十六 尋ね人

 三森みつもりは一度中の森に戻り、そこからまた南へと歩いた。ただし今度は一歩一歩のんびり土を踏みしめるのではなく、この土地を行き来するのに使う飛ばし飛ばしの歩みを選んだ。

 ざくざくと足元に散る石を踏んで、谷を、沢を通り過ぎる。一度向きを東に変えて、そこからまた一歩踏み出す。たった四歩で三森はひとり、平地に面した小高い斜面にいた。東に少し開けていて人里があり、一つの通りを挟んで建物がひしめいている。また、その間から湯気が無数に立ち上っていた。

 湯田川ゆたがわ。鶴ヶ岡の城下町からは一里と少し離れた山懐の温泉郷。古くから出湯いでゆの地としてその名が知られ、この日も早春の陽気に賑わいを見せていた。


 三森は山肌を伝い、その町の方へと下りていく。しかしその目的は人でも温泉でもなかった。所々の竹林を迂回し、杉林の中に入れば大きな社殿と石段が見えた。湯蔵権現ゆぞうごんげんとして知られるこの社にこそ、三森は用があったのだ。

 石段の脇には目立つ大銀杏があった。樹皮は重ねた年月を寡黙に語り、枝は大きくたわんで天へと伸びている。その枝々からは幾本もの垂乳根たらちねが下がっていた。

 そして巨大な木の陰に、一人の大柄な人影があった。齢は二十五、六ほど。豊かな黒髪をきっちりと一つに結わえ、臙脂の振袖を纏っている。繊細な顔には薄く化粧が施してあって、階段を下った先の小さな路地を見ては何やら目を細めていた。

 三森はそのすぐかたわらまで来て声をかける。


由豆佐売ゆずさめ


「あら、三森じゃない。久しぶり」


 由豆佐売というこの人物は、またの名を湯蔵権現とも言い、この町に長く在る湯の神だった。三森との付き合いは八百年を優に超えた、古馴染みの一人である。

 呼びかけに振り返り、気安く応えた由豆佐売は、自らの腰掛けていた石段の空いているところを手で示した。座れと促しているのだ。三森はそれに従い、一人分の隙間を開けて由豆佐売の隣に収まる。


「今日はどうしたの」


「訊きたいことがあって来た。──酒田さかた僧形そうぎょうを取る龍蛇りゅうだ狐狸こり、権現などに心当たりは?」


「……あなた、まだ探してるの? それ言いだしてからかれこれ十年くらい経つんじゃない」


「そうだ。まだ見つからないから」


 呆れ返って由豆佐売は三森を見た。いつぞやこの少年の形をした死は、「僕の妨害をした奴がいる」と意気込み周囲に同じことを尋ねてまわっていたのだった。しかし真相は誰の知るところでもなく、うやむやになって由豆佐売も忘れてしまっていた。

 隣でぶすくれたような表情をして膝を抱え込んでいる三森は、いかにも幼げに見える。水干すいかんなんて古臭いものを着ていなければ、ここらの子供ぼんぼが喧嘩をして退散してきたのと大差ない。しかし、彼は由豆佐売よりもずっと古くからこの土地にいて、引導役をし続けていた。


「酒田で晒されていた首を、その人の子供に返したっていう話でしょう?」


「ああ。そんな異例のことがなければ、動く屍なんかうまれなかったというのに。僕も面倒を被った。以来そのような話は聞かないが、だとしても誰の仕業か突き止めないと気が済まないんだ」


「まあ、気持ちはわかるけど。この十年で大体のひとには訊いたんだから、これ以上探し回っても望み薄じゃないの?」


「それは分かっている。今日その件に関わっていた死者の様子を見てきて、たまたま思い出したんだ」


 死霊をモリの山へ送り出すのにとどまらず、その巡回までが彼の生業なりわいに含まれるのかと、由豆佐売は新しいことを知って目を瞠った。この相手について知っていることは未だに少ない。

 ただわかることと言えば、三森は生真面目なのだ。それゆえにこの土地の生き死にが成り立っているともいえよう。その事実に免じて、由豆佐売もまた、仲間内たる権現やらその使いやらに思案を向けた。


「へえ、じゃあ私もまた考えてみる。……もしかして、『酒田の』と限定するから良くないのじゃない? 僧形ということなら、ぱっと思いつくのは三山さんざん能除のうじょとか。本人じゃなくても、あの人の傘下には僧形のひと、いくらでもいるでしょう」


 由豆佐売が名を出したのは、東に強大な勢力を持つ修験の山、主に三山と呼ばれるそれを束ねる男だった。彼は立場上、自ら遠方まで検分に出向くこともおかしくはない。それに、三山の組織内の人間ということならさらに候補は増えるだろう。

 由豆佐売の打診に、三森はかぶりを振った。


「いや、それはない。あいつのところにはもう確認をとっているし、生者に関わることができるものでないといけない」


「ああ、それもそうね」


 由豆佐売たち権現や、それに仕えるものたちは皆、生者とも死霊とも異なる世──かみの世にいた。彼らと同じ土の上にはいるが、死霊の被る紗膜えなとよく似たものを纏っている。しかもそれが全く均質のものであるために、死霊とは違い互いの姿を見ることも可能だ。上の世では、生者の預かり知らぬところで数多のものが関わり暮らしているのであった。

 今この瞬間も、生者には三森と由豆佐売を見ることはできない。二人もまた、生者を見ようと試みない限りは静かな中に居られる。

 生者と関わることができるのは、高位のものやそれに承認された存在に限られていた。能除はともかく、彼に承認された配下がどれだけいるかは知れたものだ。それは何より、彼の性分に起因するところが大きい。


「あの人、生者とわざわざ関わりを持つのは嫌がりそうだものね」


 三森はだろう、と言って鼻を鳴らした。能除が厭世家なのは多くが知るところなのだ。

 彼の一派でなければ──由豆佐売は考えを巡らせたが、考えられる候補は十年前にもう出尽くしていた。それでもなんとか心当たりをひねり出してみたものの、三森の反応は芳しくなかった。


「……もう駄目。他にあてなんてないわ。もしかしたら雲水うんすいとか、旅の途中だったよその人かも知れないわね。それならしょうがないもの……」


 言いかけて、由豆佐売は一つの可能性に思い当たった。


「あら? 三森、あなたその僧形がそもそも生者だと考えたことはないの?」


 隣で、濃緑の睫毛に縁取られた瞳が瞬いた。想定外だったらしい。


「なぜ?」


「なぜって、単純な話よ。普通こちら側の人たちは、生者に対して強すぎる影響を与えてはいけないとされている。特に死人に関わるなんて、あなたに果たし状を送るようなものだわ。……でも生きている人なら、そもそもそんなことに拘らずに動ける」


「だが、あちらにはあちらの法があるだろう。勝手に晒し首を渡したらどうなることか」


 冷静に反論した三森に、由豆佐売は至極真面目に言った。


「でも僧なら、その限りじゃないわ」


 この藩には大きな抜け道があった。法度はっとの通用しない土地。たとえ殺人を犯しても、そこで仏門に入れば不問となる──そんな山が存在する。


「やっぱり三山か!」


 悔しいらしく、三森は大きく嘆息した。それがおかしくて由豆佐売は声をあげて笑う。しかし三森が睨んできたので、咳払いでごまかした。

 くだんの僧侶は東の三山に属する生者だろうというのが、由豆佐売の出した結論だった。能除が統括するのは死者たちなので、管轄外と言えばそれまでのところ、三森はやはりどこか思うところがあるようだった。端的に言って、彼とはさほど仲良くないのである。


「酒田の湊近くに、あの流れのお寺があったでしょう」


「ああ、ある。あそこのやつだとでも?」


「ここからは全く根拠がないのだけれど。あの辺りに一時期、三山で気鋭の行者が留まっていたという話を、ここに詣でに来た生者ひとたちから聞いたことがあったの。なんでも人助けに熱心で、清濁併せ呑むようなところがあるってすごく人気なんだそうよ。名前は忘れたけど、もしかしたらその人かも知れないわね」


 基本的に湯田川の外を出歩かない由豆佐売には詳しいことは計りかねたが、そうであれば面白かろうと思った。基本的に人間のことは好いているので、期待をしたいという気持ちもある。


「……僕もその話は聞いたことがある。時期もたしか、その頃と一致する。もう少し調べようかな」


「それがいいわ。いつかその人を迎えに行くときにでも確かめたらいいじゃない」


 三森は一寸顎を引いた。しぶしぶ納得し頷いたという風に。その横顔を見つめながら、由豆佐売は十年前と同じことを問うた。


「なんでそんなに彼のことを気にしてるの?」


 小さな手が膝頭の上で組まれた。


「前も言ったろう。そいつの人助けが目に余る破天荒だから、文句を言いたいんだ。それに、やったのはあちらの法に反することなのに、助けられた側も喜んでいたのが腹立たしい。理から逸脱すれば罪だ。罪を犯しながら救済だなんて……」


「あなたにはできないことだから?」


 これは以前も尋ねたことだったか。由豆佐売は忘れてしまっていた。


「僕は人を救ったりなんかしない。先立つのは理だから、温情なんて後回しだ」


 そう言い捨てると、三森は立ち上がって階段を一つ登った。由豆佐売はその姿を日に透かして見上げる。


「どこ行くの」


「死者が出た」


「どこで?」


蕨岡わらびおか


「大変ねえ」


 これから随分と遠いところまで行かねばならないらしい。また一段登った三森に対して、由豆佐売はふと思うことがあって呼び止めた。


「ねえ三森」


 振り返った姿は、背後の森に溶けるように馴染んでいる。


「理の中でも救済ができないなんてことは決してないんじゃないかしら。そして、それを最も美しい形で為せるのは、あなたなんじゃないかと思うわ」


 三森は怪訝そうに目を細め、また小さく息をいた。


「……どうだか。また来る」


 それだけ言ってくるりと背を向ける。再び歩き出した少年の姿は、いつの間にか木々の間に紛れて見えなくなった。


 由豆佐売はそれを見届け、大きく伸びをした。頭上には乳銀杏の大枝が見える。物心ついてからずっと共にあるこの木は、老いることのない由豆佐売の隣で着実に死へと近づいている。

 いつか、あの少年がいつもと違う顔で自分の手を引く日が来るのかもしれない。それともいつも通りのふてくされた表情で、ひねくれたことを言いながら森まで連れていってくれるのかもわからない。

 その道行きを描くにつけ、きっと綺麗だと思うのだった。




 文化三年 二月

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森山帖 宝生実里 @housyoumisato

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