第18話 英雄ヘクトールの最期

 広い神域は不自然に静まりかえっていた。

「マルペッサ、マルペッサはどこ?」

「カサンドラ様、たいへん!」

 マルペッサが走り寄って来る。

「ヘクトール様が、アキレウスとの闘いに出て行かれたのです!」

「ヘクトール兄上が‥‥。どうして?」

 結願の日まで、アキレウスの弱点が告げられる時まで、アキレウスとは戦わないと、誓って貰えたと思っていたのに‥‥。

「それが、ペンテレシアスさまが、アキレウスに討たれたのです。それでたいそうお怒りになって飛び出していかれたまま‥‥」

「ペンテレシアス殿が、アマゾンの女王が‥‥」

「はい、わたくしめも見ていましたが、あっという間のことでした」

「マルペッサ、それより、パリスはどこ?」

「戦場に出ているはずですわ。どうして?」

「アキレウスの弱点が告げられたの。パリスが銀の弓矢で右の踵を射ればいいのだわ」

「マァ、凄ーい、パリスさまが!城壁に登れば、どこにいられるか分かるかも」


 城壁の上へ急ぐ。

 と、階段を昇るにつれて、悲鳴とも泣き声ともつかない、異様な声が聞こえてきた。

 いつもは城壁に鈴なりになって戦いを見ていた女たちが、抱き合って泣いているのだった。衣服を引き裂いて嘆き悲しむ女もいる。

「ど、どうしたのです、皆さん?」

「母上、母上ではありませぬか‥‥」

 抱き合って号泣する女たちの真ん中に、母なる人、王妃ヘカベを認めて、駆け寄る。

「ああ、カサンドラ、遅かった、みんな終わった、あれを見て‥‥」

「アアーッ」

 王妃の指さす方向に、二頭立ての戦車が、鎧兜を付けた死体らしきものを引きずりながら走っていた。

 戦車の上には銀の鎧のアキレウスが傲然と四囲を睥睨へいげいしている。

 すると、引きずられているのは‥‥

 いつか見た悪夢の光景がよみがえった。

「ヘクトールさまが討たれたア~~」

「トロイアはもうおしまい~~」

「みんな死ぬのだわ~~」

 周囲の女たちの泣き声が、衣服をビリビリと引き裂く音を伴って、一段と激しくなった。


 遅すぎたのだ。終わったのだ。母なる王妃と抱き合い、涙ながら耳元にアキレウスの弱点を囁いた。

 王妃の目に輝きが戻った。

「パリスはまだ城内にいるはず。さっそく使いをやりましょう」

 でも、遅すぎたのだ。

 母なる人の弾んだ声を聞きながら、わたしは、滅びに向かって運命の輪が止めようもなく回り始めたことを確信していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トロイの木馬と予知姫の伝説 アグリッパ・ゆう @fantastiquelabo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ