奪われた冷蔵庫

扇智史

* * *

 きっかけは、牛乳だった。

 あまり濃い味が好きじゃないから、いつもは成分無調整の牛乳を備蓄しているのだけど、その朝の冷蔵庫には1本だけ、いわゆる「おいしい牛乳」が置かれていた。

 きっと、わたしか実加のどちらかが間違えたのだろうと思った。

 お互い、相手の嗜好はよく知っているけれど、こだわりよりも疲れが勝る生活だ。仕事のあと、深夜のコンビニや早朝の24時間スーパーの棚から、うっかりいつものとは別の商品を手にして、気づかないままレジに持って行ってしまうのもあり得る話だろう。

 夜勤帰りで寝ている実加を起こすほどのことじゃない。そう結論して、わたしはいつもと違う味の牛乳で朝食を流し込んで、マンションの3階からエレベーターを降りて出勤した。空調の音がやけに大きいのが気になって、ちょっといらついてるのかな、と思った。


 その次はジャムだった。

 冷蔵庫のいちばん上の段、サンダルフォーのアプリコットがあるはずの場所に、それよりずっと安いブランドのストロベリージャムの瓶があった。

 一度グレードを上げてしまうと戻れない類の嗜好品というのはたくさんあって、わたしにとってのそれはジャムだ。社会人になった最初の夏に初めて口にして以来、ずっと同じもので通している。こればっかりは間違えっこない。

 布団にくるまっていた実加を起こした。サンダルフォーのジャムがいかにナチュラルで豊かでやさしい味わいだったか、わたしがその味をどれほど愛しているか、そもそも初めてアプリコットジャムを口にしたときの感動をずっと聞いてくれたのはほかならぬ実加ではなかったか。そんな話を延々していたら、危うく仕事に遅れそうになって、非常階段を駆け下りるはめになった。


 その次はわたしが実加ににらまれる番だった。コーヒー豆が安物だった、と言う話だった。疲れて帰ってきたところに、身に覚えのないことを言われて、つい苛ついて声を荒げてしまった。口論はスマホの着信で終わり、わたしは職場にとんぼ返りした。


 仕事でもプライベートでもなんでもないミスをするようになったのは、いつもと違う牛乳やジャムを食べているからかもしれない。そんなふうに思うようになっていた。忘れずに買い物をして帰ろうと決めていたのに、仕事で忙しい日には何もかも忘れて泥のように眠り、気づいたときには「おいしい牛乳」が2本も3本も補充されるようになっていて、次第にわたしは牛乳のことを心の片隅に追いやっていた。


 冷蔵庫の中は、どんどん狭くなっていった。

 「おいしい牛乳」は本来のスペースを越えて野菜室にまで積まれていたし、安いブランドのジャムが大量に買い置きされていたし、大量の安い食パンが何かの倉庫のように冷蔵庫の奥の奥まで押し込まれていた。さらには、防災用に1本だけ入れておいた水のペットボトルや、めったに食べない冷凍食品までが空間を圧迫し、冷蔵庫はいまにもあふれそうになっていた。

 さすがにおかしいでしょ。めずらしくふたりの休みが合った日に、わたしは実加に言った。学生時代にお金を出して買ったテーブルを間に挟んで向かい合う。昔は、この体勢で何時間でもくだらない話をしていたはずなのに、いまはこんな気持ち悪い話しかできない。そんなことを思いながら、冷蔵庫の中身について話した。

 わたしは実加のせいだと思っていたし、実加はわたしのせいだと思っていた。わたしを買物依存症だと疑ってカウンセリングを勧める実加と、実加が仕事先で会った人を部屋に連れ込んでいると疑っているわたしとでは、話がまったくかみ合わなかった。


 わたしは自分でもわかるほど、ときには自分でも気づかないうちに、いらだっていた。仕事でミスした後輩を叱り、廊下が汚れていると言っては悪態をつき、電車のドアの前に突っ立っていた人にあからさまな舌打ちをした。

 コンビニの店員を怒鳴りつけた瞬間、周りのうろんな視線を感じ、店の奥から飛び出してきた初老のオーナーの顔を呆然と見つめながら、自分が病んでいるのだと気づいた。わたしは逃げるように店を飛び出していた。

 夜の路地を走りながら、そういえば、実加と最後にセックスをしたのはいつだったろうか、と考えていた。思い出せなかった。


 食パンと牛乳は冷蔵庫をはみ出すようになっていた。腐る前に食べなくちゃいけないから、食事の量が増えた。わたしは食べ過ぎて頭が痛くなり、実加はときどき吐いているらしかった。

 妙な噂を聞くようになった。わたしが男と街を歩いている姿を見た、と、同僚から聞いた。同じことをその日の夜に実加から聞いた。仕事を早引けして部屋で待ち受けていたという涙目の実加に、何かの間違いだ、身に覚えはない、と懸命に言った。実際、そんな記憶は全くなかったのだけれど、その夜のわたしは自分に自信が持てなくて、たぶんひどく頼りない顔をしていたと思う。

 次の日、わたしは満員電車で実加を見た。昼の職についたことのないはずの実加が、黒髪にしてスーツを着ていた。声を上げても、実加の耳には届いていないみたいだった。わたしは冷蔵庫に入りきらなかった食パンみたいに満員電車から押し出され、ホームの床に座り込んだ。


 わたしたちは冷蔵庫の周りにバリケードを作った。そうしなければいけないと思ったからだ。けれど、そのときには、しみ出した牛乳は床に痕を作り、割れたジャムの瓶が得体の知れない音を立てるようになった。

 かつて、わたしたちがおだやかに朝食をとっていた部屋は、いまは異臭で満たされて、何を食べてもおいしくなくなってしまった。学生時代からずっと実加がステッチを編んでいたテーブルも、それより前から使っていたわたしの思い出の本棚も、ふたりで選んだカーテンも、カビと異臭に満たされてしまった。

 冷蔵庫の奥から、何かの生き物の声がするようになった。

 床が腐敗し始めていた。

 異様な気配は部屋の外までしみ出しているはずなのに、隣の部屋からも、家主からも、苦情は出なかった。いつのまにか、わたしたち以外の住人はいなくなってしまっていたみたいだった。エレベーターが停止していて、シャフトの上の方から風の音のような何かが聞こえた。

 空調が壊れたのかもしれない。マンションの廊下がひどく寒くて、隣の部屋のドアに霜が降りていた。


 それから数日後、わたしと実加はそろって仕事を辞めた。ほとんどの家財道具は部屋に置き去りにし、逃げるように引っ越した。新しい冷蔵庫を買い、高級食パンと成分無調整牛乳とサンダルフォーのアプリコットジャムを買い、ふたりいっしょの時間をとれる新しい仕事を見つけ、わたしたちの暮らしはようやく安らぎを取り戻した。

 以来、前の住所には近づいていない。

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奪われた冷蔵庫 扇智史 @ohgi_

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