢痕化って言うんだけど、どの程度残るかは個人差がある、って前にネットで見た気がする」

「へえ……」


 どこか気の抜けた返事を愛梨はする。けど、そりゃそうだ。私が急にハンコ注射とか言い始めたんだから。


 私は、女の子と肌を重ねたのは愛梨が初めてだ。だからこそ、そのスベスベして柔らかい肌と、どこか異質なハンコ注射の痕の間になんとも言えぬギャップを感じてしまったワケだけど、きっと愛梨は私が初めてじゃない。と思う。


 そういう理由もあって、こんなふうに薄い反応なんだろう。まあ、あくまで想像だけど……詳しくは聞いたことないけど。


 そして、さっきサラッと『女の子と肌を重ねるのは』とか書いたけど、よく考えなくても男の子と重ねたこともなかった……こじらせ処女の記憶改ざん能力を侮ってはいけないね。自分すら騙してしまう。


「愛梨、なんか飲む? お水持ってこよっか?」


 くだらない脳内ひとりツッコミを振り払うべく、わざと明るい声を出して立ち上がると。


「由奈……私、今すっごいことに気付いた」


 愛梨が、真面目な顔でこっちを見ている。


「え……なに?」

「由奈……私さ……」

「うん……」

「私……じつは、『ハンコ注射フェチ』だったみたい」

「……なにそれ」


 気の抜けた声が出た。今度は私が尋ねる番だった。


 すると、愛梨は少しばかり乱暴に私の手首を引っ張り、半強制的に横へと腰掛けさせる。


「どういうこと?」

「どういうこと……フェチってのは、ある特定のモノにこー胸がモゾモゾするってか」

「それは知ってる」

「由奈に変態って思われるのイヤだけど、でもそう思われたとしても自分のなかで新たなフェティシズムがあることに気付けば喜びがあるから話したいというか……ひとまず水持ってくる」

「う、うん」


 ベッドに押しつけるかのように私の肩をギュッと押すと、愛梨は「水、水、水……」と言いながら冷蔵庫へと駆けてった。


 と言っても大学生が一人暮らしするような狭い部屋なので、到達するまで数秒だし、私が今いるベッドの上からも、その姿ははっきり見ることができる。


 冷蔵庫の前でしゃがんだ彼女は、茶色のマッシュっぽい髪型やスラッとした体型もあって、とても格好良い……のだけど、女子としては平均以上の身長があるとは言え、男性と比べると小柄だから、体の表面積が大きいワケではない。


 だからこそ、ハンコ注射の特徴的な『9×2』の痕もそれなりの存在感を放っていて、ダウンライト代わりにつけていた無音のテレビの光に照らされ、少し離れたここからでも確認することができた。


 そんなことを思うにつれ、3回肌を合わせてやっとそこに意識が向いた自分が、なんだか恥ずかしくなってしまう。最初の2回、どれだけ余裕がなかったんだよ……っていうね。まあでも最初から余裕ある人なんかいないよね。むしろ3回でちょっと周り見れるようになったんだから、私の状況把握能力は結構高いのかもしれない。生まれた時代が時代ならきっと女軍師にでもなってるな。


「ん、どうかした顔赤くして?」

「なんでもない」


 気付けば、愛梨がこっちを向いていた。私は顔を横に振るが、すでに彼女はニヤっと悪い笑みを浮かべている。


「なんでもない?」

「うん、なんでもない」

「ハッハーン……由奈、さてはまだ息切れ中だな?」

「う、うるさい……」


 そんなふうに私をからかいながら、愛梨は隣に座り、エビアンを渡してくれる。彼女はジンジャーエールの瓶だ。とくに合図もなく、私たちはそれらをぶつけ合って小さく乾杯。 軽く一口飲むと、愛梨が切り出す。


「んじゃ、ちょっくら考えてみようよ。なぜ人はハンコ注射にグッとくるかについて」

「いきなり主語広げるね。サンプル数、今1だけど」

「え、由奈は好きじゃないの?」

「え、逆になんで好き前提?」

「だってさっき反応してたし」

「……んー、あれはなんてゆーか、あるんだなって思ったってゆーか……」

「まあいいや。とりあえず今は2人に1人が好きってことで進めよう」


 そう言いながら、愛梨は脚を組む。部屋用のショートパンツはシャカシャカとした素材のシンプルなモノだけど、スッと伸びた長い脚にはとても合っている。


「どうして愛梨はハンコ注射の痕が好きなの?」


 私が尋ねると、愛梨はんーと斜め上を見る。


「なんで……好きだから好きとしか言いようがないかな?」

「いやダメだよ。それじゃ考えたことになんないよ」

「そっか」

「言い出しっぺそっちなんだし、ちゃんとやって」

「ごめんごめん。でもさ、好きに理由はないでしょ? 私はハンコ注射の痕が好きだから好き。昔からかわいい女の子の腕にハンコ注射の痕があるとなぜかすごくときめいてさ」

「ふうん。なぜか、ね」

「でも、あえて理由を見いだすとすれば……やっぱそこに綻びがあるからかな?」

「綻び?」

「そう、綻び」


 聞き返すと、愛梨はしっかりと頷いてみせる。その表情には自信が感じられる。


「かわいくて肌スベスベなのに、ハンコ注射の痕があることで隙が生まれてる的な」

「それが愛梨の言う隙か」

「そそ。あとは不条理感みたいな?」

「不条理? ベケットとか別役実的な?」

「お、さすが戸山女子大文学部。かちこいねえ。よちよち」

「バカにしてる?」

「してないよ」


 愛梨は、私の頭を撫でる手をどけてそう言う。


「私の言う不条理感はそういうのじゃないし」

「どんなの」

「なんて言うかさ……かわいくて肌スベスベな女の子を見ると『ああ、やっぱ女の子っていいなあ』『どんなクリーム塗ってるんだろうなあ』とか思うんだけど、ハンコ注射の痕はどうにもならないワケでしょ? 的な?」

「的な、ね。んー、不条理感は正直ちょっとわかんないけど、でも綻びとか隙ってのはわかんなくもないかな」

「ホント!?」


 食いついてきた。おかげで、ジンジャーエールがちょっとだけ瓶からあふれる。


「もう、落ち着きないんだから」

「ごめんごめん」


 さほど謝る気もなさそうなテンションでそう言うと、愛梨は濡れた指を私の口の前に差し出してきた。からかうような笑顔を浮かべているので、ついムッとなって、私はついばむようにして濡れた指に口を付ける。愛梨は声を発さずに「おっ」という顔を浮かべて、そしてニヤッと笑った。


「話戻すけど……それって親近感、みたいなことでしょ?」

「親近感か。それかも」

「この人も自分と同じなんだなって思うって言うか、子供時代を想像できるというか」

「あ、それもあるわ」


 ここにきて、愛梨の言っていることがだんだんわかってきた。


 きっと、ハンコ注射の痕が好きな人は、そこにある種の無防備さとか、その人の素の部分を見いだしているんだと思う。

 そして、そもそも二の腕は服で隠れていることも多いし、ノースリーブとか着ない限り、夏でも日焼けしにくい。


 だからこそ、ハンコ注射の痕の、歪なのに規則正しいあの感じが、妙に生々しく感じられてしまうのだ。


 でも、そうなってくるとひとつ疑問が浮かんでくる。


「由奈、どうかした? なんか納得してなさそうな顔だけど」


 そして、すかさず愛梨が聞いてくる。この子は私の表情の変化に聡い。私がすぐ表情に出るというだけかもしれないけど。


「……べつに」

「全然べつにって顔じゃないのに?」

「……不思議だなって思っただけ。だって私にはないワケだし……」


 そう言うと、愛梨は笑いを堪えきれずにハハハと吹き出し、そして私をギュッと抱き締めてきた。


「妬いてんだなこのこの!!」

「う、うるさいっ」


 そして、少しだけ顔を話すと、年上のお姉さんかのような顔で見てくる。


「たしかにさ。私はハンコ注射の痕好きだけど、でもそこで好きになるワケじゃない」

「それはそうかもだけど……」

「大丈夫、由奈はかわいいよ」

「……あ、ありがと」


 愛梨があんまりにもはっきり言うので、私は顔が熱くなってしまう。


 そして振り払うように、こんなことを口にする。つい今しがた、思い出したことだ。


「そう言えば、ハンコ注射の痕のことで思い出したことがあるんだけど」

「ほう」

「あ、これは私の友達の話なんだけど」

「ってことは由奈の実体験か」

「いや違くて。本当に友達で。高校のとき」

「続けて続けて」


 愛梨はジンジャーエールをクイッと飲みながら言う。


 私の言葉を信じているのかあやしいところだけど、とりあえず続けるしかない。


「学校にさ、すごくクールな数学の先生がいたんだけど。男のね。背が高くてスリムでまあ普通にイケメン? なんだと思う。他の子がきゃあきゃあしてたから。私は全っ然興味湧かなかったんだけど」

「ほう」


 愛梨の表情が少しだけ真剣味を帯びる。


「友達もファンのひとりで、とくにその先生の手が好きらしくて。大きいんだけど指が長くてキレイで、まあたしかに数学教師というよりピアニスト的な雰囲気あって」

「そりゃエロいかもね……黒板に普通に文字書いてるだけなのに女子生徒うっとりしちゃうやつ」

「うん。あ、そういや声も良かった気がする」

「持ってるね~。もはや授業が愛撫だな?」

「こら、エッチな言い方禁止」

「ごめんごめん」


 さほど、というか全然謝る意思が感じられない謝り方だ。


「でもその先生、格好良いんだけどちょっと人間味がない感じだったんだ。べつに怖いとかってワケじゃないんだけど、いつもクールで汗とか絶対かかなさそうで……その先生とさ、その子、市の体育館でたまたま会ったんだって」

「ふむ」

「弟がバスケチームに入っててその練習を見にいったら、そのあとに先生が入ってる社会人チームの練習があったとか、まあそんな感じ。で、バスケってユニフォームって腕見えるでしょ?」

「あー、そだね。丸見えだね」

「で、その先生も二の腕丸見えだったらしいんだけど……」

「ハンコ注射の痕があって、その子はノックダウンしちゃったと」

「当たり」


 神妙にうなずいて見せると、愛梨は白い歯を見せて笑う。


「うわ、たしかにそれは普通の女の子なら落ちちゃうかもね」

「そうだったなって。思い出したの」

「たしかに、普段クールな人の腕にハンコ注射痕見えると、グッとくるかもしんないわ。そこは男でも女でも変わらないんだろね」

「うん。てかさ、ほんと好きなんだね……」

「まあね」


 私の言葉に、愛梨はニヤッと笑う。


「てか、ホントに由奈の話じゃなかったんだね?」

「だから最初に言ったし」

「言ったけど、『友達の話なんだけど~』って正直『私の話なんだけど認めるの恥ずかしいから~』ってとこあるし」

「あるしって……あれ、愛梨?」


 なぜか、愛梨が軽くうつむいていた。


 気になって下から覗き込むと……どういうワケか、悔しそうな、それでいてどこか安堵したような表情になっている。


「いや、気にしないでほしいんだけど、正直最初、マジで由奈の話だと思ってたから……途中までちょっと妬いてて、今安心してる……みたいな……」

「愛梨……」


 カッコかわいい愛梨が、ヤキモチを焼いているのは、正直めちゃくちゃかわいくて……私は思わず彼女の背中に手を回し、そっと抱き寄せる。


「そんな心配いらないよ。私には愛梨しかいないから」

「由奈……」


 愛梨のニオイが鼻腔に流れ込んでくる。気のせいか、彼女の体は今も熱い。その熱は私の体にもすぐ伝播してきて、体温も心拍数もあがっていくのを感じた。


 そして、私はチラリと時計を見る。時刻はすでに24時を回っていた。


「由奈、今時計見てたでしょ?」


 と、そこで愛梨が聞いてくる。抱き締め合ってたから私の視線は見れないはずなのに、微妙な体の動きで気付いたらしい。


「えっと……いや、その……」

「大丈夫。私も同じこと考えてたから」


 そして、その言葉を言い終えると、愛梨が私の方向に、体重を乗せてきた。背中にベッドの感触を覚える。


 明日、授業は1限から。はたして、間に合うのだろうか。


 そんな不安を抱えながら、私はまたしても、愛梨に身をゆだねていった。

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三度目のセックスの後、彼女の腕にハンコ注射の痕があることに気付いた。 ラッコ @ra_cco

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