夏色の夢は醒めずに

望戸

夏色の夢は醒めずに

「私、将来は忍者屋敷に住みたいの。できれば秘密の抜け穴があれば最高だけど、最低でもどんでん返しは欲しいわ」

 彼女ははにかみながら、僕にそう耳打ちした。

 今にして思えば、それは紛れもなく初恋であった。そして大半の初恋がそうであるように、僕の思いが成就することはなかった。

 夏休みのうだるような暑さと、やかましい蝉の声。しらじらと灼けつく児童公園には、僕らの他には誰もいない。火傷しそうなジャングルジムと、水道からほとばしるきらきらとした水の粒。

 彼女の名前も、どうやって出会いどのように別れたのかも、今となっては遥か忘却の彼方だ。ただ大切な宝物のように告げられた台詞だけが、僕の記憶の片隅へ仕舞われている。


 淡い初恋は、自覚する前に逃げ水のように消え去ったが、内緒話だけは僕の鼓膜に焼き付いていたようだった。なんとなく高校に入り、進路のことを考え始めたとき、その思い出があぶくのように、僕の頭の中に蘇ってきた。どうでもいいような日々を送っていた僕には、光に溢れるそのひとコマが、どうしようもなく尊いものに思えた。

 僕は一念発起して勉強した。建築学科のある大学に進学し、卒業後は大手の建築メーカーに就職してキャリアを積んだ。振られた仕事は困難であればあるほど喜んで請けた。伝手をつくり実績をかさね、とうとう独立したときには一人でガッツポーズをした。これでやっと、自由に建物を作っていける。

 忍者屋敷への興味から建築業界を志し、いつの間にか忍者屋敷そのものを作ることが僕の夢になっていた。もちろん、そう簡単に依頼がくるはずもなく、夢は夢のまま終わるだろうとも思っている。だが、忍者屋敷を作ることを想定して、新たな工法を勉強したり昔ながらの技術を検討したりすることは、僕の何よりの楽しみとなった。

 その傍らで、暇さえあれば日本各地の「忍者の里」を巡った。観光客用のそういったテーマパークにはたいてい「忍者屋敷」の展示があり、妄想をよりリアルにするためにたいそう役立った。

 観光地化されていないような隠れ里も、インターネットやオカルト雑誌で調べては訪ね歩いた。殆どは根も葉もない噂話にすぎなかったが、玉石混交の情報の中にはぽつぽつと真実も混じっていた。忍者屋敷に執着する建築屋の話は横の繋がりでまことしやかに囁かれていたらしく、足繁く通ううちに、とうとう本当の忍びの末裔とも知り合うようになった。

 ただ、新たに忍者屋敷を建てるような依頼は、忍者の家系からもさすがに来なかった。すでに建っているもののメンテナンスを請け負うくらいだ。もちろん実際の忍者屋敷(すごい築年数だ)に触れられるだけでも物凄いことなのだが、僕の脳裏には未だ消えずにあの夏の日のひと言がある。初恋のあの人が住みたいと言った忍者屋敷を、どうにか自分の手で、一度でいいから建ててみたい。


 その依頼を発注してきたのは、とある忍びの一族の老頭領であった。彼のひ孫娘に婿を迎えるため、またその両親である孫夫婦を住まわせるために、二世帯住宅を作ってほしい、というオーダーだ。もちろん現代風の、ごく普通の家である。頻繁に顔を見せることは結果的に営業回りのような効果を生んでいて、このような依頼はしばしば寄せられるのだ。この頭領には一族秘蔵の絵図面を見せてもらった恩があったし、そうでなくても気風の人柄には好感を持っている。一も二もなく僕は仕事を引き受けた。

 生活の場所を作るわけなので、打ち合わせは頭領ではなく、実際に住む人たちと行わなければならない。顔合わせは少し離れた街の駅前にある喫茶店で行う事になった。ひ孫さんとその婚約者は残念ながら日程が合わず、今回はその両親である孫夫婦とのみの挨拶だ。

「お待たせしました」

 現れたのは僕と同年代くらいの女性だった。ひ孫さんの母親、頭領のお孫さんの奥さんだ。

 旦那さん(つまり頭領のお孫さん)は、仕事の都合で少し遅れて来るらしい。ホットコーヒーを注文して僕の向かいに座ったその人の顔に、なんとなく既視感を覚える。

 奥さんは人当たりのいい笑みを浮かべて、他愛もない話を振ってくる。社交的なタイプのようだ。旦那さんが来るまで間が持たないのではないかと心配していたので、正直ありがたい。

「私、子どもの時から忍者屋敷に住むのが夢だったんです。こういうお家にお嫁に来ることになって、すごく楽しみにしていたんですけど、本家も分家もみいんな普通の家だったので、ちょっとがっかりでした」

「奇遇ですね。僕も一人、そういう人を知っていますよ」

 無論、初恋の彼女の事である。

 何気なくした相づちだったのだが、奥さんはそれを聞き逃さなかった。

「その人、よかったら紹介して貰えませんか? 同じ趣味の人に出会ったの、初めてなんです」

 輝く目で身を乗り出してくるが、生憎その期待には答えられない。彼女がどこの誰なのか、僕だってちっとも知らないのだ。

 仕方なく、僕はその恥ずかしい初恋話を開陳する羽目になった。意外にも、奥さんは笑わずに僕の話を聞いてくれた。途中一度だけ、僕と彼女が出会った公園のある町を確認して、あとは静かに耳を傾けている。

「そういう訳なので、紹介することはできないのです。すみません」

 頭を下げると、奥さんははっとしたように手を振る。

「いえ、いいんです。こちらこそ不躾に、すいませんでした。……でも、そんな一度会っただけの女の子のために、ここまで努力なさるなんて、ロマンチストな方なんですね」

「それだけ印象に残っていた、っていう事なんでしょうね、今になって思えば。実際、とても可愛らしい女の子でしたから」

「やだ、そんな、言い過ぎですよ」

 僕は首をかしげる。

「なんで奥さんが照れてらっしゃるんです?」

「……その女の子の気持ちになったら、つい」

 ともかく、と奥さんは椅子に座り直して、コーヒーをひと口飲んだ。

「貴方が信頼できる方だって、今のお話で確信できました。私達夫婦と娘夫婦の二世帯住宅、どうぞよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします。……最低でも、どんでん返しくらい付けておきましょうか」

 僕のくだらない冗談に、奥さんはにっこりと微笑んだ。夏の日差しを思わせる、爽やかな笑顔だった。

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