ヤクトニプツェルの青いツノ
深見萩緒
第1話
獣は水辺に跪いていた。既に事切れているようだった。あまりにも美しい、澄んだ深い青色の
近付いてよく見てみれば、青の中に砂金のような輝きが散りばめられている。見れば見るほどに、そのツノは心を魅了した。これはまさしく、この地域に住むといわれる「水源の神獣」、ヤクトニプツェルに違いない。
ヤクトニプツェルは聖なる生き物で、ヤクトーニカという一族が彼らの生態を守っているのだという。この生き物のツノを採れば、ヤクトーニカの連中は怒るだろうか?
(しかし、もう死んでしまっているし……どうせ、ばれやしない)
ごりごり……ごりごり……木の枝を落とす要領で、ツノを削ぐ。落ちた粉も布で受けて回収する。染料か、化粧粉として売れるかもしれない。男の意識は既に、山を下りツノを売ってしまったあとの算用に向いていた。老朽化が酷い家を立て直して、馬ももう一頭買おう。よそ行きの服や靴も新調して、妻にも何か買ってやると喜ぶだろう……。
華やかな生活に思いを馳せ、男はひたすらに手を動かす。ごりごり……ごりごり……。
「それで、ツノは高く売れたのか?」
急に途切れてしまった話の続きを促すために、旅人は合いの手を入れた。褐色の肌に銀の髪、滾る血液を連想させる真紅の瞳は、この辺りではあまり見ない風貌だ。旅人はよほど遠くから来たのだろう。路銀を稼ぎたいが何か良い話はないかともちかけて、宿の主人が話し始めたのが、青いツノを持つ獣の話だった。
「ははは。そう簡単にはいかないさ」
宿の主人が笑う。
「というか、お客さん、こういう儲け話を信じちまうクチか? 騙されないように気をつけな」
「なんだ、作り話か」
旅人は「信じて損したぜ」とため息をついて、塩胡椒で焼いただけの肉を頬張った。宿の主人は感情の読めない笑みを顔面に貼り付けたまま、洗った皿を拭いている。
「作り話で構わないなら、続きを聞いていかないか」
旅人が返事をする前に、宿の主人は再び語り始める。
ヤクトニプツェルのツノを携えて、男は山を下りる。三本全てはさすがに一人では持ちきれない。しかし何とか落とせたこの一本だけでも、売ればかなりの値段になるだろう。
傷をつけないように布で何重にも巻いたツノは、ずっしりと重く肩に食い込む。しかしこれが生活を一新させるような良い金になると思うと、どんな重さも苦にはならなかった。
霧が出てくる。
(早めに休める場所を見付けた方が良いか……いや、もう少し歩けば人里に着くはずだ。もう峰は過ぎたのだし……)
まだ日が落ちるような時間ではないはずなのに、やけに暗いのは霧のせいだろうか。気付けば鳥の声は一切止み、足元を這う虫の姿すらない。静寂の中、男の息遣いだけがやけに大きく響く。霧が濃くなる――。
(……おかしい)
男は立ち止まった。ずっと坂を下っているはずなのに、山を下りれば下りるほど霧は深くなっていくようだ。今やミルクの海に投げ出されたかのように、視界は白く閉ざされている。振り向いてしまったが最後、男は自分がどちらから歩いてきたかすら分からなくなってしまった。
ホー、ポポー。
フクロウの鳴き声がする。
ホー、ポー、ホホホー。
それは少しずつ男に近付いてきているようだった。今更になって、神獣に手を出してしまったという後ろめたさからの恐怖が、のっそりと頭をもたげる。
ツノを捨てて逃げよう。そう思って荷を降ろしたその瞬間。
ホーーーーーーーーーー。
男のすぐ耳元で、その音がした。
「それで、その男はどうなった?」
旅人は、またしても中途半端に途切れてしまった話の先を促す。「殺されたのか?」
「殺されはしなかった。男は死んだヤクトニプツェルからツノを奪っただけで、殺してはいなかったからな」
「じゃあ、採ったツノを取り返されて
「いや、そういうわけにもいかなかった。命の対価は命をもって、ツノの対価は四肢をもって支払わせる。それが神獣を守護する一族、ヤクトーニカの
異様な霧が、ヤクトーニカ一族より与えられた猶予であると、気が付くのが遅すぎた。
動かない身体は大地に伏し、しかし意識だけは明瞭だ。男の右手首に刃物があてがわれた。それは男がヤクトニプツェルのツノを落とすときに使った、まさしくそれに違いなかった。
いっそ気絶したほうがましだっただろうが、それを許さないことも含めて罰なのだろう。刃物が引かれ、また押し戻される。ごりごり……ごりごり……。血は流れず、手首からは深い青色の粉が落ちる。はっきりとした意識と激痛の中、絶叫することも出来ない。霧に曇った刃が、男の手首を何度も何度も往復する。ごりごり……ごりごり……ごりごり……。
「不思議なことにね、切り落とされた手首はヤクトニプツェルのツノと同じ、深い青色の石英になったんだ。ヤクトニプツェルのツノはヤクトーニカに取り上げられたが、男の手元には自分の手首が残った。金の粒が散りばめられた、青く美しい手首……。それを売っても良かったが、まあ、売らないさね」
宿の主人は皿を拭く手を止め、右手で髪をかきあげた。切断された手首より先は布に包まれ丸くなっており、そこに器用に布巾を引っ掛けて皿を拭いていたのだった。
「……作り話、なんだよな?」
「作り話さ、もちろんね」
旅人はそれ以上追及せず、夕飯の後に出された一杯のぶどう酒を飲み干した。窓の外は夜である。針葉樹の真っ黒な森が広がる山々から、フクロウだろうか、低い声で何かが鳴いた。
ホ―。
ヤクトニプツェルの青いツノ 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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