蜜蜂の楽園【KAC20204】

aoiaoi

蜜蜂の楽園

 私は、国立A大学医科研究所の感染症部門に所属する研究員だ。


 とある国において、50代男性が畑でマルハナバチに刺された。マルハナバチは、数年前に絶滅危惧種に指定されたハチだ。

 その約1週間後、その男性が結膜の強い充血、咳症状と同時に狂暴化するという精神症状を発症した。

 男性はその場にいた息子が何とか取り押さえ、救急隊による鎮静剤の処置を受けて病院へ搬送された。その際、側にいた妻が夫の暴行により重傷を負った。

 だが、その数日後、今度はその息子が全く同様の症状を発症。その時一緒にいた友人が暴行を受け、現在重体である。


 この一連の報告が私のいる研究機関へ届いたのが、約ひと月前だ。

 その後もこの症状は周囲の人々へ次々に伝染し、明確な対応策を出す間もなく瞬く間に世界各国でも発症者が出始めた。

 精神症状の発現による無差別の暴行、傷害、ひいては殺人事件までが世界中からひっきりなしに報告されてくる。他人への攻撃を回避しようとした結果、自分自身を傷つけて命を落とすというケースも報告された。

 目下、人類全体がこのことによる深い恐怖に包まれている状態だ。


 この症状は、ハチの持つあるウイルスが原因であることがわかった。

 一部の働き蜂は、女王蜂を外敵から守るため、自ら敵に挑んでいくという指令を脳に送るウイルスを体内に持っている。

 このウイルスが変異を起こし、ハチに刺された際に男性の体内に入り込んだと考えられるのだ。

 当該ウイルスは人間の体内でも宿主の脳へ「敵を排除する」ための指令を出し、その激しい攻撃性が無差別の狂暴化を引き起こすようだ。恐らく空気感染を起こしており、しかも感染力が高い。

 感染症研究機関においては、このウイルスに対抗するための創薬が一刻を争う急務だ。

 症状の一つである狂暴化により、ともすれば大切な人たちや自分自身を死に至らしめる危険性のある、最悪のウイルス。これに打ち勝つため、我々も国内最高レベルの研究機関として何が何でも成果を上げなければならない。

 


 研究を開始して数週間後。

 国内にも、とうとう最初の感染者が現れた。30代の男性だ。

 数時間で結膜が血の滴るほどの色に染まり、ひどく咳き込みながら周囲にいる人々に次々摑みかかる。自分自身を制御できないらしく、感染者の表情は強い苦しみを呈している。

 男性には狂暴化を抑えるため鎮静剤が打たれ、指定の医療機関に搬送された。完全に隔離された環境で注意深く経過を観察しなければならない。

 厳重な防護服を身につけ、発症した患者から得た検体を前に、私たちは意気込んだ。


 そんなある日。

 海外からも刻々と届いてくるウイルスに関する情報を調べるうちに、私は一部の養蜂家の感染率が著しく低いというデータを得た。

 周囲に感染者が複数いる環境でも、ウイルスに感染しない養蜂家がいるのだ。

 ウイルスを退ける条件は一体何なのか。私は、それらのより詳細な情報を得るべく力を注いだ。


 詳細を調べ上げた結果、感染しない人々に共通しているのは、レンゲの花から取れる蜂蜜を恒常的に口にしていることだった。

 レンゲの花の蜂蜜。

 ——もしかすると、希望は、レンゲにあるのか?

 季節は春。折しもレンゲの花盛りだ。


 その仮説にたどり着いた私を、急激な息苦しさが襲った。



 鏡の前へ走る。

 結膜の充血が始まっていた。

 強く気管を刺激される感覚が走り、激しい咳き込みが襲いかかった。


 狼狽えそうになる気持ちを必死に落ち着けながらフロアへ向かい、チームのスタッフに告げた。


「——すまない。どうやら、私も感染したようだ。


 しかし、ここで研究を中断はできない。

 私はこれから、この研究室にひとりで籠る。ここには誰も近づくな。私が今後ここで進めた研究の内容は、毎日全て所長のPCへ送る。

 それから——一つの可能性を掴んだ。患者の検体と、レンゲから取れたハチミツ、そして開花しているレンゲを出来る限り集めて届けて欲しい。

 ああ、あと……鋭いナイフを一本」


 私はスタッフにそれだけ伝えると、研究室の分厚いドアを閉めた。









 その翌朝。

 一人きりの研究室で、もはや無意味な防護服を脱ぎ捨て、顕微鏡に向かう。


 不意に、激しい衝動が突き上げた。


 何かを、めちゃくちゃに殴り、蹴り倒したい。破壊したい。

 強烈な欲求を、抑えきれない。


「——……頼む。

 上手くいってくれ……」


 私は、昨日分厚い壁の向こうから届けられたナイフをぶるぶると震える手で握った。

 白衣の腕をぐいと捲り上げ、必死に力をコントロールしながら前腕部の皮膚を切りつけた。


「……うっ……く……っ……!!」


 激しい衝動に突き動かされて、ずずずっと長く切れていく皮膚。

 血が筋を作って流れ出す。

 その鋭い痛みに、思わず目眩を催す。


 しかし——その痛みこそが、私の理性を何とか繋ぎ止めた。



「——ああ。いいぞ。

 これなら……続けられる」


 何とか治まった狂暴な衝動と入れ替わりに訪れた痛みに荒い息をつきながら、清潔な布できつく止血する。

 そして私は瞳の焦点を改めてぐっと絞り、必死に顕微鏡を覗き込んだ。



 症状が出そうになる度に、外部から届いたレンゲの蜂蜜を口にしてみる。

 確かに、咳と激しい衝動が微かに収まるのを感じた。

 レンゲの花をバリバリと齧る。

 蜂蜜よりも花を齧る方が効き目が強いようだ。——その花弁に薬効があるのだろうか?


 レンゲから抽出した成分を、患者の検体と反応させる。

 花弁、花粉、葉——様々な部位を細かく抽出しては、同じ作業を繰り返し、顕微鏡を見つめた。



 やがて私の全身には、ナイフによる切り傷があちこちにできた。

 止血と消毒だけを何とか行い、衝動に襲われればまた新たな皮膚を切りつけ、理性を呼び戻した。


 外から運ばれる食事にもろくに手をつけられず、ただ蜂蜜とレンゲをひたすら口にしながらのそんな研究が何日間も続いた。


 気づけば、私の研究室には、レンゲの蜂蜜と山のようなレンゲの花が世界中から届けられていた。




 発症から約2週間後。

 ウイルスの毒性が、少しずつ身体から抜けはじめた。

 そして私は、レンゲの根からウイルスの症状を効果的に抑える成分が抽出できることをとうとう突き止めた。



 最後の研究結果となるであろうデータを所長へ送り終えると——私は、研究室の床にどっと倒れ込んだ。









 あれから、3年が経った。


 今、世界中の土地にレンゲが植えられている。

 あの後、小さくて可愛らしいレンゲの種は、凄まじい勢いで世界中に拡散していったのだ。

 あのウイルスを退けられるのは、レンゲの根から抽出される成分のみ。

 つまり、レンゲの栽培を絶やした途端、あのウイルスが再び世界中に蔓延することになるのだから。


 世界中にレンゲ畑が増えたことで、ミツバチなどの昆虫が生活できる環境が増えた。絶滅を危ぶまれたあのマルハナバチも、個体数を大きく復活させたそうだ。 

 個体数が増えたハチたちによる活発な受粉活動により、世界的に野菜や作物の栽培が促進している——そんな朗報を、最近の新聞で読んだ。


「……よかった。本当に」


 自分の努力が想像以上に大きな実を結んだことに、私の中に改めて胸を張りたい気持ちが起こる。


 また、レンゲという植物の大幅な増殖により、地球環境にも少しずつプラスの効果が現れつつあるらしい。




 研究室からの帰り道。

 道路の両脇に、広大なレンゲ畑が広がる。

 今はレンゲの満開の季節。その美しさに車を降りた。


 ラベンダー色の夕風に柔らかく揺れる、可愛いピンク色をした無数の花。

 その上を、ミツバチの優しい羽音が飛び交う。

 そんな風景の中に立ち、私はふと不思議な気持ちに襲われる。



 絶滅危惧種だったマルハナバチが人間にもたらした、恐ろしいウイルス。

 しかし、それをきっかけに、世界中にレンゲの種が拡散し——住む場所を失いつつあったハチたちは、この星に楽園を得た。


 そして、そのことにより、人間だけでは作り出すことができなかった大きな希望が、地球に生まれつつある。



 自然界が、人間に伝えたかった言葉。


 ——風に揺れるレンゲとハチたちの羽音の隙間から、そんな微かな何かが聞こえてくるような気がした。





–End.–





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