ミルグラムの実験教室

もげ

ミルグラムの実験教室

「ねぇ、こんな実験を知っている?それは命令と服従に関する実験なんだけど」

 詠美はそう言って、ヒールの音をこつこつと響かせながら僕の前を行ったり来たりした。

 僕はといえば、両手足をしっかりと据え付けの頑丈な椅子に固定され、目には布を巻かれていたため、そんな彼女の表情を窺い知ることはできなかった。

 しかし、開け放たれた耳でもってその朗々とした声と足音ははっきり聞き取ることが出来る。彼女は今まで接してきたなかで一番生き生きしているように思えた。

「その実験の被験者はね、こう命令されるの。『今からあなたには隣の部屋にいる他の被験者に罰を与える仕事をしてもらいます』って」

 ふいに足音が止まり、代わりに何か機械を操作する音が聞こえる。

「隣の部屋の人は問題を解くのね。簡単な問題よ。で、もしその人が問題の回答を間違えたら、あなたはその人への罰としてボタンを押さなくてはならないの」

 こういうふうに、と彼女が小さく言い添えた瞬間、僕の体は小さく跳ね上がった。びりりとした感触が、微弱な電流が体に流れたことを伝えた。そして戦慄が背中を伝う。これは電気椅子なのか。

「しかも素晴らしいことに、与える罰は徐々にエスカレートさせなければならないの。少しずつ電圧を上げるの。そういうレバーがあってね」

 かちゃん、というささやかな音が恐怖を掻き立てる。そういうレバーの音とはこういう音だろうか。

「でもね、隣の部屋の人っていうのはね、本当はサクラなの。本当は電流なんか流れていないんだけど、被験者がボタンを押す度に叫び声をあげるのよ」

 僕はその様を想像してみる。自分がボタンを押す度に見えない隣人が叫び声をあげる。 

「普通、隣からそんな声が聞こえたら、被験者はボタンを押すのをやめると思うでしょ?」

 でもね、と女は嬉しそうに笑った。

「人は命令にはなかなか逆らえないの。いや、逆らわないのね。いいことか悪いことか自分で決断するのってとっても労力がいることだもの。あなたも分かるでしょ?」

 うふふふふ、と含み笑いが部屋にこだました。と、彼女の足音が急に止んだ。

「……ん……そろそろ時間ね。ふふ……楽しい実験の時間よ。隣に被験者がやってくるわ」

 ふいに、頬に冷たい感触がした。びくりと身を引くと、追いかけるように氷の感触が輪郭をなぞった。彼女の手だ。

「ようは、隣人が出す問題に正解し続ければいいのよ。安心して、簡単な問題だから。さもなければさっき言った通りあなたの身体に流れる電流の電圧が高くなるだけ。あとはあなたの優しい隣人が正しい正義感でもってボタンを押すことを拒否してくれればいいわね。被験者に声は聞こえるようになっているから、精一杯哀願するといいわ」

 言って、彼女は冷たい手を引いた。感触が消えると僕は言いようのない不安に襲われた。彼女は本気で言っているのだろうか?

「……な……ぜ……」

 からからに乾いた喉で、その一言を言うのがやっとだった。

「なぜ?」

 詠美は不思議そうに問い返した。本当に心外、というような声だった。

「なぜ、ね。そうね、私昔からサイエンスが好きなの。その中でも特に実験が好き。カエルの解剖、ヘチマの栽培、スチールウールに火をつけたり……ね。そんな中で私はこの実験に強い興味を抱いたの。ミルグラムの実験って言うんだけど」

「……だからやりたくなった……?」

 僕の言葉に一瞬の沈黙が下りた。何故だかとても怖い沈黙だった。

「……そうね……本当は……この実験の結果を棄却したいのかも。本当に心のこもった哀願なら……人は倫理と正義でもって人を守れるのだと……」

 それは、切羽詰まった、と表現するに足る声だった。しかしそれも一瞬のことだった。

「余計なことを言ったわ。でも、これは復讐でもあるの。貴方達に対する。私の」

 ……そう、彼女をいじめていた僕らへの。

「いじめって首謀者じゃなければ許されるのかしら?私分からないの。だから、貴方達自身で裁いてもらおうと思って。貴方は確かに誰かに命令されてやっただけかもしれないけど、私はそれでも傷つくのよ。それを身をもって感じてもらおうと思って。分かった?」

 言うや、彼女の足音は遠ざかっていく。

「……っごめんっ!!悪かった!!全部僕が悪いんだ!命令されてなんて言い訳にしかならない!本当にごめん……!」

「もう遅いわ。実験は始まってしまった。いい結果を期待してるわ」

 がちゃん、と無慈悲な音がして重い扉が閉まる音がした。彼女への謝罪はもはや届かなくなった。

 身をよじってもいくら力をこめても椅子はびくりともしなかった。僕は恐怖に気が狂いそうになりながらとにかく声を上げ続けるしかなかった。



「ああ、死んじゃった」

 突然詠美が現れて、さして残念じゃなさそうな声を出して言った。

 私はがたがたと震える両肩を自分で抱いた。

「……し……死んじゃったって……?」

 恐る恐る尋ねると、彼女は首を傾げる。さらりと長いストレートヘアが肩を流れる。

「言葉のとおりよ。あなたが電流を流したから、死んじゃった」

「……うそでしょ……」

「何で嘘をつくのよ。ここに『危険』って書いてあるでしょ?叫び声だって聞いたでしょ?」

「……う……嘘よ!それにあの試験官が『続けなさい』って言ったんじゃない!!」

 彼女はまた可愛く首をかしげた。

「ええ、言ったわ。でも別に彼はあなたを脅していたわけじゃないわ。あなたが辞めると言えば、彼にはそれを止める力はないんですもの」

「嘘よ!!!」

 私は力いっぱい叫んだ。信じられるわけがなかった。私が押したボタンで人が死んだですって?

「なんなのよ!!だいたい、なんであんたが出てくるのよ!!これはただの心理学の実験じゃなかったわけ!?」

「あら、れっきとした実験よ。私が計画したんだけどね」

 彼女はそこで端正な顔の眉をすっと寄せた。

「でも残念ね、私が欲しい結果は出なかったわ。……ああ、でも実験っていうのは統計学的に信頼できるだけの試行を重ねないとね。……今回の実験協力者は残念ながら役に立たなくなってしまったけど……」

 急に、激しい力で私の両腕は後ろにねじりあげられた。

「痛いっ!!」

 身をよじって肩越しに後ろを見ると、実験の指揮をしていた男が私の腕をきつく拘束していた。

「何するの!!?」

「今度はあなたが生徒の役ね。安心して、簡単な問題を解くだけだから。……間違ったらちょっとお仕置きがあるんだけど」

 さっと頭から血の気が引くのが分かった。

「私たちがあなたをいじめていたから恨んでいるのね!?でも、これって人殺しじゃない!!」

 その言葉には彼女の冷たい一瞥しか返ってこなかった。

「今度の被験者……教師役は、クラス委員長の結城君よ。まじめな人ね。ふふ、生真面目な彼の中で倫理観と規範に従う心理、どちらが勝るのかしらね。興味深いわ」

 一転して艶やかな微笑みが美しく、怖かった。

 耐えきれず絶叫が身の内から湧き出る。殺される!!

めちゃくちゃに足をばたつかせてそこらじゅうを蹴ったり噛みついたりしたが、いつの間にか私は意識を失い、気付けば金属の固い椅子に両手足を固定され、目隠しをされて座っていた。

「さあ、次の実験を始めましょう」

 彼女の朗々とした声が部屋に響き渡った。

(おわり)

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