電車の中の女神様

烏川 ハル

電車の中の女神様

   

 その日。

 仕事帰りの電車の中で。

 ぐったりとした俺は、もたれかかるような格好で、ロングシートの端に座っていた。

 特に忙しい一日だったため、もうクタクタ。本を読む気力もなければ、スマホで暇つぶしをする気にもならない。目を閉じれば寝てしまいそうだが、今の俺が眠ったら、確実に寝過ごして、下手したら終点まで連れて行かれるだろう。

 無理にでも目を開けていようと、窓の外に視線を向ける。だが、当然のように外も暗い時間であり、景色も何もあったものではなかった。かといって、車内を見回しても、特に面白いものなんてないはず。いつも通りの通勤列車……。

 そんな俺の予想は、良い意味で裏切られた。ハッとして、俺の視線が止まった先は、反対側のシート。真向かいではなく、少し離れたところに座る女性だった。

 彼女を見た瞬間に、俺は思った。

 まるで女神のようだ、と。


――――――――――――


 例えば、男同士で道を歩いていると……。

 隣の友人たちが「今の子、可愛かったな」とか「凄いおっぱいだったな」とか、すれ違った女性についての会話を始めることがあった。

 だが、いつも俺は「えっ、誰のこと?」と、話題に乗り遅れてしまう。慌てて振り向いても、もう顔も胸もわからなかった。

 友人たちに言わせれば、男なら誰でも気になってしまうレベルであり、前から歩いてきた時点で視界に入るのが当然なのだという。それに反応しない俺のセンサーは、男としてどうかしているのだという。


 おそらく。

 俺は『知り合い』と『他人』の線引きが、ハッキリし過ぎているのだろう。だから、どんなに魅力的な女性であっても、それが見知らぬ他人であったら、俺の意識には残らないのだった。


 風俗に行くやつの気持ちが理解できない、というのも、同じ理由だろう。どんなに色っぽい風俗嬢であっても、知り合いではない以上、抱く気にならない。もしも風俗に連れて行かれても、勃つものも勃たない、という状態になりそうだった。

 ポルノ動画とかヌード写真とかを見ても、同じだった。どんなに性的な痴態も、どんなに美しい裸体も、しょせん見知らぬ他人。そう思うと、俺の下半身は、ピクリとも反応しないのだった。

 思春期の男子学生は、そうしたものを自慰行為のネタに使うのが、一般的らしい。ならば俺は、十代の頃から、特別な性癖の持ち主だったのかもしれない。

 普通にAVを見ていても、全く何も感じなかった。だが、そのAV女優の容姿や雰囲気に、知り合いと似ている点を見出すと、状況は一変。また、特に好きでもない友人女性を思い浮かべて「真面目で大人しそうなあの子も、服の下には、このような美しい裸体を隠しているのだろうか。いざ性行為に及ぶ時は、このように乱れて嬌声を上げるのだろうか」などと想像し始めると、俄然、興奮してしまう。それまでの『勃つものも勃たない』が嘘のように、ティッシュに手を伸ばすのだった。


――――――――――――


 そんな俺が、電車の中で見かけた女性。知り合いでも何でもない、全くの他人。

 なぜか彼女に、俺は心を奪われてしまった。

 艶のある黒髪がよく似合う、どちらかといえば地味目な顔立ち。大学生というより会社勤めという雰囲気だが、ほとんど化粧はしていないように見える。薄化粧だからこそ、唇に引いたルージュが余計に目立っており、むしゃぶりつきたくなるような色気を発していた。

 飾り気のないクリーム色のブラウスも、紺一色のロングスカートも、普通の人には「地味で特徴もない」という感想をいだかせるかもしれない。だが俺には、慎ましやかで清楚という印象を与えていた。

 少しうつむき加減で、両手を膝の上に重ねている。その手つきも、どこか優雅に思えた。特別きれいな手というわけではないが、あの手に触れたり撫で回されたりする彼氏が羨ましい、と俺は感じてしまった。


 本当に、俺は彼女に見とれていたのだと思う。なにしろ「次の停車駅は……」というアナウンスが聞こえてきた時、ようやく俺は、降りるべき駅を過ぎていることに気づいたのだから。


 乗り過ごした俺は、仕方なく、次の駅で列車を降りる。

 ちょうど彼女も同じ駅で席を立ったのは、嬉しい驚きだった。

「……!」

 自然と、彼女の後ろからついて行く形になる。だが、車内から出た時点で、お別れだろう。俺は反対側のホームから、同じ路線の逆方向に乗るのだから。

 そう思ったのだが……。

 俺の足は、考えに従わなかった。つい、そのまま彼女の背中を追ってしまったのだ。


 少し距離をおいて、彼女と俺は、一緒に階段を上る。改札を出るのかと思いきや、彼女はトイレに向かうので、俺もそちらへ。

 しかし。

 ここで、本日何度目かの驚愕に見舞われる。

 なんと彼女は、女子トイレではなく、男子トイレに入って行くのだ!

「……なんで?」

 思わず呟きながら、立ちすくむ俺。

 トイレから少しだけ離れた位置で、しばらく硬直していたのだが……。

 その場で固まっていたことが、見張っているような形になったらしい。

 俺が我に返ったのは、ちょうど彼女がトイレから出てくるタイミングだったのだから。

 いや。

 正確には、もう彼女は『彼女』ではなかった。

 彼女の面影を残した、若い男に生まれ変わっていたのだ。


 服装も髪の長さも異なるが、この俺が見とれてしまうほど、心を奪われた相手だ。見間違えるはずはなかった。

「女神だと思ったのに、ただの女装だったのか……」

 呆然とする俺。

 何よりも驚いたのは、男だとわかっても、まだ彼女を魅力的で美しいと感じることだった。

 まるで、新しい性癖に目覚めたような気分だ。

 ある意味、恐ろしいくらいだった。




(「電車の中の女神様」完)

   

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