おちよ海岸と少女期の終わり

夏山茂樹

少女期の終わりと少年期のはじまり

「あー、あー……」

「やっぱりそろそろ卒業だな。声が明らかに低くなってる」


 これは幼い頃の話だ。僕が十二歳の六年生を迎え、二学期も終わりそうな冬の始まりだった。朝から僕は友人の智枝沙羅と教室で立ち話をしていた。沙羅は名前とは反して随分と鍛えるのが好きな男子で、腕力には特に自信のある奴だった。


 一方、僕は物心ついた頃から髪を長く伸ばし、制服も水色のセーラー型ワンピースを着用していた。これは僕の望みではなく、僕が所属する社会では当たり前に行われていることだ。どうやら世間からの差別や偏見を少しでも軽減する目的があるらしい。


「沙羅はいいなあ。一年生の頃からずっと髪も短くて、ズボンを履いてさあ……」


 僕がため息をつくと、沙羅はどこか優しく諭すような雰囲気で僕に反論してきた。教室は暖房のせいで暑く、通気性のいい制服とはいえ汗をかいてしまう。


「そんなことないぞ。男っていうのは泣いちゃいけないと、普通なら教わって育てられるんだ。お前はある意味幸福者だよ」

「でも、髪を結えるのがなあ……」

「色んなバリエーションにオシャレができていいじゃないか」


 僕が癖っ毛の後れ毛で遊んでいると、沙羅が後ろに回って僕の髪を櫛ですく。時々絡まった部分で止まり、そのたびに彼は器用な手先でサラサラの髪にしてくれた。

 ああ、僕の髪が沙羅は好きなんだなあ。いつもそう感じてきたが、今回で確信した。僕は頬を染めて髪をすく沙羅に言った。


「卒業するってことは髪を切ることなんだけどな」

「え……」


 一瞬沙羅の動かしていた手が止まる。だが彼はすぐ髪をすきはじめて逆に僕にこう聞き返した。


「じゃあお前はいつ髪を切るんだ?」

「それはまだ決めてない……。でもルシア様の祭りまではこのままでいいかなあ。今年は僕がルシア様役だし」


 十二月の冬至になると、僕の通っていた小学校では聖ルシア祭というスウェーデンの祭りを真似た行事を催していた。その日は土日関係なく児童はお泊まりとなり、選ばれた児童たちが頭に蝋燭を付けて、白装束でクラス中の蝋燭に火を灯しに行く。

 聖ルシアを演じるのは今までなら女の子が普通だったけど、その年になって初めて男の僕が選ばれたのだ。


 スウェーデン語で聖しこの夜を歌い、学校のありとあらゆる場所を暗くして蝋燭だけで学校中をまわるイベント。レッテにとっては大事なイベントだ。


「聖ルシア祭かあ……。お前はルシア様だもんな。いいよなあ」

「そっ、そんなことないよ……」


 思わず照れる僕は、恥ずかしさのあまり話を逸らそうとして別の話題を沙羅に求めた。


「ねえ、それよりも何か面白い話、なあい?」

「うーん、そういえば山の下にある海岸、あるじゃん? 最近そこに妖怪が出るらしいぜ。なんでもレッテしか狙わないんだって」

「ああ、おちよ海岸だっけ」

「なんだ。知ってるのかよ。ガッカリだなあ」


 沙羅がまた手を止める。やはりガッカリしているようだ。実は僕と沙羅は男同士でありながら、交際していた時期がある。沙羅が一年生の頃からの想いを僕に告白して、始まったお付き合いだった。

 僕もいつも自分に手を焼いてくれる沙羅が好きだったから、彼の恋人のように振る舞った。


 そのお付き合いは四年生の頃から六年生の夏まで。つい最近までのことだった。少しずつお互いの道を模索しはじめ、会える時間が減ったので自然消滅という形で。


 それでも学校にいるときは僕も沙羅も一緒に会話をするし、今でも手を繋いで散歩する。その度に中学の先輩から「ホモだなあ」と言われたこともあったけど。


 冬を越えれば僕も中学生。半ズボンを中学生が卒業するように、レッテにとっての女装も新しい時期への出発なのだ。喉仏が出てきて声が低くなり、脚に毛が生えてくるから。その処理や女性らしさからの卒業をすることで僕たちレッテはやっと成長したと認められる。


 だからいつ女装をやめて髪を切るかは重要なことだった。それをかつての恋人である沙羅と相談していたのだが、まさかおちよ海岸の話になるなんて……。


「なあ、おれ達ももう十二歳だぞ。もうそろそろ冬至だけど、やってみないか? おちよ海岸での散歩!」

「なんでいきなり……」

「いやあ、肝試し。おれが受験するからできなかったじゃん? 今週の土曜は塾が休みでな、空いてるんだ。また一緒にデートしようぜ」


 沙羅が髪を触れる手の温度が伝わってくる。これでもかと言うほどに熱くて、まだ僕のことが好きなんだとしきりにアピールしてくる。

 僕も沙羅が好きだ。これは変わらない。でも、おちよ海岸が最後のデート場所だなんて……。


「……いいよ。土曜日ね」

「ああ。約束だぞ」

「うん。やくそく」


 後ろから沙羅が抱きすくめてくる。体温の熱さはやっぱり彼が熱血で世話焼きなせいだろうか。やはり情の熱さというものを体温でも感じてしまう。

 僕はその腕を掴んで彼を振り返って見上げる。頬を赤くした沙羅から恋慕の気持ちは消えていないようだ。僕もその気持ちを大事に、と彼の頬にキスをした。


 さて土曜日になって、おちよ海岸で沙羅と落ち合った。沙羅は私服の半ズボンを履いて、スニーカーには泥がついている。自由だった頃はたくさんこの海岸で遊んだ。夜にこっそり落ち合って、砂浜の上でキスを重ねてエッチなことも……。少しやった。


 そんな思い出のおちよ海岸。名前の由来は室町時代。この海岸をはじめ、地域の港町を治めていた豪族の長男がいた。名前は和一。和一はこの海岸である日、不思議な美しさを持った美女が裸で泳いでいるのを目撃する。

 名前を尋ねると彼女は千代と答えた。いま孤児院が建っている山にあった集落に住んでいるのだという。その集落は蛭と呼ばれる人たちの住む場所で、一般人は余程のことがなければ立ち寄らなかった。

 蛭、つまり今のレッテは血を不浄のものとする日本文化では嫌われ、山奥に住んでいるケースが多かった。そんな蛭に一目惚れした和一は、毎晩このおちよ海岸で千代と遊んだ。そして恋仲が深くなった時、千代を側室として迎える話が出たのだが当然不可触民である千代は受け入れてもらえない。

 それでも言うことを聞かない和一は、千代と駆け落ちしようとしたがすんでのところで止められ、千代は和一の目の前で海に沈められた。


 それから千代が恋を楽しむ、自分と同じ存在を海岸で見ると海に引き摺り込むと言う伝承が生まれた。これがおちよ海岸の始まりだ。


 僕は服に特にこだわりを持たなかったから、いつも通りの制服姿で沙羅と目を合わせ、お互いの再会を数年ぶりのものであるかのように喜びあった。


「沙羅! ねえ、いつものアレ、歌っていい?」

「アナベル・リーか? いいけど別に」


 ぶっきらぼうに答える沙羅の横で、僕はアナベル・リーを歌い始める。


「イット・ワズ・メニー・アンド・メニー・イヤー・アゴ、イン・ザ・キングダム・バイ・オブ・ザ・シー(それはむかしむかし。海沿いの王国で……)」

「むしろそれ、おちよを誘わないか? あいつは歌で船人を誘って溺死させるとも言うしな」

「そんなの昔の話でしょ?」


 空は灰色の曇天。雨が降り出しそうだ。引き潮も高くなりはじめて、徐々に僕たちに近づいていく。

 潮側にいた僕はそんなことも気にしなかったのだけど。まあ、それでも徐々に波が僕を飲み込む準備を始めていた。


「おい、帰ろうぜ」

「何言ってんだよ。沙羅が始めたことじゃないか」

「そうだけど……」


 その瞬間、一気に高い波が僕をさらった。空気を求めながら溺れる僕は遠ざかる沙羅から手を伸ばし、その時になってやっと気付いた。これがおちよなのだと。

 沖へ沖へと流され、体温も冷たい水に奪われていく。必死の体力も虚しく力付きた僕はそのまま意識を失う。

 すると、綺麗な吊り目の女性が光から手を伸ばして僕に聞く。


「お前は蛭か?」


 こくりとうなずくと、彼女は微笑んで自身の怨みを晴らすように言い放った。


「これは私の願い……。しかと受けとれ!」


 その時、遠くから誰かの声がした。聞き覚えのある少年の声が、しきりに僕の名前を呼んで泣いている。涙声で、瑠架、瑠架と僕の名前を呼んでくる。


 ああ、これは間違いない。沙羅の声だ。瞳を開けると、歪んだ視界がはっきりとしてくる。僕は横になって、温かいベッドの上で眠っていたようだ。


 視界がはっきりすると、沙羅が僕の額と自分の額をくっつけている。お互い、距離が近くて思わずワッと叫んでしまう。

 少し落ち着いて、沙羅の顔を見るとやはり彼は涙を流して僕のことを心配してくれている。


「大丈夫か、瑠架……?」

「大丈夫、何が起きたの?」

「お前が高波にさらわれて、救急隊を呼んで助けてもらったんだ。低体温症だったから病院に運んでもらったんだよ」

「そっか……、って、え?」

「ん? どうかしたか?」


 何やら胸が張っているような感覚がする。同時にいつも付いていた男性器もない。僕は何が起きたのかよくわからず、起き上がって騒いでしまった。


「沙羅どうしよお! チンチンがなくなってる……!」

「ん、それは本当か?」


 ガッと沙羅が僕の股間を掴む。すると、沙羅も何が起きたかを察したようで、どこか青い顔をしていた。


「おちよに取られたのかな? 僕おんなのこになっちゃった!」

「まあでもその見た目なら、女の子でいいんじゃないか?」

「心は男なのに?」

「あ……、そうか……」


 気まずくなる空気の中、沙羅が沈黙を破った。


「もう一度寝てみろ。何か起きるかもしれないぞ」

「う、うん……」


 言われるがまま、僕は目を閉じた。暗い暗い闇の中、意識を手放して違う声のする方へ精神を向かわせる。そして改めて目を開くと、そこには暗いカーテンで仕切られた部屋の中、沙羅が僕の手をじっと握っていた。

 目を覚ました僕に気付いたようで、すぐに涙声でまたこう言い出す。


「お前……! 高波にさらわれたときは怖かったぜ……。無事でよかった」

「……チンチンついてるか確認して?」

「は?」

「さっき、目が覚めたと思ったら女の子になった夢を見たから。ここが現実か心配になったの」

「い、いいのか?」


 頬を染める沙羅に、僕は黙ってうなずく。


「エイっ!」


 ガッと股間を掴まれて感じる男性器の感触。痛みと同時に何かに掴まれる感触を覚えた。


「いたた……。やっと現実だあ……!」


 涙を流して僕は沙羅に抱きつく。沙羅も涙を流して僕の名前を呼びながら優しく抱きしめてくれた。その体温が熱かったのを今でも覚えている。


 あれから十年近く経ち、僕も髪を切って、今では男性の姿で過ごしている。なお、ルシア祭の時に蝋が頭に落ちて怪我を負い、それが女装を卒業するきっかけになった。


 沙羅は東北の医大に通い、僕の隣でいつも授業を学んでいる。中学、高校と一度離れたがもう一度恋人として結ばれた。僕はあのおちよ海岸を忘れることはないだろう。レッテの習慣として強制されてきた女装も。

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おちよ海岸と少女期の終わり 夏山茂樹 @minakolan

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