十五 わかれ野菊

 春彼岸の日。寺院には日が昇ってから傾くまで、ひっきりなしに人々が押し寄せた。熱心なものの多い土地柄か、たくさんの村人が訪れ、思い思いに墓石の前へ花水を供え、手を合わせる。


 西端の一角に、一人の若い女が座り込んでいた。目の前には薄い墓石が一つ。しかし、花と牡丹餅はそれぞれ二つずつ供えられている。女の背中には簡素な垂髪が垂れ、おぶっている赤子がそれにじゃれついた。女は長く手を合わせたあと、ようやく髪を掴まれているのに気づいたらしい。

 慌てて胸の前に引き寄せたそれを幾度か手で梳きながら、娘を揺すってあやす。立ち上がった女は墓に背を向け、それに対して示すように、背中の赤子に手を当てた。それから女はもう一度振り返って、先ほど背にしていたこんもりとした森に向かって娘を見せた。


「いつか此処こごのお墓にね、枯れた野菊が置いてあったの。きっと、あの男の子が約束守ってくれたんだ」


 まだ話せない娘に向かってそう言ってみる。当然返事はないが、いつか大きくなってからその話をしてみてもいいと女は思った。

 小さな山の上に日は高い。じんわりとした温もりに目を細めて、彼女はにこやかに笑った。土の匂いがする。また、春がやってくるのだった。


酒田さがだ戻るね、また盆にくるから」




 静謐な森には鳥の声だけが響いている。昼の山中にある影は、木漏れ日のほかには、小さな少年のそれだけであった。

 三森みつもりは中の森から北にある上の森へと尾根を歩いた。さほど大きくはないが、それでも人探しには苦労する山である。雪も溶けきった土の上、木々と同じ深緑と、幹の褪せた葡萄えび色を織り交ぜた衣は小さな歩みで移ろっていく。

 足を止めたのは、上の森の山頂にある堂──俗人は閻魔堂と呼ぶ──の前。軒下から北の方角をじっと眺めて立ち尽くす男に、三森は用があった。


「おい」


 自分を呼ぶ高い声に、男はゆっくりと顔を向けた。その顔色は曖昧で、幸せそうにも悲しげにも見える笑みがうっすら浮かんでいた。


「なんだ、お


「おまえ、自分の名はわかるか」


「……又兵衛」


 三森の問いに答える声は低く、胡乱げだった。又兵衛は不思議そうに、眼前に立つ三森を見下ろしている。

 三森は続けざまに問いを打ち出した。


「生まれは。齢はいくつだ」


「生まれは……生まれは、なんだったか。あと齢か? 三十……まあ、そのくらいぐれだった」

「おまえは死霊だ。自分がどうして死んだかわかるか」


「ああ、それはわかる。首を刎ねられたんだ」


 又兵衛はなんともないように笑って答えた。三森はその様子を淡々と仰ぎ見、重ねて訊くために一つ息を吸った。


「なぜ、首を刎ねられた」


 その言葉を受けて、又兵衛は狼狽した。視線がぎこちなく泳いで、また北の方へと寄せられる。


「お蕗……」


 やがて呻くような微かな声で、又兵衛は呟いた。それきり黙ってしまった彼に、「邪魔した」とだけ告げて三森は踵を返した。

 男はその背をぼんやりと見るともなしに見て、あれは誰だったかと首を傾げていた。


 かくして、生死のことわりは保たれた。一時は動く屍となった男も、今は月並みな死後のみちを辿っている。未だ娘への悔恨が強いあたり、この山に留まる三十三年の年限全てをほろける──忘我に至るまで使わねばならないのだろうが。

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