お辞儀ハンコ

南木

傾きよりも気を配るべきこと

「や、社長。こちらが稟議書です」

「ご苦労…………む?」


 地方都市にある、とある中規模な会社にて――――

 いつも通り部長から提出された稟議書に目を通そうとした社長だったが、今日の書類はいつもとちょっと違った。


高柳たかやなぎ君、ハンコがすべて斜めになっているのだが、これはどういうことかね?」


 書類の右上にあるハンコを押す欄には、左から社長、部長、課長、担当者の順番で押されることになっているのだが、なぜか部長からか担当者に至るまで、整然と左斜めに傾いて押印されていたのだ。

 一体どういうことかと尋ねる社長に対し、部長の高柳が恐縮そうに答える。


「や、実はですね……先日中途入社してうちの経理部に入りました、課長の真部まなべ君がですね……」

「おお、真部君と言えば、元大手の証券マンで、家の都合とはいえわざわざわが社に入ってくれた優秀な人物だったな」

「や、よくご存じですな社長。その真部君が言うには『こういった書類はお辞儀するように傾けて押すのが、ビジネスにおける重要なマナーだ』とのことで…………」

「ほう、ハンコを斜めに押すのが最近のビジネスマナーなのか」

「や、恥ずかしながら、私めも真部君に言われて初めて知りまして…………さすがは元大手の証券マンだと感心してしまいました」

「うーむ」


 己の不明を恥じている様子の高柳部長だったが、社長はまだどうも腑に落ちないようだった。

 そもそも、社長としては今までハンコの傾きがどうだのとあまり気にしたことはないし、取引先の会社でもそのようなことをしている会社は一つもないので、「常識」と言われてもイマイチピンとこないのである。


「そもそもハンコでお辞儀をする必要があるのかどうか」

「や、それなのですが、真部君が言うには『ビジネスの世界では、こういった小さな心配りの積み重ねが大事なのです!』とか…………今までわが社は、上から下まで比較的和気藹々とやってまいりましたが、上下のけじめはきっちりとつけるべきだと」

「けじめ、か。なるほどな。真部君が前にいた会社は、そういった秩序が徹底されていたのだろうな。だがな、高柳君。私はこうも思うのだ」


 社長は受け取った稟議書にハンコを押しながら、穏やかな口調で自分の考えを述べ始めた。


「マナーとは、とどのつまり相手に失礼がないように、相手に不快な思いをさせないように、というのが目的なわけだ」

「や、その通りであります社長」

「だが、私は斜めの印鑑を見て、その理由がわかるまでかなりの違和感を感じたものだ。つまり、どんな心配りでも、相手に届かなければ意味がないと、私は思うのだよ」

「…………」

「それに、真部君や高柳君が自発的にやる分にはいいかもしれないが、担当の部下たちにこういったことを強制させてはならないよ。彼らは自分の仕事に全力で取り組んでいるのだから、こういったつまらないことで気を遣わせるのも悪いじゃないか」


 真部課長の意見を聞きすぎて、社長の機嫌を損ねてしまったか――――不安で無言になる高柳部長を見た社長は、まあまあまあと笑いながら、わざわざ立ち上がって、社長印を押し終わった稟議書を手渡した。


「ま、うちはうち、よそはよそ、だ! どこかの会社に言われたらその時直せばいいし、少なくともうちの中でここまでする必要はない。それに――――だ、ハンコで示さなくても、君たち社員が会社の為に、お客様の為に一生懸命仕事をしているのは私も十分わかっているつもりだし、そのことについてとても感謝している。真部君には、ハンコの傾きより気を配るべきこともある、と言っておきなさい」

「や……承知、いたしました」


 高柳部長はぺこぺこと頭を下げつつ、戻ってきた稟議書にその場で目を通した


 社長の押印欄には、ハンコが右に傾いて押されていた。

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お辞儀ハンコ 南木 @sanbousoutyou-ju88

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