成長するってこと

boly

第1話 僕らはずっとこのままで 大人になんかならないで


「トモ、おまえ、なんか怒ってんの?」


 自動ドアが音もなく開き、透き通ったガラスの向こうにいた男がこっちに向かって歩いてくる。ロッカーに置きっぱなしのままだった教科書がザクザク入ったリュック。学生服とスニーカー。


「別に。お、怒ってなんかないよ」

「っていうかさ、たしか今日一緒に帰るって言ってなかったっけ。なんで先に帰っちゃうわけ?」


 そうだ。

 怒るとしたら、僕じゃなくアサヒのほうだ。

 今日は一緒に帰る約束をしてた。一緒に帰って、アサヒの家で、たんまりと出ている春休みの課題をさっさと片付けちゃおうぜって約束も、今朝たしかにした。明日は終業式だし、四月になったら僕らはもう三年で、受験に向かってあっという間に忙しくなるに決まっているから、三月中にどこかに遊びに行こうか、なんて話もしていた。


 だけど今日、僕は彼を置いて学校から先に帰って、着替えて、今こうして彼の住むマンションのエントランスで、気まずいような、具合の悪い思いを抱えたままうつむいて大理石の床を蹴っていて。

 ……そこへアサヒが帰ってきて、片手を上げて「よっ」と言いながら、僕の足を踏みつけた……。


「もう、いいよ。今のでおあいこにしてやる」


 そう言って僕の前を通り過ぎ、エレベーターへ向かって歩いていく。このスニーカー、結構気に入ってるんだけどな。けどまぁ、自業自得だ。


 エレベーターはまるで僕らを待っていたようにそこにいて、彼がボタンを押すと、すーっと扉が開いた。いつものように五階を示すボタンを押した後、扉の上にある階数を表示するバーを眺めているアサヒに向かって、言った。


「帰りに、おまえの教室に寄った。そしたら、なんか、クラスの奴らとギャーギャー騒いでるのが見えて。その……、マンガだかグラビア雑誌だか知らないけど、そんなの見てただろ。“この○○ちゃんのちっせぇ水着、たまんねぇなぁ”とかってサクが言ってて」

「あぁ。言ってた言ってた。あいつ、本当にアホ丸出しだよな」

「……おまえだって、なんか言ってたじゃん」


 二人しかいないエレベーターの中で、隣に立っているアサヒがなにかに気付いたような顔をしてこっちを見たのが視界に入って、反射的に顔を背けた。


「おま……、もしかしてそれで怒ってんの? おれが水着の女のコのグラビア見てギャーギャー言ってたから? それで先に帰っちゃったの?」


 そのときちょうど五階に着いて扉が開き、僕らは箱の中から解放された。たぶん、ひどい顔をしている。赤くなっているかもしれない。それを見られるのがイヤで、アサヒの家の玄関を目指し、彼よりも先に速足で歩いた。


「おーい、鍵持ってんの、おれなんだけど!」


 そんなこと、わかってるよ。心なしか、アサヒの声に含み笑いが混じっている。玄関の前で追いつかれて、カギをガチャガチャやってアサヒが扉を開けて、「どーぞ」と先に入れてくれる。


「……どーも」

「どーもじゃねぇよ」


 そう言いながらアサヒは玄関の扉を閉めると、こらえていたものを吐きだすように、天井を向いて大声で笑い始めた。

 バカだなぁ。僕ってどうしようもなくバカだ。だって、僕のやきもちをこんなふうに笑い飛ばす男のことが好きでしょうがないんだもんな。


「あ、アサヒも、ああいうのに載ってる女が好きなのか? あの、水着の……」

「……え?」

「そ、そりゃ男だもんな。……僕も、そうだけど」


 フッと笑って靴を脱いで、僕の頭をポンと叩いて先にリビングへ向かうアサヒの後ろを歩きながら、ゆるくウェーブがかかった髪を眺めていた。ヤツがなにをどう言い返してくるのか、聞きたいような聞きたくないような。ていうか、僕がさっき言ったことって、冷静に考えるまでもなく、カッコ悪いな。


 リビングのソファの足元にカバンをどさっと置くと、こっちを見ながらアサヒが言った。


「勉強しか取り柄がなくて、アホみたいに成績優秀で、絵に描いたような運動オンチで。クソにっがいコーヒーはガバガバ飲んでるくせに、コーラを飲むといつもオエッてムセる。賢いくせにやきもち焼きで、そーゆーお前のガキみたいなところを知ってるの、おれだけでしょ」


 そういってフンッと鼻先で笑うと、ふわぁーっだかなんだか言いながら大きなあくびをしてソファに体を沈める。で、自分の隣をポンポンと叩く。ここに座れ、とでも言うように。だから僕は、彼がそうしたように、持っていたカバンを足元に置いてアサヒの隣に座った。


「お前さァ、めちゃめちゃ頭イイのに、そうゆうところはホント、バカだよな」


 ばーか。と、アサヒはもう一度言って僕の髪をもしゃもしゃにかきむしると、グイッと自分のほうへ引き寄せた。まだ制服を着たままの彼の身体は、汗の匂いと体温の熱さがまざって生々しい温もりがあった。


「あそこの踏切の近くの公園にさ、桜が咲きはじめてたの、気づいた?」


 僕だけに聞こえるような声で、彼が言う。


「もう春だなぁって。これ、トモと一緒に見れたらラッキーだったのになぁって。なんでお前、先に帰っちゃったのかなぁって考えながら、歩いてた」

「僕は、……気づかなかった。桜」

「どうせ下向いて歩いてたんだろ? おれのことブツブツ言いながら」


 くくっとアサヒが笑うと、僕の耳たぶの位置にある鎖骨が少しだけ動いた。

 その通り、正解だよ。満点。

 そういうところはお利口だよな。アサヒは。


「『いくら頭が良くたって、言葉にして言ってくれなきゃなにを考えてるのかわかんないし、伝わらないことだってあるんだよ』って、前に言ってたね。トモ」


 言った。覚えてる。たしか、学校祭の出しもので、アサヒがクラスの女子と組んでなにかやらされるハメになったとかでクラスの奴らがギャーギャー騒いで、はやし立ててるのを見て、そのときも僕がやきもちを焼いたんだ。こういうところ、本当に学習しないな。僕。


「好きだよ、トモ」


 指先で僕の髪をとかすようにしながらアサヒが言った。


「おまえも言ってよ」


 顔の角度を少し変えると、アサヒの首の付け根の小さなほくろがあるところにくちびるが当たる。そこへくちびるをつけたまま、


「アサヒが、好きだよ」


 うん、とアサヒは答えて、今度は手のひらで僕の髪を撫でながら、


「三年になったら、今度こそ同じクラスになれるといいのにな。そしたら受験勉強にも付き合ってよ」

「部活は? いつまでやるの」

「六月の期末テスト前で引退。行ったり行かなかったりの幽霊部員だけど、一応はね」


 来年の今頃は、受験も終わって二人とも大学へ行く準備をしている。

 彼は地元で、僕は県外の大学へ行く。それはもう、決まっている。ただ、その頃僕らがどうなっているか、どうしていきたいのか、それはまだ話していない。


「明日、終業式の帰りに公園で花見しようよ」


 僕がそう言うと、「あぁ。いいな、それ」と頭の上で声がした。

 ときどき思うんだ。

 僕らはずっとこのまま、大人になんかならないで、ずっとこのままでいられたらいいのにって。そんな僕にとって『受験勉強に付き合ってよ』というアサヒの言葉は、残りあと一年の限られた時間を、少しでも長く一緒に過ごそうって言っているように聞こえた。それがうれしいような、だけど少しずつ終わりに近づいているのがわかって、……だから正直に言うとすごく寂しい。


 そんなふうに、『寂しい』なんて思っているのは僕だけなのかな。

 ……そうやって、また一人であれこれ勝手に思い込んでいる。


「十七歳は一度だけ――」


 頭の上から、ヘンに調子のはずれた鼻歌が聴こえてくる。


「なに? それ」

「知らない。サクが歌ってた。むかーしにそんな映画があったんだって。あいつ、そういうのもくわしいから」

「十八歳だって、二十歳だって一回しかないよ」

「そうだよな」


 アハハとアサヒが笑い、肩が揺れる。

 いつか。

 こんなふうにバカみたいなことを言って笑い合って、お互いの身体を寄せ合って、ときどきくちびるに触れそうになって。そんなふうに過ごしたことを、アサヒを、過去のものにして思い出すことがあるんだろうか。僕はそのとき、…………。


 けど、僕らはずっとこのままで。大人になんか、ならなくていい。あと少しだけ、そう思っていたい。

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