桜花は一片の約束

蜜柑桜

美しき災禍の種

 金と白銀に輝く海に取り巻かれたこの大陸はアンスルと呼ばれ、数多の諸侯が大小様々な領地を治めていた。その中央に位置するカタピエ公国は、歴代の賢君による良政ゆえに軍事経済ともに力を伸ばし、その勢力たるや他国を圧するまでに成長した。


 時はくだり、幾代と続いたカタピエ公国の賢君の姿も今や昔。当世の公国領主メリーノはその好色で知られ、近き遠きを問わずアンスル大陸の至るところから公女を我が身の元へと嫁がせた。

 歴代、勢力を増し続けたカタピエに、他の公国の諸侯、抗うこと難しく、涙を飲んで愛娘を大陸の中央へ送った領主の数は、もはや両の手足の指の数では足りるまい。


 アンスルのどこと比べても覚えめでたいカタピエの桜が、その蕾を膨らませ始めたこの頃も、またメリーノの宮殿へ、身を飾りたてられた令嬢を乗せた馬車が北の地から到着した。


 だが、その華美な車が門に入ったのを見守り、衛兵は囁く。


 あの公女は神の眼を逃れ、宮廷ここに留まることができるだろうか、と——


 ***


 少女はおろしたての清潔な布団の上に腰掛け、外をぼんやりと見ていた。

 北の国に比べるとここは随分と暖かい。それなのに、窓の向こうから射し込む月の光は郷里で見るそれよりずっと冷たく、その色は指を凍らす雪のようだ。


 自分で自分の身体を抱いていないと震えが止まらない。独りとは吹雪よりも激しく身を震わせるものだとは、知りもしなかった。


 まだ恋というものすら知らぬのに、自分は顔も知らぬ暴君のものになるというのか。


 カタピエに楯突けば、祖国セルビトゥの行く末は決まっている。そう思い、覚悟を決めたというのに、知れず頬が濡れるとは。

 自由に使えと宛てがわれた自室は値も計れぬほど豪奢な宝石細工に飾られ、絹をふんだんに使った寝具が主人を迎える。しかし剣を履いて扉の向こうに立つ者があっては、柔らかな布に肌を当てても眠りは訪れない。今もまた、扉の向こうで見張りが交代している——ここは牢だ。


 晴れ渡っているというのに、外には春の嵐が吹き荒れ、風が窓の玻璃を打つ。おさまらぬ乱風は、えもいわれぬ不安に苛まれる我が身の心と同じか。


 ——どうせ眠れぬのなら、いっそ永遠の眠りについてしまおうか。


 寝台を覆う布を束ねた細い網紐をそっと解くと、公女は窓に映った自らの手がそれを首元に巻くさまを眺めた。


 しかし突如、窓の中の自分の腕が宙で止まり、網紐はするりと足元に落ちた。


 喉まできた叫びは、口元を覆う手に邪魔され声にならずに飲み込まれる。


「黙って。先ほどまでの見張りが戻ってきてしまう。私は貴女を害するようなことはしない」


 耳元で囁かれる低い声。厳格だが悪意は感じられない。公女は黙って頷き、強張った腕を下げた。


宮廷ここを出る。逃げたければ、私の言うことを聞くんだ」


 声の主は、見張りの従僕の羽織を脱いで寝台の上へ投げ捨てる。黒装束に包まれた身体は細身だが、引き締まった四肢は布の上からも見て取れる。頭に巻いた布の間に現れる肌は白く、切れ長の眼のうちで銀を帯びた双眸が闇の中で光る。


「まさか、あなたが、これまで?」


 公女の耳に巷間の噂話が蘇る。


 ——これまでに何人もの娘を我がものとしてきたカタピエ領主であるが、近頃、宮廷へ輿入れした花々は、その日の夜のうちに姿を消すという。祖国に問い質しても知らぬ存ぜぬ、実際に、娘の姿も見えない。


 人は囁いた。領主メリーノに嫉妬した神が、宮廷から娘たちを奪ってゆくのだと——



 娘達が消えたという噂は本当であったか。そして実際には、いま目の前の人物が彼女らを助けていたのか。

 目を丸くする公女に、相手は形の良い眉を僅かに上げた。


「勘違いしないでいただきたい。私は貴女を助けるのではない」


 低い囁き声で吐き捨てる。


「あのカタピエ公は単なる女好きではない。メリーノが貴女がたを手中で愛でるのは、各地に己の勢力の種を植え付けるために過ぎない」


 娘を盾に取られては、諸侯はカタピエに伏するしかない。そうやってやつは自らの支配をアンスル全土にじわじわと広げている。

 しかし公女一人の制御力とてたかが知れている。メリーノによる横奪が続き、それが度を越せば、いたずらにカタピエを攻めんとする国が出てこよう。だが精鋭揃いのカタピエ軍相手とあれば、その結果は明らかだ。


「あのカタピエの愚公が勢力を蔓延らせるのも恐ろしいが、要らぬ血でアンスルが染め上げられるのはこちらとしても大いに困る。私たちが貴女がたをここから連れ出すのは、メリーノが撒き散らす火種を消しているだけだ」


 公女の手を取り、相手は念を押す。


「いいか。貴女は私とここを出て、セルビトゥ辺境に身を隠す。しかし貴女の父君はことになり、貴女は祖国に


 相手の強い声音に、公女は黙ってうなずいた。


 ***


 二人はするりと扉を抜け、沈黙が支配する廊下をひた走る。夜気はまだやや肌に冷たく、冬の名残りが感じられる。


 時折物陰に身を隠しながら、広大な宮を順調に先へと急ぐ。しかし、幸運がそう長く続くはずもない。


「待て、そのものをどこへ連れて行く」


 身を震わすような冷たい声が夜闇に響いた。驚き振り返る公女の眼前に、自分を先導していた者がすかさず躍り出る。


 闇を切る鋼と鋼のぶつかる音が、静寂を破った。


「公女をカタピエ公の目から隠し、神のもとへ連れて行くとはお前のことか」


 交わる刃の向こうで、角から姿を現した男の碧眼が光った。端正な顔立ちに冷徹な色が浮かぶ。公女を背の後ろに隠した銀の眼の者は、抜いた剣に力を込めた。


「神の怒りに触れたとわかってなお、なぜカタピエは悪癖を正さぬ」

「美姫を眼にしては神相手にも奪いたくなろう?」


 嘲る一言とともに刀身が宙を走り、刹那起こった風に、公女を庇う長身の頭を覆っていた布がはらりと落ちた。


「ほう……お前は……女子おなごか」


 ひと結びにした漆黒の髪が布から溢れでて、月明かりを反射し闇の中で踊る。蝋燭の火に照らし出された顔は白く、ひき結んだ唇は艶やかな桜色。

 女は剣を構え直し、長い睫毛に縁取られた銀の瞳で男を睨み返す。その輝きは月光を映し出したかのように清く静謐であり、眼差し一つで相手を射るようだ。

 男は嘆息し、女を頭の上から足先まで眺め回した。


「かように美しき女が手に入るならば、さも大きな喜びが得られような。その者、どこに主人あるじを持つ」


 笑いの混じる声は、さもうまい獲物を目にしたとでもいうようだ。


「私達は何の権力にも属さぬ。手中にしたところで、砂ひとつかみの地も得られまい」


 いまや囁きをやめ凛と張った声は、男性にしてはやや高く、空気を突き抜けて響く金のよう。


「セルビトゥの娘は連れて行く。貴様の欲と策に怒った神の罰だと思うが良い」


 途端、窓を覆う布が翻り男の視界を奪ったかと思うと、玻璃の割れる音が廊下に響き渡った。

 咄嗟に腕で顔を覆い、弾け飛ぶ破片から身を庇う。窓から吹き込んだ春の突風に室内を飾る金属が音を立てて震え、男の身動きをしばし封じた。



 再び開けた眼の前に、もはや二人の女の姿は無かった。



 割られた窓の向こう、庭に立つ桜の木の蕾は、まだようやく薄い紅色の蕾をつけ始めたばかりだ。


「この桜の花が咲き、花弁が散るまでには、お前をこの手に捕らえてみせようじゃないか」


 柔らかな茶の髪を夜風に流し、男は白銀の月を見上げて笑んだ。


 ***


 アンスル大陸の諸侯が恐れるカタピエ公国の領主が、飽くことなく地方へ求めた公女の輿入れは、春の嵐の次の日から、ぱたりと止んだという。

 カタピエに嫁いだはずのセルビトゥの宮廷に公女は戻らなかった。ただごく僅かな人だけは知る。セルビトゥ辺境の修道院に、少女が一人増えたことを。


 貴方彼方へ女を求めていたカタピエ国の豹変ぶりに、人々は噂した。セルビトゥほどの小国の公女さえ奪われ、ついにメリーノ公は神に恐れをなし、自らの好色を悔いたのだと。


 しかしその日から毎夜この若き公が、桜の花を見ては白銀の月を仰ぎ、小さくため息を漏らすのを、知る者はいただろうか。


 カタピエが求めるものはいまやひとつ、漆黒の髪と月光の瞳を持つ妙なる美女。


 春の嵐が新たな火種をつけたのを、まだかの娘は知らない。


 ——完



******



改稿を加え、さらに長編になりました。骨太ハイファンタジーです。長編化のお声、ありがとうございました。

「月色の瞳の乙女」

https://kakuyomu.jp/works/16817330667049844136

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