嘆息
サンダルウッド
第1話「救世主」
工事中の狭苦しく薄暗い通路を歩きながら、私は大げさに嘆息する。
嘆息の理由は多岐にわたった。地球規模で前代未聞のパンデミックが発生しているにも関わらず満員電車にさほど変化のないことや、乗り込んだ車内が汗臭くかつ醜悪なサラリイマンだらけだったことや、途中の駅でいったん降車する際にイヤフォンが誰かの鞄に引き込まれそうになったことや、気を紛らすためにスマートフォンの無料アプリケイションで将棋を指すことさえもままならなかったことなど、この一時間ほどに限っても挙げればきりがないほどだ。
とりわけ私のため息に絶望感を塗りつけたのは、今日が月曜日であるという事実だった。致し方ないと捉えることもできたであろう車内での諸々は、でも月曜日によって底の深い泥沼にはまったかのような災難にうつる。気持ちを上げるために両耳に流しているハード・ロックも、忌々しい雑音に思えた。改札を抜けたところで、私は音楽プレーヤーを止める。
横断歩道をわたった先のコンビニエンスストアに入るやいなや、私はまた嘆息した。優に十人を超える無表情な男や女が、
いつもの唐揚げ弁当を手にして、その間抜けなほどに整然とした列の最後尾に立つ。横長のレジカウンターには、フィリピンかマレーシアあたりから稼ぎに来たのであろう若い女が四名と、てきぱきとした動作のそれなりに年老いた日本人の男が一名。見飽きた構図だ。他に選択肢はあるものの、このコンビニエンスストアが弁当の類では最も私の口に合うため、仕方のないことだった。嘆息するほどの場面でもない。
「お待ちの方どうぞ~」
聞き慣れた声を受け、一番奥のレジへと歩を進める。“武藤”と書かれたネームプレイトを胸につけた男に、私は弁当を差し出す。
「こちら温めますか?」
「いえ、そのままで」
もう何百回と重ねたであろう、紋切り型で実りのないやり取り。
内心で嘆息し、長財布から五百円玉を取り出す。マニュアルの重要性を否定するつもりはないが、互いの耳と口が疲れるだけの不毛なキャッチボールを毎度律儀に実行する融通の利かなさはたいしたものだ。
「五十円のお返しですね。ありがとうございまーす」
店を出て、レジ袋の中身を確認する。弁当の他には、
わかってはいたことだ。あの武藤という店員は、弁当を購入しても絶対にお手拭きを付けない。一方、似たりよったりの顔をした区別のつかない異国の女店員たちは、ほぼ毎回割り箸と一緒にお手拭きも入れてくれる。
お手拭きの重要性は、これまで三十年間生きてきて十分すぎるほど知っているつもりだ。食事中、思いがけずに手指が汚れた時、わざわざ洗面所まで足を運ぶのが面倒なケースが、世の中には数多く存在する。そんな時に一歩も動かず解決してくれる救世主がいるのといないのとでは、食事を開始する際の安心感に差が生じるのは言うまでもない。
私の経験上、どこのコンビニエンスストアでも弁当を購入すれば自動的にお手拭きも付属されることが大半だった。それにも関わらず、武藤は一度たりとも救世主を提供しない。面倒なのかそれとももったいないと思っているのか理由は判然としないが、私にとっては由々しき事態である。
接客態度の観点から見れば、異国ガールズよりも武藤のほうが数段クオリティーは高い。無愛想に近い表情で拙い日本語を投げかけてくる彼女らと比べて、ほどよい笑顔を保ちつつ明瞭な口調で繰り出してくる武藤のほうが、同じ定型文でも良質たることは歴々としている。
しかし、男に――それも年老いた――丁寧な接客をされたからといって嬉しさを感じられるはずもなく、接客態度の良さというアドヴァンテージがお手拭きの不在というディスアドヴァンテージを払拭することは到底できないのである。これが、仮に若くて器量よしの女であればお手拭きなど眼中に置かないことであろうが、男というのは総じて軽薄で露骨な生き物なので仕方がない。
本日の昼食はお手拭きなしで迎えねばならないという現実を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます