純文学は美しいということをネット小説で痛感させられるとは

 インターネット小説の大部分は小説ではない。声を大にして言えることではないが、少なくとも私はこう思っている。
 文頭が字下げされていない。セリフにwや笑がある、など。
 見るに堪えない文章が多くある中で、一際輝く小説。それがこの嘆息だ。

 何より暴力とも形容できる文章力は、この自分の身体が言葉に埋められていくような、知識の快楽を強く覚えた。
 誰にでもあるような、日常の出来事。その時こそ魅力的に映える一瞬かもしれないが、数日もすれば忘れられるような。言ってしまえば人生の糧にはなり得ないそんなワンシーンをこうも魅力的なものに錯覚させられるのかと、驚かされる。

 何より驚くべきは、この小説を読みながら辞書を開いたということだ。
 小説を読みながら辞書を開くのは中学生以来か。その言葉が出てきたときには、自らの知識の無さと、上には上があるという言葉の重大さに気付かれ、ふと笑っていた自分がいた。

 物語としても一万五千字とは思えないほどに面白いストーリーが展開しているはずであるのだが、私の内から出てくるのは、一貫して文章に対する感動だ。
 堅苦しく、よくわからないようなことについてだらだら語るというイメージがあった純文学だが、これほどまで現代に綺麗に落とし込めている純文学であれば、是非もっと読みたいと、既に身体が叫んでいるように思える。

 嘆息。実に美しい作品だった。



 と、自分も文章を意識してレビューしたものの、サンダルウッドさんには到底敵いそうもない。