第2話 成長するってこと


 1.


 帰郷した理由は二つ。

 ひとつは高校の同窓会に出席するため。

 もうひとつは、卒業後こっちに戻ってから住む部屋の契約をするため。


 高校を卒業して県外の大学に進学してからというもの、学業とアルバイトに忙しいことを理由に、実家にはほとんど帰らなかった。卒業したら地元に戻ることは決めていたし、もともと一緒に住んでいる頃からいちいち親に連絡をとるマメさもなかったから、自分からはめったに電話もしない。同窓会も、この四年間にそれらしき内容のメールを一、二度受け取ったことはあったけど、参加どころか返事すらしなかった。


 友人たちに逢いたくないわけじゃないけど、僕が逢いたいと思う人間はたったひとりだけで、そいつは僕が地元へ寄りつかないことに文句を言いながらも、電車を乗り継ぎ何時間もかけてひとり暮らしの僕のアパートを何度か訪れてくれた。


 僕が使っているベッドの隣に彼が布団代わりのケットを敷いて寝たのは最初の一度きりで、それからは、一緒に食事をして風呂に入った後は、狭いベッドで身体をくっつけるようにしながら一緒に眠るようになった。


 そいつは今夜の同窓会にも、もちろん来ている。


「智慎(ともちか)、グラスあるかー? 浅陽(あさひ)、智慎にビールついでやんなよ」


 向かいに座る男に促され、あぁといいながら浅陽がグラスを渡してくれる。


「女性陣はみんな一軒目までで帰っちゃってよう。けどまぁ、おまえもほんとにこのド田舎に舞い戻ってくるんだなぁ。てっきりあっちで就職すると思ってたけど。あ、じゃあ、もっかい乾杯ね。かんぱーい!」


 相変わらず櫻井の声は大きいし、話していることがあっち行ったりこっち行ったり忙しい。けど、こういう男がいると座が和んでいい。悪気のないヤツだとわかっているからかもしれないけれど。

 隣を見ると同じことを思ったのか、浅陽も苦笑いしている。

 久しぶりだ、こんなふうに隣に座るの。といっても、暮れに僕のアパートに彼が来てくれて以来だから二か月ぶりぐらいか。それは僕たち二人しか知らないことだけれど。




「落ち着いたらまた呑もうぜ。これからさァ、俺たちはよぅ、会社でしごかれ、社会にもまれ……、そうだ! 五月病になる前に連休あたりにまたやろうぜ! 元気に再会するとしよう!」


 居酒屋の前で声を張り上げ、じゃあなと大げさに腕を振り回す櫻井たちを見送り、浅陽と僕はなぜか同じタイミングでフゥッと溜息をついたことに笑いながら、歩き出した。

 時計を見ると二十三時を過ぎたところで、駅の周りの飲み屋はかろうじて灯りがついているものの高速道路の向こうは漆黒で、ところどころ濃くなっている影は夜が明ければ青々とした山並みになる。


「櫻井、左手の薬指に指輪してたな」

「気づいたんだ。あいつ学生結婚するつもりで息巻いてたんだけど、彼女の親に反対くらって説得されて。結局、就職してまじめに働いて、相手のご両親にもちゃんと納得してもらってからにするって。『出直しだ!』って騒いでたよ。それが去年の今頃」

「学生結婚って、子供でもできたのか?」


 それはないみたい、と浅陽は小石を蹴飛ばした。


「あいつのモットーが『鉄は熱いうちに打て』らしくて、二人の想いが熱いうちに……ってことだったみたい。けど、それちょっと意味が違うよな」


 と、浅陽が笑った。


 違うどころか突っ込みどころしかない。たしかにサクは昔からそういうところがあったけど、結婚ってそんなふうに一時の感情で突っ走っていいものなんだろうか。特に、こんな田舎じゃ結婚なんて、本人同士というより親や親戚も含めた家同士が交わす儀式って感じが濃厚で、本人たちの意向だけでどうこうできるものじゃない気がする。


「あの指輪は、サクの気持ちとして彼女にも同じものを贈ったんだって。結婚する時は改めてちゃんとした指輪を買うって言ってた。まぁその話も、結婚のことも、本当のところは智慎が直接サクに聞いたほうが面白いんじゃないかな。これからは会う機会も増えるだろうし、ああ見えてサクもいろいろ考えてるヤツだから」

「へぇ、意外。もっと軽い男だと思ってた」

「俺も高校の頃はそう思ってた。彼女も紹介してくれてさ、いい子だった。その子と付き合い始めて変わったんじゃないかな」

「……お、」


 ……お前にはそういう相手はいないのか?

 これまで何度も浅陽に聞こうと思いながら口にできなかった。

 ときどきフラッと、でも当たり前のように僕の部屋にやってきて、どうでもいい話やたまにどうでもよくない話をしながら一緒に時間を過ごして、狭いベッドで男二人が声を殺して身体を重ねるように眠って。そんなことをいつまで続けていられるのか。


「お?」


 浅陽が不思議そうな表情でこっちを見ているのが視界に入ったけどそっちを見ないまま、


「や、何でもない」

「お……、おれのこと好き?」


 ……っ!  今度は僕が浅陽の横顔にかみつく勢いで、


「はぁ? な、なに言って……」

「なにって、いつも言ってるじゃん。おれのこと『好き』だって。お前のアパートで、寝てる時……とか」


「……っ。寝言だろ。寝言でそう言ってたんだろ。僕が」

「寝言で『好きだ』って言うの、結構すごいと思わない? 逆に」

「バカか、おまえ! なに言い出すんだよ。こんなところで」

「こんなところって……。さっきサクたちと別れてからここまで歩く間、誰ともすれ違わないどころか、犬も猫も見ない。こんな時間に誰も出歩かないような田舎におまえは帰ってきて、そんなおまえをおれは四年間ずっと待ってたんだよ」


 感情的になりかけた僕をなだめるように、浅陽の口調はとても穏やかだった。





 2.


『俺たち、もう大人だよなぁ』


 さっき、居酒屋で最後の一杯を飲み終えた後にサクがぽろりとこぼした言葉。

 もう、二十二歳。

 もうあと二か月もすれば、さっきまで一緒に飲んでたヤツら全員、社会人だ。


 浅陽に出会ったのは、高校の入学式だった。

 メガネにはりついた桜の花びらを取ろうと、校門の脇でひとりあたふたしている時に、誰かとふざけて後ろ向きに歩いていた彼が背中にぶつかり、手からメガネが滑り落ちた。幸い、レンズもフレームも傷になるようなことはなかったけれど、彼はひどく驚いたのと詫びる気持ちからか、何度も「ごめん!」と言いながら、結局そのままクラス分けの一覧表が貼り出された中庭まで、僕の腕を取る勢いで一緒に歩いた。


 彼と僕はクラスが違ったから、そこで別れた。

 お互いの名前は告げたけど、それから同じクラスになることもなかったから、ほぼ交流はなかった。彼の周りにはいつもにぎやかなヤツらがいたし、僕はだいたいいつも本を読んでいた。ただ、廊下ですれ違った時なんかはいつも浅陽のほうから「よっ」と声をかけてくれた。


 派手そうな見た目をしているけれど、僕みたいなガリ勉にも気さくな彼を、僕はいつからか目で追うようになって。部活に励む彼を、放課後の図書室の窓からいつも眺めていた。

 彼は彼で、定期テストが近づいて部活が休みに入ると、「ノート貸してよ。ついでに特別授業してくれないか?」と声をかけてくることもあった。一度だけ「同じクラスのヤツに聞けば」と言ったら、「こんなに近くに秀才がいるのに?」と、びっくりするぐらい笑顔で返されたことがあった。


 十七歳の時、だから二年の時だった。

 体育祭の学年合同練習で、僕が貧血で倒れて保健室で寝ている時、なぜか隣のクラスの浅陽が様子を見に来てくれて、「顔色が悪い」と言いながら熱を測るように額に手を置いてくれた。その彼に向かって一生分の勇気をふるい「手を握っていてくれないか」と、すがるように言った。


 漂白剤の匂いがする薄い掛け布団に半分ぐらい顔を隠し、寝ぼけたフリをした僕の傍らにパイプいすを広げて座った浅陽は、なにも言わずに僕の右手を取った。浅陽の手の下で自分の手が震えるのがわかった。


「手……。気持ち悪く、ないのか」


 自分から「握ってくれ」と言っておきながら、とも思ったけれど、たしかめたかった。

 浅陽は「お前が頼んだんだろ」と笑いながら「誰にでもするわけじゃないから」と、そっと僕の手を持ち上げ左手も重ねてくれた。


 僕は、鼻の奥がツンと痛くなるあの感じを覚えながら、そこからじわっと涙が沁みだしてきそうになるのを必死で、本当に必死で抑えた。これ以上カッコ悪いところを見せたくなかったから。


 それが十七歳の秋で、あれからもうすぐ五年。

 今でも覚えている。

 高三になる前の春休み、僕はこのまま浅陽と一緒にいられるなら、大人になんかなりたくないと思っていた。目の前にいるのは自分と同じ男で、そいつが好きでしょうがなかった自分に明るい未来が待っているなんてこれっぽっちも思えなかった。

「それでもいい」と、頭では理解しているつもりで、でもそれはちょっと風が吹いたら翻ってしまう程度の理解でしかなくて、大人になるってことは自分の中にあるそのささやかな幸福への願望を否定され、もっと違う形の未来を突きつけられることなんだと思っていた。


 だから、そんなものよりも目の前にいる浅陽と一緒にいられる今があればいいと思っていた。


「僕たち、大人になったのかな」


 何事もなかったように隣を歩く浅陽に投げかけると、一瞬の間があって、


「え? あぁ……、さっきサクが言ってたこと?」


 うん、とうつむいた僕の頭の上でアハハと笑う声がした。


「あいつの口癖だよ。成人式の時も、『俺たちもうハタチになったんだな。大人だよな』って。その前だって、学食で昼メシ食いながら『十九歳なんつったら十代最後だよ? もう俺たちも大人の自覚を……』ってやたら言っててさ。説得力のかけらもないどころか、最近じゃあ飲み会の締めのひとみたいになってんの。智慎がこっちにいない間、ずっとそんな感じだった」


 そう言ってまた、あははと笑った。

 なんだ。そうなのか。でも……、


「けど、思えばその頃からサクは今の彼女と付き合ってたから、結婚を考え始めてたのかもね。俺はよくわかんないなぁ。三十歳ぐらいにならなきゃ大人じゃない気もするし、三十歳になったらなったで、まだまだ青いなぁとか思ってそう。そうやってのらりくらりしてたりして」


 僕は浅陽の言葉に声を出さずに頷いていた。

 たださ、と浅陽は言い、びっくりするような言葉を継いだ。


「おれたちは結婚しないの?」


 瞬間、立ち止まってしまった。

 靴の先で小石を蹴飛ばし、両手を頭の後ろで組んだ浅陽が、星のちらばった空を眺めるように少しだけ顔を上向けている。その姿勢のままもう一度言った。


「いろいろ考えたんだ。考えたし、調べてみた」


 僕は「えっ?」と口にするのが精いっぱい。


「親とか親戚に話したってそう簡単にわかってもらえる話じゃないし、それはサクたちだって同じ。それに、おれたちの住んでる国はまだ法的に結婚は認められないけどさ、周りを説得して回るのにも相当時間がかかるだろうし、そうやってひとつひとつクリアしている間に、俺達に都合のいい制度ができちゃったりすることがないとも限らないなーって」


 ……………………。


「それにおれたち、別に焦んなくてもいいんだし。おまえもこっちに帰ってくるし」


 だから、と言って浅陽は僕に向き直り、まっすぐに言葉を放った。


「おれたち、いずれ結婚しようよ。智慎」


 ……………………。

 僕は、すぐに言葉が出てこなかった。別に混乱していたわけでも、感動したわけでもない。ただ、浅陽がそんなことを考えていたなんて思いもよらなくて、声すら出なかった。ついこの間、浅陽が僕のアパートに来た時だって、そんなことはひとことも言っていなかった。


 僕らが結婚式を挙げたいと思えばこの国でだってできるし、その気になれば明日にでも、僕らの結婚が成立する国へ飛び立つことだってできる。けど、そのために海外に行こうなんて思わない。他人が認めない関係を続けたくないと思ったことはないし、誰が認めるとか認めないとか、そんなこと自体が僕たちには無関係だと思っていた。


 自分たちがわかり合えて、一緒にいられるんだったらそれでいいって。だけど、それは僕自身の諦めと背中合わせの強がりでしかないこともわかっていたし、「誰が何を言おうと僕らには関係ないんだ」って自分に言い聞かせることで、納得したような気持ちになっていることもわかっていた。


 だから、僕には浅陽のためらいのないまっすぐな言葉が眩しかった。


「あ……」

「おれさ」


 同じタイミングで口を開いてしまい、浅陽に先を譲ると、彼は一度足元に視線を落としてから僕のほうを向き、


「おれ、たぶんこの先おまえ以外のヤツを好きになることはないから」


 頭のてっぺんから足の先まで電気が走るような感覚――ってこういうことをいうのだろうか。

 地元を離れている四年間、親の顔も友達も思い出すことなんてなかったけど、浅陽のことはいつも考えていた。

 狭いベッドで何度も「浅陽が好きだ」と言ったんだ。寝言なんかじゃない。

 いつからそんなことを言うようになったんだろ。恥ずかしげもなく。

 違う。

 最初に言ったのはあいつだ。「好きだよ、智慎」って。

 思い出した。僕のアパートで、夏休みに入って最初の週末。

 狭い部屋にエアコンが効き過ぎていて、でもその時の僕らにはちょうど良かった。

 汗をかいた浅陽の背中に腕を回して、背骨のあたりを何度も指でたどった。


 約束なんてできるわけがないし、たしかなことは何ひとつ言えなくて、だからいつも曖昧で、かといって終わりにすることもできないぐらい、彼が好きだった。

 ふらっとやって来て、帰り際にはいつも「また来るから」と浅陽は言った。浅陽が帰った後、ひとりの部屋で何度も彼を想った。


 浅陽がくれた言葉に、いつかのように涙がこみ上げてくるのを必死になって堪えていた。でも今回はダメだった。あの頃より年を取ったからだろうか。

 公園の脇の、ひとつだけついていた街灯に照らされた僕の頬を幾筋もの涙が伝っていることに浅陽は気づいていた。ハンカチすら出さず、手の甲で頬をぬぐう僕を見て浅陽は何も言わずに唇の両端をふわっと緩め、やんわりと両手を広げてみせた。


「トモ、おいで」


 アサヒが僕を呼ぶ。

 あの頃と同じ呼び方で、あの頃よりも少しだけ大人になった声で。

 あともう少しで、彼の住むマンションと僕の実家に向かう分かれ道に差しかかる。 高校時代、学校の帰りに「じゃあまた」「明日な」と言って別々に歩いて帰った道の手前で、僕は今、大好きな男の腕に包まれている。


「おれさ、あれがいちばんいやだなって思ったんだ。すっごい病気とかして入院した時なんかに、もし智慎が駆けつけてくれても『ご家族の方ですか?』って訊かれて『いいえ』なんて言ったら、面会できないこともあるんだってな。でもさ、もしも命に関わるような事態になった時、いちばん誰に逢いたいかって考えたら、そんなの親じゃなくて智慎に決まってるじゃん。親には悪いけど」

「それで、結婚?」

「それも、ちょっとあるかな」


 そう言いながら浅陽が笑って、僕は浅陽らしい言い方がおかしくて、声を出さずに少しだけ笑った。

 わかった。

 それ以外の理由は、この先じっくり教えてもらうことにする。

 僕たちには焦る必要なんてなくて、これから先ずっと、ずーっと一緒にいられるんだから。






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成長するってこと boly @boly

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