ある夏の一日
松本 せりか
ある夏の一日
「夏と言えば、向日葵でしょう」
千代さんはグラスの中のストローをもてあそびながら、笑ってそう言った。
椅子に座ってアイス珈琲が入ったグラスを手でもてあそびながら僕も言う。
この、ストローも新し物好きの千代さんが買ってきた物だ。
「だからってねぇ。人ん家の庭一面に向日葵を植えることも無いでしょう?
それに……」
洋館のテラスで、椅子に座ってタライの氷水に足を浸している千代さんをチラッと見て、僕は溜息を吐いた。
着物に袴。はいからさんと言われる女学校の制服の袴を膝上までからげて、足袋をテーブルの上にポイッと乗せている。
大正時代の女性としてはあるまじき姿だ。
「なあに?
もうすでに、親御さんには説教されてのか……。
「氷屋さんが来たと思ったら、こんな事に使うなんてねぇ。贅沢なもんだ」
「だって、暑いんだもの」
ちょっとふて腐れたように千代さんは横を向いた。
「こんな姿を、ご婚約者が見たら何と思うだろうね」
僕はちょっと意地悪を言った。もうすぐ正式に婚約するだろう男を思い起こさせるように……。
「関係無いでしょう? そんなこと」
「うん。関係無いねぇ、僕には」
僕は頬杖を付いて、千代さんを見る。千代さんは、自分が言った言葉に自分で傷付いているようだった。
松平千代さんのお家は、代々続く呉服の
明治から大正時代にかけて上流階級を中心に和装から洋装に移行している時代、流行に乗り遅れてしまった感がある。
千代さんの縁談は、その家業の支援を申し出た資産家とのものだった。
「ごめんなさい」
「そんな格好で、謝られてもねぇ」
僕は溜息交じりにそう言った。
千代さんと出会ったのはこの春のこと。
千代さんは、猫のようにこの洋館に迷い込んできた。
あまり手入れされていない庭の花壇の花咲乱れている風景に千代さんは溶け込んでいて、僕は声もかけられず見とれていた。
僕の気配に、気が付いた千代さんはゆっくり振り向いて。
「綺麗ね」
とだけ言った。
それが、僕らの出会い。
僕は、肩書きだけは大学の学生だけど、あまり大学には行けていない。
病弱であまり根性も無い僕は、いわゆる桜井家一族の落ちこぼれという奴で、この洋館を与えられ放置されていた。
通いの家政婦さんはいるし、お金は充分に与えられている。
だけど、ただそれだけだ。
それだけの存在の僕に、千代さん……松平千代と言う女性は眩しく見えた。
カラン。
グラスの中氷が音を立てて、僕は現実に引き戻される。
「秋にね。結納をして、正式に婚約することになったの。
来年の春には挙式だって……女学校も辞めるの」
「……それは、おめでとう」
僕が、向日葵を見たままそう言うと千代さんはバッと僕の方に振り向き
「本当に。本当に、そう思うの? 本当に、めでたいと」
振り向いた勢いで、膝までからげてた袴が氷水に浸かる。
「濡れているよ。千代さん」
「
そんな泣きそうな顔で、僕の名を叫ばれてもね。
僕は千代さんのところまで行き、跪いて袴を少し上げて水気を絞る。
「会ったことも無い人なの。私、お金のために売られていくようなものなの」
「君が今、足を浸している氷水の氷も、持って来たストローも、そのご婚約者のお金で買った物だろう? 贅沢が出来るよ、お金があると」
よかったねぇって僕は言った。だって、どう言えば良いんだ。
僕は何も出来ない。実家からのお金を止められてしまえば、使わずに貯めてきたお金で暮らしていくしかない。
新しい物好きで好奇心でいっぱいの千代さんを、僕の苦労に巻き込めというのか?
「タオルを持ってくるよ。もう、帰るだろう?」
僕は立ち上がりタオルを取りに屋内へ入ろうとした。
「帰らない。今、帰ったらもうここに入れてくれないでしょう?」
「僕が……と言うよりは、君がもう来れないだろう? 婚約までは好きにさせて貰ったのだから、良いじゃないか」
実際、寛大だと思うよ。僕が婚約者の立場なら絶対に許さない、他の男のところに行くなんて。
「
泣きながら言い募る千代さんに僕は大げさに溜息を吐いてみせた。
「あのねぇ。千代さんが帰らなかったら、まず君の家から僕の実家に連絡が行くよ? 僕の実家は千代さんの事を認めていない。
病弱で役立たずの僕が、何のためにここで生かされていると思っているの。
君と同じ立場だよ、僕も……」
「おねがい……。ここに置いて下さい。わたし、
ずっと……。苦労したとしても、ずっと
タオルを取りに屋内に入ろうとしていた僕を後ろから抱きしめてきた。
千代さんの濡れた袴に当たって、僕のズボンの裾も濡れてしまっている。
お互いの汗のにおいが微かにしていた。
「お互い、夏の暑さにあてられてるな」
どうしようもない、行き詰まった関係だ。僕の冷静な部分は警告を発する。
背中で千代さんが僕に抱きついたまま何も言えないで泣いていた。
「千代さん。二階の僕の部屋に来る?」
そう訊いた僕の声は少し掠れていた。
僕は、泣いている千代さんの手を引いて二階に連れて行く。
千代さんが振り払おうとすれば振り払える、そのくらいの手の力。
千代さんは、意味が分かっているのだろうか? 素直に付いて来た。
自覚はあった。
僕は、千代さんにひどいことをする。
婚約が決まっているという、千代さんに……。
夜、千代さんの家から僕に千代さんが帰っていないと連絡があった。
やっと決まった縁談を前に、大事にしたくなかったのだろう。僕の実家の方には連絡をしていないようだった。
ここに居ることを告げると、すぐに迎えが来る。
千代さんは震える目で僕を見たけど、家族の迎えに素直に従い帰っていった。
僕らは、賭けをしたのだ。
妊娠しなかったら、千代さんは大人しく婚約者の元に嫁ぐ。
妊娠してしまったら、僕のところに来る……と。
数ヶ月後、千代さんは僕のところに逃げるようにして、やって来た。
おしまい
ある夏の一日 松本 せりか @tohisekeimurai2000
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